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灰冠の反逆者  作者: 大きい橋


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2/18

第一話 雪の伯爵家


ヴァルディア伯爵領の冬は、いつも色が薄かった。


空は鉛を溶かしたように重く、森は沈黙し、屋敷の尖塔には凍てついた風が唸り続ける。

領都ラドスを見下ろす高台に建つヴァルディア伯爵邸は、城というには華やかさがなく、館というには威圧的すぎた。古い石造りの外壁は雪を被って白く見えるが、その内側に流れているものは白とは程遠い。


金、命令、沈黙、諦め。

この屋敷では、それらが血よりも濃く巡っていた。


早朝、まだ陽も昇りきらぬ時刻。

東棟三階の執務室で、レオン・ヴァルディアはひとり帳簿を読んでいた。


暖炉には火が入っている。だが部屋は広すぎて、暖かさは床まで届かない。

窓辺に立つ銀の燭台の炎がわずかに揺れ、机の上に積まれた羊皮紙の端を照らしていた。


レオンは黒髪を短く整えた青年だった。伯爵家当主にしてはまだ若い。だが、その若さを感じさせるものは顔にはほとんどない。整った目鼻立ちのせいで一見すると端正に見えるが、表情があまりに動かないせいで、石像に近い印象を与える。

灰色の瞳は氷を磨いたように冷たく、そこには怒りも倦みも浮かんでいなかった。


机の前には執事のハインツが控えていた。

六十を過ぎた老執事で、背筋は年齢の割にまっすぐだったが、目の下には長年の疲労が刻み込まれている。レオンが物心つく前からヴァルディア家に仕え、彼を育てた使用人たちの中心にいた男でもあった。


「北部三村の年貢の再計算が終わりました」


低く落ち着いた声でハインツが告げる。


「昨年の凶作を加味しても、徴収率が高すぎます。今のままでは春を越せぬ家が出るでしょう」


レオンは帳簿から目を離さずに言った。


「高すぎるのは、徴収率か」


「……はい」


「それとも、父上の欲か」


ハインツは一瞬だけ口を噤んだ。

この屋敷では、先代伯爵の名を慎重に扱う必要があった。レオンの父、オズヴァルド・ヴァルディアは二年前に病で床に伏して以来、公の場にはほとんど出ない。だが権力を手放したわけではない。書面一枚、言葉一つで、今なお領内の人間を生かしも殺しもできる。


「……旦那様は、王都への献納を重く見ておられます」


「領民が飢えてもか」


「飢えた民は黙ります。王都の貴族は黙りません。そうお考えなのでしょう」


レオンはそこで初めて顔を上げた。

その目に怒りはなかった。ただ、事実を整理する冷たさだけがある。


「合理的だな」


ハインツは返事をしなかった。

その“合理的”が賞賛ではないことを、長年仕えていれば理解できる。


レオンは椅子から立ち上がり、窓際に歩いた。

凍りついたガラスの向こうには、まだ雪に沈む領都が見える。煙突から立ち上る細い煙。道を急ぐ荷馬車。凍った井戸の周りに集まる人影。遠くから見れば静かな朝だ。近づけば、きっと誰かが寒さに震え、誰かが腹を空かせ、誰かが今日を越えられるかどうかを考えている。


それを見下ろしながら、レオンは自分の胸の内を探った。


何もない。


かわいそうだとも、腹立たしいとも、思わない。

飢える民を見ても、死にかけた老人を見ても、胸の奥は水面のように動かない。

幼い頃からそうだった。使用人が怪我をしても、馬が死んでも、母の遺品を見せられても、彼の中には期待されたような感情が生まれなかった。


悲しいということが、よくわからない。

怒りというものが、自分のものとして湧くことがほとんどない。


ただ、歪みだけは見える。

どこが間違っていて、何を除けば形が整うのか。

感情の代わりに、そうした計算ばかりが鮮明だった。


「坊ちゃま」


不意に、ハインツが昔の呼び方で彼を呼んだ。

その声に、レオンはわずかに振り返る。


「本日は、西の蔵の監査がございます。あちらは管理官の出入りが激しく、数字も合いません。お気をつけください」


「盗みか」


「あるいは横流し。あるいはもっと別の何かです」


「別の何か、か」


レオンは短く息を吐いた。

この屋敷では、金庫よりも人間のほうが信用できない。


「行こう」


外套を羽織り、剣を帯びる。

装飾の少ない実用本位の剣だった。貴族の子弟が持つような、見栄えだけの細工はない。

彼が剣を取るのは誇示のためではなく、必要だからだった。


執務室を出ると、石造りの廊下は朝の冷気を溜め込んでいた。

行き交う侍女や下男たちが一斉に頭を下げる。彼らの視線には敬意より緊張が多い。レオンは怒鳴らないし、理不尽な命令も出さない。だが、何を考えているかわからない若き当主は、時として激情家より恐ろしい。


廊下を進む途中、ひとりの若い侍女が銀盆を抱えて足を止めた。

栗色の髪を後ろでまとめた、まだ十代半ばほどの少女だ。制服の袖は擦り切れ、指先には赤切れがいくつもあった。


「お、おはようございます、レオン様」


「ああ」


それだけで通り過ぎようとしたレオンを、ハインツがわずかに目で制した。

少女が緊張で青ざめているのを見て、老執事は静かに言う。


「ミア、そんなに震えなくていい。お言葉をいただいたのだ、返事をしなさい」


「は、はい……ありがとうございます」


声が裏返る。

レオンはその反応の意味がよくわからなかった。礼を言われるほどのことをした覚えがない。ただ挨拶を返しただけだ。


ミア。

最近、西棟の厨房から本邸へ上がってきた侍女だと記憶している。母を病で失い、弟を抱えて働いていると、誰かが話していた。

情報としては覚えている。だが、そこに感情は伴わない。


通り過ぎる間際、銀盆の上の器が小さく揺れた。少女の手が冷えと緊張で震えているのだろう。

落とせば叱責では済まない。先代伯爵付きの女官長は、失敗した使用人を見せしめのように罰する。


レオンは一瞬だけ器を見たあと、言った。


「厨房へ戻るまで両手で支えろ。片手では滑る」


ミアはきょとんとしたあと、慌てて盆を持ち直した。


「は、はい!」


それきりレオンは歩き出す。

背後で、少女が小さく安堵の息を漏らしたのを、彼は聞いたが振り返らなかった。


中庭へ出ると、雪は昨夜より深く積もっていた。

白一色の中で、衛兵たちの槍の穂先だけが鈍く光る。

西の蔵は本邸から少し離れた石倉群のひとつで、税として徴収した穀物や酒樽、布、鉄材などが保管されている。帳簿上では整然としているはずの場所だが、実際には“帳簿にないもの”がもっとも多い場所でもあった。


蔵の前では、管理官のデルクがすでに待っていた。

太った男で、寒いというのに額に汗を浮かべている。仕立てのいい上着の裾には酒染みがあり、指には似合わぬ金の指輪が二つ。


「これはこれは、若様。朝早くからご足労いただき、恐縮にございます」


「そう思うなら、帳簿の数字くらい揃えておけ」


笑顔のまま言うと、デルクの頬が引きつった。


「な、何か不備でも?」


「見ればわかる」


蔵の扉が開かれる。

冷たい空気の中に、乾いた麦と湿った藁の匂いが混じる。積まれた麻袋、酒樽、木箱。見た目には十分な量があるように見えたが、レオンは中に入ってすぐ違和感を覚えた。


配置が不自然だ。

奥の列に対して手前が妙に密集している。

見せかけの量を作るときの並べ方だった。


「三列目をどけろ」


「は……?」


「どけろと言った」


衛兵が命令に従い、袋を移す。

すると奥の床に、引きずった跡が露わになった。薄く積もった麦殻の下に、板が不自然に新しい。


レオンはしゃがみ、床板の縁に指をかける。

持ち上げると、その下には空洞があった。

そして、あるはずの穀物の一部が消えていた。


蔵内の空気が変わる。

ハインツの目が細まり、衛兵たちが一歩前へ出る。

デルクはみるみる顔色を失った。


「ち、違います、これは……!」


「帳簿では北部三村からの徴収分がここに入っているはずだ」


レオンの声は低く平坦だった。


「だが実際にはない。徴収したのか、していないのか。どちらだ」


「そ、それは……途中で盗賊に……」


「街道の被害報告は出ていない」


「で、では、運搬係が」


「運搬係は昨夜、詰め所で凍死していた」


デルクの喉がひゅっと鳴った。

そこまで調べているとは思わなかったのだろう。


レオンは立ち上がり、男を見下ろした。


「お前が抜いたな」


「ち、違う! 私は命じられただけだ!」


その瞬間、蔵の空気が完全に凍った。

ハインツが顔を上げる。衛兵たちが互いに視線を交わす。


レオンは問うた。


「誰に」


デルクは唇を震わせ、言うべきか迷った。

だが追い詰められた獣は、最後には噛みつく。


「先代伯爵閣下だ! 王都のアルセイン侯へ贈る品と金を工面しろと! 年貢をそのまま出せば足りぬ、だから一部を換金して補えと……私は従っただけだ! 私だけを裁くのはおかしい!」


衛兵の何人かが息を呑んだ。

先代伯爵の名を、しかもこんな形で口にするのは命取りだ。


だがレオンは眉ひとつ動かさなかった。


「つまり領民の命より、王都の機嫌を取るほうが重要だと」


「貴族とはそういうものだ!」


半ばやけくそに叫ぶデルクの目には、恐怖と開き直りが混じっていた。


「若様だって、いずれおわかりになる! 民などいくらでも死ぬ! だが上に逆らえば家が潰れる! 家が潰れれば、この領地全体が食い荒らされるんだ! 犠牲は必要だ!」


レオンは少しの間、黙っていた。


犠牲は必要。

それはたぶん間違っていない。

誰かを生かすために、誰かが切り捨てられる。国家も、家も、戦も、そうして成り立っている。


では、何が間違いなのか。


彼は自分の内側を探った。

怒りはない。悲しみもない。

だが、目の前の男の言葉には、耐えがたい“醜さ”があった。

必要な犠牲を語りながら、その実、自分だけは生き延びようとしている。

その歪みだけは、はっきり見えた。


「犠牲が必要なら」


レオンは静かに言った。


「まず先に、お前がその列に並べ」


デルクが目を剥いた。


「な……」


「連行しろ。帳簿、金の流れ、関与者をすべて吐かせる。先代伯爵の命令であろうと関係ない」


衛兵が男を取り押さえる。デルクは泣き叫び、無様に床へ爪を立てた。


「若様! お待ちください! 本気でそんなことをすれば、あなたもただでは済まない! 旦那様はあなたをお許しにならない! この屋敷では、正しい者が生き残るんじゃない、従った者が生きるんだ!」


その言葉に、レオンは足を止めた。


振り返る。

灰色の瞳が、男をまっすぐ見た。


「なら、変えるしかないな」


それは決意というにはあまりに静かな声だった。

熱も、怒号も、理想もない。

ただ事実を述べるように、彼はそう言った。


だがその一言に、ハインツはかすかな戦慄を覚えた。

長年この少年を見てきたが、今の声音は初めてだった。

感情のない刃が、初めて何かの方向を向いた。そんな気がした。


蔵を出た頃には、雪がさらに強くなっていた。


白い欠片が空から無数に落ちてきて、石畳を、兵の肩を、レオンの外套を静かに埋めていく。

領都のほうを見下ろせば、遠くの煙も淡くぼやけていた。


ハインツが隣に立つ。


「坊ちゃま……いえ、レオン様。先ほどのご判断は、危うい橋を渡ることになります」


「知っている」


「先代伯爵閣下は、あなたを試すかもしれません」


「かもしれない、ではない。試すだろう」


レオンは降り続く雪を見上げた。

冷たさは感じる。寒いとわかる。

だが、それだけだ。


「ハインツ」


「はい」


「人は、どういう時に怒る」


老執事は目を見開いた。

思いがけない問いだった。


「……大切なものを踏みにじられた時かと」


「大切なもの、か」


レオンはその言葉を口の中で転がした。

自分にそんなものがあるのか、まだわからない。


「私には、まだよくわからない」


正直な言葉だった。

吐き出した本人にとってさえ、奇妙なくらいに。


ハインツは少しだけ視線を伏せ、それから静かに答えた。


「今は、わからなくてもよろしいかと」


「なぜだ」


「わからないと知っている方は、まだ引き返せます。自分は正しいと疑わぬ方は、まっすぐ崖へ進みます」


レオンは何も言わなかった。

ただ雪の向こうに沈む領都を見つめた。


飢える者がいる。

奪う者がいる。

見て見ぬふりをする者がいる。

そして、それを数字としてしか捉えられない自分がいる。


この世界は、たしかに壊れている。

だが壊れているのは、世界だけではないのかもしれなかった。


その日の夕刻、先代伯爵から呼び出しが来た。


西棟最奥。

病に伏した主の部屋。

厚い扉の向こうは薬草と香油の匂いに満ち、日差しの差さぬ薄暗い寝室だった。


ベッドに横たわるオズヴァルド・ヴァルディアは、かつて剛毅な武人として名を馳せた男とは思えぬほど痩せ衰えていた。だが、その目だけはまだ死んでいない。

鷹のように鋭く、息子を値踏みする目だった。


「蔵を改めたそうだな」


「はい」


「デルクを捕らえたとも聞いた」


「必要でした」


「必要」


先代伯爵はかすれた声で嗤った。


「お前は、いつもそうだ。幼い頃から泣きもせず、喚きもせず、必要か不要かでしか物を見ぬ。気味の悪い子だった」


レオンは黙って立っていた。


「誰に似たのだろうな。少なくとも母親ではない」


その名を出されても、胸はやはり動かない。

母の顔は肖像画でしか知らない。

優しかったらしい、という話を聞いたことはある。だが“らしい”以上の実感がない。


「なぜデルクを捕えた」


「領民の穀物を抜いたからです」


「違う」


オズヴァルドの目が細くなる。


「誰の許しを得て、私の裁量に踏み込んだと聞いている」


その問いの本質を、レオンは理解した。

これは不正の話ではない。権力の話だ。

領民が死ぬことも、穀物が消えることも、本筋ではない。

父にとって重要なのは、誰が決めるかだった。


「伯爵領の管理は、当主たる私の務めです」


「まだ早い」


「いつなら早くないのです」


「私が死んだ後だ」


部屋が静まり返る。

暖炉の薪が崩れる音だけが響いた。


レオンは父を見た。

この男はもう長くない。だが死の影に足を浸しながらなお、手放せぬものがある。

権力。家名。支配。

それがこの男を生かしている最後の火なのだろう。


「領民が春を越せません」


「死ぬ者は死ぬ。毎年のことだ」


「減れば税も減る」


「その時は別の村から取る」


あまりに当然のように言われ、レオンはふと理解した。

この男にとって、人は土地と同じなのだ。

枯れたら耕し、痩せたら削る。数字に換えられる資産。


不思議なことに、その認識に怒りは湧かなかった。

だが、はっきりとわかったことがある。


この屋敷の歪みは、ここにある。


父はなお言う。


「お前は優しさで動いたのではない。そういう顔ではないからな。おそらく、自分の管理下にあるものが乱されたのが気に入らなかっただけだ。違うか」


レオンは少し考えた。


そして答える。


「そうかもしれません」


先代伯爵は笑った。

咳き込みながら、喉の奥を鳴らして。


「ならば安心だ。お前もヴァルディアの人間だ」


だがレオンは、その言葉に首を振った。


「いいえ」


父の笑みが止まる。


「私はたぶん、あなた方とは少し違う」


「何が違う」


「あなたは、自分が支配するために切り捨てる」


レオンの声は低く、静かだった。


「私は、歪みを正すために切り捨てる」


それは似ているようで、決定的に違うものだった。

少なくとも、彼自身はそう信じていた。


オズヴァルドはしばらく息子を見つめ、それから吐き捨てるように言った。


「青いな。正すなどという言葉を口にする者は、いずれ必ず血に溺れる」


「かもしれません」


「感情の薄いお前には、誰もついてこない」


「それでも構いません」


「最後にはひとりで死ぬぞ」


レオンは一拍置いて答えた。


「最初から、そのつもりです」


父の目に、一瞬だけ理解不能なものを見る色が浮かんだ。

目の前の息子は、自分の知る貴族ではない。

だが、聖人でもない。

冷たい。細い。折れぬかわりに、容易く人を斬れる刃だ。


「失せろ」


かすれた命令に、レオンは一礼だけして部屋を出た。


扉が閉まる。

廊下に出た途端、張りつめていた空気が少し緩んだ。

窓の外はもう夜で、雪はなお降り続いている。


その時だった。


遠く、中庭の方から短い悲鳴が響いた。


レオンが顔を上げる。

次いで、何かが割れる派手な音。怒鳴り声。女のすすり泣き。


足が勝手に動いた。

いや、正確には勝手ではない。騒ぎの原因を確かめる必要があると判断したからだ。

だが、その判断が少しだけ速かったことに、彼自身は気づかなかった。


中庭へ続く回廊を抜けると、雪の上に人だかりができていた。

中心には、昼に見かけた侍女ミアが膝をついている。足元には砕けた陶器の破片。湯気の立っていたはずの薬湯が雪を溶かし、泥色の染みを広げていた。


その前に立つのは、先代伯爵付きの女官長ゼルマだった。

痩せた顔に怒りを刻み、革の細鞭を手にしている。


「この愚図が! 旦那様のお薬を何だと思っているの!」


「も、申し訳ありません……! 手が滑って……」


「言い訳をするな!」


鞭が振り上げられる。

周囲の使用人たちは顔を青くしているが、誰も止められない。止めれば次は自分だ。


レオンは人垣を割って前へ出た。


「やめろ」


その一言で空気が止まった。


ゼルマが振り返り、目を見開く。


「レオン様……これはしつけでございます。見過ごせば、他の者も」


「薬は作り直せばいい。侍女は壊れても替えが利くと言いたいのか」


ゼルマは口ごもった。

言外にそう思っていても、当主の前で明言はできない。


ミアは雪の上で震えていた。顔は真っ青で、手には赤い痣が浮いている。よく見ると、指先の感覚がなくなっているのか、砕けた破片を避けようともしていない。


レオンはしばらくその姿を見下ろした。


かわいそう、とは思わない。

怒りもやはりない。

だが、見ていてひどく座りが悪かった。

歪んでいる。何かが決定的に。


「ミア」


少女が怯えた顔で見上げる。


「立てるか」


唇を震わせながら、彼女は小さく頷いた。だが足に力が入らないのか、すぐによろめいた。


レオンは無言で自分の外套を外し、彼女の肩にかけた。

周囲の使用人たちが息を呑む。ゼルマでさえ目を見開いた。


「医師を呼べ。手を温めろ。今日は休ませる」


「し、しかし」


ゼルマが何か言いかける。


レオンは彼女を見る。

それだけで、女官長は言葉を失った。


「命令だ」


雪が静かに降り続いていた。

白い夜気の中で、ミアは何が起きたのかわからないという顔をしていた。

外套の重みを両手で抱きしめ、泣くまいとして、それでも目に涙を溜めている。


その涙を見ても、やはりレオンの胸は大きくは動かない。

だが、ひとつだけわかったことがあった。


自分は、この光景を見過ごしたくなかった。


それが憐れみなのか、苛立ちなのか、あるいはもっと別の何かなのかはまだわからない。

けれど、その“わからなさ”は、今までの空白とは少し違っていた。


ハインツが遅れて人垣の外から現れ、状況を見て目を細める。

老執事は何も言わない。ただ、レオンの横顔を見ていた。


白い息が闇に消える。


ヴァルディア伯爵家の冬は深い。

だがその夜、雪の底で、まだ名もない小さな火がひとつだけ灯った。


それは世界を変えるほど大きなものではなかった。

屋敷ひとつ焼けないほど弱く、指で摘まめば消えてしまうほど頼りない。


それでも確かに、そこにあった。


感情を知らないはずの男の中に、

まだ言葉にならぬ何かとして。


そして火というものは、たいてい最初は静かに燃え始める。

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