第十話 秤の上
医務室は静まり返っていた。窓は閉じられ、外の気配は遮断されている。濃い薬草の匂いが空気に沈み、時間の流れすら鈍く感じられた。エドワルドは三日間目を覚まさなかった。浅い呼吸だけが続き、生と死の境に留まっているようだった。医師は無駄な言葉を排し処置を繰り返す。誰も断言しない。ただ、繋ぎ止めることだけに集中していた。
四日目の朝、かすれた声が落ちた。
「……水を」
傍にいた少年が慌てて器を差し出す。エドワルドは体を起こそうとして顔を歪めた。
「無理だ」
窓際に立つレオンが言う。エドワルドは目だけを動かし、苦笑した。
「……監視ですか」
「確認だ」
「どちらでも同じでしょう」
水を含み、息を整える。顔色は悪いが、目の奥には意識が戻っていた。
「生き延びたな」
「ええ、運が良い」
「違う。繋いだ」
短い沈黙。エドワルドはわずかに視線を落とし、それから笑った。
「……そういう言い方、嫌いじゃありません」
空気が戻る。
「動けるか」
「すぐには無理ですが、頭は動きます」
「それでいい」
レオンは一歩近づく。
「次だ」
エドワルドの目が細くなる。その奥に、明確な興味が灯っていた。
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その夜、北棟の会議室に四人が集まった。前回と同じ顔ぶれだが、空気は明らかに違う。一度戦を越えた者たちの沈黙がある。机の上には新しい地図が広げられていた。
エドワルドの指がその上を滑る。
「第二集積所は半壊です。完全ではありませんが、機能は大きく落ちています」
ガルドが低く言う。
「それで終わりか」
「いいえ。重要なのはそこではない」
指先が中央へ移る。
「流れが変わる。穴が開いた以上、補填が必要になります。人も物資も動く。その動きは偏る」
「どういう意味だ」
「弱いところが露出するということです」
リシェルが指を鳴らす。
「つまり、叩きやすくなるってこと?」
「その通りです」
エドワルドはわずかに笑った。
レオンが問う。
「場所は」
「三つありますが――ここがいい」
指が止まったのは、街道から外れた古い修道院だった。
ガルドの表情が変わる。
「……教会の施設だぞ」
「ええ」
「そこを叩けばどうなるかわかってるか」
「全面的に敵になります」
あまりにもあっさりとした答えだった。
「一線、越えるぞ」
「すでに越えています。ただ、向こうがそう認識するかどうかの違いです」
「認識されたら終わりだ」
「始まりです」
沈黙が落ちる。
リシェルがくすくす笑った。
「好きね、その言い方」
「事実ですから」
レオンは地図を見たまま言う。
「人があるな」
「ええ。そこが重要です」
「奪うのか」
「違います」
エドワルドの目が細くなる。
「“選ぶ”」
空気がわずかに張る。
「何を」
「連れてくる人間を。戦力になる者、技術を持つ者、情報を持つ者」
ガルドが低く唸る。
「……組織か」
「ええ」
「面倒だな」
「ですが必要です」
リシェルがぼそりと呟く。
「群れるのは嫌い」
「群れるのではなく、使うのです」
「言い方が気に入らない」
「事実ですから」
視線がぶつかる。だが長くは続かない。
レオンが言う。
「やる」
それだけで決まった。
ガルドが息を吐く。
「……本当に行くんだな」
「ああ」
「今度は隠れないぞ」
「隠れない」
短い言葉だったが、重さは違った。
エドワルドがゆっくり頷く。
「では五日後。補填が動く頃を叩きます」
「内部は」
「手を入れています。ただし完全ではない」
「裏切りは」
「常にあります」
一拍。
「それ込みで使う」
レオンの言葉に、エドワルドはわずかに笑った。
「それでこそです」
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会議が終わり、三人は廊下を歩く。屋敷の空気は重いままだが、どこか変質している。
ガルドが低く言う。
「本気であいつを使う気だな」
「ああ」
「気に入らねぇ」
「だろうな」
短い沈黙。
「……だが、あいつがいなきゃここまで来れなかったのも事実だ」
レオンは答えなかった。それで十分だった。
後ろからリシェルが続く。
「ねえ」
「何だ」
「どこまで行くの?」
レオンは歩みを止めない。
「決めていない」
「いいわね」
リシェルは笑う。
「終わりが見えない方が、壊しがいがある」
「壊すためじゃない」
「でも壊れるでしょ」
否定はしなかった。
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同じ頃、南の教会支部。石造りの部屋でアルベイン司祭が報告を受けていた。第二集積所の機能停止、流通の乱れ、修道院周辺の不審な動き。すべてが繋がっている。司祭は目を閉じ、わずかに思考を巡らせる。やがてゆっくりと目を開いた。
「……試されているのはこちらか」
神殿兵が一歩前に出る。
「どう動きますか」
司祭は静かに答えた。
「見せる」
「何を」
「罰を」
その声には揺らぎがなかった。
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火はすでに広がっている。それは単なる破壊ではなく、流れそのものを歪め始めていた。人を集め、選び、削り、形を変える。レオンたちの行いは、もはや個人の反抗ではない。まだ未完成で歪だが、確実に一つの形へと向かっている。
レオンは窓の外を見る。遠くの灯りは弱い。だが消えてはいない。そこに何を見るかはまだ決まっていない。ただ一つ確かなのは、引き返す道はもうないということだった。そしてそれを、彼はすでに受け入れていた。




