第九話 火の代償
森は冷えていた。夜明け前の空気は薄く、息を吸うたびに肺の奥が痛む。焚いた火は小さい。煙を上げれば追跡を呼ぶ。だから温もりは最小限、光も抑えられている。闇は依然として濃い。
倒れたままのエドワルドの脇で、リシェルが膝をついていた。火はすでに消えているが、傷口の周囲には焼けたような痕が残り、血はかろうじて止まっている。止めたというより、無理やり閉じたという形だ。
「……持ってるわね」
小さく呟く。感心とも諦めともつかない声だった。
ガルドが腕を組む。
「助かるか」
「五分。朝まで持てば、少しは上がる」
「五分か」
低く息を吐く。納得はしていないが、責める声でもない。
レオンは少し離れた場所に立っていた。木の幹に背を預け、二人と、横たわる男を見ている。顔には血の跡が残っているが、拭っていない。拭う必要を感じていないだけだった。
「……なんで助けた」
ガルドが言う。
レオンは視線を外さない。
「必要だからだ」
「違う」
短く切り捨てる。
「さっきのは“必要”じゃねぇ。あいつが勝手に入った」
沈黙。
リシェルが口元だけで笑う。
「珍しいわね、あんたがそこ突くの」
「気に入らねぇだけだ」
ガルドは視線を逸らさない。
「借りができる形になった。ああいう奴は、それを利用する」
レオンはようやく目を閉じた。
(……借り)
言葉は理解している。意味もわかる。だが実感が追いつかない。あの瞬間、考えてはいなかった。ただ、目の前で死ぬはずだったものが、別の形で止まった。それだけだ。
「利用するならさせる」
レオンは言う。
「その分、使う」
ガルドは少しだけ黙り、やがて肩をすくめた。
「お前がそれでいいならいい」
完全な同意ではない。だが止める気もないという合図だった。
リシェルがふとレオンを見る。
「ねえ」
「何だ」
「さっき、初めてだったでしょ」
何のことかは明らかだった。
「……ああ」
「どうだった?」
問い方が軽い。だが軽さの裏で、何かを測っている。
レオンは少しだけ考えた。
「重かった」
それが最初に出た言葉だった。
「だけど、迷いはなかった」
リシェルの目が細くなる。
「いい傾向ね」
「そうか」
「ええ。迷いながらやるより、よほど綺麗」
ガルドが不快そうに言う。
「綺麗じゃねぇだろ」
「見え方の問題よ」
リシェルは肩をすくめる。
「躊躇って刃を鈍らせる方が、よっぽど醜い」
ガルドは何か言い返しかけて、やめた。価値観の話になると、この女とは噛み合わない。
その時、エドワルドの指がわずかに動いた。
三人の視線が集まる。
浅い呼吸。まぶたが震える。
やがて、ゆっくりと目が開いた。
焦点は合っていない。だが、意識は戻りかけている。
「……生きてるわね」
リシェルが淡々と言う。
エドワルドの唇が動く。
「……最悪だ」
かすれた声だった。
ガルドが鼻で笑う。
「生きてる奴の台詞だな」
エドワルドはわずかに顔を歪める。
「……痛みが、あるので」
「ある方がいい。生きてる証だ」
レオンが近づく。
「動くな」
「動けませんよ」
かすかな笑み。だが、その目はまだ完全には戻っていない。
「……成功ですか」
「半分だ」
レオンが答える。
「物資は一部。拠点は機能停止。だが完全制圧ではない」
「十分です」
エドワルドは目を閉じる。
「“敵”になりましたね」
その言葉に、レオンは何も返さなかった。
事実だったからだ。
―――――
夜が明けきる前に、四人は森を離れた。エドワルドは簡易の担架に乗せられ、ガルドとレオンで交代しながら運ぶ。速度は出せない。だが急ぎすぎれば、命が落ちる。
屋敷へ戻る頃には、空は白み始めていた。
裏口から入る。人目を避けるためだ。ハインツがすでに待っていた。
「……戻られましたか」
その視線が、担架へ向く。
「生きていますな」
「まだな」
レオンが言う。
「医務室を」
「手配済みです」
ハインツはそれ以上何も問わなかった。ただ状況を受け取り、次へ進める。その無駄のなさが、この屋敷を支えている。
医務室は静かだった。薬草の匂いが強い。老いた医師がすぐに動き、エドワルドの傷を確認する。
「……深いな」
短い言葉。
「持つか」
レオンが問う。
医師は一瞬だけ手を止めた。
「持たせる」
それは約束ではない。意思だった。
エドワルドが運ばれていくのを見送り、レオンは廊下へ出た。足を止める。屋敷の空気が違う。何かが張り詰めている。
「……早いな」
ハインツが言う。
「もう回っているか」
「はい。第二集積所の件、教会はすでに把握しています。南の支部から、正式な抗議が届いております」
「正式、か」
「文面は丁寧ですが、内容は強い」
レオンは頷いた。
「父は」
「お待ちです」
間を置かずに答える。
「機嫌は」
「最悪でしょうな」
それは当然だった。
―――――
西棟の執務室。
扉を開けた瞬間、空気が重くなる。暖炉の火が強い。だが暖かさは感じない。
オズヴァルドが椅子に座っていた。顔色は悪いが、目は冴えている。怒りは燃え尽きていない。
「……戻ったか」
低い声。
「はい」
レオンは正面に立つ。
「やったな」
問いではない。
「やりました」
短く返す。
沈黙。
暖炉の火が音を立てる。
「教会が動いた」
「聞いています」
「王都にも上がる」
「いずれ」
オズヴァルドが立ち上がる。杖が床を叩く。
「愚か者が」
その言葉は、以前よりも静かだった。
「お前は、どこまで壊すつもりだ」
レオンは少しだけ考えた。
「必要な分だけ」
「それは誰が決める」
「私です」
即答だった。
父の目が細くなる。
「……そうか」
短い沈黙の後、オズヴァルドは背を向けた。
「ならば、その責任もすべて背負え」
振り返らない。
「屋敷も、民も、そして――自分の首もな」
それだけ言って、手を振る。退出の合図だった。
レオンは一礼もせず、部屋を出た。
廊下に出た瞬間、わずかに息を吐く。緊張ではない。ただ、場の重さを切り替えるための動作だった。
角を曲がると、リシェルが壁にもたれていた。
「どうだった?」
「予想通りだ」
「でしょうね」
彼女は軽く笑う。
「で、後悔してる?」
レオンは足を止めない。
「していない」
「いいわね」
リシェルは後ろからついてくる。
「どんどん壊れていく」
「壊しているのは、最初からあった歪みだ」
「言い方が上手い」
少しの沈黙。
「でもね」
リシェルの声が少しだけ落ちる。
「壊す側も、同じ形に歪むのよ」
レオンは振り返らなかった。
その言葉の意味は、まだ完全には理解できない。だが無視もできない。
―――――
医務室の前で、ガルドが待っていた。
「まだか」
「処置中だ」
「そうか」
短い会話。
やがて扉が開く。医師が出てくる。
「……ひとまず、繋いだ」
「助かるか」
「半分だ。あとは運だ」
ガルドが小さく息を吐く。
「運、か」
医師はレオンを見る。
「お前が連れてきたのか」
「ああ」
「なら、最後まで見ろ」
それだけ言って去っていく。
扉の向こう、エドワルドはまだ眠っている。顔色は悪い。だが呼吸は続いている。
レオンはその様子を見た。
(……繋いだ)
リシェルの火。医師の手。ガルドの運搬。自分の判断。いくつもの要素が重なって、ひとつの命がまだここにある。
それをどう使うかは、これからだ。
屋敷の外では、すでに噂が広がっている。教会は動き、父は怒り、民はざわつく。
火は確実に広がっている。
そしてその火は、もう誰にも消せないところまで来ていた。
レオンは静かに扉へ手をかけた。
中へ入る。
その一歩は、これまでと同じようで、少しだけ違っていた。
ほんのわずかに。
だが確実に。




