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運命なんてなくてもいい

作者: ハルカ
掲載日:2025/10/05

 ラディス王国の王都フェルトヴィル。その平民区の一角にある装身具屋で、男女の言い争う声が響いていた。

「貴方しかいない、なんて言っておきながら、フィリップに懸想してたんだろ!」

「貴方こそ、未だにジョアンヌのことを思ってるんでしょ!?」

 収まる気配のない痴話喧嘩に、エルヴィールは渋面を作りながら溜め息を吐く。

 これだから嫌なのだ、確証もないのに自信に満ち溢れた男女に答え(ヽヽ)を教えるのは。

(運命の相手なんてそうそう見つかるもんじゃない……この国だけでも結構な数の人間がいるってのに……)

 大陸全土で見れば数え切れないくらいの人々が住んでいる。その中からたった一人の運命の相手を見つけるなんて神にしかできないだろう。

 常識的に考えれば分かることだとエルヴィールは思っているが、それでも彼女に“視て欲しい”と頼む者は後を絶たない。彼女の両親が営むこの装身具屋の客の一割は彼女の能力が目当てだ。

 世界には神や精霊といった人智を超えた存在がいる。創造神ネシス、命の神ヴィオス、豊穣神テルムス、四大精霊――。様々な神や精霊は時折生まれてきた子供に加護を与える。この国ではそれを賜り物(ギフト)と呼んで尊んでいた。

 賜り物を与えられた者は与えた神や精霊に因んだ特殊な能力を得る。創造神ネシスの賜り物は国を繁栄させ、命の神ヴィオスの賜り物は怪我や病を癒やす力を授ける。この国の初代王、アレクサンドル王はネシスより賜り物を与えられこの国を繁栄させた。

 そしてエルヴィールも神より賜り物を与えられた者の一人だ。愛と真実の神フィリアルス――。この神より賜り物を与えられた者は魂同士を結び付ける運命の光が見えるようになる。

 エルヴィールは幼い頃からこの光が見えていた。最初は何なのかも分からず、両親が近くにいると必ず見える光が目障りで、叩き落とすような行動を取っていた。それを不思議に思った両親に理由を問われ、真相が判明したのだが、これが見えて得をしたことなど一度もない。

 大体皆、期待し過ぎなのだ。相性が良いから運命の相手だろうなんて、そんな都合の良い話があるわけない。気になる相手が運命の相手だったら幸せになれるだろうから視て欲しいって、じゃあ違ったら違う人間に乗り換えるのか。今抱いている感情は何なんだ。

 最初は友人や知り合いに頼まれて運命の光の有無を教えてきたが、教えた途端に冷める人々を見る内にそんな考えを抱くようになった。運命の光が無くとも相手を愛し続ける男女など数えるほどしか見たことがない。

 目の前の男女も、店に入ってきた時は暑苦しいくらいに引っ付いていたが、今やそんな影もなく未だに口論を続けている。

 エルヴィールは小さく溜め息を吐いてそっと席を立った。男女二人は気付く様子もない。

 そんなに夢中になれるのならある意味仲が良いのでは、と思いながら店の奥に引っ込んだ。

「エル? 何だか店が騒がしいようだけど……?」

 奥の作業場にいた母が心配そうに声を掛けてくる。

「ごめんなさい、うるさくして。あんまりしつこかったから、言っちゃったの」

 エルヴィールはそもそもこの能力で商売をしているわけではない。同じ賜り物を貰った者の中には金銭を要求する者もいるらしいが、エルヴィールは両親の店の手伝いをしているだけだ。その客の中にエルヴィールの噂を聞き、どうしても視て欲しいとやって来る者達がいるだけだ。

 基本的には断っているし、視てくれたら金を払うからと食い下がる連中には、どんな結果でも素直に受け止めることを約束させるのだが、結局半数くらいはああやって騒ぎ始める。

(本当、こんな能力なくていいんだけど……)

 何の役にも立たない、とエルヴィールは思う。

 貰うなら、母のような幸運の神の賜り物か、料理が上手くなるという竈の神の賜り物が欲しかった。


 口論をしていた男女は母が声を掛けるとそそくさと店を出て行った。喧嘩して破局した男女に、「相手の幸せを祈るお守りもありますよ?」と勧めても買うわけがない。分かっていてにこにことそう声を掛けるのだから、母もなかなか強かな女性(ひと)だとエルヴィールは思う。

「さっきのお客様は帰られたわ。また店番をよろしくね?」

 作業場に戻ってきた母に言われ、エルヴィールは「分かった」と再び表に戻った。

 先程の男女が売り物を壊したりしていないかと、エルヴィールは店の中を歩いて回る。エルヴィールの答えを聞いて喧嘩に発展する男女は、偶に店の売り物を相手に投げつけたりするので困りものだ。

 指輪や腕輪、耳飾り、ペンダント、ブローチ。そのどれもが父の手によって綺麗な細工を施されている。平民区の同業店で、これほどの品を売っている店は他にない。エルヴィールの自慢の一つだ。

 そしてその半数には賜り物持ちの母が祝福を与えている。幸運の神フォルトゥナスの祝福が掛けられた装身具はそれだけで幸運のお守りになる。普通の装身具よりも割高になるが、平民区の店で祝福付きの装身具が買える店は他になく、特別な相手への贈り物として密かに人気なのだ。

 売り物の装身具が全て無事なことを確認し、定位置に戻ろうとすると、ドアに付けているベルが来客を告げた。

「いらっしゃいませ――」

 振り返ったエルヴィールは視界に入った光に一瞬固まる。

 店に入ってきた男性から溢れる光が、筋となって自分の方へと流れ込んできた。

(あ……)

 愛と真実の神フィリアルスが見せる運命の光だ。それが自分へと繋がっているということは、この男性がエルヴィールの運命の相手ということになる。

 エルヴィールの中に複雑な感情が生まれる。両親はお互いこれ以上ないと思える夫婦だが、運命の光がなくても幸せそうな男女はたくさん見てきた。寧ろ、運命の光に翻弄される人達の方が碌でもない人間のことが多い。

「ここは、装身具屋かい?」

 耳触りの良い声がエルヴィールに尋ねてくる。

「あ、はい……そうです……」

 いつもなら、「何かお探しですか?」「おすすめの品がありますよ」と接客の言葉が出てくるのに、ただそれだけを言うので精一杯だった。

 エルヴィールは、怖ず怖ずと顔を上げて相手を確認する。

 五つくらい年上だろうか。色素の薄い亜麻色の髪に空のような青い目の美青年だ。簡素なシャツとズボンを着ているが、よく見ると良い生地を使っているのが分かった。

(この人、多分貴族だ……)

 自分の運命の相手など知りたくなかった。エルヴィールは心底そう思った。

 互いが互いに惹かれ合い、助け合うことでより良い暮らしができる両親のような例は稀だ。平民同士ならエルヴィールもまだ相手を好意的に見れたかもしれないが、貴族はそもそも住んでる世界が違う。そんな人物と親しくできるわけがない。

 エルヴィールはにこりと接客をする時のように笑顔を作った。

「本日は何をお求めですか? 少し高いですが、うちにはフォルトゥナスの祝福付きの品もありますよ」

「いや、少し目に付いたから入ってみただけなんだが、祝福付きの物もあるのか」

「はい、一番奥の棚に並んでます。どうぞゆっくり見ていって下さい」

 そう言ってエルヴィールは青年に背を向け、定位置の椅子に座った。

 運命の光が何だ。そんなものがあったって、住む世界が違う人間とは結ばれないし、なくても人は十分幸せに暮らせる可能性を持っている。

 様々な神の賜り物があるが、フィリアルスの賜り物だけは本当に役に立たないと、エルヴィールはこっそり溜め息を吐いた。



 件の青年は、祝福付きのブレスレットを一つ買って店を去った。素材は貴族が持つものと比べると劣るが、繊細なデザインの綺麗なブレスレットだ。親しい女性にでも贈るのだろう。

 あのくらいの年齢の貴族なら婚約者がいるのが普通だ。早い者は結婚している。

 やはり運命の光は無意味だな、と思いながら、エルヴィールは青年の存在を早々に忘れることにした。覚えていても不毛だ。

 そうして両親の手伝いをしながら過ごすこと一か月、青年のことを思い出すこともなくなったある日、再びその青年が店を訪れた。

「やぁ、こんにちは。君は、この前もいた娘だね」

「こん、にちは……ここは、私の両親の店なので……」

「そうなんだ」

 何でまた来たんだ。この前買っていった物が壊れでもしたのか、それとも祝福を実感できなくて文句でも言いに来たのか。

 貴族と思われる人物がそう何度も来る場所ではないと知っているだけに、様々な理由が頭の中を飛び交う。

「きょ、今日は、何をお求めでしょう……?」

「この前はあまり時間がなかったから、あまり見れなかったんだが、他にどんな物が置いてあるか気になってね」

 青年は店の中を見回しながら言う。

 取り敢えず、前回購入した物にケチをつけに来たわけではないと知り、エルヴィールはほっと溜め息を吐く。

「それでしたら、ごゆっくりどうぞ。私は奥にいますので、ご用の際はそこにあるベルを鳴らして下さい」

 エルヴィールはカウンターに置いてあるベルを指して言う。

「客がいるのに店の中にいなくていいのかい? 品物が盗まれることだってあるだろうに」

「新しいお客さんが来たらドアのベルが鳴りますから」

「俺が盗むとは思わないの?」

「貴方は、貴族でしょう? うちの商品を盗むほど困窮しているとは思えませんし、もし盗まれたとしても貴族相手には訴えられませんから」

 少し考えれば分かることだろうに、この男は何を言っているのだろうか。そんなことを思いながら答え、エルヴィールは店の奥へと入った。

 青年の姿が見えなくなると、青年とエルヴィールを繋いでいた光も見えなくなった。エルヴィールはほっと息を吐きながら、休憩用の長椅子に腰掛ける。

 分かっていたことだが、エルヴィールと青年の運命の光は消えていなかった。運命の光が繋ぐのは一生に一人だけ。教会で聞かされた話では、お互いの魂を結んでいる光だという。

 光が見えたのは何かの間違いなんじゃないか、次に見た時には消えているかもしれない。そんな期待も少し抱いていたが、神からの賜り物に間違いはないらしい。

 しばらくぼんやりと長椅子に座っていたが、店の中から呼びベルの音が聞こえてきて、エルヴィールは渋々と売り場に戻った。

「お決まりですか?」

「ああ、これをもらう」

 青年がカウンターに置いたのは髪留めだった。前回買っていたブレスレットとは趣きが違うがこれも女性物で祝福付きだ。また親しい女性に贈るのだろう。

「銀貨二枚です」

「二枚だね」

 青年はそう言ってカウンターの上に銀貨を二枚置く。

 平民なら数年頑張って働いてようやく貯まる額だ。それをぽんと出せるのだから、貴族はやはり別世界に生きているのだと見せつけられたような気がした。

「お買い上げありがとうございます」

 淡々と述べながら、二枚の銀貨を仕舞っていると、「少し後ろを向いてくれないかな?」と青年に言われる。

「は……?」

「少しだけ、後ろを向いてくれ」

 ――何のために。

 エルヴィールは胡乱気な目で青年を見上げる。

 後ろを向いている間に、店の品物を取って逃げる気か。それとも無礼な接客態度の仕返しに後ろから殴りかかる気か。

 エルヴィールの考えていることが伝わりでもしたのか、青年は困った笑みを浮かべながら「お店や君に危害を加える気はないよ」と言う。

「じゃあ、何で後ろを向かないといけないんですか?」

「ちょっとこの髪留めを使う練習をさせてもらえないかと思って」

「そんなの、ご自分の奥さんか恋人にお願いして下さい」

「それで失敗したら格好悪いだろう? 他に練習させてくれそうな女性もいないし」

 貴方なら何人もいるでしょう、と思いながらも、言う通りにしないとこの青年は帰らないのだろうと察し、エルヴィールは渋々後ろを向いた。

「ありがとう。ちょっと失礼するよ」

 そんな声が聞こえたかと思うと、青年の指がエルヴィールの横髪に触れる。指先が頬、耳と軽く触れ、身体が震えそうになるのをエルヴィールは必死に耐えた。

 どくどくと心臓が鳴っているのが否が応にも分かる。

 意識しないように必死に自分に言い聞かせていると、ようやく青年の手が離れた。後ろへと梳かれた横髪はしっかりと後頭部で留められている。

「これでよし。うん、やっぱり似合ってる」

(似合ってる……?)

 青年の言葉に違和感を覚えながら振り返ると、青年は満足げにエルヴィールの頭を軽く叩いた。

「それは君にあげる」

「え……? いや、意味が……」

「元々、今日は少し気になったから足を運んでみただけで、何も買うつもりはなかったんだ。贈る相手もそんなにいないからね。でもその髪留めを見ていたら、君が一番似合いそうな気がしてね」

 やはり意味が分からない、とエルヴィールは思った。

 贈る相手もいないから何も買わないというのは分かる。一つの品物に目が留まって、誰それに似合いそうだと感じるのもよくあることだろう。その誰それが、その辺にいる見知らぬ人物だというのも、まぁ、偶にはそういうこともあるだろう、とぎりぎり思える範囲内ではある。だが、それを実際に贈るというのは、全くもって意味が分からない。

「あの、よく分からないけど、返していいですか?」

 後ろに手を回して髪留めを取ろうとすると、青年がさっとエルヴィールの手を掴む。

「駄目。折角あげたんだから、返品は受け付けないよ。そういう装飾品は似合う人が使うのが一番だ」

「いえ、貰えません。貰う理由もありません」

 エルヴィールが軽く手を振り払おうとすると青年の手はすんなりと解けた。

「理由か。単なる貴族の気まぐれに理由なんていらないよ。俺がそうしたいと思ったからそうするだけだ。ただ、強いて言うなら、そうだな、どこか俺に冷たい君の気を惹いてみたかっただけだ」

(あ……)

 できるだけ関わりたくないと密かに避けていたことに、青年は気付いていたのだ。

 しまった、と思わず顔に出してしまったエルヴィールに、青年は苦笑を見せながら再びエルヴィールの頭を弱く叩いた。

「そういうことだ。似合ってるんだから、使ってくれ」

 それじゃあ、と青年は入り口の方へと歩いていく。

「あ、そうだ、名前をまだ聞いてなかったな。俺の名はフェル。君は?」

 一瞬答えるのを躊躇ったが、そうやって青年から逃げようとするからこんなことになったのだ。

 エルヴィールは、小さな声で自分の名前を告げる。

「エルヴィールか。じゃあ、エルと呼ぼう」

 何故いきなり愛称で呼ばれなければならないんだ、と思ったが、青年には何を言っても無駄だろうと、エルヴィールは早々に諦めることにした。



 それからというもの、気まぐれな青年フェルは、月に一度は店に来るようになった。

 特に決まった日や時間帯はなく、ふらりとやって来ては店番をしているエルヴィールにあれこれと話しかけてくる。

 「ここは休憩所ではありません!」と怒ったこともあるが、そうするとフェルは二回に一回は何かを購入するようになった。女物以外にも男物を買うことがあるが、それを使っているところはまだ一度も見ていない。

 客としてやって来る時は追い出せないし、何より両親が貴族の割に物腰が柔らかなフェルを快く招き入れるため、話をしに来ただけの時も追い出せない状況になってしまった。

「――また俺があげた髪留めをしてないね」

 先に来ていた客が帰るなり、フェルが近寄ってきてそう言う。

「……たまたま忘れただけです」

 苦し紛れにそう言ったが、これまで色々な言い訳を散々使ってきたのだ。本当に忘れたわけではないことは、フェルもよく分かっているだろう。

 エルヴィールはフェルに背を向けてこっそり溜め息を吐く。

 気まぐれに贈られた物といえど、自分とフェルの関係を知っているエルヴィールとしては、それを使い続けることに抵抗がある。自分から使うなんて、まるでフェルに好意を抱いているかのようではないか。だから髪留めはいつも家の戸棚の中だ。再び店に並べて元手なしで収入を得ようとしないだけマシだろう。

「つけてあげるから持っておいで」

 エルヴィールは無言で返す。

 髪留めを使う習慣がないから、留めるのが下手だから、などと言い訳をするのではなかった。そう言って以来、フェルは必ず先の台詞を言うようになってしまった。

 だったら、とフェルが来たらすぐに髪留めを取りに行ってつけていた時期もあるが、乱雑な留め方が不満だったらしく、フェルの手で留めなおされる始末。もう何もするまいとエルヴィールは心に誓った。

「エル、聞いてる?」

「そこまでしてもらわなくていいです。髪留めは気分が向いた時に使います」

 そんなことを言ってかわそうとしていると、奥の作業場から母が出てきた。

「フェル様、いらっしゃいませ。髪留めならここにありますよ」

 戸棚から出してきたのだろう。母はフェルに髪留めを渡す。

(お母さん……!)

「ヴィオレーヌさん、こんにちは。持ってきてくれてありがとうございます」

 フェルは母に礼を言うと、上機嫌でエルヴィールの髪を弄り始めた。

 初めはただ後ろで束ねて留めるだけだったが、最近のフェルは一部を編んだりしながら時間をかけて髪を留める。楽しんでいることも腹立たしいし、エルヴィールより手先が器用なのも腹立たしい。そして、気を抜くと勝手にどきどきし始める自分の心臓が恨めしい。

 どうして、たかが平民の娘相手にそんなに優しい手付きで触れるのか。女性の扱いに慣れているのだろうが、相手くらい選んで欲しい。

「よし、こんなものかな」

 ようやく終わったか、とエルヴィールはほっと息を吐く。鏡がないので具体的にどうなっているかは分からないが、今日はいつもより下の方でまとめられたようだ。

「あら、今日も綺麗にしてもらって。良かったわね、エルヴィール」

 娘の髪を成人男性が弄ることに何も思わないのか、母はいつもそんなことを言う。

「そうだね……」

「折角だから、今日はフェル様と出掛けてみたら?」

「えっ、何で!?」

 母の提案にエルヴィールはぎょっとする。

「この前、そんな話をしていたでしょう?」

 この前というのは数週間ほど前だっただろうか、いつも店番をしているエルヴィールにフェルが「偶には外に出てみない?」と誘ってきたのだ。エルヴィールは店番を理由に即座に断ったのだが、どうもその話が母に聞こえていたらしい。

「フェル様、駄目かしら?」

「俺は構いませんよ。一度エルと外を歩いてみたいと思ってましたし」

 何ですぐそういうことを言うんだ、と抗議の視線を送ってみるが、フェルはどこ吹く風だ。

「あら、良かったわ。じゃあ、フェル様、よろしくお願いしますね」

「いや、でも、店番が……!」

「さっき注文の品を作り終えたから、私もあの人も手が空いてるの。店番は気にしなくていいわ。ついでにお遣いもしてきてもらいたいし」

 お遣いという仕事を出され、エルヴィールは反論の余地を無くした。

「行ってらっしゃい」

 笑顔の母に見送られ、エルヴィールはフェルと出掛けることになった。


 お遣いにはよく行くが、誰かと一緒に行くのはいつぶりだろうか。幼い頃、母に手を引かれてお遣いについて行ったのが最後のような気がする。

 隣に誰かがいるというのは、存外慣れていないのだな、とエルヴィールはフェルをちらりと見遣って思う。

 そしてまた、フェルが整った容姿をしているのがいけない。身なりは簡素でも、生地が良質であればそれなりに見える。これが平民であったならちょっと目を向けられる程度で済んだのだろうが、着ている物も良いため、男女問わず注目を集めている。

(早く帰りたい……)

 自身が注目を集めているわけではないのだが、非常に疲れる。

「あっちは市場か。少し見て回りたいな」

「いいえ、お遣いを済ませたらすぐに帰ります! あ、一人で見て回るというなら別に構いませんけど」

「それじゃあ、一緒に出かけた意味がないだろう。仕方ない、市場はまたの機会にするか」

 またの機会などあるわけがない。

 エルヴィールは心の中で文句を言いながら、すたすたと目的の場所に向かう。

 一軒目は、石屋だ。貴族が持つ宝石にはかなり劣るが、色の付いた石の原石を売っている。加工も頼めばある程度してくれるが、装身具に合わせた加工が必要になるため、エルヴィールの父は自分で加工することが多い。

「これは装身具の材料かい?」

「そうです。宝石とは言えない物がほとんどですけど、石が付いてる物の方が皆好きなので」

「なるほど」

 エルヴィールは箱の中に詰められた石の中から、できるだけ色の濃い物を選んで取り出していく。今日はなかなか良い物が揃っているようだ。

 持ってきた袋にぎりぎり詰められそうな量になったところで代金を支払い、袋に詰めていく。そこそこの重さになったが、慣れているためひょいと紐を肩に掛けた。

「俺が持とうか?」

「結構です。お貴族様にそんなことさせられません」

 何を言ってるんだ、とそっぽを向いて次の目的地へと歩く。

 後は布を一巻買って、鋳物屋で修理を頼んでいた工具を受け取るだけだ。

 布屋で無地の生地を見繕っていると、一際鮮やかな布が目を引いた。空のような青、新緑のような緑、沈む間際の夕陽のような赤――。

(綺麗……)

 平民であるエルヴィールは、生地を買ってきて自分達で染めることがほとんどだが、どんな草花や果実を使っても、これほど鮮やかな色を出せたことはない。

 じっと目が離せずにいると、フェルが隣にやって来た。

「セリーク王国から来た品かな?」

「セリーク王国って、すごく遠くにある……?」

「山越えが大変だけどそこまで遠くないよ。織物や染物が得意な国なんだ」

「そうなんだ。こんなに綺麗な色が出せるなんて、きっと特別な染料があるんでしょうね」

「いや、染料はこの国で使われているものとそんなに変わらないって話だよ。違うのは職人の技術。門外不出の技術があるらしい」

 エルヴィールはふとフェルの顔を見た。どう見ても自分で染物をするような顔には見えない。

「……なんか、すごく詳しくないですか?」

「え? あ、ああ、セリークには使節団と一緒に行ったことがあるからね」

「使節団?」

「ご、護衛としてだよ。俺は軍に所属しているから」

 今まで知ろうともしていなかったが、フェルはどうやら騎士のようだ。それならば、頻繁に平民区に来るのも頷ける。騎士は貴族の中でも身分が低い。功績を立てれば平民でも与えられる唯一の称号だ。戦の神ベルグナスの賜り物を持っている平民が騎士になる話はよく聞く。

「そうなんですか」

 ふーん、と少し納得しながらも、それでも貴族には変わらないと、エルヴィールは冷めた気持ちで考える。

 現実は何も変わらない。それなのにフェルは何度も店にやって来るし、優しい手付きでエルヴィールに触れる。

 できるだけ関わりたくないのに、少しずつフェルの存在を受け入れている自分がいることに、エルヴィールは気付いていた。

 エルヴィールの心だけが、変わっていっている。

(早く帰ろう……)

 お遣いが終わればフェルも家に帰るだろう。

 エルヴィールは染められていない生地を一巻買い、鋳物屋へと向かった。



     ◇



 自室へと続く長い廊下を歩いていると、兄の一人と行き合い、フェルは足を止めた。

「フェル、その恰好、また平民区に行っていたのか?」

 次兄のリュシアンは呆れた視線をフェルに向ける。

「ちょっとした息抜きですよ、兄上」

「その割りには数が多いとアランが嘆いてたぞ」

「本当、アランが来てから俺の行動は兄上に筒抜けになりましたね……」

 フェルは隠しもせずに溜め息を吐く。

 アランはフェルの側近の一人だが、元々兄の部下だった男だ。フェルが成人する際に側近にどうだと紹介されたのだが、息抜きと称して偶に城を抜け出すフェルの様子を探らせるためでもあったのだろう。

「ああ、お前が最近侍女達に髪留めやブレスレットを贈っているという話も聞いているな。ようやく女性に興味を持ち始めたのかと期待してるんだが、そこのところはどうなんだ?」

「兄上、誤解があります。特定の誰かに贈ってるわけではありませんから。誰か使いたい人がいたらあげるように侍女長に渡してるだけです」

 実際誰の手に渡ったかまではフェルも把握していない。

「なんだ、そうなのか」

「あと、女性に興味がないわけではありませんよ、俺は。ただ、夜会で群がってくる令嬢達が嫌いなだけです」

 フェルも最初からそういった令嬢が嫌いなわけではなかった。雰囲気が気に入った令嬢とは親しくなろうとしたこともある。

 だが、彼女達の半数以上は、元々次兄のリュシアンに言い寄っていたのだ。その兄が早々に婚約者を決めてしまったため、今度はフェルの所にやって来ただけに過ぎない。

 大半が政争に勝つために集まってくるのだと悟ってからは、自身がただの餌にしか見えなくなったのだ。好感など持ちようがない。

「あれは、まぁな……お前が嫌う気持ちも分からないではない。だが、お前ももう二十二歳だろう。そろそろ相手を決めないといけないんじゃないか?」

「分かってますって」

 そうやっていつものらりくらりと交わしているのを、この兄もよく知っている。リュシアンは深い溜め息を吐いた。

「全く、度々出掛けるというから、気になる相手でもできたのかと思ったのだが……」

 気になる相手――。

 今までは、そんなことを言われても誰の顔も思い浮かばなかったというのに、フェルの脳裏にはエルヴィールの顔が浮かんでいた。

 そんな自身に少し驚きながら、フェルはエルヴィールとのやり取りを反芻する。

 自身の存在など眼中にないというかのように背けられる顔。素っ気ない態度。

 照れているという感じはしない。どちらかというと冷たい。

 フェルは自身の見目がいいことを理解している。身分以外にもそれが理由で女性達が寄ってくることも知っている。故に、一度はフェルを見たのに、それ以降こちらを見ようとしなかったエルヴィールは、フェルにとって変わった存在だった。

 ふと手に取った髪留めが誰に似合うだろうと考えて、素っ気ない店番の娘が浮かんだのは偶々だが、ちょっと気を惹いてみたかった、というのも本音だ。

 あの時から、気にはなっていたのだ。

 そして今のフェルは確実に、エルヴィールと過ごす時間を楽しく感じている。

 何の気も張らずにやり取りできるひと時。身分も政争も関係なく過ごせるのがこれほど心地良いと、フェルは知らなかった。

「気になる相手というのは……まぁ、間違ってはいませんね……」

 フェルの言葉が意外だったのか、兄は驚きを露わにしながらフェルを見つめる。

「お前がそんなことを言うとは……」

「兄上、少し失礼過ぎませんか?」

 フェルが文句を言うと、兄はふっと表情を崩して微笑った。

「悪い。いやしかし、安心した。お前がその気になるとは、一体どんな美人だ?」

 フェルは再びエルヴィールの顔を思い浮かべる。

「美人、というか……可愛い、ですかね」



     ◇



「――エルは、俺の名を呼ばないよね」

 唐突にそんなことを言ったフェルに、エルヴィールはぎくりと身体を強張らせた。

 できるだけ親しくならないようにと、意図的に呼んでいなかったのだが、とうとう気付かれてしまった。

「そ、そうですか?」

 と素知らぬふりをしてみるが、フェルは胡乱げな目でエルヴィールを見る。

「わざと、ということかな?」

「だ、誰もそんなこと言ってないじゃないですか!」

「そう。じゃあ、呼んでみて」

「え……」

「わざと呼ばないようにしているわけじゃないなら、呼んでくれるんだろう?」

 誰も今呼ぶとは言っていない。

 だが、これはいつもと同じ流れだ。抵抗しても最後には呼ぶ羽目になるあろうと、エルヴィールは諦める。

「フェ、フェル様……」

 エルヴィールは不承不承フェルの名を口にする。

 これで満足しただろうかと思いきや、呼ばれた本人は何だか腑に落ちないといった顔をしていた。

「な、何ですか……」

「いや、何か、様を付けられるのに違和感があるというか……大して敬われてもいないのに様を付けられると、そこだけ浮いて聞こえるな」

 結構酷い言い様である。

 確かに、フェルの気安い人柄に甘えている部分はある。これが他の気位の高い貴族だったら鞭で打たれているかもしれないという態度も取ったことがある。

 だが、エルヴィールもそれなりに身分の違いは意識しているし、できる限り丁寧に対応しているつもりだ。運命の光があるせいで、どうしても遠ざけたいという思いがあり、態度に出てしまっているのは確かだが。

「エル、フェルってそのまま呼んでみてくれないか?」

「えっ、い、嫌ですよ! お貴族様にそんなこと……!」

「いいから、いいから。今は俺とエルしかいないし、今までの態度も貴族に対するものじゃなかったんだから今更だろう?」

「うっ……それは……」

「ほら、エル、呼んでみて」

 逃げられない状況に、エルヴィールは今日二度目の諦念を覚えた。

「フェル……」

「うん、それだ。それがいい」

 フェルは満足そうに微笑う。

「様が違和感というよりも、変に壁を作られるのが嫌なのかもしれないな……」

 そう一人で考え始めたフェルに、エルヴィールは冷や汗が出る思いがした。エルヴィールは正しく壁を作ろうとしてきたのだ。

「エル、これからも俺のことはフェルで」

「い、嫌です……! 様は付けます……!」

「駄目」

「駄目とか言わないで下さい!」

「駄目なものは駄目」

 結局、押し問答の末、エルヴィールは負けた。最終的に貴族の言うことは聞くものじゃないのか? とか言われたらお終いだ。

 エルヴィールはフェルのことを様を付けずに呼ぶことになった。そうすると、今度は名前はフェルとそのまま呼ぶのに、他が丁寧な口調だと違和感があると言い出した。

 身分に合った振る舞いをしているのに、それが不満だなんて意味が分からない。

 もしかしてフェルは平民上がりの騎士なのではないかと疑ったほどだ。

 そうして、避けようとしていたはずが、気付けば両親に仲が良いわね、と言われるほどになってしまった。

 エルヴィールとしては仲良くしているつもりはないが、確かに、いつの間にか完全に気を許してしまっているし、親しいと取られても仕方がない態度を取ってしまっている気がする。

 そして本来なら無礼だと咎められる態度を、フェルが許してしまっているのがまたいけない。半分くらいはフェルの所為だ。

 そんな中、店にやって来たフェルが、しばらく来れない、と言い出した。

 エルヴィールは、距離を置くいい機会だと内心喜びつつ、理由を尋ねる。

「今度リートゥス王国の国王の生誕祭があるんだけど、王太子殿下が祝いの品を持っていくことになってね。道中の護衛を務めることになったんだ」

 リートゥス王国といえば、ラディス王国と親密な関係にある国だ。王国領も隣り合っている。

「へぇ、そうなんだ。しばらくって、生誕祭ってそんなに長くかかるの?」

「いや、生誕祭は数日で終わるけど、二国の関係を深めるために王太子殿下しばらく滞在する予定なんだよ。俺達も護衛としてそのまま滞在しないといけないらしい」

「王太子殿下の護衛なんて大役じゃない」

 光栄なことなのではないかとエルヴィールは思ったが、フェルは少しも嬉しそうではなかった。

「二か月くらいで帰ってこれるとは思うんだが、その間自由が利かないのはな……」

 溜め息を吐くフェルを他所に、そうか、二か月もいないのか、とエルヴィールは心を躍らせる。

 二か月も期間が空けば、自身に対するフェルの関心も薄れるかもしれない。

「エル、なんか嬉しそうなのは気のせいかい……?」

「え、そ、そう……? 他の国には行ったことがないから、想像するだけで楽しいのかも」

「そうか……じゃあ、土産話でも期待していてくれ」

 それはいらない。

 エルヴィールは心の中で呟いた。

 そしてその日の夜、エルヴィールはフェルがしばらく来ないことを両親に話した。

「あら、そうなの?」

「すぐに発たれるのかい?」

「出立まではまだあるって言ってた。出立の前に顔を出すとも言ってたかな」

「じゃあ、今度来られた時にお守りでも差し上げたら? いつもお世話になっているのだし」

 お世話、と聞いてエルヴィールの顔は微妙になる。

 頼んで来てもらっているわけではないが、定期的に店の物を買ってくれるフェルのお蔭でエルヴィールの家が潤っているのは確かだ。

「祝福付きの物を一つ選んでお渡ししなさい」

 父にも言われ、エルヴィールは一家からのお礼ということでお守りを渡すことにした。


 翌日、エルヴィールは店に並ぶ品物の中からお守りを探した。

 フェルの好みなど知らないし、今回は道中の安全を祈るものだから、幸運の神フォルトゥナスの象徴をかたどった物でいいだろう。フォルトゥナスの周りを飛んでいるとされる鳥だ。装身具の種類としては、紐でどこにでも下げられるタイプの物にした。

 それから一週間後、出立前に顔を見に来たと、フェルが店を訪れた。

「明日の朝、発つよ」

「そっか、気を付けてね。あと、はい、これ。あげる。いつもお世話になってるお礼。一応祝福付きだから、大きい怪我とかはしないと思う」

 エルヴィールはいつもと同じように素っ気ない態度でお守りを差し出す。

 何か貰えるとは思っていなかったのだろう。フェルは躊躇うように受け取ると、エルヴィールの顔を見る。

「いいのかい?」

「いいから、あげるの」

「じゃあ、有り難くもらうよ」

 お守りを眺めながら、フェルは嬉しそうに微笑う。

「支度をしている時にこの手の物を何も持っていないことに気付いてね。自分で買うつもりだったんだが、嬉しい誤算だ」

(何も持っていない……?)

 今までいくつも買っていったのに、それはどうしたのだろうか。

 確かに最初は女性物の装身具ばかり買っていたが、最近では男性物も買うようになっていた。エルヴィールはフェルが自分で使うのだろうと思っていたが、どうやらそうではなかったようだ。

(誰かにあげたのかな……? 騎士仲間とか……)

 軍に所属しているなら同僚がたくさんいるのだろうと、エルヴィールは一人納得する。

「自分で買うつもりだったんなら、好きな物を選んでく? 交換してもお父さんは怒らないと思うよ」

「いや、エルが選んでくれたんだろう?」

「そうだけど……」

「だったら、これでいい」

 エルヴィールが選んだことを喜んでいるかのような言葉に、胸の奥がしくりと痛んだ。

 無難な物を適当に選んだだけなのに、そんな風に喜ばれても困る。フェルのことを真剣に考えようとしていないことに、罪悪感にも似たものが生まれ気がした。

 自身の様子にフェルが気付いたのかは分からない。フェルは何も言わず、ただエルヴィールの頭を撫でてから帰っていった。

 それからしばらくは平穏な日々だった。

 フェルがいきなり訪れることがないのが分かっているので、何も考えずに自分の仕事に没頭することができた。そうしている内に罪悪感も薄れ、気持ちも幾分か楽になっていた。

 しかし、それから更に一週、二週と経つ内に、何か物足りなさを感じるようになった。

 エルヴィールは店のカウンターに凭れ掛かりながら、フェルから貰った髪留めを指で弄る。

 以前は髪を留める習慣などなかったが、フェルが店に来るようになってから、髪を留めることが増えた。掃除の時などは横髪が邪魔になるから自分でも留めるようになった。

 良くも悪くも、フェルは自分の生活に変化を与えていたのだと、エルヴィールは気付く。

 フェルの方は果たしてどうだろうか。

 この店に足繁く通うのは変化の一つだろう。ただ、出費が増えているだろうから、良い変化だとは思えない。

 では、気持ちの面では――?

 フェルに恋人や婚約者がいるかは知らない。だが、最初は特に女性物の装身具を買っていたから、贈る相手はいるのだろう。

 そんな相手がいるのに、店に来て自分と話そうとするのは何故だろうか。

 気紛れ? ただの遊び? そもそも、何とも思ってない――?

(何それ……こんなこと思うなんて、フェルに気にして欲しいって思ってるみたいじゃない……)

 馬鹿馬鹿しい、とエルヴィールは髪留めから目を背ける。

 仮にそんなことが起こったって、何も変わりはしない。

 彼に恋をしても、身分の違いに阻まれるだけだ。

 運命の光があったって、エルヴィールの未来は良くなったりしない。



     ◇



 一日の役目が終わり、あてがわれた部屋に戻ると、フェルは胸元からエルヴィールに貰ったお守りを取り出した。

 ベルトや剣帯にも取り付けられるタイプの物だったが、フェルは長めの鎖を通してペンダントにした。

 幸運の神フォルトゥナスと共に飛ぶ鳥。伝承には、フォルトゥナスの先触れとしてやって来たという話もある。

 お守りとしてはありふれたものだが、エルヴィールがこれを選んだというだけでフェルにとっては特別だった。

 まだしばらくは会うことができない相手に思いを馳せる。可能ならば今すぐにでもラディス国に帰りたいが、立場上そんなことはできない。

「――いつも、それを眺めておられますね」

 物思いに耽っていると、いつの間にか部下のアランが戻ってきていた。

「これを見ていると、少しは気が紛れるんだ」

 会いたいという思いは膨れるばかりで、収まる気配がない。

「随分と大切にされているようで……」

「ああ、そうだな……」

 少しずつ明確になっていく自身の思いに、フェルは気付いていた。

「ですが、平民なのでしょう?」

「そうだな、平民だな」

 フェルはアランの顔を見る。

「何か言いたげだな」

「平民ばかりを構って、今後如何なさるおつもりなのかと」

 フェルは鼻で笑った。フェルの部下は誰も彼も頭が固すぎだ。

「俺は三番目だぞ? しかも戦の神ベルグナスの賜り物を持っている。いざという時は戦場に出る立場だ。俺以外の全員が死なない限り、俺が王位を継ぐことはない」

 玉座には相応しい人間が就くべきだ。戦時には前線へと出るフェルには向いていない。

「なら、必ずしも妻帯する必要はないだろう?」

「そういう問題では……貴族との婚姻関係も国にとっては重要です」

「それが争いの火種となる場合もある。兄上二人に俺、第三勢力を作る意味がどこにある?」

 すぐには何も答えなかったアランに、フェルはわざとらしく溜め息を吐く。

「俺一人くらい、自由にしても問題ないだろう?」

「では、その平民を娶られるおつもりですか?」

 尋ねられて、フェルはエルヴィールと暮らす未来を想像する。

「正式に娶るのは難しそうだな。どこかの家の養子にすれば可能だが、中立の家を見つけるのは骨が折れそうだな」

「では、愛妾か侍女として召し上げますか?」

 アランの言葉に、一瞬、それではエルをぞんざいに扱っているのではないか、という思いがよぎる。

(いや、その方が周りも取るに足らないものと見なすか……)

 エルヴィールは貴族の世界を知らない。下手に身分を与えてしまうと、貴族達が警戒して排除しようと動く可能性がある。或いは、取り入って第三勢力を作ろうと企てる者もいるかもしれない。

 どちらにしても、エルヴィールにとってもフェルにとっても碌なことにならないだろう。

「諸々を考えるとその辺が無難かもしれないな……まぁ、エルが傍にいるなら、形にはこだわらない。元々誰も迎えないつもりでいたんだ。エルを傍に置いたからといって、他に貴族の娘を正妻に迎えるつもりはないし。二人で、共に暮らせればそれで十分だ」

 エルヴィールを求める心が更に強くなれば、そうするだろう。

(まぁ、もしそうなった時に、エルがもっと上を望んだら、俺としても叶えてあげるのは吝かじゃないんだけどね……)

 そう思うくらいには、自分はエルヴィールのことが好きらしいと、フェルは実感した。



     ◇



 物足りなさは次第に退屈へと変わっていった。

 しかしよく考えてみれば、フェルに出逢う前と変わらない生活なのである。自身が退屈だということに気付いていなかっただけだ。

 退屈かもしれないが、心を掻き乱されないのはいいことだと、エルヴィールは自分に言い聞かせる。

 エルヴィールとしてはそうやって平静を保っていたつもりだったが、両親の目には違うように映っていたらしい。

 最近元気がないから気晴らしに出掛けておいで、と店から出されてしまった。

 お遣いでもないのに外に出されても非常に困る。

 とぼとぼと一人歩きながら、何をしたらいいだろうかとエルヴィールは考える。平民区を一周でもすればいいだろうか、それともどこかに座って時間が経つのを待てばいいだろうか。

 座るにも広場のような場所でないと周りの迷惑になるため、エルヴィールは、取り敢えず、と広場に足を向けた。

 そうして、広場の入り口に差し掛かった時――。

「エル!」

 とフェルの声がどこからか聞こえてきた。

 辺りを見回すと、貴族の居住区がある方角から走ってくるフェルの姿が見えた。

(あ……)

 どくりと心臓が音を立てた。

「こんな所で会うとは思わなかった。今から行こうと思ってたんだ」

 屈託のない笑顔に、嫌というほどに胸が締め付けられる。

(なんで……)

 嬉しいなんて、思ってしまったのだろうか。

 気付きたくなかったのに、気付かないフリをしていたのに、もうどうやったらこの感情を誤魔化せるのか、エルヴィールには分からなかった。

 目元が熱くなり、エルヴィールは逃げた。

「エル!?」

 驚いたフェルが後ろから追ってくる。

 騎士なだけあってフェルは足が速かった。エルヴィールはあっという間にフェルに捕まった。

「エル、どうしたんだ、いきなり走り出して」

「何でも、ない……! びっくりしただけ!」

 自棄になりながらそう言って、目元を拭う。涙は辛うじて堪えられたが、気を抜くとまた視界がぼやけてくる。

 もう、どうしたらいいか分からない。

 心の中でそう叫んでいると、不意にフェルに抱き寄せられた。

「っ!?」

 身動きも取れず、言葉も失っていると、フェルの手が優しくエルヴィールの背中を叩き始めた。

「いきなり走り出すから、俺も驚いたよ。ただいま、エル。驚かせてごめん」

 胸から色んなものが溢れそうだった。

 目に再び涙が溜まるのを感じながら、エルヴィールはただ、

「おか、えり……」

 と、それだけを口にした。


 元々、気晴らしをして来いと言われたこともあり、その日は時間が許すまでフェルと広場で過ごした。

 半泣きになったことはどうにかこうにか誤魔化し、フェルの土産話が聞きたいとねだって話題を変えることにも成功した。

 お蔭で、家に帰る頃には気持ちも随分と落ち着いていたが、フェルが好きだという思いからはもう目を逸らせなかった。

 こんな思いを抱えていても仕方がないというのは分かっている。だが、自身の心はエルヴィールが考えていた以上に思い通りにならなかった。

 フェルのことを考えると胸が痛むと同時に温かくもなる。これは一生消えないものだとエルヴィールは感じていた。

 運命の光がなくてもこんな風に感じたのだろうか。

 もし、自分が賜り物を持っていない人間で、彼との間に運命の光はないと言われても、エルヴィールはそれでも彼が好きだと言っただろう。彼の運命の相手が見つかっても、エルヴィールは彼を好きでい続けるかもしれない。

 恋をしたのは初めてだ。でも、この思いが本物だというのは分かる。

 エルヴィールは目を閉じる。

 自分の気持ちが本物であっても、運命の光があっても、この恋が実ることはない。初めから知っていたことだ。

 それでも、エルヴィールはフェルに対する思いを捨てたいとは思わなかった。

 どうやっても叶わない思いだが、せめていい思い出にしたい。

 どうすればいいだろうかと数日悩み、エルヴィールは自身の思いをフェルに告げることした。そして髪留めを含め、これまでの時間に感謝をと思い、贈り物をすることにした。そうすることで自分の気持ちに区切りを付けたかった。

 そうと決めてから、贈り物は何がいいかを考えた。髪留めのお礼でもあるから装身具にすることは早々に決められたが、そこから先がなかなか決まらない。

 指輪、腕輪、ペンダント――。店の中を行ったり来たりするが、どれもぴんとこず、両親に相談したところ、貴族ならカフリンクスを使うのではないかと父に言われた。シャツの袖口を留める装身具だそうだ。

 父にも作れるものだと知り、エルヴィールは貯めていたお金を全て両親に渡した。運命の光を見て欲しいとやって来た人々から貰った報酬を今まで貯めていたのだ。一組から貰う額は微々たるものだったが、長年貯めていたお蔭で銀貨一枚分はある。これなら祝福付きの装身具にしてもらえる。

 そうして、一か月後には二組のカフリンクスが出来上がった。騎士であるフェルに合うようにと、模様には剣と盾を入れてもらった。

 エルヴィールは用意していた小箱にそれらを大事に仕舞い、家の中にある一番マシな布で包んだ。

 どこからどう見ても貴族に渡す贈り物には見えないが、お礼だと言えば人の好いフェルは受け取ってくれるだろう。

 フェルは次、いつやって来るだろうか。

 早く会いたいという気持ちと、これを渡してしまえば終わりだという気持ち。二つが綯い交ぜになって眠れないこともあった。

 未練を残さないために告白と贈り物を決めたのに、既に未練を引きずりそうになっている自分にエルヴィールは笑った。

 終わりを悲しむことはない。フェルと会わなくなっても、エルヴィールが彼に抱いた思いが消えることはないし、彼との思い出が無くなることもない。

 大切な物を箱の中に仕舞うのと同じだ。

 自分の選択は間違っていない、これが最善だ、と何度も言い聞かせ、未練が消えかけた頃、フェルが店にやって来た。

「やぁ、エル。今日も髪留めをしてくれてるんだね」

「気が向いた時に使うって、前に言ったし……」

 胸の中に抱えているものを悟られないようにそっぽを向くと、フェルの手が伸びてきて髪留めを外した。

 相変わらず、彼はただ纏めただけの髪型は不満らしい。

「今日はどうしようか」

「……編み込んでるやつがいい」

 ぽつりと希望を言ってみると、後ろからくすくすと忍び笑う声が聞こえてくる。

「エルから言い出すなんて珍しいね」

「偶には、って思っただけ」

 いつもと同じように若干ふてぶてしく言ってみる。多分自分は、彼にはそういう風に見えているはずだ。

「そう。じゃあ、座って」

 カウンターの近くにある椅子に座り、エルヴィールは目を閉じる。頬や耳にフェルの指が触れても、もう驚かなくなった。寧ろ、心地良いとさえ感じる。

(これで、最後か……)

 名残惜しい気もするが、幸せな時間が永遠に続くということはない。ただ、この一瞬一瞬の時間を覚えられていればそれでいいのだと、エルヴィールは思った。

 しばらくして、フェルの手が離れた。後で鏡を見に行こうと思いながら、エルヴィールは折よくやって来た客を出迎える。

 比較的客の多い日だったのは幸いだった。色々と意識する間もなく、気付けば日が傾き始めていた。

 客がいなくなったところで、エルヴィールは作業場に行き、母に頼み込んで店番とお遣いを変わってもらった。これで出掛ける口実ができた。

「フェル、私、お遣い頼まれたから行ってくるね」

「じゃあ、俺も行くよ」

 いつものようについて来ると言ったフェルに内心安堵しながら、バッグの中にフェルへの贈り物を忍ばせる。

 別にすぐ渡してもいいのだが、思い出にするならいつもいる店の中ではなく、どこか別の場所が良かったのだ。

 エルヴィールはフェルと連れ立って店を出る。

 西の空に浮かぶ雲が黄金色に染まっていた。くすんだ青い空は地平線に近いほど色を失っている。

 一日の終わりが近いからか、どこか哀愁を誘うが、暖かな色が綺麗だとエルヴィールは感じ入った。

 エルヴィールはお遣い先へと足を勧めた。忙しくて注文の品を取りに来られない客に品物を届けるという簡単なお遣いだ。

 何事もなくお遣いを終え、エルヴィールは隣にいるフェルを見上げた。

「フェル、そろそろ帰らなくていいの?」

「エルを送ったら帰るよ」

 当然のようにそう言うフェルにエルヴィールは考える。店の前よりも思い出に残りそうな場所はどこだろうか。

「じゃあ、偶には私が送る。平民区までだけど」

 エルの言葉に、フェルは目を丸くし、一拍置いてくすくすと笑い始める。

「偶にはそういうのもいいかもしれないな。ああ、でも、帰る時はちゃんと気を付けて帰るんだよ?」

「それくらい分かってるよ」

 小さな子供じゃないのに、と思うが、フェルは基本的に心配性だ。

 エルヴィールとフェルは大通りへと出た。

 貴族の居住区は小さな川を隔てた向こう側にある。この大通りを真っ直ぐ進めば、馬車も渡れる橋がいくつかあり、それが貴族区と平民区を繋いでいる。

 大通りを進む内に、西の空が茜色に染まっていた。貴族区へと戻る人々が足早に通り過ぎていく。

 エルヴィールは、橋の手前で足を止めた。自分が生きている世界はここまでだ。

「エル?」

「またね、フェル」

 ――あぁ、またね、なんて間違っている。

 口をついて出てきた言葉に後悔しながら、エルヴィールはバッグの中に手を入れた。

「ああ、また」

 微笑を浮かべたフェルは、背を向けて歩き出す。

(あ……)

 引き留めないといけないのに、声が出なかった。

 覚悟を決めたはずなのに、一瞬の内に怖気づいてしまった自分がいる。

 エルヴィールは深呼吸をした。

 今まで何度も考えたことが頭の中を廻る。

 僅かな間にフェルの背中が遠ざかっていた。

 今しかない。これが、最善だ――。

「っ、フェル! これあげる!」

 エルヴィールはそう叫んで、バッグから取り出した包みを投げた。

 難なく片手で受け取ったフェルは、不思議そうな顔をしながら包みを開く。

 エルヴィールは大きく息を吸った。

「あのね、フェル! 好きだよ! 私と出逢ってくれてありがとう!」

 思いの丈を籠めて叫ぶと、フェルの動きが止まった。

 それ以上の反応は見ていられなくて、エルヴィールはすぐさま踵を返す。胸が一杯で既に苦しくなっているが、それでも構わずに走り出した。

 言いたいかったことは伝えた。感謝の代わりにカフリンクスも贈った。これでもう、終わりだ。

 そんな思いを抱えながらどれくらい走っただろうか。エルヴィールは息を切らしながら走る速度を徐々に落とし、ゆっくりとした歩みへと変える。

 涙が溢れてきそうだった。

 いい思い出にしようと、そう決めたのに、やっぱり運命の相手など知りたくなかったと、初めて出逢った時にも感じたことを心の中で思う。

 運命の光が消えないように、好きだという気持ちも消えない。

 多分、自分は一生フェルのことが好きなままなのだろうと、エルヴィールは思う。それはきっと、この先自分を好きだと言ってくれる人が現れても変わりはしない。フェルが、エルヴィールの唯一だ。

 泣くのを必死に堪えながら、家へと向かって歩く。

 自分の部屋に入ったら思い切り泣いてもいいだろうか、と考えていると、「エル!」と馴染んだ声と共に後ろから唐突に抱き締められた。

「言い逃げなんて、卑怯じゃないか」

 フェルの荒い息遣いがすぐ傍で聞こえる。

 咄嗟に離れようとしたのに、強く抱き締められていてそれすらもできなかった。

「フェ、ル……なんで……」

「普通、ああいう時は返事を待つものじゃないのかい?」

「だって、返事って……」

 貴族と平民は住んでいる世界が違う。返事など、聞かなくても最初から決まっている。

「不覚にも、胸が締め付けられたよ……好きだと言ってもらえただけでこんな気持ちになるなんて、本当、参ってる……」

「そ、そう……」

「俺も、君のことが好きだよ……一人の女性として……」

「っ……」

 我慢していた涙が、零れていった。

 嬉しさで身体が震えそうになるが、答えを聞いたところでどうにもならない現実をエルヴィールは知っている。

「あぁ、泣かないで。嘘ではないから」

「で、でも……」

 溢れ出した涙は止められない。エルヴィールは必死に何度も目元を袖で拭う。

「擦れて赤くなるから駄目だよ」

 フェルに手を取られたかと思うと、フェルがエルヴィールの前へと回り込んだ。

「顔、見せて」

「や、だ……無理……」

 涙がぼろぼろと零れてみっともないのに見せられる訳がない。

 どうにか顔を隠そうと藻掻くエルヴィールにフェルが屈む。

 見られた、と思った次の瞬間、額に柔らかい何かが当たっていた。

(い、今……く、くち……おでこ……!)

 びっくりして涙が引っ込んだが、それもほんの瞬きの間だった。

 顔に熱が上ってくるのと同時に再び目から涙が溢れ出す。

「あぁ、この方法は駄目だったかな……こうすれば止まるって前に聞いたんだけど……」

「と、とまるわけない……!」

「じゃあ、仕方ないな」

 フェルは目元を和ませながら苦笑し、エルヴィールの顔を隠すように自身の胸に抱き込む。

 エルヴィールはもう何も考えられず、ただただ恥ずかしいのを隠すようにフェルのシャツを握り締めた。

 そうして涙が止まるまでフェルの胸に顔をうずめていた。



 そうして、エルヴィールは以前と同じ生活を送っている。毎日家事と店を手伝う生活だ。

 フェルには、最後に家まで送ってもらってから、会っていない。もう三か月以上経つだろうか。

 お互いに好きだと感じていてもどうしようもないのだと、言葉に出さずともフェルも分かっていたのだろう。

 答えを聞いたのが良かったことなのか、悪かったことなのか、判断はつけられない。時折無性に悲しくなることもあるが、エルヴィールの心は少しずつ平静を取り戻してきている。

 エルヴィールは、身支度を整えるとベッドの枕元に置いていた髪留めを手に取った。彼から唯一の贈り物だ。貰った当初は困惑したが、今では一つだけでも形のある物が残って良かったと感じている。

 フェルのように髪を綺麗に編むことはできないが、できるだけ綺麗に整えてから髪留めで留めた。

 そしていつも通り、洗濯や家の掃除を済ませて店に出る。

 表と店の中の掃除を終え、新しい商品を並べていると、早くもドアのベルが来客を告げた。

「いらっしゃいま――」

 振り向くと同時に視えたのは自身と相手を繋ぐ運命の光。

「エル……!」

 気付けばエルヴィールはフェルに抱き締められていた。

「やっと会えた……」

「フェル……? どうして……」

「最近ずっと忙しくてね……来ようにも来れなかったんだ。いや、今も忙しいんだが、会わないでいるというのは難しいな……耐えられなくなって、来てしまった」

「え……?」

 忙しかった? エルヴィールと自分の身分差を考えて会うのをやめたのではなかったのか?

 混乱するエルヴィールにフェルは続ける。

「色々考えたんだが、取り敢えず、俺の所で一緒に暮らそう」

「は……?」

「何か月もエルに会えないのは耐えられないと思い知ったんだ。だが、今の状況ではここに来るのも難しくてな……今日も人目を盗んで出てきたんだ……」

 だから入って来た時息を切らしていたのか。

「そうだな、ひとまず今の仕事が落ち着くまででいい。ヴィオレーヌさん達とも話し合わないといけないから、その後のことは追々考えよう」

「いや、あの、フェル、いきなりそんなこと言われても……」

 フェルの家で一緒に暮らすなど、想像もつかない。騎士とはいえ、貴族の家に平民が? 下働きか何かをすればいいということだろうか。それにしても、店の手伝いだってあるのに、いきなり家を出るわけにはいかない。

 もう少し詳しい話を聞かなければ、と思っていると、騒がしかったのか、奥から母が出てきた。

「まぁ、フェル様、そんなにお忙しいんですか? 人手が足りないのでしたら、エルを連れて行っても大丈夫ですよ?」

「人手……うん、足りていない訳ではないんだが、来れるなら来て欲しい」

 足りていない訳ではないが来て欲しいなら、やっぱり何かの手伝いなのだろう。

 少しは納得したが、エルヴィールが余所の家に手伝いに行けば、店の手伝いができなくなる。

「でも、お母さん、お店が……」

「お店のことなら大丈夫よ? エルが小さい頃はロジェと二人でやっていたんだし。フェル様が忙しいんだったら、お手伝いに行ったら?」

 エルヴィールはフェルの顔を見上げる。惚れた弱みという訳ではないが、困っているなら手伝いたいとは思う。

 フェルも、ひとまず今の仕事が落ち着くまで、と期限を決めていたし、一、二か月程度で家に帰れるのだろう。

「取り敢えず、ということでいいなら……」

 怖ず怖ずと口にしたエルヴィールに、フェルは破顔する。

「よかった。ありがとう、エル。早速だが、行こう。黙って抜け出してきたから、今頃騒ぎになってると思うんだ」

 フェルはそう言って、エルヴィールの手を引いて歩き出す。

「えっ、ちょっと待って! 早く帰らないといけないのは分かるけど、こっちも準備が……!」

「身の回りの物はこっちで用意するから大丈夫だよ。もしどうしても必要なものが出てきたら、その時取りに来ればいい。俺は動けないけど、エルは自由に動けるだろう?」

 なるほど、それもそうか、と納得している内に店の外へと連れ出されていた。そうして、目の前にあったものにエルヴィールは目を丸くする。

「お迎えに上がりました、フェルディナン様」

 店の前に馬車が停まっている。平民が乗り合いで使うような幌馬車ではなく、ちゃんと扉が付いた箱馬車だ。

「相変わらず、お前は用意周到だな、アラン」

「これも務めですので」

「全く……」

 呆れた様子ではあるが、馬車の存在自体には平然としているフェルに、エルヴィールは更に混乱する。

(え、フェルって、騎士の中でも結構上の方だったの……?)

 頻繁に平民区に来ているから、平民上がりか下級貴族の出だとばかり思っていた。

(しかも、フェルディナン様……?)

 アランと呼ばれた騎士服の男性は確かにそう呼んでいた。略称や愛称を好んで使う者もいるから、エルヴィール達にフェルと名乗ったことは特に問題ではない。だが、フェルディナンという名をエルヴィールはどこか別の場所で聞いた覚えがある。

(どこだっけ……)

 度重なる混乱で頭はもう半分も働いていない。そもそも、王都フェルトヴィルにはその名に因んだフェルとかフェルなんとかという名前が多いのだ。

「エル、乗って」

「え、は、はい……」

 フェルに促されるがまま、エルヴィールは馬車に乗り込んだ。色々とおかしいことに気付く余裕などなかった。

 馬車が動き出すと、エルヴィールは初めての箱馬車に少し興奮した。

 最初は前方にある窓から外を眺めようとしたりもしたが、危ないからとフェルに窘められてからは大人しく座っている。いや、座ってはいるが、どうしてもそわそわしてしまい、落ち着かない。

 フェルはいつもこんな馬車を使っているのだろうか。もっと豪華な馬車を見たことがあるから、馬車の格は低い方なのかもしれないが、平民のエルヴィールにしてみれば馬車を常時使えること自体がそれだけで特別だ。

 エルヴィールの周りの人間は皆職人ばかりで、騎士の階級にはそれほど詳しくない。騎士は騎士でも、フェルが一体どれくらいの身分の人なのか、エルヴィールにはさっぱり分からないのだ。

 気付けば前方の窓から見える景色が変わっていた。貴族の居住区に入ったのだ。

 エルヴィールは何となく縮こまる。

 平民が貴族と一緒に箱馬車に乗っているとバレたら、引きずり降ろされそうだと思ってしまった。

「エル、どうかしたかい?」

「な、何でもないから、気にしないで!」

 以前から思っていたが、フェルは身分差について何も思わないのだろうか。

 それから、どれくらい馬車に乗っていただろうか。まだかまだかと考えていたから長く感じたのか、本当に距離があったのかは分からない。途中で何度か止まっていたから長く感じたのかもしれない。

「エル、着いたよ」

 フェルにそう言われてエルヴィールは顔を上げる。

 先に降りたフェルが手を差し伸べるのに、不覚にもどきどきしながら手を取って下りれば、想像していた空間とは別世界にいた。

 庭園、と呼ぶのだろうか。エルヴィールが降り立った石畳の道の両脇には、よく手入れされた芝生が広がっている。遠くには色とりどりの花、そして噴水もある。

 平民区に近い下級貴族の邸宅を見たことがあるが、門から見た感じはこんな雰囲気ではなかった。

 ここはどこだ。

 呆然としていると、前方の大きな建物の中から騎士服の男達やメイド服を着た女達が出てくる。

 彼らは一様にフェルの前に並ぶと、恭しく腰を折った。

「お帰りなさいませ、フェルディナン殿下」

(でん、か……?)

 三つの音がエルヴィールの頭の中をぐるぐると回る。

(でんか、って、殿下……? 王子様……!?)

 エルヴィールは、未だ手を握っている相手を恐る恐る見上げる。

 装飾などほとんどないが、質の良い生地で仕立てられた服。手入れが行き届いている艶のある髪。

 フェルディナンはこの国の第三王子の名だということを、エルヴィールはようやく思い出した。

 さぁ、と血の気が引いていくのが自分でも分かった。

「エル?」

 エルヴィールの意識が途切れるのに、そう時間は掛からなかった。

お読みいただき、ありがとうございます。

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