精霊流し
眼前で提灯が揺れる。
がさついた和紙に包まれた赤色灯は思いの外明るく、はっきりと精霊さんの周囲を照らしていた。それに比例して陰影は濃く、僕や精霊さんの裏を真っ黒に塗りつぶしている。精霊さんを持つ人々の歩みに合わせて、絶え間なく影が蠢いた。
昼の熱は夜になっても籠もっていて、シャツに汗が滲む。微かな風が肌を刺し、汗をひりつかせた。時折鼻をつく燻った匂いは、送り火の煙だろう。
彼が亡くなって、半年になる。
今日、その初盆が終わろうとしていた。いたる軒先で送り火が焚かれるなか、彼の家族は精霊さんと呼ばれる輿を持って夜道を練り歩いている。
いまから、浜で精霊流しが行われるのだ。
精霊流しと言えば、有名なものは長崎だろう。しかしこの地で行われるものは少し異なる。賑々しくはないし、爆竹も使わない。流すのも船や灯籠ではない。大人たちが精霊さんと呼ぶそれには、白木の台座に神棚のようなものと提灯が乗っている。
基本は家族親戚で行われるそれに、僕は頼んで参加させてもらっていた。彼の父親や祖父達が輿を運ぶ後ろを、僕は足音を潜めてついていく。
「――もんだい!」
すぐ後ろで上がった声に、僕はちらりと視線を向けた。小学校低学年だろう、少年が2人。顔が似ているからきっと兄弟だ。彼の従兄弟か、はたまた又従兄弟か。
ついてきたはいいものの、ひそやかな行事は子どもたちにとっては退屈だったのだろう。さっきからうずうずとあたりを窺っていたが、ついに我慢しきれなくなったらしい。
「1+1は?」
兄らしき少年が出した問題に、弟の方はムッと頬を膨らませた。
「兄ちゃん、ばかにしてるだろ。それくらいわかるし」
「へぇー」
「2、だろ」
暗がりでもわかるほど、兄がにんまりした。
「ざーんねん! 答えは田んぼの『田』でした」
「え、なんでっ?」
「ひひひ」
教えてよぉ、と弟が声を上げる。
懐かしさに僕は目を細めた。あの引っかけ問題は、僕の同級生の間にも流行ったものだった。
ああ、そういえば。
ふと思い立って、僕は彼らに声をかける。
「ねえ」
「あ、はいっ」
びくりと子どもたちが肩を揺らす。叱られると思ったのだろうか、改まって答えるちびっこたちが微笑ましい。僕は慣れない笑顔を浮かべた。
「僕からも、クイズを出していい?」
「……クイズ?」
「いいよ!」
弟くんのほうが元気よく答えた。さっき間違えたぶん、今度こそはと意気込んでいるのかもしれない。僕は少し腹に力を入れ、口を開いた。
「1+1は?」
2人がキョトンとした。そうして顔を見合わせる。ひっかけかな。ひっかけだろ。内緒の会話はだだ漏れだ。
「田んぼの『田』は、違う?」
「うん」
「……じゃ、2?」
「それもバツ」
「わかった、11だ!」
ぱっとお兄ちゃんが顔を輝かせた。僕は首を振る。
「それも違う」
2人はしょげた。
「わかんないよ……」
「いや、俺は考える!」
兄のほうがぐっと拳を握る。頑張れと声をかけて前へ向き直ると、ちょうど目が合った女性に、ぺこりと頭を下げられた。彼らの母親なのだろう、僕は曖昧に微笑んだ。
――1+1は、田んぼの『田』。
昔、僕も彼に出したことがある。引っかける気満々だった僕に対し、彼はあっさりと正解したものだった。むしろおれが知らないと思ったのか、と呆れられもした。
懐かしい。
その後、彼は仕返しとばかりに問題を出してきた。それこそが、いま僕が子どもたちに出した問題。
1+1は?
結局、僕はわからなかった。しぶしぶ白旗を揚げた僕へ、彼は愉快そうに答えを明かしたのである。
ふっと行く道が暗くなった気がして、僕は空を見上げた。ちょうど月が雲に覆われたところだった。薄墨色の靄はゆっくりたなびいて、ほどなく月が現れる。冴えた光の中に浮かぶ見慣れた道は、しかしよく知らない場所のようだった。
「お兄さん」
くい、と袖を引かれる。お兄ちゃんのほうだった。悔しそうに顔をしかめている。その表情が昔の僕に重なって、知らず笑いが漏れた。
「なぁに」
「降参。答え教えてよ」
いいよ、と僕は指を立てた。
「答えは、1」
「ええ!?」
「どうしてっ?」
思ったより声が響いたのに驚いたのか、2人は口を押さえた。きょろきょろと周囲を見回しながら、ぐっと僕に詰め寄ってくる。わけがわからないと顔に書いてあるようだった。
しかし、彼らが期待するほどたいした理由でもないのである。それでも僕は、彼が告げた答えをそっくりそのまま口にした。
「1杯のご飯に1杯のカレーをかけたら、1杯のカレーライスができるからだよ」
ぽかんと2人が口を開けた。ぱちぱち、と瞬いて。
「えー……」
「なんかずるい!」
「そうかな」
「ずるいよ!」
兄の方が盛大に膨れた。その気持ちはわからないでもない。僕だって、彼がそう言ったときはブーイングを飛ばしたものだ。
しかし、ずるいもなにもない。引っかけ問題がずるいのは、考えるまでもなく当たり前である。
「おにいさんが、これ考えたの?」
弟くんがなにげなく言った。僕は首を振る。
「いや、人に教えてもらった」
「そうなの?」
「うん」
「じゃあ、おにいさんに教えた人がずるいんだね!」
「え」
晴れやかな台詞に、虚を突かれた。
ずるい? ああでも、そうかもしれない。
彼は、ずるい。
「ふはっ」
思わず吹き出していた。
「ずるい、かぁ」
「そうだよ、ずるいよ」
うんうんと弟くんが頷く。兄も横で「ずるい!」と言った。いよいよ笑いが止まらなくなる。
……きみ、親戚に「ずるい」って言われてるよ。
ここに彼がいたならば心外そうな顔をすることだろう。すっとぼけた顔で、おれのどこがずるいんだろうなと腕を組むだろう。
そう思ったらますます笑えた。笑いすぎて、涙すら出そうだった。
僕より2つ年上の彼は、1人っ子の僕にとって兄のような存在だった。
彼には同い年の友だちだっていたのだから、そっちと遊ぶほうが楽しかっただろうと今なら思う。けれど、彼はいつだって当たり前のように僕のところへ来てくれた。人見知りでなかなか友だちがいない僕を心配していたのかもしれない。だとしたら、少し申し訳ないと思う。
一緒に宿題をした。教科書の音読を聴き合った。夏祭りに行った。お菓子の最後のひとつを巡ってじゃんけんをした。
全部覚えている。家族と同じく、いやそれ以上に近しい存在だった。絶対に彼は僕を嫌わない。そして僕も彼を嫌いにならない。そんな確信があった。
いわば、互いに互いの心を半分預かっていたようなものだった。大袈裟な言い方にはなるが、彼という1人の人間が僕を僕たらしめていたのだ。
1+1は1。
その式に則るならば、なるほど彼はまさしく僕に加えられた「1」だったろう。
堤防を抜けた先に、足が砂利を踏む。
浜に着いた。
そこには、昼間のような青く冴えた色彩は見えない。海は遠く浜辺の向こう、夜闇にどっぷりつかるように横たわっている。1歩ごとに靴の下で砂利が鳴った。掌に収まるほどの石を踏みしめるたび、ぐっと足が沈み込む。まるで泥のなかを歩いているようだった。
目の前で赤提灯が鬼火のように揺れている。後ろで兄弟が靴に砂利が入ったと騒いでいる。遠くには読経が聞こえる。……僕の傍らに、彼はいない。
間歇してとどめく波の音に、身体全体が揺さぶられる。どれくらい下ったのか、前を行く人々が足を止めた。
せぇの、のかけ声で精霊さんが地面に下ろされる。随分、波打ち際に近いところまで来ていたようだった。
「ついたの?」
「ああ、着いたよ」
駆け寄ってきた兄弟に、僕は頷いた。
「いまからなにするの?」
精霊さんを海に流すんだよ。答えたところで僧が来た。
そうして始まった念誦の中、人々が線香を砂利に立て始める。ぽつりと灯された火がいやに鮮やかだった。
――いつか、この地の精霊流しは、補陀落渡海の系譜を継いでいると聞いたことがある。
古くには、海の南方には浄土があると信じられていた。そこで往生を願う人々は30日分の食料と水を積んだ船に乗せられ、沖へと流されたのである。想像するだに惨い話だ。乗った船の入り口は板で塞がれていたらしい。つまり密室のなか、行者は波に船が壊されるか、食糧が尽きて餓えるかを待つのみだったのだ。だからだろうか、江戸時代には遺骸を海へ流す形に変化したという。
この地域の精霊流しが他の地と異なるのは、この修行の名残があるためだ。このことを教えてくれたのもやっぱり彼だった気がする。思い出すことすべてが彼に結びついている。それがなんだかおかしい。
黒々と揺蕩う海には、既に点々と赤い光が列をなしていた。わりあい潮が激しいこの海へ精霊さんを流すにあたり、専門のダイバーが精霊さんを沖へ向かう潮に乗るよう誘導する。流れに任せてただ遠ざかっていくそれらが連なって、潮の道筋が赤く浮かび上がっていた。
足下で線香の煙が幾筋も燻っている。僧の経は終わっていた。とうとう精霊さんがダイバーの手に渡る。ざぶん。波に乗った。
「いよいよだ」
「そうだね」
寄る波に押し戻され。引く波に進み。ダイバーが数人がかりで精霊さんを支えて沖へ進めていく。それを僕は見つめた。彼の家族たちも黙っていた。兄弟2人さえも、僕の後ろに身を寄せ合ってじっとしている。
すん、と不意に鼻を鳴らす音がした。声を堪えるような息が聞こえた。波が砕ける音に混じって、幽かな声が鼓膜を揺さぶる。
……あ。
ついに精霊さんがダイバーたちの手から離れた。白木の輿はなにかに導かれるように水平線を目指していく。左右に揺れながら、進んでいく。
そこに。
彼が、見えた。
「……――」
漏れたのは吐息だった。唇が震える。呼ぼうとした名は、喉の奥で痞えて出てきてくれなかった。
彼が、いる。
間違えるわけがない。僕が、彼を見間違えるわけがない。
赤い提灯を持った彼が水面を蹴る。浜を、僕を振り返らずに水平線を目指していく。波の揺れにたたらを踏みながら、それすら楽しげに逍遙していた。
帰っていく。
刹那、引き留めたい気持ちに駆られた。このまま海に飛び込んで、彼の背に縋り付きたいと思った。いまのいままで感じなかった衝動が堰を切ったように溢れてくる。
でも、そんなことできるはずないのだ。駆け出そうとした足は絡め取られたように動かなかった。
僕は息を吸い込む。その息で横隔膜をぐっと押さえつけ、栓をするように唇を引き結んだ。涙は出なかった。彼が死んでからこのかた、一度も泣けたことがない。泣こうとする心は、きっと彼が持っていってしまった。彼に返してもらわなければ、僕は泣くことだって覚束ないだろう。僕をそんなふうにして逝ってしまうのだから、やっぱり彼はずるい。
遥か遠くの水平線を僕は見る。空と混じり合う、あの境界に浄土があるのだと直観した。死者の国、仏の国。そして彼の帰る場所で。
――いつか自分が死んだら、やはり精霊さんが立てられるだろう。
唐突に浮かんだその考えは、僕をひどく安堵させた。いつか、いつかは自分もそこに行くことになる。そう思ったら、見える景色に色が戻ったように感じた。
僕はそっと微笑んだ。さっきの衝動が嘘のように心が凪いでいた。
赤い軌跡を描きながら彼が遠ざかっていく。僕はその姿が水平線へ消えるときを、ただ待っていた。