同じ夜
窓の外は久しぶりの雨天だった。
窓に叩きつけられる雨音が胸の奥にある傷口を開くようで、真はひとり布団に包まれて体を丸めていた。
部屋の電気はつけておらず、カーテンのすき間から差し込む街灯の光が、フローリングの床に細い線を描いている。
「夏実……」
自分の声が暗い部屋に落ちる。返事はない。
夏実がいなくなってひと月が経とうとしている。
あの日もこんな雨の夜だった。あの日コンビニに買い物へ出た夏実は、この家に帰ってくることはなかった。
交通事故だった。飲酒運転をし信号無視で交差点に進入した車と衝突をした。制限速度より30キロを超えるスピードで走行していた車は、夏実とぶつかった後民家の塀に正面から衝突をして止まった。
夏実も運転手も即死だったという。
看護師がシーツをめくった時に見えた彼女の顔は、目を背けたくなるほどに損傷していた。しかし右目の下にある2つ並んだホクロは、間違いなく夏実だった。
濡れた髪に泥と固まった血が張りついている。
「夏実……っ」
喉の奥から絞り出した真の声は震えていた。耐えきれずにその場に崩れ込み声を上げて泣いた。
医師も看護師も悲痛な顔で視線を伏せていた。
夏実の葬儀は流れるように終わっていた。
彼女の両親は真を責めず、涙ながらに肩を力強く抱いた。友人たちも家族も慰めの言葉をかけてきたが、力なく返事をするのが精一杯だった。
今はまだ夏実と暮らしていたこの部屋で過ごしている。
2本並んだ色違いの歯ブラシも、ボーナスで買ったというお気に入りの服も、肌触りがお気に入りだというブランケットも、彼女の好きが詰まった自室もまだそのままにしてあった。
捨てる気にはなれなかった。1つでも手放してしまうとそこから全てこぼれ落ちて、何もかもが戻ってこないような気がした。
布団を深くかぶって息をつく。
最近は昼夜逆転の生活を送ることも多かった。このまま眠る気も起きず、ぼんやりと壁を見つめている時だった。
───カチャ。
玄関のドアが開く音が聞こえた。
「……え?」
聞き間違いかと思った。もしくはお隣さんが開けた音か。
鍵は確実に閉めたはず。誰かが連絡もなしにくるはずもない。そもそも合鍵は渡していない。
もしや強盗の類なのではないかと身構えた瞬間。
「ただいまー」
女の声がした。ドクリと心臓が強く脈打つのを感じる。
そんなはずがないという思いと、自分が間違えるはずもないという確信で体が凍りついた。
夏実の声だった。
廊下を歩く足音はゆっくりと、こちらに近づいてくる。足音は真っ直ぐにリビングの方へ向かうかと思ったが、真の部屋の前で止まった。
「マーくん、ゲーム中?」
ひと月だけだというのに、もう何年も会っていないと感じるほどに懐かしい声。
息が止まった。
「夜なのに蒸し暑いねー。アイスコーヒー入れるね」
真が何も言えないでいると、足音が離れていった。リビングへと向かったようだった。
真はゆっくりと足を床につけた。
きっとこれは夢だ。夏実に会いたいという思いが強すぎたせいで、幻聴でも聞いたんだろう。そう思いたかった。
真は立ち上がり、そっと部屋のドアを開けた。暗い廊下の向こう、リビングの扉は半開きになっている。
おそるおそるリビングを覗く。
そこには誰もいなかった。しかし何かの“気配”はする。耳を澄ませば、カウンターの向こうにあるキッチンから氷を探しているかのような冷凍庫を開閉する音がした。
「氷、作ってないの?」
それから不満げな声。右の頬を膨らませて拗ねる、彼女の姿が想像できてしまう。
「……ごめん」
気づけば、口から言葉が漏れていた。
「まあいいや。氷できるまで、映画でも観ようよ」
何者かの気配はリビングのソファーへと移動したようだった。
「マーくん見たいの選んで」
その声に誘導されるまま、リモコンを手に取った。そしてオススメで出てきた映画を再生した。
隣には誰もいないはずなのに、あの気配がソファに座っている。
画面の中のセリフに合わせるように、彼女が言いそうなことが、彼女の声で聞こえる。
「これ、前に一緒に観た。映画館だったけ」
「ここのシーン、マーくん好きだったよね」
「この女優さん……いまも好き……?」
彼女の声がするたび、笑顔を思い出すたび、胸の奥が痛んだ。じわりと視界が歪む。
「なんで泣いてるの? 変なマーくん」
彼女の気配がからかうように笑った。
映画が終わり時計が20時半を示す頃、彼女の気配が立ち上がった。
「コンビニにちょっとケーキ買ってきていい?」
突然の言葉に思わず顔を上げる。
「……え?」
心臓がドクリと音を立てた。
あの夜と、まったく同じセリフ。事故が起きたあの日と、寸分違わぬ会話。
「すぐ戻ってくるから」
真は突然のことで立ち上がることも声を出すことも叶わなかった。
ドアが閉まる音。
そして、それきり彼女の気配は戻ってこなかった。
✳
その日を境に、雨の夜にだけ彼女の気配が帰ってくるようになった。
「ただいまー」
「アイスコーヒー入れるね」
「氷、作ってないの?」
「まあいいや。映画でも観ようよ」
そして、
「コンビニにちょっとケーキ買ってきていい?」
そこまでが、いつも同じ。
最初は怖かった。でも何度も繰り返すうちに、少しずつ慣れてしまった。3度目くらいから、彼女の声に答えることが多くなった。
「ごめん、氷。また忘れてた」
「この映画まだ見てないよね?」
「行ってらっしゃい」
そうして玄関のドアが閉まり、そして、彼女は戻ってこない。
翌朝になると、何事もなかったように部屋は静まり返っている。けれど確かに「いた」という感覚と映画の再生履歴だけは、彼女の気配がいたことを物語っていた。
それでも良かった。どれだけ不可解で恐ろしいことが起こっていると分かっていても、まだ失いたくはなかった。
✳
5度目の雨夜だった。雨は強く窓ガラスに当たる音が鋭く耳を打っていた。
玄関が開く音がし、彼女の声がする。
「ただいまー」
慣れとは恐ろしいもので、彼女の気配がやってくることに対してもう驚かなくなっていた。
「映画見てたの?」
「うん。一緒に見よう」
「これまた見たかったんだよね」
彼女の気配が腰を下ろしてすぐ、真は立ち上がってキッチンに向かう。
「アイスコーヒーいれるね」
「えっ」
いつも訪れると飲みたがるため、今日は氷もコーヒーも用意していたのだが、予想に反して彼女の声は驚いたように上擦っていた。
「蒸し暑いし。……嫌だった?」
「違うの……ごめん、嬉しくて」
彼女の姿は見えない。しかし何かを言いたげにゆっくりと左右に揺れている。
キッチンからカウンター越しに見える気配は、映画と真を交互に見つめているような気がした。
「おまたせ」
「ありがとうマーくん」
彼女の声は嬉しさの中に、少しだけ寂しさを滲ませていた。
この夜も映画を見ていると、やがて彼女の声は言った。
「コンビニにちょっとケーキ買ってきていい?」
引き留めるべきだろうか。真は少し迷った。
この問いにどう返すべきかと考えている間に、口は自然と動いていた。
「うん……気をつけて」
彼女の気配が、安心したように笑ったような気がした。
朝日が昇っても彼女の気配は戻ってこなかった。ぬるくなったコーヒーがぽつりとテーブルに残されている。
真はソファーに腰を下ろしそれをじっと見つめた。
あれはものに触れることができないのだろうか。
思い返せばアイスコーヒーには口をつけなかったし、いつも映画を見るのに操作をしていたのは真だった。
しかし足音だってしたし、初めて彼女の気配が現れた時には氷を探すのに冷凍庫を開ける音はしていた。それにいつも彼女の気配は玄関を開けて入ってきていた。開閉をする音も聞こえていたはずだ。
そう、音。音だけで実際に開いているところは見ていない。冷凍庫も玄関も。
―――誰かが扉を開けていた?
真の中に、一つの疑問が生まれた。
✳
7度目の雨夜はあえて玄関の前に座り、彼女の気配を待つことにした。身体を丸めてじっと待っていた。
しかしいくら待てど、その日は彼女の気配がやってくることはなかった。
やがて雨音が小さくなった頃には、玄関上の小窓から朝の日差しが差し込んでいた。
彼女の気配はとうとう現れなかった。
―――本当に、あれは“夏実”なのか?
見て見ぬふりをしていた疑念が生まれた瞬間、背筋を冷たいものが伝った。
✳
8度目の雨夜。今日はやや風もあり風向きによっては雨が窓を叩いていた。
今日も彼女の気配はやってきていた。いつものように映画を見て、気配が立ちあがる20時半。
「コンビニにちょっと―――」
真は初めて、彼女の言葉を遮った。
「今日は俺が行くよ」
しん、とリビングが静まりかえった。
彼女の気配が動揺しているのか、陽炎のようにゆらゆらと揺れている。
「え……?」
信じられないような、怯えたような小さな声だった。
「俺が行く。夏実はショートケーキでいいんだよね?」
「……だめ」
彼女の声に焦りがにじんでいた。
「だめ、マーくん。私が行く。私が行くから……」
まるで必死に、何かを防ごうとしているようだった。真はそんな彼女の声を振り切るように玄関へ向かう。
「マーくん、出ないで!」
彼女の怒気をはらんだ叫びに、ドアノブを握る手が微かに震えた。
玄関の外から雨音がする。しつこく降り続ける雨は止む気配はない。
「……やめて。お願いだから」
「……大丈夫、すぐそこだよ」
真はそう呟くと、傘を手に玄関を開けた。
「お願い……戻ってきて」
「夏実」
真は初めてその気配に呼びかけた。
「いってきます」
玄関が閉まる。
彼女の声は、もう聞こえなかった。
雨の中、コンビニに向かって歩く。アスファルトにたまった水たまりに街の明かりが反射している。
歩きながらふとあの夜のことを思い出した。
「コンビニにちょっとケーキ買ってきていい?」
笑顔でそう言って、玄関に向かう夏実の後ろ姿。その背中に向かって自分はこう返したのだ。
「アイスコーヒーいれておくよ」
何気ない日常会話のやりとりで、あれが最後の会話になるなど微塵も思っていなかった。
真は足を止める。目の前の信号は赤だった。
「そっか……」
思わず声をもらした。
彼女の気配が必ずアイスコーヒーをいれたがる理由が、自分との最後の会話だったからだとようやく気づいた。
信号が青に変わり歩き出す。
交差点を渡る途中、不意に足を止めて顔を上げた。
黒髪の女性が傘をささず、濡れたままじっとこっちを見ている。その顔には見覚えがあった。
「……夏実?」
そう呟いた瞬間、彼女が顔を歪めた。
駆け出そうとしたその一瞬だった。
耳を裂くようなクラクションの音。振り返る暇もなく、ヘッドライトの明かりが視界を覆い尽くし網膜を焼く。
衝撃。
体が宙に浮いたと思った瞬間には、すでに地面に叩きつけられていた。アスファルトに広がった水たまりに、じわじわと赤黒い色が混ざり始める。通行人の悲鳴と叫び声が響いている。
冷たい雨が顔に降り注ぐ。体温が少しずつ下がっているのは雨のせいだけではないだろう。
ぼんやりとした視界に何かが見えた。
濡れた花束、首を傾げたうさぎのぬいぐるみ、誰かが置いた缶コーヒーやペットボトル飲料。
ああそうか。ここは彼女が亡くなった事故現場だった。
瞼が重くなってきた。ゆっくりと目を閉じる。
彼女の姿はもう見えない。
少しずつ雨の音が遠くなりはじめた。