第四章 (1)灯ともる
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ルーナの新しい暮らしがはじまります
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遠くから、誰かの話し声がかすかに聞こえてきた。
「まだお目覚めではないようです」
「そうか。起きたら、支度を整えて御前へ。いくら時間をかけてもよい、との仰せだから、ルーナ様を焦らすことのないよう」
会話が終わり、柔らかく扉が閉じる音。会話は夢かと思ったが、どうやら現実のようだった。
ゆっくりと、ルーナは目を開けた。
「……明るい……?」
まぶたの隙間から差し込む光は、いつかの雨とは違う穏やかなものだった。天井は見知らぬ造りで、寝具はふんわりと体を包み込んでいる。起き上がると、窓際にはレースのカーテン、足元には織りの細かなカーペット――見慣れた我が家とは、まるで違う場所だった。
まさか、自分は……。
「どこも痛いところはございませんか?」
優しい声に振り向くと、そこには黒衣の骸骨――けれど、不思議と怖さはなかった。どこか人のようで、どこか違う、そんな存在だった。
「どこも……痛み……はい」
ぼんやりとしたまま返事をして、身を起こす。腕や脚にかすかな痺れがあったが、動かすたび、それすらも薄れていくようだった。
「あの……ここは、どこなんですか……わたし、死んじゃったの?」
ぽつりと漏れた問いに、骸骨は静かに答えた。
「死んではおりません。ここは魔界、死神アドリアン様のお屋敷でございます」
魔界――その言葉に、胸が一瞬だけきゅっと締めつけられた。
「ルーナ様は魔女でいらっしゃる。我らが主のように魔力を扱う方。魔族や我らのような者が暮らすこの世界へ、あなた様は導かれたのです。元いた世界――人間界から」
「……わたしの名前、どうして……」
問いかけは宙に溶け、代わりにそっと手を差し伸べられる。促されるまま立ち上がると、思っていたより身体は軽かった。けれど、汚れと乾いた血の跡が肌にこびりついているのが分かる。
「薬湯をご用意しております。まずは、癒しのお時間を」
手を引かれて向かった部屋は、淡い光に満ちた浴室だった。鼻の奥をくすぐる薬草の匂いが懐かしさを呼び起こす。
「……この香り……フランと育てた薬草に、似てる……」
湯船にはいくつもの薬草袋が浮かび、静かに湯気を立てていた。裸になって肩まで浸かると、温もりがじんわりと全身に広がる。痺れ、痛み、重さ――あらゆる感覚が、湯の中で少しずつほぐれていく。
このまま、全部溶けてしまえたら。
心の奥にそんな言葉が浮かぶ。けれど、フランの笑顔を思い出すと、胸がちくりとした。
もう、戻れないんだ。
「お湯加減はいかがですか? できれば、髪まで浸していただけると効果的かと」
扉越しに聞こえる声に、小さく頷く。
「はい……」
髪も肌も、すっかりごわついていた。埃と血と涙で絡まり、まともに手入れもできなかった日々。けれど、薬湯に包まれながら指を通せば、徐々にきしみが消えていく。張りついていた汚れもふやけて、するりと肌から離れていった。
こんなに自分を、労わってもらったのはいつぶりだろう。
「痛みはございませんか? この湯は、小さな傷なら癒す力がございます。それに、心身の汚れも落としてくれますので」
ルーナは小さく「ありがとう」と呟いて、そばに置かれた桃色の石鹸に手を伸ばした。
泡立てた泡で髪を洗い、体をなでる。まるで、ひとつひとつ、傷の記憶を洗い流していくように。
湯から上がる頃には、肌も心も、ほんの少し軽くなっていた。
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星影くもみ☁️