第九話
周りの乗客たちはほかの車両へと逃げ出していた。
しかし戦いが終わったと同時にパニック状態だった車内はすぐにいつもの静寂に戻った。静寂の中でも
すすり泣く声はあまり目立たなかった。
「ごめんなさい…ごめんなさい…」
美琴は泣きながら鈿音の腰のあたりに抱きついていた。
「顔…を上げてちょうだい。」
こちらを向いた美琴の顔には血液の一痕も見当たらない。
鈿音の傷は問題なく塞がっている。
「私と戦ってください!一年分…いや全拘束時間
私が背負います。」
目の前で血に溢れた人間を見たのだ、冷静さがなくなるのも納得できる。しかし、鈿音やその他の7人は同じことを考えた。
『この子を無事に逃がそう。』
駅で待ち構えている奴らは危険であると確定している。傷つけられることはないにしても、裏路地で
人が巨大な洗濯バサミに挟まれたようにこちらを
拘束する手段があるのだろう。希望に満ちたこの子を捕まえさせてなるものか!
「これは決定なのだけれど、あなたを安全に渋谷駅から逃がすわ。」
「お前ら初対面でババ抜きやった相手の中なら
最高のメンバーだったぜ!うし、作戦練ろ〜」
「…投稿を見たけど、あんた役に立たないわね、
〈世の中の白色と黒色を入れ替える〉
何これダークモードってこと?」
「違えやい!アイコンがオセロの駒なのさ、この盤に乗ってる駒の白色が表のときにいつも通りの世界で黒色のときはさっき言ったとおりになる。」
「蜂さんは、問題ないわ。洗濯バサミくんも知ってる。へぇ…〈口腔のバリケードをつくる〉?」
「私は歯医者をやってるんです。自分の歯のレントゲン写真をアイコンにしています。この人と戦って、ぼくのバリケードがお歯黒になったときは驚きました。」
「蜂さんは戦えそうじゃない?」
「いや〜蜂と、あとNPCってわかっている人なら
迷いなく戦いますが、現実にいる人を傷つけるのは社会的に不安で仕方がないんです。」
「…とまぁこんなわけでよ、ここに集まってるんだ!全員相手を傷つけられなかったり、戦う根性ない奴ばかりでよ、そいつらがアンタ守るためなら頑張れるってよ。」
「僕も能力ここで明かすよ!」
「私も!」
「………」
「私まだ能力使ったことないのよねぇ。そこまでの領域に居ないわ。」
「おメェ裏切んなよ!」
「ここで裏切ってどうにかなる状況じゃないわよ。」
「私は!趣味にサーフィンを。アイコンはサーフボードです。
〈波に乗ることのできるサーフボード〉
これが私に与えられました。つまり、ただのサーフボードなんです。みなさんが助けてくださっても肝心の私がどう逃げるんですか。」
ボードゲーム君がちょっと俯いてすぐ美琴に向き直る。
「いいじゃないの!そのサーフボード出してみてくれ。」
美琴は自分のぷるウォの真ん中を大きく締めるアイコンをタップした。黒色のベースに緑色の炎と金色のガイコツがプリントされており、眼球が収まっていたところからは紫色のビームを出している。
8人がギョっとしたがボードゲーム君はそれに向かって自分の着ていた上着を脱ぎ仰ぎ始めた。
サーフボードは日常ではあり得ないほどに浮き上がってまたパタリと床に落ちる。
「風って'空気の波'なんだろ、世話になってる弟夫婦のガキが注文したサイエンスキットみたいな奴の冊子に乗ってたぜ。」
「今よ、走っている電車は結構強い風を起こしてると思うんだわ。ここはラッキーなことに一号車だ!渋谷駅構内にちょっとでも電車が入ったときによ、ドアをぶち破るなり飛び出せばあんたは結構な距離を飛んで行ける!」
「この中にドアを開けられるそうな人いますか?」
ババ抜きの最中もずっと表情を変えず黙っていた、
1番の強敵だった男が手を挙げた。鈿音はハッとした。
「あんた見たことあると思ったら
[開けてみたいでshow]で開かずの金庫を開けてる 、
水音 素良 {みずおと そら}じゃない!」
「武器と能力は
〈閉じてるものなら開けられるピッキングツール〉だ。」
「あんたいつも金庫開けてるときはめちゃくちゃ独り言が激しくて『この人元気ね。』って思っていたのに、プライベートそんな感じなんだ。」
「………」
「私が彼女とともにドアを抜けます。口腔バリケードで後ろを守るんです。」
「よっしゃ、よっしゃ、決まったべな」
そして、何の問題もなく運行している電車はすぐに渋谷駅に着こうとしていた。ピッキング道具は電車のドアをバターのようにスルリと滑り込んで行く。
「ちょっとねじればこのドアがすぐに開く。」
「このご恩は決して忘れません。そして皆さん本当に申し訳ありませんでした。」
「別れるときは違うだろ?」
「皆さんとやったトランプ楽しかった!」
直後に見えたのは、飛んでいるでっかい口というはたから見たら妖怪にしか見えない不気味な光景だったが、7人は大喜びでしばらく眺めた。
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「どこか人のいない屋上に行きましょう。
そこからビル風を利用してすぐに飛んでいってください。私はしばらく口腔バリケードを展開して囮になります。」
「はい。私はまた、皆さんを助けにきっと戻りますから。」
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鈿音はふと自分と同じ香りを感じとりボードゲーム君に突拍子もなく答え合わせする。
「あんた、大分無理してるでしょ。」
「お前もな、おんなじ感じがするぜ。
ところでよ、俺たちのことを全然考えてなかった。」
渋谷で開いた電車のドアから、第九とともにたくさんの楽器が流れこんできた。
ボードゲーム君はティンパニーに頭から突っ込んでそのままドアの隙間に固定されてしまった。
マウリシオ・カーゲル!