第十五話
鈿音は駅の大通りに沿って、1番近いであろう小学校に走っていた。私立で、なろう主人公くらいに充実した人生を送る少年少女たちが通う学び舎だ。
火傷にヒリつく背中をさすりマンホール騒動で渋滞を起こしている車を縫いながら進んでいく。日光の反射で動く気配すら見せない車のフロントガラスに鈿音を追う茶色い液体が映っていた。
カフェ店員自体の姿は見えないが、コーヒーは綺麗な筋を描いてこちらに迫る。
(コーヒーがかかって足止めされたらマズイわね。)
鈿音は車にコーヒーがつくようにバリケードにしつつジグザグと移動した。
学校に着き、素良が持っているピッキング道具で校門を開け速やかに入る。校門を締めている南京錠を来た時のようにカチリとはめ直し、そのまま音楽室へ走った。
12時をまわり、4時限目の授業も終わった後のようで、生徒の移動する列を見送る。
急に後ろから声をかけられる。音楽教室のようだ。
「来賓の方ですか?保護者の方ですか?原則として、首から来賓証をかけて頂くことになっております。」
「私は、その……」
校内放送がかかる。
『ピンポンパーン ええ、ただ今より給食の時間でしたが、校内に侵入した何者かが教室に配膳予定のカレーをすべてひっくり返す事態が発生しました。生徒及び担任の先生方は、事件の収拾がつくまで教室にて待機をお願いします。他の教職員の方々は不審者対策のマニュアルに則った行動をお願い致します。なお、侵入した者の格好は茶色いエプロンに髪を後ろで束ね、身長は165cm程度痩せ型です。』
「あなた!では…ありませんね。緊急ですので失礼します。入館証を忘れずに首に掛けてくださいね。」
「はい。」
鈿音は焦って鍵盤ハーモニカを出来るだけたくさん抱え込んだ。
(カフェ店員に居場所がバレてる?)
わざわざカレーを狙ったのも、角砂糖を溶かし込み操るためと考えると納得がいく。
(学校の中のどこにいるかはバレてないはずよ。このまま音楽室で待機よ。)
パリーンという音と共にさすまたを持った教職員が、カレーまみれの状態で校庭に放り出させるのが見えた。校内放送が入り、鈿音は今度は体がビクついた。
『このフロアも征圧したわ。教室で不審者騒ぎが起こっていないということは、特別な教室のどこかにいるということね。追い詰めたわよ。』
鈿音はケースから鍵盤ハーモニカを出す作業を急いだ。もうすぐに迫ってきている。
音楽室のドアが開いたときに一斉に鍵盤ハーモニカの鍵盤が飛んでくるような配置にセットして、いつでも発射できるようにとジリジリと待つ。
鈿音がドアの方に集中していると、音楽室の窓ガラスがミシミシとひび割れる音が聞こえた。
振り返った瞬間にカレーがものすごい勢いで流れ込んでくる。
「捕まえたわ。」
カフェ店員がカレーをつたって壁を歩いて音楽室の窓から入ってくる。
鈿音は、鍵盤ハーモニカに手を伸ばしたがすぐにカレーに腕を抑えられた。買ったばかりの高級コートは、もはやコーヒーとカレーという汚れの王と女王が邂逅していた。
鈿音は口をあまり開けないようにしながら質問する。
「どうして私がこの小学校にいるってわかったの?」
「これよ。」
カフェ店員がスマートフォンを取り出す。
「浮かぶコーヒーに追いかけられる様は日常茶飯事ってわけじゃないでしょう?SNSで渋谷にハッシュタグをつけるとここら辺で起こっている事件や珍事が取り上げられているのよ。あなたは知らない人たちに撮影されて、追っかけられていたわけ。私はそれを辿ってここに来れたの。」
「ちゃんとSNSについて学んでおくべきだったわ。」
「ふふ♪このままあなたもこの窓から放り投げてあげる。」
鈿音は、腕を抑えつけてていたカレーが緩まるのを感じた。
「このままずっと私を拘束しておくべきだったわね。」
鈿音は自分のぷるウォのアイコンをタップする。
カフェ店員の横にある音楽室のピアノから鍵盤が発射される。
「キャアーー!」
カレーが体から離れて、鍵盤ハーモニカが破ったドアから素早く逃げる。
鈿音は考える。
(マンホールから下水に落とした角砂糖については、このまま渋谷全体の下水を操るチャンスのはずなのにそれをしないということは、操るのに条件がいるはずよ。例えば濃度とか。)
鈿音はこの小学校に侵入した際、使えそうな施設がないか探していた。今、パズルのピースがはまる。
鈿音はどんどんと下の階に向かう。気づけば、まだ尻の青い子供が山のように群がってきていた。
「僕たちの給食は?」
「食べさせてあげるから、ありったけの鍵盤ハーモニカを音楽室からプールに運びなさい!」
プールに着くと鈿音はその中に迷うことなく飛び込み、今度こそ一つしかない入り口に向かって鍵盤ハーモニカを構えた。
カフェ店員が追いついて、嬉しそうに声をかける。
「あら、ここプールなんてあったの♪」
「あなたのカレーも、このプールの水量で薄まれば操れなくなるはずよ。」
鈿音は、鍵盤ミサイルを放つがカレーの粘度のあるガードを貫けなかった。
「いいえ。今度こそ私の勝ちよ。あなたの能力についても大体わかったしね。濃度に着目したのは褒めてあげる。でも、ここは学校よ。給食室に、そして災害時の嗜好品として、角砂糖が大量にあるの。」
「私は一度見た角砂糖はすべて操れるわ。昨日と今日見た全ての角砂糖をここに集めるわよ。」
あっという間に集まってその身をプールに沈める角砂糖。鈿音は角砂糖がつくる水の波紋をただ眺めることしか出来なかった。
ものすごい力で全身を包まれ、一気に景色が高くなる。
「降ろしなさい!やめて!」
「そうよ、窒息なんかよりももっとすごいケガをしてもらうわ。このままちょっと水を動かせば、あなたは空のプールに全身を叩きつけられるわ。」
鈿音は鼻のギリギリまで浸かった状態のまま固まった。そのとき、さっき声をかけてきた小学生が入ってきた。チャンスだと思ったが、鈿音が小学生の手を見るとそこに掴まれていたのは重曹だった。
「どんどん空のプールに重曹をいれてね〜」
白衣の男が小学生を誘導している。
カフェ店員は自分の周りを分厚くプールの水に囲んでいたために気づいていない様子だ。
みるみるうちに重曹のプールが出来上がった。
「先生方!アレも持ってきてくださいましたか?」
「ええ!あの不審者を倒しましょう!」
見ると非常用に使われるであろう給水用ホースだ。
白衣の男は、プールの水にホースと自身の体をつっこみすぐに出たかと思うと、ホースの片方の口を重曹のプールに置いた。重曹のプールに少しの水が入ると、鈿音の口がプールの水から解放された。
どんどんとプールの水が重曹のプールに流れていく。
「みんな〜これがサイフォンの原理だよ。じゃあこのプールから出よう!急いで!」
小学生や白衣の男が完全に撤収したあと、カフェ店員はようやくプールの水が減っている事実に気づいた。
鈿音は横にあるプールが不気味に泡立つ様を目にし、カフェ店員がプールに戻っていく水を確認しに駆け寄るのを見た。
「どうなっているのよ!これが原因ね水から切り離してやるわ。」
カフェ店員が悪戦苦闘してようやく動こうとしたとき、そのまま倒れた。
突然プールの水が元の物理法則に従い始め、鈿音は空中に放り投げ出された。
「キャーー!『終了』しますぅ!」
もう少しでプールに叩きつけられる前に『終了』判定になり、鈿音は無傷で着地する。
「急にどうしたのよ?」
直後、プールの天窓が開き白衣の男が入ってくる。「二酸化炭素ですよ。プールの水温調整機で高温になった重曹水は二酸化炭素を発生させるんです。二酸化炭素は空気より重いので下に溜まります。下にいたこの不審者は、あなたよりも二酸化炭素まみれですえたもんじゃない空気に包まれていたんです。」
「これ、砂糖水ですよね?うちの学校の角砂糖や外から入ってきた角砂糖がどんどんプールに向かっていくのを見ました。生徒たちに給食を食べさせましょう。」
白衣の男はぷるウォに触れた。プールの水が緑色の炎に包まれた。
鈿音は身構えたが、いい匂いがプールのほうからしたので振り向くと、そこにはプールいっぱいのカルメ焼きが出来上がっていた。
小学生が駆け寄り、喜んでカレーを食べるはずのスプーンでカルメ焼きを取り食べる。
鈿音は、その幸せそうな顔をよそに白衣の男に対して警戒していた。
気づいたように白衣の男が話す。
「私の持ってるぷるウォなら、あなたに渡しますよ。私は脱出を目的としていないんです。」
白衣の男は、プールサイドにぷるウォを置いた。
鈿音はそのぷるウォを素早く手に取ってひどく汚れたコートの内ポケットに突っ込んだ。
「一応ね。助かったわ。ありがとう。」
「いやいやぁ。」
「ところで、純粋な疑問なんだけど、プールの水でカルメ焼き作っているのなら、塩素とかそういうのは大丈夫なの」
白衣の男はキョトンとしている。
「え?」
鈿音もキョトンとした。
「……え?」