5 美しき婚約者は本性を晒す
ゆっくりとした靴音がやけに響く。波が割れるようにして現れたのはボレネ王国第二王子であるスピロスだった。厳しい顔でヘルミナの元へとやってくる。
「あ、あらお兄様。わたくしがこのような目に遭っているのに遅すぎますわ。この者はボレネの王女であるわたくしに不敬を働いたのですっ。どういった処罰がよろしいかしら。家の取り潰しくらいでは甘いと思いますの。ああ、彼はわたくしにいただけるかしら? 観賞用にでもそばに置いて────」
────バシンッッ!
小さく、そして大きな音が響いた。皆が動きを止め静まり返ったホールに沈黙がこだまする。
「なっ──」
「もうその口を開くな」
「なっ、なっ……。何よ何よ何よっ‼︎ よくもわたくしを叩いたわねっ!」
「開くなと言っているっ」
「許さないわっ! お父様に言ってお前など追い出してやるわっ! わたくしは正妃の王女よ! たかが側室生まれのお前などわたくしに逆らえると思っているのかしらっ!」
顔を真っ赤にして喚きながら扇で兄の胸を何度も打ち付ける。
今までこの兄王子が注意しても懲りなかったのは、側室生まれの兄を下に見ていたからだろう。だがこのスピロス第二王子の王位継承権は王太子に次いでの第二位だ。正妃の子であろうと順位としてヘルミナは下にあたる。
「……なぜお前はいつまでそうなんだ。もっと周りを見ろっ。お前に向けられている視線がどんなものかをっ」
「黙れっ! 黙れっ! わたくしは王女よ! 皆が跪いて当然ですわっ!」
「────そうか」
スピロスの瞳は怒りというよりも何かを諦めたような色に変わっていく。
「もうお前を庇いきれない。帰国したら塔へ幽閉になるだろう」
「──なっ」
「もとよりそのつもりで話が進んでいた。だが、陛下の温情で一緒に連れて来たのだ。もっと世界を見ればお前のその凝り固まった偏見や王族としての責任とは何か、そういったものを改めさせる機会になるのではないかと。……裏目に出てしまったがな」
「な、にを……」
「私は何度もお前に忠告したはずだ。だが、結局お前は私が側室腹ということで聞く耳ももたない」
「当たり前よっ。わたくしこそが唯一正妃の、お母様の子どもなのっ! 幽閉ですって? お母様が黙ってないわよっ!」
「……正妃様は何もできないさ。なぜならお前と一緒に幽閉が決まってるからな」
「──────っ」
突き付けられた言葉にヘルミナは目を見開いた。理解が追いつかずポカンと開いた口を扇で隠すことさえ忘れている。
「国の事情をこのような場で言いふらすことは恥であるのに、どうやらスピロス殿の腹は決まったようだ」
イリアスたちのそばに近寄ってそう言ってきたのは王太子であるレオニダスだ。横にはアグレイアもいる。
「ふっ、ここまでくれば自国の損害を最小限に抑えるため、とことんあの王女を悪者にした方が体裁はいいからな」
「悪者? そのまんまじゃねえか」
イリアスはつまらなそうに言う。あの王女が引き起こした数々の迷惑行為で彼女の人となりは知れ渡った。今更だ。だが国の面目を保つためにあえて「犠牲」になってもらうことにしたようだ。
「ど、どういうことよっ! なぜお母様がっ!」
「理由はお前と同じだ。王族としての資質がないと判断されただけのこと」
「嘘よっ‼︎」
「帰ればわかるはずだ。すでに正妃様は王宮にはいない。いや、もう正妃ではないな。廃妃にされてるだろうからな。そしてお前も王族籍を剥奪される」
「なっ……。そんなっ! お、お母様の実家であるネイロン国が許すわけないわっ!」
「そのネイロンも了承済みだ」
ヘルミナの母である正妃アリドナはネイロン王国の王女だ。小さな島国国家であるボレネに無理やり押し付けた婚姻であった。すでにボレネには国内から嫁いでいた王妃に二人の王子が誕生していたが、一国の王女との婚姻ということで王妃は側妃となることを余儀なくされた。国内の反発も大きかったが、ネイロンは海を挟んで隣の大国。また流通面においても依存している品物も多い。国王として苦渋の判断であったが受け入れることとなった。
「そもそもネイロンにも負い目があったんだ。正妃様──アリドナ様はネイロン内でも悪評はすごかった。その権力で罪のない人々の命まで奪ったこともあるそうだ。幽閉寸前までいったが、当時は国王の子はアリドナ様とその姉君にあたる現女王陛下のルディード様のみ。もしもの時のためにその血を残すためとして他国へ嫁がせることにした。だがそんな王女などどの国も受け入れてくれるはずもなく。唯一強気に出られるボレネに頭を下げてきた。それが真相だ」
「そ、そんなの嘘よっ! お母様は言ってたわ! お父様がどうしてもとお母様を望んだからって! 格下であるボレネが汚い手を使って騙したんだって!」
幼い頃から母よりそう聞いて育っているヘルミナには到底信じられないことだった。だが、そんな環境であっても冷静に周りを見ていれば自ずと見えてくるものがあったはずだ。見たいものだけ見て、聞こえのいいことだけを聞いていたからこそ真実など知る由もない。
「最初はアリドナ様とお前をネイロンへ返すつもりだったが女王陛下自身が拒んだ。アリドナ様が残した痕は大きく、王家に対する信頼がやっと回復してきたばかりだ。女王陛下には三人の王子と二人の王女がいる。わざわざアリドナ様の血を残す必要もなくなったことで、こちらで好きにしていいと返事をもらった」
「う、嘘よ」
「まだ幼いお前はせめて更生できるかもしれないと考えた陛下のお気持ちを! それを無下にしたのはお前自身だ!」
「黙れっ! 黙れっ! お前なんてっ!」
叫びながら手にもった扇で再びスピロスの胸を叩き出す。その顔は醜悪に歪んでいる。
「────おいおい、不敬じゃねえのか?」
呆れるように言ったのはここにきてようやくヘルミナを振り返ったイリアスだ。
「アンタはもう王女じゃねえんだろ? だったら王子に対するその態度はアンタお得意の『不敬』にあたるもんだろ」
「──なっ」
「ククッ、ざまぁねえな。傅いて足元に口付け、だったか? それで許しを乞うたらどうだ?」
面白おかしく言うイリアスの目は蔑みをもっていた。王女であったヘルミナにとって正面からそのような目を向けられたことなどない。あってはならなかった。
ギリギリと歯を鳴らし怒りで震えが止まらない。
「ああ、そういや家を潰すとかふざけたこと言ってたな。おーおー、やれるもんならやってみろ、平民風情が」
イリアスは心底馬鹿にしたように嘲笑を貼り付けているが、普段は貴公子然としている彼が放つ言葉の悪さに周囲は唖然としていた。エレアナはそんな彼の腕を小さく引っ張って止めようとするが、イリアスはちらりと意味ありげに彼女に目線を送ると今まで以上に意地悪げにニヤリと笑った。
「あー、そういや、エレアナの男爵家がどうたら言ってたな。金で婚約? この俺が金で動かせるとでも思ってるのか? そして何だ? 俺が可哀想だったか? 馬鹿言うなよ。どう見たって可哀想なのはエレアナだろ。こんな俺に執着されてな。なんせ俺は独占欲の塊なんでね、コイツを監禁して俺だけしか目に入れさせないように閉じ込めたいくらいだ。やっと正式に婚約まで漕ぎ着けたってのに、勘違い馬鹿女どもが多くてうんざりしてたんだ。これから先、コイツに何か一言でも言ってみろ。それこそ全力で家ごとぶっ潰すからなっ」
エレアナの肩を抱いて、ヘルミナを含めてその後ろにいる女生徒らを冷たく見据える。ヒッとどこかで声が聞こえた。
「あらあら、独占欲の塊という自覚はあったのですね。まあ、見ていればわかりますとも」
優雅に一歩出てきたのはアグレイアだ。金と赤の鮮やかな模様が刻まれた扇で口元を隠しながらヘルミナとその集団を一瞥する。
「それにしても、ほとほと世間知らずの方が多くて呆れてしまいますわ。エレアナ様のリーリエ男爵といえば先の災害でこの国を救って下さった功労者ですのに。まさか、リーリエ男爵がこの国のオルベンスコーポレーションの総代であることを知らないのかしら? 皆様がご贔屓にされているお店などもその関連商会であるはずなのに無知とは怖いですわね。そうそう、あの『シシリー』はエレアナ様名義だとご存知? ふふ、お優しいエレアナ様ですから無礼を働いた方々でも出入り禁止とはされないでしょう。ですが……」
アグレイアは一旦言葉を切ると周囲を見て、そしてヘルミナらを強く睨め付けた。
「たった数人の礼儀知らずのためにこの国から撤退でもされたら、わたくしをはじめ多くの貴族が黙っていないわ。男爵が下位などとどの口がおっしゃってるのかしら? ねえ?」
エレアナにしつこく食ってかかってきた女生徒たちは青ざめる。下位だからとエレアナを下に見ていたはずが、ことはそれだけではなくなったことを今更気付き始めていた。自分たちの実家も少なくともさまざまな商会に世話になっている。その多くがオルベンスコーポレーションと繋がってくる。それを断たれたらどうなるのか。
「あらあら、お顔色が悪いですわよ。ついでにこれもご存じかしら? オルベンスコーポレーションの会長はグランディス帝国の王弟殿下ですわ。そうエレアナ様のご祖父様ですわね。その令嬢がお母様ですから、エレアナ様は帝国の王位継承権もありますのよ? もとよりこの国では侯爵位というお話でしたのにやっと男爵ということで受け入れていただいた経緯がありますのよ。ねえ、レオニダス殿下」
「ああ、その通りだ。成金だの言ってる連中は所詮その程度の者ということだ。リーリエ男爵、そしてエレアナ嬢に対して礼を欠いた者は私もしっかりと名を覚えておこう」
王太子であるレオニダスが出てきたことにより女生徒たちは震え出す。王族、しかも王太子なんて雲の上の存在にそう言われればこの先に待っているものは明るいものではなくなる。
「グランディス帝国は大国だ。そこからの流通を制限でもされれば世界は大混乱となる。我が国を始め多くの国に大損害を与え、一気に困窮へと向かうだろう。もちろん、ボレネ王国も同じだろう」
「ああ、我がボレネは島国だ。ただでさえ隣国に頼っているのにその隣国の流通が帝国によって断たれれば一瞬で滅んでしまう。そういうことだ、ヘルミナ。お前が当たり前のように口に入れるもの、着ているもの、それ以外の多くの品々が消えることになる。その批判は問題を起こした王家へ向けられ、当事者であるお前の首を差し出すことにもなりかねないな。もちろん、その覚悟でいるんだろう?」
スピロスの言葉にとうとうヘルミナはその場に座り込んだ。「く、首……? 嘘よ、嘘……」と茫然自失で呟く。
他の令嬢らも自分たちの犯した行動が招く現実に色をなくして立ち尽くしている。
「ヘルミナを下がらせろ」
その声に近くで控えていたボレネの従者らがすぐさま動く。
力をなくしたヘルミナは両腕を抱えられながら黙って連れて行かれた。居た堪れなくなった令嬢や女生徒も逃げるようにホールから立ち去った。
戸惑う人々はしばらく黙ったまま周囲の動向を窺っていたが、スピロスが声を上げると一斉に彼を見た。
「諸君、大変お騒がせして申し訳ない。このような祝いの場であるにもかかわらず、ボレネ王国王女ヘルミナが犯した無礼な振る舞いの数々をここに謝罪する。どうか、今一度気を取り直し、この場を卒業生を祝うものとして楽しんでほしい。では失礼する」
そしてスピロスも一礼してホールを去っていった。
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