4 美しき婚約者は我慢する
三ヶ月後。
問題の王女が国に帰る一週間前となった。
学園ではとうとう卒業式が行われ、夕刻から卒業パーティーが開かれる。これを終えて、これからは大人として社交界へと新たな一歩を踏み出すのだ。
問題視された王女は視察という名目でこのロクトール王国を巡ることが兄の命で決まり、学園はもとより実質王都から遠ざけられた。
卒業までの三ヶ月をゆっくり過ごせたことは二人には、いや、多くの者にとってもありがたいことだった。
午後、多くの学生が夕刻の卒業パーティーへの準備に時間を取られていた。エレアナも着々と侍女の手によって仕上がっていく。そんな中、イリアスは満足そうに目を細めながらそれを見ていた。
黄昏から小夜へと色づくような紫と紫苑色で模られたライラックの花柄をベースに、きめ細やかな黒と金のレースが重ねられたドレスは全体的にみればシックな装いではあるが、目立たずひっそりと散りばめられた真珠とダイヤが光によって星空の如く煌めく。
大胆に肩を出しているが、デコルテには金を基調とした細かい模様のネックレスが広がっており妖艶さを抑えている。
紫のクリスタルアンクルチェーンのついたハイヒールがカツンと響くたびに、耳元で揺れているのはネックレスとお揃いのイヤリング。
ブラウンの髪は黒のリボンで緩く纏められているシンプルな装いだが、不思議なほどドレスに負けていない。
化粧は薄いが、普段はしないアイメイクといつもより濃いめの艶のある口紅がエレアナを彩っていた。
それを満足そうにイリアスは黙って見つめていた。
「……もう、いつまで見てるの?」
「いや? やはり俺の色が一番似合うのはお前だなと思ってな」
イリアスは黒のフロックコートと黒のズボン。白いシャツに濃いグレイのベストを着込んだ本当にシンプルなものだ。ベージュに金の刺繍の入ったアスコットタイにはエレアナの瞳の色であるエメラルドのピンが光っている。
そしてサラサラの黒髪は後ろへ流れるようにセットされており、普段よりも美しい顔を覗かせて一段と色気が増していた。
馬車に乗り込んでもイリアスはまだエレアナを見ていた。気付かない振りをしばらくしていたが堪らず口を開く。
「……あまり見ないで」
「いい女には目がいくもんだろ?」
「ぷっ、なにそれ。どこぞの遊び人みたいなセリフ」
「うっせーな。────しかし、アレだな」
「なに?」
「こうまで上等になったら他の男に見せるのがもったいねぇな。くそ、失敗したっ」
腕を組んで一気に臍を曲げたかのように眉間を寄せる。
「なんで気付かなかったんだっ! お前のいい女ぶりを知らしめることになるとはっ。くっそ、せめてその化粧落とせっ」
「もう、何言ってるのよ」
「じゃあ、そのストールを頭から被れば」
「あのね」
ぶつぶつと組んだ腕の指を弾きながら考え込んでいるイリアスに呆れながらもエレアナは穏やかに笑う。こういうところは昔から変わらない。確かにイリアスは綺麗で美しいが、エレアナにとってそれは彼の良さの一つでしかない。
見た目からは想像できないほど子どもっぽい駄々をこねたり、負けると地団駄を踏んだり、食事のマナーが嫌いだったり、本気で怒らせると烈火の如く激しかったり。つまりは実直というほど真面目ではないが本当に素直なのだ。素直で可愛らしい。それがエレアナから見たイリアスという人間だ。そして荒っぽくはあるが大きな愛情でもって包んでくれる愛しい人。
「ねえ、イリアス。あなたが言ったのよ? このドレスはあなたの色で一番似合ってるのは私だって。今日くらいはそんな私を自慢して?」
「…………お前、わざとか?」
「え?」
「お前、いつの間にこんなあざとさを身につけたんだっ」
「もう、また変なこと言って」
馬車の中でどうも噛み合わない二人の攻防は学園に着くまで続いた。
卒業パーティーは王宮のホールで開催される。
初めて王宮に足を踏み入れるだろう一年生は、その煌びやかなホールの巨大なシャンデリアや色を添えて並ぶバラ窓のステンドグラスなど様々なものに圧倒される。緊張感と高揚とが混ざり合っているが、何よりも初めてここまで着飾って参加する夜会に期待を隠しきれずに誰もが顔を輝かせていた。
そして、降り立った二人はホールまでの長い廊下をゆっくりと歩いていた。
ただでさえ目立つイリアス。しかしながら今日のエレアナはその隣に立ってもまったく引けを取らない。
もともとエレアナ自身はかなり見目のいい方なのだ。ただイリアスという規格外がいるためにどうしても彼にだけ目がいってしまうだけのこと。
誰もが目を見開き、知らず足を止め、ただ言葉をなくした。
幼い頃に読んだ絵本の中の登場人物が目の前に現れたか、または己自身が迷い込んだのか。物語のラストシーンのように優雅に歩く姿に息さえ奪われた。
ホールに入ってからも二人から放たれる見えない光は多くの参加者の戸惑いと感嘆をもたらした。
「エレアナ!」
声をかけてきたのはアグレイアだ。隣には婚約者であるこの国の王太子レオニダスが付き添っている。二人して恭しく頭を下げようとして手で制止された。
「今宵の私はあくまで彼女の婚約者という立場だ。どうか気兼ねなく接してほしい」
後ろに結んだ緩やかな金髪を靡かせて上品な笑みを浮かべた。醸し出す雰囲気はまさに王族たらしめるものであり、正統派な美丈夫といえる。彼はイリアスたちより二才年上で学園では一年間だけ重なっていた。
「それにしても素敵なドレスね。まあちょっと独占欲が強いけど」
アグレイアはイリアスに呆れた眼差しを送る。
「ふん、なんとでも言え」
「本当に口が悪いわね。世の令嬢がこの本性を知ったら一気に恋も冷めるわね」
「はは、違いないな」
レオニダスもアグレイアの言葉に笑って答える。イリアスたちはこの二人とはもう長い付き合いだ。表向きは丁重な態度を崩さないが、プライベートではレオニダスの前であっても彼の態度や口の悪さは相変わらずだ。
「ねえ、それより」
アグレイアが扇を広げて小声で伝えてきた。
「あの王女も参加するらしいわ」
彼女は心底迷惑そうな顔でレオニダスを半分睨んだ。
「……すまないな。短期とはいえ学園に通っていたんだ。卒業生ではないがもうすぐ帰国するということで、まあ、国の体裁として最後くらいはな」
盛大な送別セレモニーはできないものの、せめてこのくらいのことはと判断されたようだ。どんな問題を起こそうとも仮にも王族なのだ。仕方のないことかもしれない。
「王女の兄王子であるスピロス殿も参加してもらっている。最後くらい大人しくしてくれればいいんだがな」
そんな王太子の心配は一通りダンスを終えて、それぞれ歓談を始めたときに起こった。
「まあ! まあ! なんて素敵なのっ!」
ヘルミナは数人の令嬢を侍らせてイリアスの元へ小走りでやってきた。あのエレアナに食ってかかって来た学園の女生徒も懲りずに後ろにいるのだから学習能力のなさはもちろんだが、ある意味根性だけは褒めたいくらいだ。
ヘルミナは近くまで来ると頬を染めてうっとりとその顔を見つめてくる。今まで遠目で何度か見かけただけでまったく接触できなかった彼女だったが、こうしてすぐの距離で見上げたその美貌に釘付けになってしまっている。
ちなみにエレアナもしっかりと隣にいるのだが眼中にないようだ。
「ああ、本当に綺麗なお顔だわ」
イリアスは舌打ちしたが相手にする気もないようでヘルミナの顔さえ見ていない。
「ずっとお会いしたかったわ! 何度もお声がけしたのに。わたくしとても寂しかったですわ。ああ、本当に素敵……。この国であなたに出会うことがわたくしの運命でしたのね。はぁ、ねえ、もっとお顔を見せてちょうだい」
上気した顔に恍惚とした眼差しを乗せてただただイリアスを見つめている。
だがヘルミナがエレアナをいないものとしているように、彼もヘルミナをいないものとしているばかりか、ここぞという感じでそっとエレアナの髪を手に取って弄んだ。
「そうですわ! 今からわたくしと一緒に来てくださらない? いろいろお話ししたいことがありますの!」
ふふふ、と嬉しそうに笑うさまは可憐だが勝手に一人で盛り上がっているのは明らかで、周囲の者は最初こそ驚いたものの、しだいにまたかと呆れるような視線へと変わっていく。
「さあ、こちらにいらして? あなたのことをもっと教えてちょうだい」
ヘルミナの手がイリアスの腕をせがむように掴んだ。
瞬間まるで「ブチッ」と何かが切れるような音がしそうなほど綺麗な顔が不愉快に歪むが、一瞬で無表情を貼り付ける。
「……離してくれませんか?」
「もう本当に意地悪な方ですわ。あまり焦らさないでくださいませ」
くすくすと無邪気に笑うヘルミナだが、周囲は少しずつ輪を広げるように離れていく。
「失礼ですがどちら様でしょうか?」
「え?」
「以前どこかでお会いしましたか?」
「イリアス様?」
「俺の名前を知ってるようですが、ふむ、思い出せません」
イリアスはさりげなくその手を退けるように腕を組んで考える素振りをした。もちろん一向にヘルミナの方を見ていない。
「……わ、わたくしを知らないのですか?」
「ええ、まったく」
即答だ。
屈辱的なその言葉にヘルミナの頭はしばし思考を止めた。
「申し訳ないのですが、お名前を伺っても?」
「わ、わたくしは、ボレネ王国の王女ヘルミナですわっ!」
「それは失礼しました。ですが、王女殿下とは一度も会った記憶がございませんが。誰かとお間違いではないですか?」
「あ、あなたはイリアス様でしょう? どうして間違う必要がありますの?」
「いえね、まさか全然知りもしない人間からさも親しげに近づかれたら普通はそう思いますよ」
「なっ、何を言ってますの。わたくしを知らないの? そんなことあり得ないですわ」
「いやいや、さすがにそれは無理がありますね。あまり人前でそういう発言はお勧めしませんよ。自意識過剰すぎて呆れられますから」
「──────っ」
いつもの愛らしさを強調するかのような笑みは一瞬で消え、面恥をかかされた格好のヘルミナは肩をふるふると震わせる。
「ふ、不敬だわ! わたくしは王女なのよ! わたくしが声をかけているのにその態度が許されるとお思いなのっ⁉︎」
「あ? だからそれが自意識過剰ってんだよ、馬鹿じゃね?」
「………………」
ヘルミナ、その後ろに控えている令嬢たち、周囲にいた学生たち。
時が止まったかのようにピタリとそのまま固まった。
いったいどこからそんな野蛮な言葉が発せられたのだろうかと、皆思わず辺りを見回す。
「……イリアス」
エレアナが小さくその腹をどついた。
「ああ、エレアナ。少し何か食べないか? それでは王女殿下失礼します」
しれっと外面仕様に戻ったイリアスはエレアナの腰をもって歩き出す。
「お、お待ちなさいっ‼︎」
正気に戻ったヘルミナは扇を握り潰さんばかりに胸の前でギシギシと小さく揺らす。
「こんなこと! こんなこと許されませんわっ!」
目を吊り上げて怒り出すヘルミナの声で後ろに侍らせていた連れの令嬢らも同じように非難の声をあげ出す。
「そ、そうですわっ! 我が国の王女であるヘルミナ様に対してなんと不敬極まりないことでしょう!」
「ええ、ええ! 今すぐ謝罪なさいっ!」
少しずつ騒ぎが広がって周りの者もオロオロとどうすればいいのか不安そうな顔つきになってきた。
「せっかくわたくしの寵愛を得られるチャンスだというのに馬鹿なお方。今なら許して差し上げてよ。そうね、わたくしに傅いてこの足に口付けなさい。さあ!」
ざわっとどよめきが起きる。あまりにも傲慢で横暴な言葉だ。
イリアスの態度は不敬ではないとは言わないが、それでも場を考えず穏便にことを運ぶこともせず勝手な振る舞いをしているのは王女の方だ。この数ヶ月でもヘルミナの我儘とはた迷惑な行動は否が応でも噂されてきた。容姿が気に入った男性へ半ば命令の如く部屋へ連れ込んでることは特に周知されており、何よりも反感を買っていた。
そんな気の多い王女がイリアスに目を付けるのは当たり前にしても、ここまで避けられている意味も理解できないということか。いや、そもそも自分が受け入れられるのが当然すぎて思い当たらないということだろう。
「……寵愛ですか。もしかして己の寵愛は誰しもが望み喜びであると信じているのですか?」
「な、何を……」
「まあ、どちらにせよ少なくとも俺はまったく望んではないし興味もありません」
「な、な……」
ギリッと歯を噛んで、先ほどの熱い視線とはまったく違う顔でイリアスを睨みつける。そしてそんなイリアスに大切そうに抱かれているエレアナをここにきてやっと目にするとニヤリと笑った。
「ふふ、せっかく美しい顔をもっているのに中身がこんなにも愚かなんて残念ですわ。──ああ、だからこそそのような男爵家ごときの婚約者しか手に入れられなかったのね。ふふ、卑しい者同士でお似合いだこと」
「それはどうも。お似合いという言葉だけありがたく受け取りますよ」
「──‼︎ お、お金ありきの婚約と聞きましたわ。ええ、ええ! そうですわ! わたくしがその婚約を買い取ったらどうなるのかしら? あなたの侯爵家だって王族のわたくしからすればどのようにもできますのよ。ふふふ、あなたは平伏しわたくしのものとなり一生尽くすことになるわね。そんなあなたを見るのもまた面白いわ!」
ヒートアップしていくヘルミナはますます醜悪な顔つきになる。黙っていれば愛くるしい王女であるのに、その傍若無人な言いようは暴君そのままだ。
「そしてその女の家もついでに潰して差し上げるわ! いくら財力があっても所詮は男爵、いえ、元は平民でしたわね。生きていけるのかしらね? 娼館でわずかばかりの金銭を稼ぐくらいはできるでしょうね。下賎な生まれのくせに、恥ずかしげもなく婚約者になるなんて気がしれないわ。ねえ、あなた方もそう思いませんこと?」
後ろにいる令嬢を意味ありげに振り向いて問いかけた。
その令嬢らは声を荒げて「その通りですわ」と同じような嘲笑を浮かべている。
「ヘルミナ様! エレアナ様は我が家より下位であるのにもかかわらず侯爵家の威光を借りて何度も抗議してきました! ただ私はお金でものをいわせていることが悔しくて!」
「そうです! 私たちはお金のためとはいえイリアス様がお可哀想で! ただ自由になってほしいと思っているだけなのに!」
そう言ってエレアナを睨みつけてきたのは学園の女生徒だ。どこまでもイリアスを不憫設定にしたいようだ。ここにきてもまだ自分勝手な思い込みだと認めたくないのか。
「お黙りっ! お前たちのことはどうでもいいのよっ。ただこのわたくしに同意だけしていればね! この男はわたくしを貶めたのよ! 許せないわっ! ええ、ええ、二人一緒に地獄へ送ってやるわっ‼︎ 思い知るといいっっ‼︎」
シーンと静まり返ったなか、ヘルミナのはぁはぁという息遣いだけが残された。
今やホール全体が観衆となっており、まるで何かの余興を見ているかのようだ。だが紛れもなく目の前で行われていたのは断罪にも近い宣告だ。
怒れる王女に対し、イリアスたちは未だ背を向けている状態で立っている。だからこそ、そのイリアスの顔がどうなっているのかヘルミナにはわかっていなかった。
顔が見られる正面にいる者たちは一斉に青ざめており、嵐の前の静けさと似たような恐怖を感じ取った。または地中深くの熱したマグマが吹き出し口を探している蠢きを感じ取った者もいるだろう。
握り締めた拳をエレアナの小さな掌が包んだ。「ダメよ」と伝えてくる。
エレアナを貶めることは誰であろうが許すわけにはいかない。彼女が許しても、だ。
ほとほと我慢の限界でもあった。
己が望んで望んでやっと漕ぎ着けた婚約者であるエレアナを何も知らない外野が好き勝手に言ってくるのが。
この見た目だけで寄ってきて自分本位な理想を植え付けてくることが。
「──────いい加減にしろ」
そう言ったのはイリアスではなく別の声だった。
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