2 美しき婚約者は狙われる
「あなたが彼の婚約者ですって?」
今日も今日とて呼び止められたエレアナは振り返った。
食堂での昼食を終えて、友人らと中庭の方へ歩いて行く途中だった。昼休みの騒がしさの中、手入れのされたレンガの歩道沿いは欅が並び枝を押すように揺れている。
その景色に嵌め込められた絵画のような金色の髪を靡かせて、きつい眼差しでエレアナを見ている美少女がいた。制服は着ている。だが知らない女生徒だ。
「あの……?」
値踏みするようにエレアナを上から下からと見ている瞳は明らかに蔑視した視線だ。
「不敬よ! この方はボレネ王国の第一王女であるヘルミナ様よ!」
ああ、とエレアナは頷く。そういえば、数日前に一学年にボレネ王国から王女らが短期留学してきたと耳にした気がする。
先ほど叫んだのはその少女の背後にいる二人の女生徒のうちの一人だろう。知らない顔だったので、おそらく一緒にボレネ王国からついてきた少女なはずだ。そのまた後ろには見知った顔の学園の女生徒らがいた。一人は生徒会に所属している一年の生徒で顔を青くさせている。おそらく王女らの案内役として指名されたのだろう。
「王女殿下にご挨拶申し上げます。エレアナ・リーリエと申します」
「ねえ、あなたが彼の婚約者かと聞いてるのだけど」
「……彼というのはイリアス・セルデス様のことでしょうか?」
「そうよ」
「であれば、その通りでございます」
「お金で爵位を買い、そしてお金で彼との婚約さえも買ったと聞いたのだけど。──ねえ、皆様、そうでしょう?」
後ろを振り返って問いかけると、一斉に「そうです!」と声を揃えて女生徒らが答えた。もちろん生徒会の女生徒以外の声だ。
「イリアス様がお可哀想です」
「ええ、ええ。本当に」
ウンウンと勢いよく応戦してきたのは、この間イリアスが家に抗議すると言っていたあの女生徒を含めた五、六人であったが、王女が味方だと思って大きくなっているようだ。本当に懲りないなとエレアナは内心毒づく。
「あなたのような卑しい人が婚約者だなんて、イリアス様には心から同情いたしますわ」
手入れされた細い指を頬にやりながら、さも悲しげに言う。そのまま金の髪を絡めて思案げに首を傾げる。
「わたくしがこの国に来たのも何かの運命だと思いますの。彼をあなたのような悪害から救えという神の思し召しとでもいうのでしょうか」
ヘルミナは両手を胸で組むとにっこりと笑う。
「ふふ、わたくし、一目で彼を気に入りましたわ。わたくしがこの国に来たのは嫁ぎ先の殿方の選定も含まれていますの。────ええ、わたくし彼に決めましたわ。皆様もそう思わなくて?」
「え、ええ! ヘルミナ様なら本当にお似合いでございますわ!」
「私もヘルミナ様であれば納得できます! は、はい、そうでございます」
ヘルミナに意気揚々と応えていた彼女らであったが、先ほどの言葉には内心動揺しているのだろう。持ち上げたはいいが、まさかこのような展開になるとは思っていなかったようだ。
元平民の成金男爵家のエレアナだからこそ勝手に突っかかっていけたが、他国とはいえ王女相手ではどうしようもない。何もできないという悔しい思いが本音だと引き攣った笑みが物語っている。
「王女殿下にご挨拶申し上げます」
エレアナの隣から一歩踏み出した女生徒が完璧なカーテシーでヘルミナに挨拶してきた。
「発言の許可を」
「……ええ」
訝しげにしながらもヘルミナは頷く。高位の者は基本下位の者からの発言を許すのがマナーだ。
「わたくし、ウェイス公爵家のアグレイアと申します」
「公爵家ともあろう者がそこの卑しい男爵家の人間を庇い立てるのかしら?」
「申し訳ありませんが仰っている意味が理解できかねます」
「まあ、まあ! この国の公爵家とはよほど無能なのですね! ねえ、皆様!」
「………………」
「………………」
威勢のよかった女生徒らは誰一人口を開かない。
それもそうだ。ウェイス公爵家は筆頭貴族だ。到底彼女たちの実家など太刀打ちできるはずもない。つまりは彼女らはエレアナが一人の時にだけ寄ってくるのだ。それというのもエレアナの周囲にはこの国の中心を担う高位貴族の友人が多いからだ。それもやっかみの一因でもあった。
「ヘルミナ様。彼女たちはこの国の貴族ですもの。そう思っていても堂々と口にはできませんわ」
「ふふ、そう思っていても、ですわね。気がまわらずごめんなさい」
くすくすとボレネ王国の集団は嘲笑う。
周囲も何事かと生徒らが足を止めて遠巻きに様子を窺い出してきた。
「そうですか。それよりも、彼女──エレアナ様ですが、そちらの方たちの言葉をそのまま鵜呑みにされているようですがどうやら私どもの認識と違います。しっかりとお調べになったのでしょうか?」
「……彼女たちが嘘を言ってるとでも?」
「ええ」
王族の言葉は強い。ましてや正式に他国へ赴いた場合はなおさらだ。慎重に選びながら発せなければならない。まだ成人前とはいえ、それはすでに身に付けておかなければならないものだ。自国でもどのように振る舞っているのかが察せられる。
「あなたたち、わたくしに嘘を言ったのかしら?」
チラリと後ろを振り返って二人を見る。
「え、そ、そんなっ! 嘘なんて! 有名な噂なんですから!」
「そうです! お金で爵位を買ったのはみんな知ってることです! 婚約だってイリアス様は不本意ながらお受けになったというではないですか! あまりにも酷い話です!」
言い募る女生徒にアグレイアは目を細めた。
「お黙りなさい。その噂が真実とでも? セルデス様はしっかりと否定していますわ」
「そ、それは、きっとまたお金で……」
「つまりセルデス侯爵家はお金さえあればいいように動かすことができると? あまりにも酷い侮辱だこと」
アグレイアの言葉にヒッと悲鳴が漏れた。
「……まあ、わたくしにはそんなことどうでもよろしいわ。どのみちイリアス様はわたくしを選ばれるんですもの。ふふ、そうですわね、明日の歓迎セレモニーのパーティーには彼にエスコートしてもらうわ」
ヘルミナは夢見るようにうっとりと笑う。
「ねえ、婚約者さん。身の程を弁えて今のうちに引いてくださるとありがたいわ。わたくしとイリアス様の婚姻が両国の友好の証になるのです。こんな喜ばしいことはなくてよ?」
勝ち誇った笑みを浮かべてヘルミナは去っていった。彼女にとってエレアナなど足を取られるほどもない道端に転がっている小さな小さな石屑なのだ。そう、踏みつけてしまえばあっけなく砕け散るほどの。
「お里が知れるわね」
「ええ、自分がボレネ王国の最大の弱点となっていると公言しているようなものだわ」
アグレイアの呆れた声に応えたのはオールマ伯爵令嬢であるラーナだ。彼女の父はこの国の宰相だ。遠くなっていく後ろ姿を冷めた目で追いながら首を振る。
「よくもまあ、あのような王女を恥ずかしげもなく他国へやれたわね。自国でもかなり我儘でいろいろ問題あったと聞いてるわ。まったく閉鎖的な島国とはいえ王族としての振る舞いではないわね。世間知らずな田舎のお嬢様と同じね。エレアナ、気にすることはないわよ」
「私は大丈夫よ。それよりもアグレイアもなんだか巻き込んじゃってごめんなさいね」
「私も大丈夫。まあ、そうね。我が公爵家を愚弄したことも重ねて後悔させてあげましょう」
ふふふと「腕が鳴るわ」と黒い嗤笑を貼り付けたアグレイアにエレアナとラーナは二人して顔を引き攣らせる。さすが王太子の婚約者と褒めるべきか。おーほっほっほと何かしらのスイッチの入ったアグレイアの声と風のざわめきだけが静かになった空間に響いた。
翌日。帰りの馬車でイリアスはいつもの同じ問いかけをした。
「今日はゼロ」
「そうか」
昨日の出来事をイリアスに言えば、その日のうちにあの女生徒たちの家に再び抗議したようだ。今回はかなり強めに。そして、ボレネ王国からの一行の責任者宛にも王女に対する抗議文を出したらしい。確か、その責任者というのは王女の兄である第二王子だったと思うのだが、なんというか誰であろうと容赦しないのがイリアスらしい。
そういうわけで昨日の今日ではさすがにエレアナの前には出てこれなかったのか、それとも休んだのかは知らない。
また王女がイリアスに目をつけたことを知った学園の女生徒らが余計な火種を貰いたくなくてエレアナの元にやってこないのか。
そして、かの王女らも姿を見せなかった。今夜開かれる歓迎セレモニーパーティーのために朝から念入りに準備をするために休んでいるらしいとアグレイアが言っていた。さすが公爵家の情報網だ。
「今夜はうちで夕食食べてくだろう?」
「え?」
「パーティーで親父らはいないからな。食ってけよ」
「……イリアスは?」
「は? 俺?」
「あの王女様はあなたにエスコートしてもらうとか言ってたわよ」
「ああ? ばっかじゃねーのっ。何様だってんだ」
いや、王女様ですが……、とエレアナは一人突っ込むが、イリアスは一気に不機嫌になる。
そもそもまだ学生では社交の場には出ない。ひと昔まえは成人年齢も十六才で学生でもデビューしていたようだが、現在は成人は十八才であるほか少なくともこの学園に在籍している者の夜会などのパーティー参加は例外もあるが原則禁止となっていた。風紀の乱れが主な理由で、年若い年代の学生が欲望に走り堕落し退学していく者が増え続けたことが問題となったのだ。
そういうわけで卒業記念パーティーが大掛かりなものとして開かれている。
「だいたいだ、話したこともねーぜ? その王女の顔も知らねーよ」
「ええ? でも、あなたと結婚するとか言ってたのに?」
「なんだとっ⁉︎」
いや、あの王女様は自分が選ばれると自信たっぷりに言ってたはずだが。当のイリアスは顔も知らないという。本当に遠くから見かけて、それでその美貌に惚れ込んだということだろう。
二人を乗せた馬車は豪勢な門造りからゆっくりとセルデス侯爵家の屋敷玄関まで着くと止まった。フットマンが馬車のドアを開けると、まだ明るい空に茜色が薄く滲み出しているのが見える。
イリアスは降りるとエレアナに手を伸ばす。そのまま後に続くと横にもう一つ馬車が停まっているのが目に入った。
馬車の紋様は王宮のものだ。といっても王家の紋ではなく王宮で役人が仕事で足にしているものだ。
「誰か来ているのか?」
「はい、その……」
フットマンは困った顔を見せる。その時、屋敷から侍従が出て来た。
「イリアス様」
「何かあったのか?」
「王宮よりボレネ王国の使者が来ておりまして。只今、旦那様も奥様もすでに夜会へとお出かけになったので家令が接客しております」
イリアスとエレアナは顔を見合わせる。なんとなく嫌な予感がするが、イリアスはチッと舌打ちをした後に面倒そうに「わかった」と言い、応接室へと向かった。
応接室へ入ると家令のマルセアがすぐさまイリアスを迎えて頭を下げた。
「ボレネ王国ヘルミナ王女殿下からの使者でございます」
小声で知らせる。イリアスは頷くと綺麗な顔に無表情をそのままにして近づいた。
「どういった用件だろうか」
「セルデス侯子にご挨拶申し上げます。わたくしはボレネ王国ヘルミナ第一王女殿下に仕えております侍女のミリア・ボーゲンと申します」
ミリアは立ち上がって恭しく頭を下げた。ソファの後ろに控えている侍女二人も同じように頭を下げる。
「それで?」
イリアスはソファに座るとぞんざいに足を組む。
「本日は王宮にて我らボレス王国のため夜会が開かれることはご存知とは思いますが」
「ああ、そのようですね。すでに我がセルデスからは両親が行っておりますよ」
「我が王女はセルデス侯子にそのエスコートをご所望でございます。時間もありませんのでご準備をされてください」
当たり前のように言い募るミリアに対し未だ感情の乗らないままの顔を見せるイリアス。静まり返る空間はまるで寒冷地で暖もない冷たい部屋に閉じ込められたかのように温度が下がっていくかのようだ。
「セルデス侯子?」
物言わぬまま美しい顔で正視したイリアスの視線を受けて、ミリアはまるで結氷の上にいるような感覚に襲われた。ここまでの美貌から見つめられると魅了され何かをもっていかれそうになるものだが、そういうことを思う前に絶対的な美をもつ悪魔と対峙し命乞いしたくなる恐怖に狼狽した。
「おかしなことを仰る。なぜ俺がそのようなことをする必要が?」
「────っ、そ、それは。へ、ヘルミナ様がご所望で」
「なぜ俺がそのようなことをする必要が?」
「──────っ」
繰り返された言葉にミリアは思わず俯いた。長年侍女として仕えベテランという域になったはずの自分であるがこんな屈辱にも近い扱いなど初めてだった。今まで王族に仕えている分、ここまではっきりと拒まれたことなどない。後ろにいる侍女は小さく震えている。
「答えられないならお帰り願おう」
「お、お待ちください! へ、ヘルミナ様はセルデス侯子を大層お気に召されており──」
「それはこちらに関係ないのでは?」
「なっ」
「昨日の学園での我が婚約者に対する旨を父と俺の連名で第二王子殿下へと抗議文を送ったはずだが、どうやら第二王子殿下は妹君に甘いようだ。重ねてこの度のこと報告させてもらおう」
「そ、それはっ」
ミリアは昨夜のことを思い出す。第二王子であるスピロスがヘルミナの元を訪れて勝手なことをするなと釘を刺してきた。それもあってヘルミナは意地になっているのもある。目を盗んでミリアにイリアスを連れてくるように命を出した。そこには拒否されるという選択肢はなく、それはミリアも同じだった。なにせ王族だ。他国であってもその身分は尊重されるもののはずだ。
「お帰り願おう。マルセア」
「はい、かしこまりました」
イリアスは立ち上がって扉へと向かう。
「お、お待ちください! ヘルミナ様はボレネ王国の第一王女殿下でございますよ! 他国とはいえ、それが王族に対する振る舞いですかっ」
「………………」
「本来であればこのようなお声がけなど欣幸の至りとして謹んでお受けになるものです! たかだかいち貴族の侯子でしか過ぎない者でありながら、あまりにも不敬ではございませんかっ!」
「──────不敬で結構」
イリアスは振り返ることなく言い放つ。
「そもそも礼儀を弁えていないのはどちらであるかよく考えてもらおう。王族という理由だけで我を通せると本気で思っているのであれば哀れなものだな」
それだけ言うとそのまま部屋を出て行った。
バタンと扉が閉まると廊下で聞き耳を立てていたエレアナが眉尻を下げて待っており、だが言葉ではなく大きなため息だけを漏らした。
「…………なんだよ」
「べっつにぃ〜」
イリアスはそのままエレアナの腰を掴むと「腹減ったな」と言いながら歩き出した。
「まあ、よく我慢したと思うわ」
「だろ?」
クスクスとお互い笑って隙間なく寄り添い長い廊下を進む。二人の絆の深さは二人にしかわからない。
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