1 美しき婚約者は口が悪い
容姿端麗な婚約者をもつということは様々な弊害をもたらす。慣れたとはいえ、いや、慣れたくもないのが本音だが、今日も今日とてエレアナは数人の女生徒に囲まれてしまった。そしてお決まりの言葉をいただくのだ。
「イリアス様を解放してほしいの」
ちょっと勘弁してほしい。エレアナは両手にクラスメイト全員のレポートをのせていた。早く担当教師にもっていかなければいけない。数人が忘れていてそれを書き終わるのを待っていたため放課後の提出時間が迫っていた。
「ごめんなさい。急いで職員棟まで行かなければいけないの」
「そんなこと知らないわ!」
「そうよ! 逃げるの⁉︎」
「卑怯者!」
勝手な言い分をズラズラと言ってくる彼女らを構ってる時間はない。
「本当に時間がないの。間に合わなかったら先生にあなた方に呼び止められたことを説明させてもらうけど、それでもいいかしら?」
「な、なんて人なの! やはりイリアス様にはあんたは似合わないわ!」
「ええ、ええ、そうよ! どうしてあんたなんかが婚約者なのよ!」
「成金の男爵家のくせに!」
これもまた揃いも揃って同じセリフを言われるのは何度目だろうか。エレアナはうんざりした気持ちで無視を決め込むと駆け足で通り抜けて行った。後ろでワンワンと罵る声が聞こえるが、こんなことが日常になってきたことに大きなため息を漏らした。
イリアス・セルデス。
子爵家三男であったが、十才で母の実家である侯爵家の兄夫婦の養子となった。子どもに恵まれなかった兄夫婦には幼い頃から可愛がられており、十分な愛情をもって育てられたため、本当の親子のような関係だ。
五年前、この国──ロクトール王国に最大規模の干ばつ災害が発生した。今もなお多少なりとも爪痕を残しているが、それでもここまで早く回復できたのは、数カ国にわたって事業を展開している大手商会であるオルベンスコーポレーションが中心となって商会組合へ声をかけ無金利での資金援助を提言したからだろう。その金利分をオルベンスコーポレーションが支払うと言えば多くの商会が手を挙げてくれたのだ。
イリアスの実家である侯爵家も貧しいわけではなかったが、領地での干ばつ災害により多額の資金が必要であった。干ばつは侯爵領だけではなく多くの領地が被害にあっており国からの援助だけでは到底間に合わない状況であったため、それは大きな助けとなった。
そのオルベンスコーポレーションの会長というのが実はエレアナの母方の祖父にあたる。それらの功績により国から男爵位を賜ったわけだった。詳細をいうなら祖父は他国を拠点にしているため、この国に滞在しオルベンスコーポレーション支社を含む関連商会などの総代をしているエレアナの父が叙爵したということだ。
だがエレアナは父のリーリエ姓を名乗っており、単に資金援助に協力した商会の娘という認識をされている。
叙爵によって調子に乗った形でエレアナの実家がセルデス侯爵家との婚約を打診し国王から許可をもぎ取った、ということで「解放してほしい」とイリアスに同情以上の気持ちをもっている令嬢が後を絶たないのが今の現状である。
オルベンスコーポレーションという存在が多くの貴族、延いては領民、つまりは国民、すなわち国を救ったのは事実。貴族を含め感謝を述べる者は多いが、やはり学生という身分では視野も狭く、目先の感情ばかりで走りがちだ。浅はかではあるが、ぽっと出の成金男爵家のエレアナがうまい具合に優良物件である侯爵家嫡男の婚約者におさまったというやっかみを受けているというわけなのだ。
そしてもう一つ。このイリアス・セルデスという男。美貌の貴公子と呼ばれている。
さらさらな艶のある黒髪、切れ長の眉と紫紺の瞳、薄い唇。長身でスラリとしたシルエット、動き一つひとつが優雅でどこかミステリアスな雰囲気を醸し出している。神が作りし芸術作品とも揶揄され、決して中性的ではないのだが妖艶な眼差しが印象的だ。
また突出した美しさを備えながらもその剣技で名を馳せており、まだ学生ではあるもののすでに一目置かれた存在となっている。
そんな彼に魅了された令嬢らの羨望と妬み。
結局はその部分が大きいとエレアナは思っていた。彼女がどのような身分であれ結局は同じようなことが起こっているだろう。
それに優良物件というなら他にも多くいるし、なんなら第三王子だって学園に在籍している。もちろん見た目だっていいしモテてはいる。
しかし、イリアス・セルデスはその中でも群を抜いているのだ。いわゆる不動の一位とでもいうのだろうか。とにかく現れる場所場所でキャアキャアと騒がれている。声のするところ不審者かイリアスか、と言われるくらいには。
「今日は?」
「2回よ」
そんな二人だが、実のところ良好な関係だ。いや、イリアスからの直球な激しい愛にエレアナは受け止めるのに精一杯なほどには。
学園は男女別に学舎が別れており中庭と食堂が唯一の接点となるのだが、騒がしい令嬢らに辟易したイリアスは一年のうちから通わなくなった。そのため女生徒が彼を目にするのはかなり少なくなったが、登下校での馬車待ちでのわずかな時間を楽しみにしているらしい。いわゆる出待ちだ。
そういうわけで二人は学園では一定の距離感を保っているが、それは当たり前といえば当たり前だ。わざわざ食堂でべったりする必要はないし、ことさら一緒にいる必要だってない。ただ何かにつけて二人の仲の隙を狙いたい令嬢らがエレアナに群がってくる。
それを知っているからこそイリアスは彼女を伴って馬車で登下校しているのだが、そう思わないのが「お可哀想」とイリアスに熱をあげている令嬢たちだ。それさえもエレアナが「婚約者という立場でさせている」と受け取る始末。
そして必須報告かのようにイリアスは先ほどの質問を毎日エレアナに聞いてくる。そう、彼女に難癖つけてきた令嬢らの回数だ。
「で?」
「イシュリー伯爵令嬢、コマンナ子爵令嬢──とその取り巻き」
「聞いたことあるな」
「そうね。彼女らはもう何度目かしら? 今日はレポートの提出が迫ってたから焦ったわ」
「今回は家に抗議を出しておく」
彼女たちは一年生だ。入学してもうすぐ一年が経つというのに状況を呑み込めず、未だにお涙ものとしてやってくる。入学時こそ、噂を聞きつけた者がエレアナを見ると陰口を叩いていたが、しだいに己の立場がどういうものか知るとそれもなくなり、単に「イリアスのファン」というものに変化していく。二年生、三年生の女生徒の多くはただミーハーな気持ちだけが残り、エレアナ自体にはそこまで興味が薄れている感じだ。
一番酷かったのはイリアスとエレアナが入学してきた時だ。上級生の女生徒たちからのやっかみは凄かった。イリアスが何度キレたことか。徹底的に家に抗議していつの間にかエレアナの周囲は静かになっていたが、下級生が入学してくるとまた似たようなことの繰り返しだった。
しかしながら、いつの世にも「悲劇のヒーローを救うヒロイン」気質はいるもので、自己中心的な正義感を振り翳しながらヒーローの隣を狙おうと見え透いた欲に走る少数派はいた。
そういう中で登下校の馬車でのわずかな時間が二人だけのゆっくりと語り合える時だった。カタコトと一定のリズムで揺れる車内は紺のビロードのクッションが優しく受け止めている。豪華ではあるが派手さはない馬車にはセルデス侯爵家の狼の入った家紋が縫い付けられた小型の旗が風にゆれて靡いていた。
不機嫌そうに外に目をやったままのイリアスを見てエレアナはプッと笑う。
「また寄ってるわよ」
そう言って、イリアスの眉の間に指を入れる。
「仕方ないだろ。あの馬鹿どもはその懲りない根性を他で発揮してほしいもんだ」
「それは私も同じね」
イリアスはエレアナの手を取ってちゅっと指に口付ける。そのまま引き寄せて膝に乗せると息いっぱいにその香りを嗅ぐ。
「ほんとアイツらうんざりだ。早く卒業してーな」
「うん、あと三ヶ月ね。……でも卒業したら本格的に社交に出るのよ? きっともっと近づいてくる人が多いと思うわ。一晩のお遊びを楽しむ夫人や未亡人もね」
「まったく、それのどこが楽しいんだか。そんな侘しい人生なんざ送りたくもねーな」
「あら、男の人の方がそういうの得意なんじゃないの?」
「馬鹿言うなよ。自分から厄介ごとに突っ込む奴の気持ちが知れん。あれだろ? こっちは遊びでも向こうが本気になってしまった、という自慢にもならねえことマウントしてさ。で、結局自滅して笑い者。自滅フラグ自分で立ててどうするって話だ」
「そういう人は単に要領が悪いんじゃないの?」
「違うぜ。本当に賢い奴はまず厄介ごとに手を出さないもんだ」
イリアスはエレアナの頬に軽いキスを何度もしながら、片手でふんわりしたブラウンの髪をもて遊んでいる。
「はぁ、卒業パーティーのドレスが楽しみだ。結構注文つけたぜ」
「ふふ、お買い上げありがとうございます」
エレアナはからかうように答える。もちろん発注はオルベンスコーポレーションの関連商会の服飾・宝飾を扱っている高級店だ。社交界で最も人気の店だが「シシリー」というブランド名があまりにも有名なので、そこが孫商会にあたることはあまり浸透していない。ただ女性であれば一度は身に着けたいと憧れる店であるのは庶民でさえも知っている。
「入団の準備はしてるの?」
「一応な」
「一応って……。本当にそういうところはいい加減なんだから」
イリアスは見た目がいいため完璧男子かのように見られるが、その性格はズボラで面倒くさがりだ。エレアナからすればこれのどこが貴公子だと思うのだが、それを見せないくらいには要領良く動くため、素顔を知っているのは仲の良い友人くらいだろう。
「ダリぃんだから仕方ない」
ついでに口も悪い。
お綺麗な顔でそんな言葉が出るとはみんな思わないだろう。この男ほど見た目と性格が一致しないものはいないとエレアナは常に思っている。
そのイリアスは卒業後は騎士団への入団が決まっている。セルデス侯爵家自体が騎士の家系であり当主の侯爵も騎士団で要職に就いており、入団することに対しては彼の意思でもある。
「それよりお前は準備してるんだろうな」
「あなたと違ってね」
「ならいい」
エレアナは卒業後はイリアスの実家で過ごすことになっている。イリアスの母から侯爵家の仕事を学ぶためだ。通いでもできるが、イリアスの強い希望でそうなってしまった。
嫡男であるイリアスもいずれは当主として領地運営を手掛けなければならない。だが騎士団での仕事もあるため、侯爵家ではその妻が領地での采配を振っており、エレアナはそのために結婚前ではあるが侯爵家に入り少しずつ指南を受けるのだ。
「あ、そうそう。今、親父らに交渉中だ」
「交渉?」
「ああ。お前と部屋を同じにしてくれってな」
「……よからぬことを企んでたりしてない?」
「我慢は十分してきたんだ。もういいだろ」
「…………」
ミステリアスに笑うイリアスはこんなときも眩しい。見慣れた美しい顔が当然だというように彼女を見下ろしている。濃い紫の瞳が反射して自分を映すのが歯痒くも嬉しい。
だがエレアナは知っている。この顔のイリアスは引く気がないことを。交渉中とはいえ、彼の中での決定事項は覆らないだろう。
どうやら結婚前に自分の純潔は目の前の男に捧げることになりそうだ。顔を赤らめて小さく「ばか」と呟いた声はそのまま彼の口に呑み込まれていった。
誤字脱字のご指摘ありがとうございます。