観察日記
その日から、私たちはお互いの家を行き来する関係に発展した。
私の家に残されていた蓮の物は、段ボール箱にまとめて、クローゼットの中に押し込んである。
代わりに、武士さんのものが少しずつ増えていった。
同じように、武士さんの部屋にも私のものが増えていった。
でも、武士さんは絶対に私に同棲をしようとは言わなかった。
「挙式、早められないかなー」
挙式まで3ヶ月を切った頃、ふと、武士さんが呟いた。
「もう日取り押さえちゃってるし、早い日にちはキャンセル待ちの人に取られると思うから、無理じゃないかな」
「だよなー」
「なんで?」
「ん?早く綾を俺だけのものにしたくて」
頬に熱が集まるのがわかる。
「赤くなっちゃって、かーわい」
私の頬をツン、とつついて武士さんは笑った。
「そう言えば、式の招待状の返事、そろそろ来てるんじゃない?」
「うん。続々と。あとちょっとで全員分揃うかな」
「じゃあ、そろそろ席次表も作らないとな」
ほぼ毎週、私と一緒に打ち合わせに行っている武士さんはスケジュールも完璧に把握している。
「もう少し、だな」
自分に言い聞かせるようにそう言うと、私の身体を後ろから抱きしめた。
その晩、武士さんの家に泊まった私は、夜中にふと目を覚まして、隣に武士さんがいないことに気がついた。
武士さんはローテーブルに置いたパソコンで、何かを打ち込んでいる。
やっぱり、仕事持ち帰ってるのかな。
邪魔をしちゃ悪いから、と私は背中を向けてまた眠りに入った。
翌朝、私は武士さんと朝食を取りながら言ってみた。
「お仕事、持ち帰ってまでするなら、1週間くらい、週末会わなくても大丈夫ですよ?会社では毎日会えるし」
「ん?持ち帰りの仕事?」
「昨日の夜、お仕事してたんじゃないんですか?パソコンに向かってる姿見たけど」
一瞬、空気がピリッとした。
え?何か、言っちゃいけないことだった?
戸惑いを隠せないでいると、武士さんは耳朶を擦りながら、優しく笑った。
「あれは、仕事じゃないよ」
「そうなの?あんな時間にやってるから、私に気を遣わせないように仕事してるのかと……」
「どちらかと言えば、日記を書いてるって言ったほうが近いかな」
「日記?」
武士さんはそれ以上何も言わなくて、私もそれ以上のことは聞けなかった。
武士さんが日記。
思いもよらない組み合わせで、何か誤魔化されてるような気がした。
もしかして、別の子とチャットしてたり……しないかな
蓮のことがあってから、疑い深くなってる気がする。
そんな私に気がついたのか、武士さんは苦笑して、言った。
「そんなに気になるなら、見てみる?」
「え、いいの?」
「疚しいことは何もないから」
結局朝食後、武士さんはパソコンを立ち上げて、一つのフォルダを開いて見せてくれた。
そこには、日付順にWordのファイルが並んでいた。
武士さんが適当な日付をクリックする。
『○月○日
今日は二人で話題になってる洋食屋へ行ってみた。
綾はやっぱりパスタを食べて、俺のハンバーグとシェアした。
正直、ハンバーグは綾の作るものの方がうまかった。
今度の週末は、ハンバーグを作ってもらおうと思う。
最近は、怖い夢もだいぶ見なくなった模様。
少しずつショックから立ち直ってるのが見ていてわかる』
確かに、日記だった。
他の日付も見せてもらったけど、内容は全部私のことで、最後は必ず私の様子で締めくくられていた。
まるで私の観察日記みたいだった。
「日記、ですね」
「うん。だから言ったろ?」
じゃあ、なんであの瞬間、空気がピリッとしたんだろう。
それだけが、わからなかった。
まるで、私に知られることを拒否してるような空気だったのに。
それからも、武士さんが、私が寝てから日記を書いている姿を何度か見かけた。
私が起きてるときに書けばいいのに。
そう思ったけど、武士さんのサイクルは私が寝てから日記をかく、という流れみたいだから、余計なことは言わなかった。
そのうち、武士さんが日記を書いていることも気にならなくなった。
挙式まで2ヶ月に迫った頃、武士さんは唐突に日記を書くのをやめた。
「もう、観察日記はいいんですか?」
「うん。再来月には挙式だし、それが終われば一緒に住み始めるから、もういいかなって」
もしかしたら、武士さんなりに、私の中でくすぶり続けている蓮の存在が気になっていたのかもしれない。
でも、もう泣きながら起きることもないし、武士さんと蓮を比べることもなくなった。
だから、武士さんも安心したのかもしれない。
私は何も知らず、のんきにそんなことを考えていた。
そう、本当に何も知らなかったんだ。
武士さんが日記を書いていた理由も、書かなくなった理由も。