一歩ずつ、前へ
翌朝、スマホのアラームの音で目が覚めた。
水野さんはまだ起きてないみたいで、私は先に洗面所を使わせてもらった。
朝ご飯、どうするのかな?
部屋の中をキョロキョロ見回して、朝食券を見つけた。
レストランに行けば、朝食をとれるようだ。
それにしても、まだ時間は早い。
私は手早く化粧を済ませて、窓の外に見える夢の国を見下ろした。
昨日は、楽しかったな。
あんなに楽しかったの、久しぶりかも。
このところ、休日は蓮とまったく休みが合わず、一人で式の準備をしていた。
私も、息が詰まっていたのかもしれない。
蓮は、そんな私のことが鬱陶しくなったのかもしれない。
もう、蓮のことを考えるのはよそう。
どれだけ考えたって、蓮はもう私の元へは戻らない。
それは、私の予想だったけど、多分間違いないだろうと思った。
「おはよ。考え事?」
不意に後ろから声をかけられて、ビクッとして振り向くと、水野さんが人懐こい笑顔で立っていた。
「水野さん、おはようございます」
「んー。水野さんって堅苦しいよね。武士って呼んでよ」
「武士、さん?」
「ん、いーね。起き抜けから綾ちゃんに会えるとか、ほんと幸せ」
ニコニコしながら、水野さん……武士さんはバスルームに向かった。
癖っ毛なのか、あちこちぴょんぴょん跳ねていた髪を整えに行ったのだろう。
寝癖姿も、可愛かったのに。
そんなことを考えて、ハッとする。
私、どんどん武士さんに引っ張られてる気がする。
武士さんは確かに、紳士だし優しいけど、特別かっこいいわけでもない。
中肉中背。
仕事では私の先輩に当たって、私の新人指導は武士さんだった。
癖の強い髪は、染めているわけでもないのにダークブラウンで、笑うと優しくたれる目元によく似合っている。
少ししてバスルームから戻ってきた武士さんは、すっかりいつも通りに髪をセットした武士さんだった。
「朝飯食いに行こうか」
私の扱いが手慣れているのも、たぶん、私の指導係だったからだと思う。
「綾ちゃん、置いてくよ」
「今行きます!」
二人でたんまり朝食を取って、このあとどうするか相談する。
「もう一日ここで遊んでもいいし、水族館とかに行ってもいいし、このまま帰ってもいい。
どうしたい?」
私は少し迷ったあと、水族館に行くことを選んだ。
武士さんは嫌な顔一つせずに、私を水族館へ連れて行ってくれた。
◇◇
水族館であちこち見て歩いて、私はマンボウの水槽に夢中になった。
何も考えてないような呑気な顔で寄ってきては、ふいっとあっちへ行ってしまう。
それが可愛くて何度も見ていた。
前にも、こんなことがあったな。
蓮に水族館に連れてきてもらったとき、ジンベイザメに夢中になって、ずっとその姿を追っていたら、蓮に笑われて……
あの頃は、こんなことになるなんて予想もしていなかったのに。
マンボウの水槽に向かったまま、涙が溢れだす。
慌ててバッグからハンカチを取り出そうとしていると、ギュッと武士さんに抱きしめられた。
「俺なら、泣きたいときはいつでも胸をかせる。泣かせるような真似もしない。だから、もうアイツじゃなくて俺を選んでよ」
「気持ちの整理がつくまで、もうちょっとだけ待ってください」
「ん。いーよ。待つから。その代わり、俺を選んでね」
更にギュウっと抱きしめられて、それから開放された。
自分でも、もう分かっていた。
二度と戻ることのない蓮よりも、ずっとそばで見守っててくれる武士さんの方がいいんだって。
現に、私はもう既に武士さんに惹かれ始めてる。
後は、心の中のぐちゃぐちゃを整理するだけだ。
私たちは手を繋いでゆっくり水槽を見て歩くと、そのまま家に帰った。