第2部 ACT3の1 箱舟は漂う
私の名前は 飯田ひな 。
今は自転車に乗って買い物に出かけているところ。
とは言っても、仕事上で使うための物を買いに出掛けているので、それほど楽しい買い物というわけでもない。
が、自分用の物ではないにしても、買い物というのはそれなりに心躍るものではある。その程度の買い物でも、私はしっかりと心躍らせられるタイプなのだ。
そんな安上がりで短絡的な私ではあるが、わりと苦労人ではあるのよ。
それでは、ここから私の身の上話をしてみよう。
実の父、 西宮義一 は、酒好きなうえに家庭を顧みない人だったので、家に戻ってくるのは夜遅く、私が寝てしまってからだった。
朝はといえば、朝食も摂らずにすぐ仕事に出かけてしまうので、私とはほとんど顔を合わせることがない父親だった。
だもんで、父に向って「おじさんこんにちは」と話しかけたこともあったと、後から母から聞いた。
父が家に居つかなかったのは、仕事を遅くまで頑張っていたわけではなく、ほぼほぼ飲み歩いていたらしい。父がそんなんだから、西宮家の家計はたいそう苦しく、母 西宮美奈 は、私が幼いころからパートに出掛ける羽目になっていた。
そうそう、私の名前は 飯田ひな ってさっき言ったけど、このころは 西宮ひな って名乗ってたのよね。
私が小学校に入学した後ぐらいに、母はパートの仕事を辞めて夜の仕事をするようになった。
私は、母が夕方に出かけると、同じアパートに住む幼馴染の家へと行くようになった。その家族が私の面倒をみてくれることになったのね。
母がそのように頼んだのか、その家族のほうから面倒をみると言ってくれたのかはわからないけど、そのおかげで私はそれほど寂しい想いはしないで済んだ。
幼馴染の名前は 大野圭介 くん。
同い歳で学校のクラスも一緒だった。親同士の年齢も近かったから幼稚園の頃は、家族ぐるみでの付き合いはあった。
といっても、私の父はアレだったもんで、彼だけは蚊帳の外だったけどね。
母が夜の仕事に出かけると、私は一人お留守番。そこへ圭介君が遊びに来たり、私が圭介君の家にお呼ばれしたり。
お呼ばれしたときは、圭介君の両親は私を娘のように可愛がってくれて、ご飯をごちそうになったりしていた。私もそれを自然に受け入れて甘えさせてもらっていた。
圭介君の家を第二の家みたいに感じていて、兄妹(姉弟?)のように二人で遊んだり、宿題をしたり。
そういえば、圭介君は推理もののアニメが大好きだったから、よく二人で一緒に見たっけ。
小学の高学年になったころ、それまで接点がほとんどなかった私は全く気にしてはいなかったんだけど、父の気配を全く感じられなくなった。
そして母から、
「お父さんと離婚することにしたの」
と聞かされた。
さすがの私もびっくりだったよ。いくら家に居つかない父親だとは言え、さすがにその歳まで「知らないおじさん」認定はしてなかったもんね。
とは言っても、両親が離婚した~父は家から出て行ったらしい~というのに私の生活には全く変化がなかった。
学校から帰ってしばらくすると母が仕事に出かけ、そのあとは大野家にお邪魔するか、圭介君がウチに来るかする。ご飯を食べて、お風呂に入って(もちろん、ここは圭介君と一緒じゃないよ)寝る。朝起きたときに母が帰ってきていたら母と朝食を摂り、母がいなければ一人で済ませて登校。といった感じ。
母子家庭になっても全く変わらない日常だったの。
そんな日常にも変化は訪れる。両親の離婚から半年ほど経ったころに、突然、母が男の人を我が家に連れてくるようになったのだ。
私がある程度その男の人に馴れた感じになったとある日、
「ひなちゃんの新しい父さんになってもいいかな?」
と訊かれた。
私はそれに対して、ただただ大きく頷いた。
だって、優しかったし、いろんなものを買ってきてくれたりして、初めて”お父さん感覚”を味あわせてくれたくれた人だったんだもの。
ほどなくしてその男の人は新しい父となり、わたしは 松田ひな と名前を変えた。
そして、私と母は新しいお父さんの住むマンションへと移り住んだ。
引越ししたことによって、第二の家とも言えた大野家とは接点がだんだんと消えてしまって、中学校が圭介君と違う学校になったことで、交流は完全に途絶えてしまった。
そしてその後、私たちは新しい父と幸せな中学生活を迎えました・・・
とはならなかった。
再婚を機に、母は夜の仕事を辞めて専業主婦になったのだが、家族三人で楽しく過ごす日々はそう長くは続かなかった。
両親が些細なことで口喧嘩をするようになり、次第に顔を合わせれば罵りあうようになって、しまいには暴力が始まった。
それは地獄の様な日々だった。
新しい父が母へ手を挙げるようになると、それは日増しに激しいものへと変わっていった。
私はただただ怯えるだけで、なるべく与えられた自分の部屋へと逃げるようにしていたんだけど、新しい父の暴力は徐々に私へも向けられるようになっていった。
「そんな目で俺を見るな」
「お前も母親と一緒だ」
新しい父はそう言って私を殴ったり蹴ったりしてきた。母は懸命に私を守ろうとしてくれたけど、そのあとは決まって一層ひどい目に母があわされていた。
あんなに優しかった新しい父が、なんでそうなってしまったのかは未だにわからない。母は「あんな人とは思わなかった」と言うだけで、私に謝罪するばかりだった。
地獄の日々が続くようになって、新しい父が仕事に出かけている隙に母は動いた。私を連れて警察へと駆け込んだのだ。
警察に入ると「暴力相談支援センター」というところを紹介された。そこで母が事情を説明すると、二人が逃げ込む場所を用意してくれるという話になった。
それから、二人は新しい父に気取られないように細心の注意をしながら、脱出する準備を整えると、私たちは新しい住処へと逃げ込んだ。
そのあとは、弁護士が間に入って話を進めて、数日後には離婚が成立した。
慰謝料を請求できるようにも持っていけるという話もあったようだけど、もう一切の関りを持ちたくないという母の強い思いから、「今後、一切、二人へ介入しない」という条件のみの縁切りとなった。
そうして私はまたまた名字が変わり、母の旧姓である 飯田 を名乗ることになったのである。
母は「暴力相談支援センター」から「職業訓練校」という再就職支援の機関を紹介してもらって、職業訓練校の中でも介護系の学校へ通うことにした。
授業を受けながら生活費ももらえて、三か月後には資格も取得できるというもので、母子家庭で無職の母には願ってもない支援だった。
三か月後、母はヘルパーの資格を貰って介護施設の職員として働き始め、ようやく二人の生活は落ちついたものになっていった。
中学三年生になると、卒業後の進路の話が具体的なものになってくる。
母は、
「行きたい高校を受験しなさい。もちろん、先生と相談してだけどね」
と、進学を進めてくれはしていたが、なんとなく「無理してるっぽいなあ」と私は感じ取っていた。
受験費用と入学してからの授業料。高校は中学と違って義務教育ではないので支出が増える。
公立高校でも授業料などのいわゆる教育費というものは5万円ぐらいかかってしまうのだという。
母子家庭支援があるとはいえ、今以上に支出が増えるとなると我が家の家計は火の車に油を注ぐようなものなんだろうなあ。と、私は想像した。
「ちゃんと高校に行って、そのあとは大学に進まないと、今の世の中大変なんだってよ」
などと母は言ってくれるけど、私は私で母に負担をかけたくないという思いが大きくて悩んだ。
とりあえず、塾には行かずに自力で勉強をがんばり、高校受験を成功させる努力をしようと思った。クラスの他の子たちのほとんどは塾通いをしていたが、ウチにとっては塾の費用を捻出するのも大変だろうと思って「塾なんていかなくても私は大丈夫だから」と母にはアピールして「塾にも行かせてあげなきゃ」と母が思わないようになんとか頑張った。
公立高校と私立高校の学費の違いが10倍ぐらいあるということを知ったのも、私を奮い立たせる要因のひとつとなった。
-なんとしてでも公立高校に合格する-
-母に負担をかけない-
その一念で私は(私なりに)頑張った。
受験する高校を決める時期がきて、そのころには私の努力は報われていた。
先生曰く、
「中堅クラスの高校はまず間違いなく合格できるだろう。もうちょっと頑張れば、もっと上のクラスの高校にでも行けると思う。試験でヘマしなければね」
しかし、私は確実に入れるラインの一校に絞った。そして、滑り止めは受けないことに決めた。
そのころから、何となく母の表情が一層曇ってきているような気はしていんだけど、
-やっぱり経済的に厳しいのかな-
と思って、何か悩みごとがあるのかを訊ねることはしなかった。
中学卒業まであと数日となったある日、
「また夜の仕事してもいいかな?」
と、母は言ってきた。
「今の介護の仕事も、夜勤を月に何回かやれば少しは給料も上がるらしいんだけど、それもたいした額じゃないのよ。やっぱりね、夜の仕事のほうが稼ぎはいいのよね。貯金できるぐらいの生活にしていかなきゃならないしね」
母の悩みはやはり経済的なことだったみたいだけど、介護の仕事そのものがあまりうまく行ってないような気もした。
母にもいろいろと考えがあって出した答えなんだろうから、反対はせずに「私もなるべく負担にならないようにするから、母の思うようにしていいんだ」ということを私は告げた。
福祉の仕事は、福利厚生はある程度しっかりしてるらしいが、年収となるとかなり低い部類だということは聞いたことがあった。
私が中学を卒業することで打ち切られてしまう支援もあるみたいで「娘を大学にまで行かせてやりたい」という母心がこの決断になったんだろうなと思った。
「絶対に無理はしないで 、お母さんの好きにしたらいいと思う。私も高校に入ったらバイトとかするから」
と、私が母に伝えると、
「夜の仕事もいつまでもできるわけじゃないしさ。出来るうちに稼ごうと思ってさ」
母はそう言っていた。
のちに私は介護業界のことをもっと詳しく知るようになるんだけど、そうなってから母から当時の話をいろいろと聞かせてもらって初めて合点がいく話だったのよ。これが。
その時はただ
-そんなに介護の仕事って給料安いのかなあ-
-なんか嫌なこととかあるのかなあ-
なんて、漠然と思うだけだったんだけどね。
ともあれ、私にとっての頼みの綱は母だけ。母に心労で倒れられたりしたらどうにもならなくなってしまう。だから、なるべく心の負担を抱え込まないよう、母の思うようにやってもらって、私は私で出来ることをやっていく。
今は「高校受験を成功させる」「ほかに負の因子は作らないようにする」これしかなかった。
春が来て、晴れて私は公立高校の生徒になれた。
母は介護の仕事を辞めて、夜の仕事へと戻った。
私とはまた、すれ違いの生活となった。




