北の魔女と名もなき英雄
腕の中ですやすやと眠る赤子を、一人の母親が愛おしそうに見つめていました。赤子にはまだ名前がありません。母親は、赤子が生まれる前からずっと、この子にふさわしい名前を、たくさんたくさん考えていました。優しい子になってほしい。強い子になってほしい。賢い子に、人を愛せる子に、人から愛される子に、健康に、食べ物に困らないように。願いはあふれて尽きることがありません。彼女につける名前が、どうか彼女の人生を導く光となりますように。母親は赤子の頬にキスをすると、そっと語り掛けるように言いました。
「あなたの名前は……」
私に呼ばれぬ名前など、すべて消えてしまえばいい
世界中にそんな声が響いた瞬間、人々は名前を失いました。
これは今からずっと昔、魔女や魔法や英雄たちが、今よりもずっと身近だったころのお話です。
とある国の、町の外れの森の中に、一人の若者が住んでいました。生まれてすぐに森に捨てられ、森に一人で住んでいた老婆に育てられたその若者には、名前がありませんでした。老婆はどうしてか、若者に名前を付けてはくれなかったのです。老婆は若者に食べられる木の実の採り方や、きれいな水の湧く泉の場所や、狩りの仕方を教え、若者が一人で生きていくことができるようになったことを見届けると、役目を終えるように息を引き取りました。誰から名前を呼ばれることもなく、誰の名前を呼ぶこともなく、若者は人の踏み込まぬ森の奥で、ひそやかに日々を送っていました。
よく晴れた春の日のことでした。若者はいつものように、森で木の実を集めていました。必要な量の木の実が集まり、そろそろ帰ろうかと若者が空を見上げたとき、突然、若者の耳に声が響きました。
私を呼ばぬ名前など、この世から消えてしまえばいい
私に呼ばれぬ名前など、すべて消えてしまえばいい
誰も私を呼ばぬなら、
名前などすべてなくなってしまえばいい
その声は、年若い女の人の声のように聞こえました。その声には、強い怒りがありました。激しく叩きつけるような調子で、声は『消えてしまえばいい』と繰り返しました。若者はその声を聞いて、とても不思議に思いました。その声は、名前というものに強くこだわっているように思えたのです。生まれてから今まで一度も名前を持ったことのない若者には、名前を呼ばれるということの意味も、価値も、まるで想像のできないことでした。
若者は旅に出ることにしました。誰とも分からぬ声の主の、名前を知りたいと思ったのです。小さなカバンにわずかな荷物を詰めて、若者は生まれて初めて森を出たのでした。
若者はまず、森の一番近くにある小さな町に立ち寄りました。若者は、彼が名前を知りたいと思う『彼女』のことを何も知りません。町に住む人なら、『彼女』のことを何か知っているかもしれないと思ったのです。
昼間だというのに、街の中は閑散としていました。人の話し声もまばらで、どこか疲れたような雰囲気が町全体を覆っています。たまに誰かが通りがかることがあっても、みな足早に、顔を伏せて通り過ぎるばかりで、とても話を聞いてくれそうもありません。若者は辛抱強く、話を聞いてくれそうな人を探しました。するとしばらくして、大きなカバンを抱えた一人の男がトボトボと歩いている様子が若者の目に留まりました。男は道の真ん中で歩みを止めると、天を仰いでため息を吐きました。若者は思い切って、男に話しかけてみることにしました。
「どうかしたのですか?」
急に話しかけられて、男は少し驚いたようでしたが、苦笑いのような表情を浮かべて若者に答えてくれました。
「ああ、申し訳ない。ちょっと途方に暮れてしまってね」
男は郵便配達員だと言い、肩から提げた大きなカバンをポンポンと叩きました。カバンの中には、差出人から預かった手紙や荷物が詰まっています。しかし今、郵便配達員の男はカバンの中身を届け先に届けることができずにいました。
「名前がないっていうのが、こんなに不便だなんてね」
郵便配達員の男の声からは、疲れ切った様子がにじみ出ています。なにせ、荷物の届け先を探して、朝から晩まで、何日も走り回っていたのです。しかしなかなか届け先に辿り着くことはできません。名前、つまり、相手を特定するための情報がなくなってしまったからです。
世界に『彼女』の声が響いた日に失われたのは、人々の記憶の中の名前だけではありませんでした。紙に書かれた名前も、石に刻まれた名前も、すべて消えてしまったのです。さらに困ったことに、人々は新たに名前を付けることさえできませんでした。言葉が名前として機能した瞬間、つまり、ある人を指し示す固有の言葉として使われるようになった瞬間に、その言葉はこの世から消えてしまうのです。
そんなわけで、手紙に書かれた差出人も宛先も、それが誰かを特定できる言葉を書けなくなってしまいました。今、郵便配達員のカバンに入っている手紙はすべて、『東に住む黒い髪の女』から『西の町のお店付近に住む人』へ、というような、誰から誰への手紙なのかが分からない書き方になっています。郵便配達員はそのぼんやりとした情報から、宛先であろう場所を一軒ずつしらみつぶしに回るしか方法が無いのです。そして、そうやって町中を駆け回っても、宛先に辿り着けることはほとんどないのです。
「間違ったお届け先に届けるわけにもいかないし、困ったもんだよ」
そう言ってため息を吐くと、郵便配達員の男は重たそうなカバンを大切そうに抱えなおしました。
若者は郵便配達員の男に、名前を奪った『彼女』のことを聞いてみることにしました。郵便配達員の男は腕を組み、俯いてしばらく考えていましたが、ああ、と言うように顔を上げました。
「そういえば、南の方はあの声、ほら、消えてしまえばいいってあれ。よく聞こえなかったって人が多かったなぁ。もしかしたら、声の主は北にいるのかもしれないね」
若者は郵便配達員の男にお礼を言うと、北へと向かって歩き始めました。
若者が次に訪れたのは、最初の町とは比べ物にならないほど大きく、人の数も多い都市でした。若者が市の中央広場に着いたとき、広場にはたくさんの人が集まっていました。人々の輪の中心では、いい年をした男たちが何か言い合いをしているようでした。若者は近くにいた人に、いったい何事かと聞いてみることにしました。人の好さそうな小太りの中年男性は、若者の問いに親切に答えてくれました。
「今日はこの都市の行政官を決める入れ札の日なんだ。入れ札ってわかるかい?」
入れ札とは、都市の住民が行政官にふさわしいと思う人の名前を紙に書いて投票することで、地位や財力に関係なく、きちんと能力のある人を行政官にするための仕組みです。書かれた名前が一番多かった人が、住民に一番支持された人間として、行政官になるのです。しかし今、世界から名前が消えてしまったことで、入れ札の仕組みはまるでうまくいかなくなってしまいました。
「札に名前が書けなくなって、みんな『口髭の男』だの『髪が茶色い奴』だのって書いて投票してしまったんだ。だからほら、向こうで候補者同士が、『この札は自分のことを指しているんだ』ってお互いに譲らないんだよ。これじゃ、いつまでたっても行政官が決まらないだろうなぁ」
入れ札の候補者たちは、ついに取っ組み合いのけんかを始めてしまいました。周囲の人々は顔をしかめ、あるいは無責任にはやしたてています。男性は疲れたようにため息を吐きました。
「名前が無いのがこんなにも不便だなんてね。魔女がどうして名前を奪ったのかはわからないけど、まったく迷惑なことだよ」
「魔女?」
若者は男性の言葉にそう聞き返しました。男性は当然のように言いました。
「こんなことができるのは、魔女以外にはいないだろう。ここからずっと北の、一年中雪が降っているところに、魔女が棲んでると聞いているよ。名前を奪ったのはきっと、その魔女に違いないさ」
肩をすくめる男性にお礼を言って、若者は歩き始めました。魔女が棲むという北の地は、ここからまだ遠い場所でした。
それから若者は、北を目指して歩き続けました。旅の途中で若者は様々な町を訪れ、たくさんの人に出会いましたが、人々は疲れ、苛立ち、嘆き、諦めているようでした。名前を失ったことで、人々は皆、自分が何者なのか、分からなくなってしまったようでした。
若者は一年のほとんどを雪に覆われた、厳しい北の地に辿り着きました。ここは北限の村。人が住まう場所の中で、世界で最も北にある村です。びゅうびゅうと吹き荒れる風が容赦なく雪を叩きつけ、心まで凍てつくような寒さの中を、若者は独り、歩いていました。どの家も扉を固く閉ざし、息をひそめるように暮らしています。村の通りをしばらく歩いていると、風に弄ばれるように激しく揺れる、枝で編まれた吊り看板が若者の目に留まりました。吊り看板はそこが宿であることを示す印です。若者はほっとしたように息を吐くと、宿の扉を開きました。
宿の中は暖炉に火がともり、外とは別世界のようです。体に降り積もった雪を払う若者に、宿の主人が声を掛けました。
「こんなところまでよくおいでになりましたね。さあ、まずは暖炉でしっかりと温まってください」
まだ若い主人は若者を暖炉の前まで案内すると、厨房の奥へと引っ込みました。暖炉の傍には若者の他にもう一人、まだ小さな赤子を腕に抱えた女性が座っていました。すやすやと眠る赤子とは対照的に、女性の顔はどこか暗く、辛そうに見えました。若者は女性に声を掛けました。
「どうかしたのですか?」
女性は顔を上げると、悲し気に微笑んで若者に言いました。
「この子には名前が無いの。この子に名前を付ける前に、魔女が世界から名前を奪ってしまった」
女性は赤子に視線を落としました。赤子は何の憂いも無さそうに眠っています。
「この子が生まれる前からずっと、この子の名前を考えていたの。
どんな名前がいいだろうって。
たくさん、たくさん考えたのよ。
それなのに、全部忘れてしまった。
愛しているのに。
こんなにも愛おしいのに。
私はこの子に名前さえあげられないの」
女性の目から、一粒の涙がこぼれました。
「もし、私の愛がもっと強かったら、
私はこの子の名前を忘れずにすんだのかしら?」
若者は女性に、魔女の居場所を尋ねました。女性は涙を拭うと、若者に目を向けて言いました。
「この村の北西、凍る湖の中心に、氷でできたお城があるそうよ。
そのお城には、魔女が一人で棲んでいると聞いたわ。
誰も、実際に見た人はいないけれど」
若者はお礼を言うと、宿を出るために女性に背を向けました。
「魔女を、退治しに行くの?」
若者は振り返り、首を横に振りました。女性はほっとしたように息を吐きました。若者は宿の扉に手を掛け、雪の吹き荒れる外の世界へと再び踏み出しました。
宿を出る若者の背に、女性のつぶやくような声が届きました。
「名前を与えられなかった子と、名前を忘れられた子。
いったいどちらが可哀そうなんだろう」
若者はついに、魔女が棲むという氷のお城へと足を踏み入れました。お城の中は床も柱も天井も、すべて氷でできた色のない世界でした。若者の目の前には氷の階段がはるか頭上へと続いています。そして、他には何もありませんでした。凍えるように冷たい氷のお城は、政を話し合う会議場も、荘厳な礼拝堂も、きらびやかなダンスホールも、何もありませんでした。お城は、まるでお城のことを知らない誰かが空想だけで造ったような、いびつな形をしていました。若者は目の前にある階段を登り始めました。
「よもやこの城に辿り着く者がおろうとはな」
若者の頭上から、つまらなさそうな声が降ってきました。若者が足を止めて見上げると、氷の階段の先に氷でできた玉座があり、そこに一人の少女が座っていました。少女の蒼い瞳が若者を無遠慮に見つめます。その瞳はすべてを見透かせるような、不思議な光を湛えていました。しばらくじっと若者を見つめていた少女は、やがてわずかに嬉しそうな色を顔に浮かべて、そっけなく言いました。
「ふん。お前、名が無いのか。
哀れな奴だ。
誰からも呼ばれず誰を呼ぶこともないお前が、
この私にいったい何の用がある?」
若者は少女をまっすぐに見つめ返して言いました。
「あなたの名前は何というのですか?」
「私の、名前は……」
まるで不意を打たれたかのように、少女は呆然とそう呟きました。少女はしばらくそうして若者を見つめていましたが、突然、何かに気が付いたように目を見開き、そしてひどく傷ついたような、今にも泣きそうな顔になりました。
彼女は気付いてしまったのです。
自分が人に何を求めていたのかを。
少女は目に涙を浮かべ、可笑しそうに、大きな声を上げて笑い始めました。氷でできた冷たいお城の中に、少女の笑い声が響きます。若者は静かに、少女を見つめていました。少女は苦しそうに息を吐きながら笑い続けた後、今度はキッと厳しい表情で若者を睨み据えると、怒りと嘲りを装った声で、叩きつけるように言いました。
「誰が、誰が教えるものか!
私の、この大切な名前を!」
そして少女は、傲慢な、見下すような瞳で、侮るように口の端を歪めました。
「お前に名前を与えてやろう。
愚かなお前にふさわしい名前を。
世界から名前を奪った悪しき魔女をお前が葬ったと知れば、
世の者どもはお前を何と呼ぶのだろうな?」
少女のその言葉と共に、まるで若者と少女を隔てるように、大きな赤い炎が立ち上りました。炎は氷で作られたお城をみるみる溶かしていきます。炎は風を巻き起こし、ごうごうと大きな音を立てました。
若者は大きく息を吸い、息を止めて、目の前の炎の中に飛び込みました。風に逆らい、炎をかき分けて、彼女の許へ。炎が肌を焼き、髪を焦がしても、若者はひるむことなく進んでいきます。炎の壁を突き抜け、若者は少女の前に辿り着きました。
「どうして……?」
驚きに目を見開いて若者を見つめる少女の右手を掴み、若者は言いました。
「行こう。ここにいてはいけない」
若者の言葉に、少女の瞳が揺らぎます。やけどの痛みに、若者は小さく呻き声を上げました。少女はかすかに微笑んで、左手でそっと、若者の胸を押しました。それは少しも強い力ではなかったのに、若者はよろめき、一歩だけ後ろに下がりました。強く掴んでいたはずの少女の手は、まるですり抜けるように、若者の手を離れました。若者と少女は、ほんの一歩ぶんだけ、離れてしまいました。そして。
――バキバキバキバキッ!
すさまじい轟音が響き、若者と少女の立つ氷の床に深い亀裂が走りました。亀裂は若者と少女の間の、わずか一歩ぶんの隙間を分かつように広がります。そしてついに、少女の足元の床が崩れ、少女は砕けた氷と共に落ちていきました。若者は精一杯手を伸ばしましたが、その手がもう一度少女に届くことはありませんでした。
落ち行く少女を為す術なく見つめる若者に向かって、少女の唇がわずかに動きました。しかし、崩壊する氷の城が立てる轟音は少女の声をかき消し、若者は彼女の最後の言葉を聞くことができませんでした。少女の姿はあっという間に若者の視界から消え去り、崩れた天井が彼女を覆い隠すように降り注ぎました。若者は俯き、唇をかみしめると、踵を返し、城の入口へと駆けだしました。やけどはもう、きれいに癒されていました。彼女がそっと、その胸に触れた時に。
魔女の城から戻った若者を、人々は歓呼の声で迎えました。人々は若者が魔女を滅ぼしたと、その勇気を口々に称えました。人々はまるでその場にいたかのように、若者が魔女を『退治する』様子を見ていたのだと言いました。若者が炎に飛び込み、魔女を追い詰めるその姿を。まるで魔法のように、目の前にその映像が見えたのだと、そう言いました。そして人々は、魔女を滅ぼした若者を、『英雄』と呼びました。
人々は若者を王に戴くことを望みましたが、若者は地位も、名誉も、財もすべて拒み、人々の前から姿を消しました。若者は旅を続けました。なぜなら、若者が森を出て旅を始めたのは、『彼女』の名前を知るためだったのですから。
北の国の果て、かつて魔女の城があった場所には、今、小さなお墓が二つ並んでいるといいます。一つはやや大きめのお墓で、もう一つは少し小柄なお墓だといいます。やや大きめなお墓には名前が刻まれておらず、小柄なお墓には一つの名前が刻まれているのだといいます。その名前は、古い古い北の国の言葉で『幸福』を意味するのだと、そう、伝えられています。




