096 春告神事1
明けて水追月の一日、早暁――。
窓辺の手摺に連雀の囀る声。眠たい目を擦れば、ほとんど眠れず仕舞いだった疲れが頭にモヤッと霞をかけて重ったるい。
時計を見れば五時。素走詣まで一時間しかない。その事実に自ら平手を繰り出してバッチリと目を覚まし、隣で寝こける放谷をひっくり返しては憂さを晴らした。
そして吠える――。
「なんだったの昨日のは!? 神旨を破ったって誰が!?」
昨夜、無理にでも寝ようと布団に潜った途端の出来事。まるで頭の中で爆竹でも鳴らされたかのような衝撃に襲われ、私は元より、西風さん、阿呼、放谷、小鉤ちゃんと、居合わせた全ての神が跳び起きるという騒動があった。
すわ何事か。万が一には五つ帆の丸の連中が仕掛けて来たかと、手首の輪違をしっかり握って警戒したものの、それっきり何も起こらない。
しばらくの間を置いて西風さんが、噫乎、と手を打って腑に落ちたところを語ってくれたのだけど、それが驚天動地の話で私の思考は完全に停止した。
曰く、どこぞで誰とも知れぬ神が神旨を破ったのだと言う。それを報せる衝撃が八百万の神々に届けられたのだと。
いやいや、誰ですか! ええ!? 何してくれちゃってるの?
「お姉ちゃん落ち着いて。その話は転宮に参詣してからっていうことになったでしょ?」
「そうだけど……」
「そうですみ。じきに大事な素走詣。小鉤は一足先に媛様の所へ行きますみ」
「あ、じゃあお姉ちゃん。茅の輪を立てて上げて」
「はーい」
まったくどうかしてる。
神旨は神々が奉じる唯一の権能とまで言われるものだ。そりゃあ私だってそれをどうにかひっくり返せないものかと考えはしたけど、こうもスッパリキッパリ破って捨てる神がいようとは――。上り坂に下り坂。そして人生に三つあると言われる坂の三つ目、まさか、が勃然と現れた思いだ。
「それでは後ほど、またお会いしますみ」
私が考え事をしながら立てた茅の輪をするりと抜けて、小鉤ちゃんはウキウキと忍火媛の元へ去って行った。
「おはようございます」
銘々挨拶を交わして朝餉の膳に着くと、余った小鉤ちゃんの分は当然のように放谷の膳に横付けされていて、なんだかなあと思わず苦笑い。
放谷は平常運転だ。昨日の騒ぎなど知らぬ顔の半兵衛である。西風さんを見ても阿呼を見ても平静普段の面持ちで、落ち着かないのは私一人。
「すーちゃんどうかしたの?」
「ん? ううん、なんでもないよ。ただ、今日はこれからひとっ走りしなくちゃだから、それで多少緊張はしてるかな」
「神様でも緊張するんですね」
「そりゃそうよ。だって想像してみてよマウロ。今までは人知れず旅をして来たのに、今日に限って大勢が見てる中をだよ? しかもそれをやれって言われたのが一昨日だからね?」
「お姉ちゃんくどい。六時には素走詣が始まるんだから、早く食べちゃって」
「あ、はい」
手厳しい。時間が差し迫ってるから仕方がないけど、もうちょっとお姉ちゃんに優しくしてくれても罰は当たらないのに。
さて、食事が済んだら朝風呂代わりに清水の御業でさっぱりして、髪に櫛を入れ、浴衣姿に羽織を羽織って窓辺に集合。参道の様子を覗き込むと、昨夜の宵宮にも増して朝も早くから大混雑だ。
今朝の囀りを聞かせてくれた連雀ばかりか、様々な小鳥たちがどの宿の欄干にも目白押しに並んでいる。正に鳥のお座敷だ。
「屋根の上もずらりですね」
野足の言葉に向こう伝いの屋根を見渡せば、そこには大小の鳥たちばかりではない。犬、猫、鼠に狐や狸。そうした動物たちの頭に蛙や蜥蜴といった小動物まで混ざり込んで、兎の丸い糞が屋根瓦をコロコロと転がり落ちて行く様子まで見えた。
「動物だらけ! こんなの見たの初めて。凄い凄い」
興奮気味のエレンに肩を揺すられ、夢を見ているような気分が遠ざかる。ゴクリと喉奥鳴らして水路を見れば、辻ごとの渡し板はどけられて一直線に水の参道。ここを舟で渡るのかと、一気に現実に引き戻された。
改めて沿道を窺うと建物沿いはびっしり人の列。どの路地合いも混雑していて、そこに紛れる動物を私は二度見してしまった。
「うわっ、熊がいる!」
「えっ、どこどこ?」
「いた! 夜来は熊さん見るの初めて」
鳥居の内だからご神域ではあるけれど、外神域だから安全を保障されているのは蛇だけ。おかしな騒ぎになりはしないかと危ぶんだものの、熊が出ようが虎が出ようがお祭り気分は毛筋ほども揺るがない様子。
恐らく毎年の光景なのだろう。後ろ脚で立つ熊の頭に鵲が留まる。次いで肩口に栗鼠が駆け上る。すると小さな子が胸元の月毛を撫でて、その子の隣にひょっこり出てきた仔熊が立つ。そうなるともう熊の親子はすっかり景色に馴染んで、避けて通る人もない。
人も鳥も獣も、生きとし生けるものが春の到来を待ち望んでいるのだ。
「みんなも熊さんに会ってくれば? 中々ないよ、こんな機会」
「行ってみたいけど、今出てったら戻ってこれなくない? 神様の行列を見るならここが一番よ。ほら、一の鳥居が目の前だから、神様が参道に入って来るところもバッチリ見られる」
エレンが指差す先には調査局をバックに立つ一の鳥居。転宮の鳥居は両脇に小さな鳥居を寄せて付けたいわゆる三輪鳥居だ。今、水路を跨ぐ朱の鳥居には大きな茅の輪が嵌め込まれている。貫から吊り下げられ、両の柱に括り付けられて宙に浮かんだ格好だ。これからその茅の輪を潜って神々が参道に入って来る。
「もう蟄二ツの鐘鳴った?」
「鳴ったなー。朝餉を済ませて直ぐくらいだったぞー」
「じゃあもう本当に直ぐだね」
蟄二ツは五時半を告げる鐘だ。大嶋の時間は今でこそ二十四時間を数字で表すけど、渡人の到来以前は月三ツの零時から一日が始まって、一ツ二ツと三十分おきに鐘で刻まれていた。
月の刻、縄の刻、蟄の刻、波の刻、露の刻、土の刻、駈の刻、風の刻、鉄の刻、霧の刻。
一刻は三〇分刻みに四ツまで数えるから都合二時間。但し、縄の刻と土の刻は八ツまであるので、全て合わせて二十四時間になる。縄と土が八ツまであるのは、縄は蛇で水走、土は象で赤土と、それぞれ架け月を持つ季節に対応しているからだ。
「最初は水走の神々で早い者順なのよね?」
「そう。お宮の順番は関係なしに、鶯が鳴いたらよーいドンで順番が決まるんだよ」
「じゃあマウロはどの神様が一番か当てられる?」
「とうかなあ。やっぱり十の柱の神様だとは思うけど、速さで言うなら蜻蛉の秋津大社とか、斑猫の道程神社。あとは雀蜂の針羽神社あたりかな」
「何よ、全部虫ばっかりじゃない。すばしっこいのと速いのとは別でしょ?」
「ならエレンはどこだって思うのさ」
「やっぱり鳥の神様なんじゃない? 神社には詳しくないけど、きっとそうよ」
若夫婦よろしく睦まじいマウロとエレン。二人の会話を聞きながら私も頭の中で予想を立ててみると、浮かんで来たのは早さとは縁のない蛙の神様。水走の旅で一番の仲良しになった谷蟇神社の痲油姫だった。
けれど彼女は十の柱の神様ではない。八つの地方には一宮に続く有力な十の神社があって、それを束ねて八十柱の神々と称す。水走の八十柱は鶴、亀、鶯、蜻蛉、斑猫、翡翠、葦切、雀蜂、あと二つはなんだっけ? 忘れた。
喉に小骨が引っかかった思いでマウロに残る二つを尋ねようとしたら、参道に歓声が湧いて獣の耳を震わせた。
「来たぞ来たぞ! 春告様のお出ましだ!」
「いよっ、啼き千両!!」
どよめき立つ沿道に|蟄三ツの鐘が鳴り響き、北の空に大きな影が差した。
明けて間もない空色を塗り替えたのは一群の鳥だ。数知れぬほどの鳥が一つの生き物のように滑らかな群舞を繰り広げて、やがてその先兵が一の鳥居の棟木を占拠。余す群も方々の屋根や梢に舞い降りた。
ホー、ホケキョッ、ケキョケキョケキョ、ホー、ホケキョッ――。
一斉の声。その中を風切羽で羽音を立てて、尚も鶯の群が飛んで行く。
沿道からは役者に向けて屋号を鳴らすような声が次々響き、よく通る澄やかな鶯の歌が、まるで滝のように後から後から降り注いだ。
「始まった!」
「茅の輪が光ってる!」
野足と夜来が期待に目を輝かせて欄干から身を乗り出す。それに釣られて私と阿呼、マウロとエレンも欄干に手をかけて一の鳥居を覗き込んだ。
「お兄ちゃん邪魔!」
「分かったよ」
「マウロも!」
「ええ……」
何かと強い女性陣に押され、野足とマウロはそそくさと場所を譲る。一の鳥居側から見て夜来、エレン、マウロ、野足と並び直すと、雨と降る鶯の声に混じって梅の香りが鼻腔を抜けた。参道を吹く風に花を付けた細い梅が枝が撒かれたのだ。
幻ではない。初めて目にする四人は元より、参道に立つ誰もが知らぬことだけど、古くはこれが春告神事の始まりの合図で、春告宮の神々による花の振る舞いなのだった。
「取れた! この枝本物だっ」
目を輝かせるマウロを見てエレンも負けじと梅が枝に手を伸ばした。躍起になって浴衣の袖を乱す傍ら、鳥居に括られた茅の輪が若草色の輝きを強めて行く。
「来た!」
弾けた夜来の声に振り返るエレン。その視界に鮮やかな神紋が飛び込んだ。
「御神紋! マウロ、どこの!?」
「えっ、分からないよ」
「あれは行行神社です」
野足の言葉を裏付けるように沿道からは次々に声が上がった。
「いよっ、行行子!」
「今年の一番乗りは屋建様だぁ」
葦原に住まう小さ神のお社は行行神社。御神紋は巣壺に三つ卵。
壺型のしっかりとした巣を編む葦切は別名を行行子と言って、水走では家を建てる時に必ず祀られる神様だ。屋建様を祀って建てた家は水害に強いと信じられていた。
ブワッ――。
御神紋の巣壺が弾けて光で編んだ葦が派手に舞いながら消えて行く。その最中、転がり落ちた卵が割れて中から一斉に葦切が飛び立った。
小鳥特有の高い声が突き抜けるように参道を渡り、その音を追い越す勢いで葦切たちが二の鳥居を目指す。
高く低く、中には欄干や小屋根の鳥たちを誘うように近付いて戯れ遊ぶ葦切たち。そのどれもが若草色の曳光を流して、鮮やかな軌道を派手に描けば、見ている側は圧倒されてしまう。
「うわー、凄い! きらきらしてるっ、やばい!」
エレンの歓声こそ私の気持ちの代弁だ。すると隣で不思議顔をしていたマウロが言った。
「首刈様。これって本当に素走詣なんですか? 僕、今の今までただの一度も、春告神事にこんなに派手な催しがあるだなんて聞いたことなかったです。だってこれ、梅の枝も光る群舞も、全部御業ですよね?」
「いいところに気が付いたね!」
「え?」
「今年は特別なの! よく目に焼き付けておくといいよ。今見てるのは、五百年以上も前の、本当の素走詣なんだからっ」
ねっ、と振り返れば西風さんが大きく頷いて、驚き顔のマウロは食い入るように参道に目を戻した。
今年は特別。八大神と皇大神の参詣が復活するという点を含め、派手に御業で魅せる本来の振る舞いへと立ち戻ったのだ。
渡人の仕掛けた戦以降、八大隠遁の時代に於いては、それまで当たり前のように見られた方々の神事に於ける御業の振る舞いも、今日までことごとく自粛の波に呑まれていた。それが融和策を契機に神々の長と目される夜刀ちゃんの一声によって塗り替えられた。
故に今年は格別の素走詣。無論、今年ばかりではない。私の望む融和が成れば「今年からは元通り」と言えるようにもなる。それをこそ目指してみんなで頑張るんだ。
「それにしても凄い盛り上がり」
「阿呼もびっくり。でも楽しい!」
葦切と共に飛び立った小鳥たちを見送って、私は空いた欄干に腕を掛けて参道を眺め渡した。
手に手に梅が枝を振って、どの顔も明るく輝いてい見える。如何にこの神事に慣れ親しんだ大巳輪の住人であっても、五百年前の春告神事を知る者はいないのだから当然だ。
「お姉ちゃん、次が来た! 見て、水毬姫のお社じゃない?」
見れば茅の輪から次々と現れる水鳥達。先程の葦切たちとは打って変わってゆったりと水路を泳いで行く。色様々な鴨の群。鸊鵜に鴛鴦、大鷭や雁たち。
やがて一斉に水面を蹴って羽搏くと、茅の輪からは一際大きな影。かつて合戦神事を戦った薦敷水毬姫命の登場だ。
雨模様の着物の背に大きな翼を広げて悠然と舞う女神。水鳥の立てた飛沫は水毬を結んでシャボン玉のように沿道を舞い、見物客の手が伸びればぱしゃりぱしゃりと弾けて消えた。
「水毬さーん!」
欄干から乗り出してぶんぶんと手を振れば、あの艶やかな流し目でチラリと私を見てくれた。
そこから先はもう次から次へと後を断たずに賑やかな行列が数珠繋ぎ。水路を行く神、沿道を走る神。どの行列も華やかな御業を紡げば歓声の波を率いて参道を渡って行く。
谷蟇神社の痲油姫は従神の担ぐ神輿に乗って水芸を披露した。扇子の先から自在に流れる水は、御業の妙で小さな虹を幾つも描いて参道を煌びやかに彩って行く。お神輿を先導するのは瀬所丸さん。一人だけ例の蛙頭で登場して、すっかり子供たちの人気者だ。
その後もどれだけいるのかと思える神々の参列が続き、取り分け有名所の神様が現れると水路の間際まで人が迫り出して危なっかしいくらいだった。
転宮街道の守護と言われる道程神社の斑猫トーテム。
清流の守護とされる翡翠、山翡翠、赤翡翠などを祀った翡翠トーテム。
中でも特段の盛り上がりを見せたのは水走二宮、田鶴音神社の鶴トーテムだ。向鶴紋が茅の輪に浮いた途端、割れんばかりの大歓声。美しく舞い踊るつがいの鶴の参列に、私もすっかり魅了されてしまった。
「で、次が八頭姫か。鶴の次だとやりにくそう」
思わず本音を漏らした私の度肝を抜いて、例の怪物バージョンで八頭姫が現れた。当然周囲は息を飲む。八つの大山椒魚の頭を持つ姿は神かはたまた物の怪か。
「お化けじゃん!」
「こらこら、神様だよ」
後退るほどドン引きのエレンに注釈入れて、せめて御業の一つでも使って和ませてくれないものかと期待するのだけど、八頭姫は八方藪睨みのインパクトだけを残して、氷撫で凍らせた水路の上をのっしのっしと進んで行った。
そうこうして優に三時間は過ぎた頃合い。百以上の参列を経て茅の輪に浮かんだ御神紋は閑野生の子孫背負い亀。
「お姉ちゃん、三宮!」
「やっと来たね、石臥女さん!」
待ってましたと拍手を鳴らせば、沿道には宴も酣といった空気が漂い始める。よくよく獣の耳をそばだててみると、
「石亀様でいよいよ終わりか」
「毎年取りは三宮だからねぇ」
なんて会話がちらほら聞こえる。足の遅い亀だけに参詣の早さを競う行列の最後尾が定位置と化しているのだろう。青亀が水路を泳ぎ、草亀が沿道を歩く中、御神紋の如く子亀と孫亀を乗せた大きな亀が泳いで行く。
「ひょっとしてあの亀が石臥女さん?」
「ええ。甲羅の色がいつも着ている御召茶色の着物と同じでしょう」
西風さんの答えを受けて声をかけると、こちらに気付いたのかどうなのか、石臥女さんと思しき大亀は軽く頭をもたげて、けれどもそのまま流れに乗って泳いで行ってしまった。
「それでは皇大神。西風は白守の方の支度がありますので失礼します。茅の輪をお借りしますね」
「あ、はい。えと、私たちの出るタイミングはどうしたら?」
「八大の半ば辺りで御支度をなさって、あとは白狛に任せておけば出損ないはしませんよ」
「了解です」
西風さんを見送って阿呼と放谷の間に戻ると、閑野生の参列は参道の半ばを過ぎて遠ざかっていた。
「阿呼、放谷。それに野足と夜来も聞いて。野飛の行列まで見たら犬神神社に移動して準備だよ。野飛までだからね」
念を押して欄干に肘を乗せればこれが絶妙のタイミング。茅の輪に光が宿って浮かび上がった御神紋は三盛り三つ巴。それを受けて、なんだどうしたと沿道の人集りに騒めきが戻る。茅の輪に燦然と輝く御神紋は一瞬の静寂を誘い、息継ぎの合間を縫って深いどよめきへと変化した。やがてそこかしこから驚きの色を隠しきれない声が飛ぶ。
「蛾巴紋だ!」
「護解の蛾神! 八大神のお運びだぞ!」
わっ、と広がる歓声を割って暗宮の御神紋は巴紋を回し始めた。




