093 素走詣のこと
「今からもう随分と賑やかだなー」
「八大宮のお祭りは初めてだから楽しみね、お姉ちゃん」
「さっきまでは楽しみだったんだけどね。正直今は胃が痛いよね」
宿の二階から見下ろす参道は宵宮を控えて昼を待たずにごった返している。
私たちは西風さんの常宿に御厄介になって、朝餉の後の時間をのんびり過ごしていた。
宿は一の鳥居から参道に入って最初の辻にある角屋さん。斜向かいにも同じ主人が切り盛りするお宿があって、私たちが泊まってる方が上の角屋。斜向かいが下の角屋といった具合だ。
大巳輪きっての老舗旅籠という触れ込みで、渡人到来以前からの由緒あるお宿と言う触れ込み。年季に黒光りする梁や床柱はどれも波打つ木材で蛇を彷彿とさせ、壁は鉄粉を練り込んだ錆壁。他所では中々見ない味わいの宿だ。
気になる湯屋はというと宿から離れた田んぼの中にぽつねんとある共同浴場。大昔、一町歩の田になみなみと湧き出した土湯が今も涸れずに万人の憩いとなっている。
一町歩はおよそ一〇〇平方米の広さだから建屋で覆われてはいない。四つ角に脱衣小屋があるだけで、嶋人、渡人、旅の者らが垣根のない裸の付き合いをするのだ。
当然混浴たけど、どろどろの泥パック温泉だから年頃の女性も裸を恥じらう必要はない。上がる時に脱衣小屋にある打たせ湯で奇麗に泥を流せばさっぱりとお肌はつるつる。保湿効果が高く、今朝起きてもお肌はプルン! 湯上りかと見紛うほどの艶肌だ。
だと言うのに私の心は一向に晴れない。暗雲垂れ込め、どんよりどょどよ。
「ふぅ……」
「もう、お姉ちゃん。溜め息ばっかり吐かないの」
「だって、明日はもう宵宮だよ? 明後日本番じゃん! 本当なら今日はこれからマウロとエレンを呼んで、街や境内を案内したり、土湯に浸かってのんびりする筈だったんだよ?」
西風さんと一緒のお宿でハッピー! なんて気分から急転直下に転がり落ちた原因は素走詣にある。
昨夕、お風呂上りに夕餉の席を囲んで歓談していると、西風さんがおもむろに話を始めましてね。
***
「素走詣? なんですかそれ?」
耳慣れない言葉に例によって例の如く鸚鵡返しな私。西風さんは卒のない所作で箸を置くと、丁寧に説明してくれた。
「春告神事の見せ場と言えば本宮祭りの皮切りとなる素走詣です。春告宮の鶯が鳥居に並び、声を揃えて鳴けば神臨参内の素走詣が始まります。水走各地の神々が我先と参内して、参道に列を成す、それはそれは賑やかなものですよ」
春の訪れを宣布する春告神事は、言うなれば年度始めのお祭りだ。しかも年初を飾る真神の月追神事は長らく禁足地の中で行われる秘祭に変わってしまったから、大嶋の民草からすれば春告神事こそが原初の九柱の宮による、その年最初の大祭ということになる。
本来、春告神事は春の到来を告げるだけのもので、馬宮の馬競のように派手な催し物がある訳ではない。けれども春一番の名乗りを上げんとする神々が先を争う派手なお目見えは語り草で、それを一目見ようと各地から人が集まって来るのだ。
「それは楽しそうですね。春が来るって言うだけでもワクワクするのに、水走の神々が挙って列を成すなんて、ちょっとした夢見絵巻みたいじゃないですか」
「ええ。しかも今年は皇大神の肝煎りで始めた融和策の絡みから、夜刀様のご意向で古来の形に戻すことにもなりましたからね」
「古来の形?」
またも聞き返したら「え?」と西風さん。そんなリアクションが返って来るとは思いもしなかったので、私の方も「え?」ってなった。
「まさか、ご存知なかったんですか?」
「ええ、ご存知ありませんでしたね」
それが何か? と目パチ耳ピコで訴えると、西風さんは顎に手を当て小難しい顔をしなさった。はて、なんでしょう?
「以前、と言うのは例の戦騒ぎの前ですから、今から五百年前になりますが、例の神旨が下って、それに応じて八大隠遁の音頭を夜刀様が取られました。それ以前と以後とで素走詣も形を変えたのです」
「それは多分、馬競神事に馬宮の主祭が出走しなくなったのと同じことですよね? 具体的にはどう変わったんです?」
曰く、素走詣は今も昔も一の鳥居に括られた茅の輪から神々の行列が飛び出すという点は変わらない。鶯の鳴く声に合わせて水走各地の神社から一斉に道結の道が開かれる。それこそコンマ一秒の鬩ぎ合いで参内の順番を決する、一瞬の勝負なのだと言う。
「今日では決まった順に行儀よく神々の列が練り歩きますが、古来の形は行儀とは無縁です。それはもう年に一度の晴れ舞台ですから、派手と雅の絢爛こそが信条。沿道の観衆に己がトーテムを強く印象付けようと、御業も使いますし、人と獣の姿を行き来もします。素走詣の名に負けず疾駆飛翔する様は実に圧巻ですよ」
「おお、凄そう。聞いた? 阿呼。お行儀はいいんだって」
「うん。お行儀も大事だけど、お祭りは盛り上がった方が楽しいから」
「あたいらは真神だから、のんびり見学だなー」
「この部屋二階だから、窓縁からよく見えるよ。楽しみだね」
などと和気藹々していたら、西風さんがコホンと咳払いをして言ったね。
「古来の素走詣は水走の神々の後に八大神が続きまして、大取りは皇大神になります」
「え?」
「皇大神には奮ってご参加頂きたく。そうでなければ夜刀様ががっかりしてしまわれます」
「え? 奮って? 大取りってなんですか? 私そんな話聞いてないですけど。夜刀ちゃんに来てって言われて、だから見に来ただけなのに……」
「大丈夫ですよ。八大神からはゆっくり参道を練り歩きますし、大取りの皇大神は堂々と渡られるだけで十分です」
いやいやいや。何が十分? 飛んでもはっぷんだよ。水走の神々が派手にやった後から八大神が揃い踏みして、最後に締めろとか言われても、わっきゃないどぅーなんですけど。
お蔭様で行こう夕餉に舌鼓を打つ余裕もなくなって、ふわふわソワソワしたまま寝床に入れば碌すっぼ寝られないというね。もう日もないと言うのに、一体全体私にどうしろと?
***
降って湧いた難題に頭の痛い今朝も今朝。春告神事の一番の見せ所だと言う素走詣をどう締め括ったものかと頭を悩ませていると、調査局へ行く支度をしていた西風さんが声をかけて来た。
「皇大神。一緒に来て下さい。いい物をご覧に入れますよ」
「いいもの?」
そう言われて腰の上がらぬ私ではない。頭の中はまだごちゃごちゃとしていたけれど、とにもかくにも西風さんの後を付いて行った。
二階の廊下に出て階段を下りると、玄関には向かわず釜屋の角を曲がって裏口へ抜ける。裏口の式台を下りて借り物の下駄を履き、戸口を出た所で回れ右。続いて上を見上げると軒裏に一艘の舟が入れ込まれているという、なんとも不思議な光景を目にした。
「ほー、舟をこんな所に上げちまうなんて、面白いことするなー」
「初めて見るね、お姉ちゃん」
「うん。西風さん、この舟は?」
「これは上げ舟です」
上げ舟というのは水害の多い水走では大抵の民家に見られるもので、こうして普段は軒裏に上げておき、いざ出水となったら舟を降ろして、そこに家財やら何やら積み込んで避難する為のものだそう。
「皇大神は参道の水路を御業で渡ることはできますか?」
「残念ながら無理ですね。その手の御業は覚えてません」
「ふむ。すると沿道を行くのも手ではあります。そのようにする神々もいますから、別段おかしいということはありません」
「うーん。でもそれだと、なんとなく皇大神の沽券に関わりそうな気がするんですけど。その辺は大丈夫なんでしょうか?」
「分かります。周りがよくても、当人としては気になってしまいますよね。そこで役に立つのがこの上げ舟です」
「つまり、この舟で参道の水路を渡ると」
参道の真ん中を流れる水路は幅三米、縁から水面まで五〇糎程度。実際に見たところ水深は二米以上はあった。要するに、それだけの深さが必要なのだ。
元々、参道の水路は転宮への様々な供え物を乗せた幣帛舟を通す目的で造られたもの。一の鳥居下は湧水池を隠す暗渠になっていて、脈々と流れ込む水が一定の水位を保っている。
水路に通す幣帛舟は一般的な上げ舟と同じ規格だそう。上げ舟の主たる用途は水害に備えてのものだけれど、河川と沼沢地に富む水走では普段使いにもする。それが転じて、豊かな水への感謝と水害への怖れを祀って舟を出すという習慣が生まれた。
家族家財を積み込む上げ舟は造りもしっかりしていて、それを通すとなると水路にもそれなりの幅と深さが必要になる。櫂を立てることを思えば尚更で、幅も水深もなるほど納得の行くものだった。
「舟で渡るにしても、これ、相当年季が入ってると言うか、ぶっちゃけおんぼろですけど……」
垂木の下に作られた空間に木組みで嵌め込まれた上げ舟。それは目に見えて古めかしく、晴れの日の出舟に向くかどうかは疑わしいところだった。
「確かにこの舟は草臥れてはいます。ですが、堂々と水走る舟に乗っての参詣は、皇大神の威厳にも、大取りに望む威風にも適うかと、西風はそう思います」
さすがは西風さん。悩む私の意を汲んで色々と考えていてくれたとは、増々以って惚れちゃいます。
「舟で行くならあたいが水蜘蛛になって押してやれるけどー。問題はぼろっちぃってことだよー」
「阿呼も、もう少し見栄えのするお舟の方がいいと思う」
「御心配には及びません。ここに胡粉があります」
御業で貝殻の小物入れを取り出した西風さんは、そこに収めていた胡粉――貝から作られる白い顔料を指先に着けた。
「紺掻――」
染めの御業を唱えれば、くすんだ色目の木舟は立ちどころに胡粉の白に塗り替わる。そこへ別の貝から紅を掬って春らしい花模様を描いて行く。
胡粉に溶いた紅は仄かな聴色へと移ろい、白い舟にぽつぽつと濃淡自在の春を散らして行った。
「梅と桜! 素敵ね、お姉ちゃん」
「うん。あって間に見違えちゃった」
「この舟なら参詣もばっちりだなー」
私は近くの踏み台を借りて舟に触れると、物招でいつでも取り寄せられるようにしっかりと同調を済ませた。
***
お宿の玄関先で西風さんを見送った私たちは、二階の部屋に取って返して相談を続けた。
素走詣の基本路線は決まった。今し方化粧直しをした上げ舟に乗って水路を行く。それはいい。けれど、そこに乗り込むのは私、阿呼、放谷の三人だけ。
「絶対締まらないよ、これ。八大神がどんな感じで練り歩くかは知らないけど、どう考えたって鳴り物入りで派手にやる筈じゃん」
「阿呼もそう思う。西風さんの話だと、八大神は各地方を代表して練り歩くから、きっと八大宮の神々だけじゃなくて、色んな神様が参加すると思う」
「するってーとー、あたいらはどーすればいーんだー?」
「どうすればって……。うーん、先ずはやっぱり頭数だよね」
「でもお姉ちゃん。私たちの大宮も放谷の蜘蛛神社も、普段は宮守衆がいないのよ?」
「だなー。数を揃えるなら犬神神社に頼むしかなさそうだー」
「それだ! それだよ放谷。いいこと言った! 犬神神社に頼めばいいんだよ。いや寧ろ、真神の一宮と二宮がいて、三宮だけ欠けてる方がおかしいもん」
「じゃあ直ぐに行ってお願いしなくちゃ」
実際問題、真神の入り口を守る狛夫婦を引っ張り出すのは憚られるけれど、そこは家族さながらの間柄。きちんと頼めば犬神衆の連れ出しにはきっと許しが貰えるだろう。
しかし色々あるもんだ。
真神、水走、赤土、護解と、最初の内こそのんびりした旅だと思っていたけど、赤土に渡ってから、いや、閑野生に着いた辺りから何かに追われるような日々じゃないか。
今回、この春告神事への参加こそ大嶋廻りの本道のように感じていたけれど、裏では渡人の件が渦を巻くように蠢いている。審神の小杖だ去り宮だ五つ帆の丸だと、見通しの利かない羅紗の向こうで何かよからぬ影が差しているのは明らかだ。
そう考えると私の決断は時期尚早だったかもしれない。八大神を集めて半ば押し通す形で始めた融和プロジェクトも、正直どこから手を付けたものか分かりはしない。その点、北風さんや西風さんに矢面に回って貰ったことは頭脳の足りない私にとっても都合がよかった。さすがは夜刀ちゃん、見事な采配だよ。
ともあれ今は春告神事。そして素走詣だ。こうも私を気忙しくする難題をクリアしてこそ、融和策の問題点にも冷静に対処できるというもの。
「忘れ物ない? 行くよ」
「阿呼は大丈夫」
「いつでもいーぞー」
それ行けやれ行けで慌ただしく輪違を茅の輪に代えて、私たちは真神三宮、犬神神社へ飛んだ。
***
本殿裏の杜に設置された茅の輪から転がり出て、私は一路、御神座を目指した。
「お邪魔します!」
走り込んでは礼を失する。
そう自らを戒めつつ、競歩じみた早歩きで犬の寝転ぶ外陣を渡る。そうして内陣に上がると、私はお辞儀すら忘れて茶飲みする夫婦神に詰めかけた。
「ご無沙汰してました早速ですがお願いがありますどうかお聞き届け下さい」
句点読点ほったらかしに自分でも驚くほど滑らかな早口でまくし立てれば、のんびりとお茶をしていた犬神の老夫婦はしかし寸分も動じることなく「先ずはお座り下さい」とふかふかのお座布を勧めて下さった。
「かみません、取り乱しました。いえ、かみました。すみません。えっと、それでですね、時間がないのであれなんですけど、実は春告神事の参詣にこちらの宮衆をお借りしたいという主旨でして」
「へぇ、それはまあ、へぇ。とりあえずお茶でも、へぇ」
「あ、頂きます」
頂くのかい! と自身に脳内ノリツッコミをかましてズズズッと呷れば絶妙の温度に乾いた喉がサッと潤う。
「梅昆布茶! 私これ大好きっ」
前世の二親の祖父母いずれも、田舎を訪れた折には縁側に並んで梅昆布茶を啜ったものだ。お爺ちゃんお婆ちゃんと梅昆布茶。この取り合わせは私の中で確たる地位を確立していた。
「しかし、春告神事に真神が大路を行きなさるとは。近頃とんと聞かぬ珍しいお話で御座いますなあ」
狩衣の袖を揺らして茶托に湯呑を戻しながら、白狛さんはゆったりとした口調で言った。
方や気忙しい私たち。ゆっくりと流れる時に身を任せる夫婦神を前に、気持ちのギアが噛み合わない。一方で互いの狭間に醸し出される雰囲気は身内ならではの心安さに溢れていた。
私は手早く要点を重ねて、今年の春告神事が如何に特別なものであるかを説明した。そして何よりも私が将来正しく楓露の真央に立つ神として認められる為に、相応の整えを今こそ必要としているのだと。
「お話は確と承りました。時がないということでしたら急がねばなりませぬな。婆さんや、儂は宮衆に支度をさせに参るでな、此方の支度は任せるぞ」
「へぇへぇ、大宮の御祖様に成り代わりまして、へぇ。この手研女が万整えさせて頂きます。へぇ」
話が早くて本当に助かる。
早速に御神座を離れた白狛さんを拝むようにして見送り、茜狛さんには「宜しくお願いします」と座礼を返す。
茜狛さんは外陣の犬たちを呼び寄せると、物招の御業で支度に必要な種々の品やら道具類やらを御神座に並べた始めた。
「おお、色々ある」
「なんだか立派なお着物まである。阿呼たちお着替えするの?」
「いいんじゃない? 大宮にいた頃からずっと、着た切り雀の水干だもん」
「あたいの分もあるかー?」
「放谷は水蜘蛛になるんだからいらなくない?」
「なんだよー、あたいだっておめかししたいぞー」
「あれ? 五着あるみたいですけど、茜狛さん、これは?」
「へぇ、この手研女も連れ合いの百能男も、社を離れる訳には参りませんから、へぇ。それで、名代に野足と夜来を連れて行ってやって頂きたいと。へぇ」
「野足!」
「夜来!」
その名を口にして姉妹顔を見合わせれば放谷も満面の笑みを見せて、早速会いに行こうと、この場は茜狛さんに任せて御神座を飛び出した。
どこにいるとも聞かずに出てきた私たちは回廊を渡って仔狐兄妹の部屋を訪ねたのだけど、折悪く不在。ならば犬神衆の誰にでも聞けばいいや、と裏庭伝いに炊屋を目指した。
杉の香りが鼻を抜けてすっぽりと肺に収まると、何やら懐かしい感情が胸に溢れて来る。耳を澄ませば滝の音。露天風呂から眺めた風合谷の水を集めて澗下する名爆だ。
「水と風の杜だ」
「阿呼たち、ここでひと月を過ごしたね」
「一度里帰りもしたけど、首刈が歌を歌って別れたのはもうどれだけ前かなー」
「そうだねぇ。あれは野飛月の中頃だから、五ヶ月以上、半年近くなるね」
答えながら景色を見れば杜に佇む舞楽殿。初めて御業を学んだ修業の場だ。杜の遠近にいる犬たちは誰も吠えない。こっちに気付くと皆立ち止まって、見送るように目で追いかけてくる。
途中、神苑を浄める苑部や欄干を拭き掃除している社部の衆と挨拶を交わせば、皆が皆、ハイティーンに様変わりした私と阿呼に目を瞠るようでくすぐったい思いがした。無論、変化のない放谷はスルーだ。
「お邪魔します。炊部の皆さん、お久し振りです」
戸口の暖簾を分けて顔を出せば、洗い物や漆器の乾拭きで忙しなく動いていた炊部たちの手がピタリと止まり、「あらまぁ」「おやまぁ」と人好きのするおばちゃんたちが集まって来た。
イヌ科ファミリーの気安さで挨拶もそこそこに始まる土産話。世間話の花が咲くと、輪の中に職場の平均年齢をグッと下げる若手が一人混ざって来て阿呼に飛び付いた。
「阿呼様!」
「え? ……どちら様」
びっくりまなこの妹に代わって誰何すれば、相手の笑顔はこちらに向く。
鳥子色の肌に大人びたラインの顔立ち。三角巾から覗く髪は檜皮色。年頃の器量よしだけに覚えがないことに戸惑ってしまう。すると彼女は三角巾を取って立派な三角耳を顕わにした。それを引き金に菖蒲色の瞳にハッとして、同時に鼻腔を掠めた匂いに確信を得る。
「夜来だっ!」
「すーちゃん、やっちゃん、おかえりー!」
飛び付いてきた夜来を抱き止めれば、こんなにも大きくなったのかと感慨にむせぶ思いがした。背は阿呼を追い越したくらいで、狐らしいスラッとした細身。それが若さ故の張りに満ちてしっかりとした抱き心地を備えている。
「大きくなったねぇ。直ぐには分からなかったよ」
「阿呼も、阿呼様だなんて言われて全然分かんなかった。昔みたいにあこねーちゃんでいいのに」
「だって夜来は大人になったから、阿呼様は阿呼様」
「え、私はすーちゃんって呼ばれたよね?」
「あたいもやっちゃんだったぞー」
「すーちゃんとやっちゃんはいいの」
「うん? うん、まぁいいけど……」
釈然としない。いや、この場合釈然としないのは阿呼の方か。昔ながらの仲良しこよしの呼び名から一人外されてしまったのだから。
「夜来、ちょっとこっち来て」
「なーに?」
私は少し離れたところに夜来を連れて、ぼしょぼしょと耳打ちした。得心した夜来は笑顔で戻って行き、阿呼に抱き付いて「あこねーちゃんおかえり!」と頬を擦り寄せた。そうだよ。こうでなくっちゃ。
「それで夜来。野足はどこ? どこか別の場所?」
「お兄ちゃんは表で薪を割ってる。こっちよ!」
手を引かれながら炊事場を抜けて裏木戸を潜る。外は杉の森を背景に少し開けていて、横手には薪小屋。その小屋の前で薪割り台の切株に向かって立つ甚平姿の男の子が一人。
「お兄ちゃん、すーちゃんたちが来た!」
「来たよー、やっほー!」
笑みを向ければ櫨色の瞳を丸くして、野足と思しき好男子は薪割りの斧をカランと落した。
「首刈皇大神――」
片膝付いて面を伏せ、発した言葉がその一言。どんと来いと広げた腕が虚しく風を受け止める。空振り喰らった私は夜来と顔を見合わせた。
「お兄ちゃんはいっつもこんな感じ」
「昔から真面目だったもんね。それはそれでいいことだよ」
「でも堅すぎて」
「確かに堅いね。家族なのにね」
「ほら、お兄ちゃん。すーちゃんががっかりしてる」
夜来がそう突っつくと野足は、
「そんなことないだろ。礼儀だろ」
と面を伏せたまま。
「えー、がっかりだよー。野足も飛び込んでおいで。ぎゅーってしてあげるから」
催促すると野足はようやく立ち上がって、腕を広げて待つ私の方におずおずと近付いて来た。背丈はもう私より五糎は高い。煤竹色の髪は短く刈り込まれて、先端が春の陽射しに輝くようだ。
「つかまえたっ!」
一米の距離でこっちから抱き付いて、匂いを確かめるように胸の袷に鼻面ぐりぐり。夜来に似て細身だけど男の子特有の筋肉質な感触には驚かされた。傍から見れば年頃の男女の抱擁も、家族感情が勝れば何のてらいもない。
「去年の風渡月だったかな。郷帰りの時以来だから、もう四ヵ月半になるね。元気にしてた?」
「はい。お蔭様で私も夜来も元気にしてます」
「そっかそっか。ん? あれ? 前は僕って言ってなかった?」
「もう大人ですから。それより、そろそろ放して貰えませんか」
「えー、もう? まだいいよ。もうちょっと」
「駄目です。みんな見てます」
「え?」
首を回せば裏木戸狭しを埋め尽くすおばちゃんたちの顔、顔、顔。にやけちゃって盗み見か。そーゆーことされると変に意識しちゃうでしょうが。
「そっか、分かった。でも、阿呼と放谷にも順番にただいまとおかえりの抱擁ね」
そう決め付けて家族の抱擁を勧める傍ら、私はピーピングおばちゃんたちの駆除に勤しんだ。
家族の挨拶が済むと場を切り上げ、裏木戸から炊部の皆さんに手を振って本殿へ。
「今日は白狛さんと茜狛さんにお願いをしに来たんだけど、二人にもお手伝いして貰おうと思って」
「そうなの? 夜来たち何をすればいいの?」
「急な話なんだけど、実は私たち、水走の春告神事で素走詣に参加することになって。白狛さんと茜狛さんはここを離れる訳には行かないから、二人に名代として参加して貰いたいの。その代わり宵宮をみんなで一緒に回ろ? 渡人の友達も呼ぶことになってるから、きっと楽しいよ」
「夜来行きたい! 春告神事の宵宮なんて素敵! ね、お兄ちゃんも行きたいよね?」
野足の袖に掴まってぴょんぴょん跳ねる夜来。その姿に幼少の日々がふと重なる。
思えば風合谷で身を寄せ合っていた二人が、こんなにも大きくなったのだ。ひょっとしたら親の感慨というものは、今私がこうして感じているようなものかもしれない。なんてことをちょっぴり思った。
「中々戻って来れなくてごめんね。阿呼も放谷も、二人に会いたがってたんだけど、大嶋廻りは何かと忙しくって」
嬉しそうにする二人を見るにつけ、今日まで寂しい思いをさせたのではないか――。そんな思いに駆られて掛けた言葉に、二人は振り返って笑顔をくれた。そしておもむろに節を回す。
「心なーらっ、遠くてーも」
「いつだーって、傍にいーる」
野足の声変わりした男の子らしい声と、夜来の鈴を鳴らすような透明な声。二人の声が紡いだ短いフレーズに、目頭が熱くなった。
「歌ってくれるんだ。嬉しい。覚えてたんだね、その歌」
「忘れる訳ない。家族の歌だもん」
「この歌は私たちの宝物です」
泣かすね。
まだ物心もつかない二人を残して大嶋廻りに旅立った日。二人と私と、阿呼と放谷。そして狛の夫婦神を家族と思って託した歌。私がこの大嶋で、誰かの為に作った初めての歌。それを宝物だと言ってくれる。嬉しくて、照れ臭くて、どうしようもなく泣けてくる。
私は二人の狭間に飛び込んで、しっかりと手を繋いで歩いた。少し上向きに。そう、涙が零れないように。
***
御神座に戻った私たちは早速試着に取りかかった。
「お兄ちゃんはもっと隅っこへ行って! 夜来たちこれからお着替えなんだから。ほら、あっちの几帳の向こうよ」
哀れ野足は夜来に追い立てられ、外陣にある几帳の向こうに追いやられた。とはいえ女子の着替えに一人だけ男子が紛れ込むシチュエーションなら仕方ない。
え? 混浴は平気なのにって?
チッチッチッ。ぶっちゃけ女子にとっては真っぱを見られるより着替えの最中を見られた方がよっぽど恥ずかしいからね? 仮に体に自信があれば裸はドドンと見せられもしよう。けれど、着替え中というのは底抜けにみっともないのだ。
現代人ならこんな想像が分かりやすい。例えばパンツをずり下げてたり、ブラのカップにこれでもかと寄せて集めた肉をブチ込んでたりする場面。脱ぎ散らかした服を見られるだけでもおぞましい。いかな麗人佳人と言えどもそんな姿を見られたら速攻で死にたくなること請け合いだ。
まあそれはさておき、集まってきた犬たちは身を翻して人の姿を取り、私たち五人それぞれに三人がかりで取り付いた。そうして淀みない手付きで茜狛さんが用意してくれた晴れの衣装を着付けて行く。
いやはや手早い。お風呂の手間を省いて清水の御業をかけると、髪を整え、手足は爪に至るまで細やかなお手入れ。そこへひと目見ただけで由緒と値打ちの見て取れる着物が宛がわれ――。
「え? 狩衣? 私男装するの?」
水干も元より女物と限った物ではないが、子供の折なら男女を分けない。それを今の今まで着て来たので男装という意識は露ほどもなかった。
「首刈様は、へぇ。お歌をよくなされますので、へぇ。そのお着物は白拍子の装束でございます。へぇ」
白拍子! うっひょー! 私ってば静御前?
そうと聞いたらいやが上にも心は踊る。すっかりその気になって鼻唄なんかも出て来る訳で。
「阿呼、見て見て。お姉ちゃん白拍子に大変身!」
「うん。とっても似合ってる」
「すーちゃんいいなぁ。夜来は水干だもん」
「そんなこと言わないで。水干って言ったって普段着と違ってパリッとしててカッコいいよ」
唇をとんがらかす夜来を宥めつつ、されるがままに着付けを施されて行く私。
日本史を紐解けば決していい身分とは言えない白拍子だけど、ここ楓露では神聖な神楽装束の一つ。中でも格上の衣装なのだと聞いて納得感心大満足。そこでみんなはどうなったかなと、ひと巡り首を回してみる。
「わぁ奇麗。阿呼はすっかり春色になったね」
「阿呼に似合うかな?」
「似合ってるよー。とってもお姉さんな感じ」
妹の衣装はひねり重ねの落ち着いた雰囲気で、白の小袖に紅八塩の打ち袴。更に御所染の上に桜色、桜色の上に白菫、と三枚の単衣を重ねた春の柔らかな彩りだ。
短い垂髪には付け髪をして紙で結い留め下げ髪に。長くなった髪が嬉しいのか、阿呼は背に垂らす付け髪を肩口から手前に取ってしげしげと見つめている。その唇に紅が引かれると、すっかり大人と見紛うようだった。
「着替え終わったかー?」
「うん。おっ、放谷は水干も似合うねー。やっぱり動きやすそうな服がしっくりくる」
放谷と夜来はいずれも水干。恐らくは几帳の向こうの野足もお揃いだろう。
「やー、でも首刈が普段来てるのよりゴテッとしてて動きづらいぞー」
「用意して貰っといて文句言わないの。今日試着して、後は本番だけなんだから我慢しなさい」
放谷の水干は地色が玄と呼ばれる濃いめ焦茶。放谷の髪は阿呼と同じく薄色系統の蒸栗色だから、褐色の肌を間に挟んで玄とはこの上なく相性がいい。胸元に縦二つの菊綴は薄桜と若葉色。全体を見るとどことなく桜の木の精とも取れる配色だ。歯抜けの笑顔が如何にも悪戯な妖精といった雰囲気を醸している。
お隣の夜来は几帳の影から出てきた野足とお揃いで狐色の水干。袖に通す括りの緒は兄妹で左右互い違いに白と黒。菊綴も上下互い違いで白と黒だ。腰から下は白無垢の括り袴で、誰がどう見ても狐の毛並みを表していた。
***
試着を終えた私たちは本殿裏に回って白狛さんと合流。するとそこには整然と二列縦隊の行列が並んでいた。
「おお、これはこれは、さてもお美しゅうに見違えられましたな」
枝垂れ柳のような長い白眉を扱いて白狛さんが迎えてくれる。
「えへへ、ありがとうございます。それにしても、こんなに大勢ですか?」
「はい。験を担いで末広がりに八十八名を揃えました。ここに首刈様を始め五名が加われば割れぬ奇数となって尚縁起がよう御座います」
「おお、福々しい! でもどうしよう。この数だとちょっと宿には戻れないかなぁ」
「無論、当日はこの場から直に参道の茅の輪に繋いでのご出立になりまする」
「あ、そうなんですね。なら問題ないか。あ、でも待って。そうすると今度はいつが出番か分かんなくないですか?」
「御心配には及びませぬ。当日は身共が水走の眷属に目打をして参道の様子を見ますでな」
「目打ち?」
「如何にも。犬っ子の目を借りて目張っておれば、出番を逃すことは御座いませぬ」
「へーっ!」
眷属の視界を拝借する御業なのだろう。是非とも教わりたい便利な御業だけど、街中に狼はいないから、今回はお任せするしかない。
「おけ。それじゃあ、当日の段取りとしては時間前にここに集合して、私が物招で上げ舟を呼び出します。その舟で私たちが出て、後から行列ですかね? 行列の皆さんはどんな感じで行きますか? 舟は水路ですけど、行列は沿道ですよね?」
「左様。この者たちは旗物を持たせた社部を先頭に、楽部が笙、篳篥、龍笛、笏拍子、鉦鼓を鳴らして続きまする。その後ろから幣帛を携えて幣部が続き、合間合間に物部の太刀持ち、槍持ちらが加わります」
「ふむふむ。後は舟と行列が離れないように舵取りすればいい感じだ。そこは放谷、速過ぎず遅過ぎず、上手く漕いでよ」
「おー、任せとけー」
「お姉ちゃん」
「ん、何?」
「今の内に行列に歩いて貰って、どのくらいの速さか見ておこう」
「そうだね。そうしよう」
「あともういっこ」
「まだ何かあった?」
「うん。舟には五人で乗るの?」
「ああ、そっか。全然乗れるけどごちゃっとしちゃうかな」
「であれば野足と夜来には各行列の先頭を行かせては如何ですかな?」
「それだっ。野足、夜来、頼まれてくれる?」
「はい、大丈夫です」
「夜来に任せてっ」
私は行列を覗き込んで、白一統の装束にまちまちの品を携えた八十八の宮衆を見た。如何にも壮観なその様子に、大変な満足と差し迫った重圧とが綯交ぜになる。
「よし、じゃあ行列は今から予行演習だ。阿呼は舳先に座るから座り方。私は胴の間に立つから立ち方。放谷は艫に立って舵取りだから、それぞれおかしな姿勢にならないように師匠に見て貰おう」
「首刈ー」
「何?」
「歌は歌わないのかー?」
「そうよ、お姉ちゃん。せっかく楽部の人たちがいるんだもの」
「そっか、そうだよね。よし、水走一宮の参詣だから水走の歌を歌おう。えーち、そうだな。参道の途中途中にいつもは板橋を渡してる四つ辻があるから、三つ目の辻に差し掛かったら歌おう」
「じゃあそれも予行演習ね」
「うん、奥滝に行く道を水路に見立てて、辻の目印を立ててやればいいよね。と言う訳で師匠、時間もないことですし始めましょう」
「では早速に」
行列の足並みを整え、舟での姿勢を正し、水走の歌を披露して楽部の皆さんに曲調を把握して貰う。事前に合わせておけば歌で行進のペースが乱れることもないだろう。
今日一日でどうにか素走詣の目途は立った。これで明日は宵宮を満喫し、明後日に本番。犬神神社で培った家族の絆に支えられた。




