091 うごめく者たち1
音がした。微かな金擦りの音。次いで尾を引く高い軋み。隙間から流れ込む風が室温を僅かに下げる。そこに押し殺した人間の息遣いが紛れ込んだ。
来たな――。
一人マウロの家に残された蜘蛛の神、風招放谷姫命は別段力む様子もなく事実だけを認めた。その姿は既に小蜘蛛と化し、天井に張り付いている。真下には審神の小杖の額縁をすり替えた土産物の楯。
やがて廊下から男が現れた。瞳の色はマウロと同じホライゾンブルー。髪はマウロのトマトレッドよりも茶色味の強いキャラメル色。言うまでもなく渡人だ。歳は三十代後半から四十に絡む辺りか。容貌も服装も取り立てて目立つものではなかった。
「よしよし、あったな」
口に含むような独り言は、風の流れを寄せて音を拾う放谷でなければ聞き逃していただろう。その言葉で放谷は男を犯人、即ちマウロの叔父と断定し、糸を垂らして接近を始めた。
男は小袋を取り出し、それを手袋のように右手にかけて額を掴むと、左手で袋を返して、直に触れる事無く目当ての品を取り込んだ。その隙だらけの肩口目掛けて糸を切った放谷が落下する。
この時、放谷は小人という御業を練って本来の姿よりも更に小さくなっていた。見た目はよりにもよってド派手なピーコックスパイダー。赤土の地で鮮烈な求愛ダンスを踊ってくれた極彩色の蜘蛛だ。しかし色味こそ派手だが大きさは僅かに五粍。音もなく降り立って襟足の毛に隠れてしまえば、男は違和感すら察することなく足早に家を出て行った。
外へ出た男は努めて普通の足取りで、急ぎもせず居住区を歩いた。見知った相手と擦れ違えば軽く手を上げて挨拶もする。が、襟足に隠れて秘かに星霊を浸透させていた放谷には、早鐘を打つ鼓動の忙しなさをはっきりと感じ取っていた。
男は居住区を出て中心街に入り、転宮街道を横切って南東の工房区画へ。中でも込み入ったエリアを縫うよう渡り歩いて、建付けの悪いドアを開けると地下への階段を降り始めた。
放谷はここで一度、首刈に風声を送ろうかと考えた。しかし一夜明かしただけの江都の地図などまるで頭に入っていない。自分が今どこにいるかが分からないのだ。そのことに気付いた放谷は、もうしばらく様子を見ることに決めた。
「来たかっ、どうだった?」
階段を降りた先のドアを開けるなり、中にいた男が丸椅子を蹴って立ち上がった。たっぷりとした口髭を蓄えた五十絡みの小太りな男だ。その男に向けてマウロの叔父は戦利品を収めた小袋を胸の高さに掲げて見せた。
「やったなモレノ! 見せてくれ」
「全く緊張したぜ。こいつがそうだ」
マウロの叔父、モレノは袋から取り出した土産物の楯を年輩の男に手渡した。素手で触れるのを目にした放谷はここで偽物であることが露見するかと身構えた。が、幸いそうはならず、ひとしきり楯を観察した男は再びそれを小袋の中へ戻した。
「それでどうなってる? 例の噂は確かなのか?」
「話は後だ。とにかくそいつを持って今から届けに行くぞ」
「今からか? ハンスさんよ、まだ昼日中だぜ?」
「そう言うな。我々の目指す所に一歩近付いたんだぞ。上の連中だって早く知りたいだろう。とにかく急ごう。支度の必要はあるか?」
「いや、問題ない」
「ならそいつをしっかり持っていろ」
ハンスは部屋の隅に移動すると腰の高さの小箪笥をどかして、塞がれていたドアの向こうに入り込んだ。モレノが後に続き、放谷は襟足を出て肩口から中の様子を窺った。そして驚いた。なんと、薄暗い部屋の中には茅の輪が設置されていたのだ。
ハンスは茅の輪の脇に立てかけられていた杖を取ると、その先端に嵌った宝石でぐるりと茅の輪をなぞった。すると若草色の輝きが茅の輪を覆い、まるで道結の御業を結んだかのように、茅の輪の向こうに別の空間が現れたではないか。
(んー、これはー……。まあいいかー)
放谷は持ち前の暢気を引き合いに、流れに任せて茅の輪を潜った。放谷が首刈から与えられた使命は偽の小杖がどこへ行き着くかを突き止めることだ。それを思えば何も難しく考えることはない。ここが終点という場所までモレノの肩に乗って付いて行くだけのこと。
***
「こらぁ! 暢気っき。どーして放谷はそう、どーしていっつも。あーっ、もう!」
どうせ呆れる話を聞かされるだろうと思ったけど案の定これだ。危うく手にした湯呑を落としかけたよ。
渡人が茅の輪と、恐らくは星霊具を使って道結を再現した。確かに行き先を知ることも重要だ。けれど内容的にはその時点で即連絡すべきではなかろうか。
「百歩譲って連絡を後回しにしたのはいいとして、どうして茅の輪を潜った先で直ぐに風声を寄越さなかったの。どこへ出たか分からなかったから?」
「うん、分からなかったー。でもそーじゃないんだよー。なんだか荒れた場所に出たなーとは思ったんだけどさー、しばらくしたらそこがなんて言う場所かは分かったんだー」
「じゃあどうしてよ?」
「うん。それがなー、風声を使おうとしたら届かなかったんだよなー」
「届かなかった?」
それもおかしな話だ。私だって以前と比べれば風声を届けられる範囲は広まってきている。風の御業――いわゆる風象祈を得意とする放谷は、私なんか目じゃないくらいの距離まで声を届けることができるのだ。
「それっておかしくない? 私が一度だけ風声を飛ばした時、あんた惚けた返事を寄越したじゃない。まるまる! とかってさ」
「それなー。あたいはてっきり風声は通じないと思い込んでたからびっくりしたよー。慌てて返事したらその時は届いたんだー。でも、その後はやっぱり駄目だったなー。いっくら風声を投げてもさー、なんか知らないけど、途中でこう、プッツリ切れちゃうんだよなー」
私は阿呼を見て、それから小鉤ちゃんを見た。けれども互いの頭上に浮き上がるのはクエスチョンマークばかり。一度であってもやり取りができた以上、距離に問題があるとは思えない。となれば原因はそれ以外の何かだ。
「ごめん放谷。その辺の状況をもうちょっと詳しく聞かせてくれる?」
「おー、それでだなー」
放谷は抱えた片膝を崩して両の足裏をぴったり合わせると、そこを両手で掴んで体を揺らしながら話し始めた。
***
モレノの襟足に隠れて渡った先。そこは茅が伸び放題の荒れた草地だった。普通に考えればそんな場所に茅の輪を置くなどありはしない。放谷はこれもまた渡人が用意した茅の輪なのだろうと考えた。
見当もつかない場所に出たなと思いつつも、どこへ行き着くか見定めようと、目を皿のようにして周囲を見た。すると、丈の高い茅の向こうに荒れた建物を発見。しばらく行くとまた別の建物。屋根の茅葺は半ば崩れて、柱はどれも朽ちていた。
(あれは舞楽殿かなー? なら最初に見たのは幣殿や祓殿だったりするのかー?)
いずれにしろ放谷はここが境内だと認識した。しかし同時に大きな疑念が首をもたげる。何故なら、あるべき神域の清浄がまるで感じられないからだ。それがあれば例え荒れた場所に出ようと、茅の輪を潜った時点でどこぞの境内に出たと察することはできただろう。
(ははぁー、ってことは、ここは去り宮なのかー)
去り宮とは、かつて信仰を集めたトーテムが年年歳歳の移ろいに社格を失い、神の位を離れて自然へと回帰した宮社を言う。仮に星霊によって創建された原初の九宮が去り宮となれば跡形も残らないが、人の手による小さ神の宮社はこうして名残を残すのだ。また、何かの切欠で信仰が回復されれば新たな信者によって再建される例もあった。
(おっ、鳥居だー。なんのトーテムだろーなー)
襟足から肩口に出て神額を仰ぎ見ると、そこには優曇華宮と書かれていた。無論、放谷には難解な文字だ。なんて読むんだろーなー、と字面だけを懸命に記憶に留めて鳥居を潜った刹那。
(んー? あれー? 神域の気配があるー? いやー、これはなーんか変な感じだぞー)
違和感――。そうとしか言いようのない何か。例えば手頃な岩に腰を掛けたらどうにもお尻の収まりが悪い。そんな、大したことはないけれど気になって仕方がない類の違和感が付きまとって離れない。そこで放谷は初めて首刈への風声通信を試みた。
(あれ? あれれー? なんだよー。途中で切れちゃうじゃないかー)
風声は声を届けたいと念じた相手の耳元へ声の道を通す御業だ。それを放谷は風ではなく糸を通す想起で練るのだが、要は糸電話の糸がプツリと断ち切れてしまうのだ。何度か試す内に放谷は思い当たる。御業の中には御業を解いたり、妨げたりする類のものあるということ。だが、よしんばそれが原因だとして、モレノとハンス、この二人が仕掛けたものとは思えなかった。
***
「放谷が言ってるのはつまり、結界……的な?」
話から想像するにその辺りだろう。しかしながら大嶋廻りの途上に於いて、その手の御業を私は碌に知らない。ならばと知識を拝借することに。
「小鉤ちゃん。そんなことってある?」
「ありますみ。例えば、暗宮では日頃、闇に覆われた真宮を隠していますみ。それは神域を媛様の神余で覆っているからなのです。みっ」
小鉤ちゃんは囲炉裏の炭火に魅入られながらも詳しく語ってくれた。
暗宮の真宮隠しは正に結界で、霊塊の化け物退治に用いられる忌籬もそう。例えば忌籬は化け物を囲い込むという使い方の他に、一定の範囲に化け物を入れさせないという用法もあると言う。内に閉ざし、また外を阻む。それは確かに結界と呼べる代物だ。
一方で搔退という御業があって、これは御業の効果を妨げ、解除することができるらしい。そうした効果を結界系の御業として編むことで、放谷が体験した風声の途絶という結果を得ることは可能だと、小鉤ちゃんは言った。
「ほらなー」
「なるほどね。少なくとも放谷が陥った状況を説明しようとすれば不可能じゃないってことか」
「でもお姉ちゃん。だとしたら渡人の人たちが結界を張ったの? それともそのお宮の神様がしたの?」
阿呼の疑問は尤もだ。誰がなんの目的で廃れた神域を結界に閉ざしているのか……。
「そこだよね……。ねぇ小鉤ちゃん」
「み?」
「放谷の言ってた優曇華宮って言うのは?」
「知らないのですみ」
「えっ、知らないの? だって護解にあるお宮じゃないの? それとももっと遠くにあるってこと?」
当然の疑問を投げかけると、小鉤ちゃんは炭火から目を放して天井を見上げ、しきりに橙色の触覚を動かした。
「多分、小鉤が生まれる前に廃れたお宮なのですみ。ひょっとして御白様なら知ってるかもしれないですみ」
「そーなんだ」
「優曇華は蜉蝣の卵を指す言葉ですみ。今、この護解に蜉蝣トーテムは存在しないのです。他所にあるにしても小鉤は聞き覚えないですみ。きっと昔々に信仰を失ったお宮だと思うのです。みっ」
人の信仰心は時と共に移ろう。ここ二宮もかつては火取蛾分宮で、本宮から独立した折には社格が低かった。それが絹糸の恩恵を受ける人々の信仰を集めたことで、今や二宮にまで上り詰める大出世。となれば当然、社格を下げる宮社も存在する訳で――。
「分かった。それじゃあ優曇華宮のことは明日にでも御白様に確認してみよう」
「みっ」
「よし。じゃあ放谷。続きをお願い」
「おー」
***
鳥居を潜り、打ち捨ての社殿群を通り抜けると、正面に現れたのは、これもまた大きく傾いた拝殿。更に奥には本殿の高い茅葺が覗いていた。
ハンスとモレノは靴履きのまま拝殿に上がると、所々破れた床を渡って、本殿に昇る渡り廊下を進み、廊下の終わりでようやく靴を脱ぐと、立てかけの木戸を外して御神座へ上がった。
御神座は荒れていた。荒れた随所に手を加え、柱は挿げ替えたり添え木をしたり、床には重ね張りの板を施したりと、どれもおしなべて見栄えはよろしくない。
(こーゆーところだよなー)
神前の礼に欠ける有様を見て放谷は珍しく腹を立てた。嶋人が手を入れたならこうはならない。如何に荒れていようと土足で拝殿を渡りはしないし、御神座をこうも無様に模ることもない。
蜘蛛神社衆も傍から見れば随分と草臥れた社だが、仮に蜘蛛の巣を取り払ったとすれば、それはそれは立派な自慢の割拝殿だ。それがもしこのような姿になったとしたら――。放谷は想像するだに怖気を震わせた。そのような場所は最早、神の留まる場所ではない。
「どうしたのだお前たち。今日は集まりのある日ではないぞ」
一段高く設えた内陣。整然と並ぶ椅子の一つに掛けた初老の渡人が立ち上がった。手にある五尺の仗には先端に金と銀を縒った金輪が付いている。
(お、金銀捩じり輪っぱかー? だとしたらこいつは蝙蝠の信徒だなー)
「先生! モレノがやったんですよ。我々はついに神の波長を手に入れたんです!」
「何?」
「とにかく見てやって下さい。おい、モレノ」
「はいっ、これです」
袋から取り出された楯がモレノの手から初老の男へと渡る。男は仗をハンスに預け、両の手でしっかりと楯を持ち、裏返し、また直し、縁をなぞって、それから二人の目を順々に覗き込んだ。
「これは――」
続く言葉を期待してハンスとモレノの喉奥が鳴る。が、しかし――。
「ただの土産物の楯だ」
「……は? いや、そんな筈はない。そうだな? モレノ」
「そうです。それには俺の甥が家へ招いた神様が、間違いなく触れている筈です」
「そうではない。確かにお前の言う通りかもしれない。ただ、この楯は審神の小杖でもなんでもない。ただの土産物の楯なのだよ」
「審神の小杖じゃない? おいモレノ、一体どういうことなんだ?」
「そんな筈は……。まさかっ、すり替えられたのか……」
「だとしたらお前たち。事はその神に露見しているのではないか?」
秘かに同調している放谷には、モレノの落胆と不安とが手に取るように分かった。
初老の男の読みは正しい。首刈は事を察して審神の小杖を隠し、モレノにはまんまと偽物を掴ませたのだから。
「それで、その神というのはどこの神だ? 宮守衆ではなく、正しく神であるのか?」
ハンスは苦しい咳をした。確証がある訳ではない。当て推量だ。しかし半ば以上は信じていた。モレノもハンスの言うことならばと疑いはしなかった。
「実は、これは恐らくの話ですが。私の読みが外れていなければ、その神とは、真神の皇大神です」
「今何と言った? 恐らくと言ったが何故そう思うのだ!? 罷り間違ってもしそうならば、我らは今、とんでもない状況に陥ったかもしれんのだぞ」
ハンスの手から仗を奪うように取り返した男は、その拍子に楯を落した。床に落ちた楯の縁から陶器の板が外れて欠ける。しかし男は目もくれず、強い視線でハンスを睨んだ。
「私なりの裏付けはあります。昨今、水走で神々と渡人の融和などと言って妙な動きがあることは先生も御存知でしょう。その後、話の流れで調査員の一団が赤土に赴くことになりました。調査局の側で音頭を取ったのはシールレントのジーノスです」
「ジーノス・ベレンデンか。一時期審神の小杖の出所を嗅ぎ回っていた煩い蠅だな」
「はい。私もそれが頭にあったので、息のかかった調査員を紛れ込ませていたのです。そうして連絡を取り合っていると、意外な事実が分かりました。赤土に皇大神が現れたと言うのですよ」
話をする内にハンスは興奮気味に顔を赤らめた。続く話に男の目の鋭さは増して行く。一方の放谷にして見ればその内容は「よくもまー知っているもんだなー」と逐一頷けるもので目新しさはない。なればこそハンスが的を得た情報を握っていることもまた事実だった。
***
「ちょっと待ってよ! それって、審神の小杖を使って何か企んでる人たちに、私のことがバレちゃってるってことじゃない?」
「まーそーなるなー」
驚いた。いや、ある意味当然ではある。私たちは喧伝しないというだけで、何もひた隠しに大嶋廻りをしている訳じゃない。寧ろ彼らのように神の波長を求めてアンテナを張り巡らしている者であればこそ、私の存在や居所に逸早く辿り着いたと言えるだろう。
当然、気分はよろしくない。彼らは大宮の代替わりを知り、大嶋廻りが行われていることを知り、更には現在地にも目見当を付けていて、今この時ですら監視下に置いているのかもしれないのだ。
「お姉ちゃん?」
春を待つ気分も忽ちに失せて、寒厳骨に徹する冬の思いがした。阿呼の声もどこか虚ろに感じてしまう。
いけないいけない。妹の前で妄りに狼狽えるなんて姉にあってはならないことだ。え? 今更感? 皆まで言うな。
しかし私とマブのジーノスを捕まえて煩い蠅と申したか。どうにもいけ好かない先生のようだね。更に言えばジーノスを知っているということは、以前、彼が押収してその後行方の分からなくなった審神の小杖。それに関わっている人物という線もある。少なくともその周辺の経緯を知っている者だろう。
「ちょっと風が出て来たね……」
頬を撫でる風に嵐の予感めいたものを感じて、なんとはなしに独り言ちる。
「? そうだね。それで今の話、お姉ちゃんはどう思ったの?」
「うーん、困ったねぇ――。どう思うか。どうしたいか。確かに答えは必要だけど、私としては何よりも先に、マウロの叔父さんたちがどういった目的で神の波長を必要としているかが知りたい。放谷、その辺はどうなの?」
小鉤ちゃんが注ぎ足してくれた湯呑を取りながら尋ねると、放谷はお茶請けの桑実団子を丸まま口に放り込み、碌に噛みもしないで呑み込んだ。
「それなー。その日はそれっきり、大した話はなかったぞー。なんてのかなー。モレノってのはどうも下っ端でさー、話の続きは残りの二人が場所を変えてしてたみたいなんだー」
「そうなの? だったらそっちの肩にでも乗り移って聞いて来ればよかったじゃない」
「あははー、ほんとだなー」
「をいっ」
これだから放谷は困ったちゃんだと言うのだ。
けれどもそれはあくまでも優曇華宮に辿り着いた日の話。放谷はモレノの肩に留まって、そこから数日を優曇華宮で過ごした。
当初、モレノは江都に立ち返って、マウロの家に本物の審神の小杖が残っていないか確かめようとしたとらしい。けれどハンスがそれを引き止めた。それは事に感付いた私たちがモレノが立ち戻るのを待ち構えている可能性を考慮したからだ。代わりに誰か人をやって様子を見るという話になったそうだが、当然その誰かとやらが審神の小杖を持ち帰って来ることはなかった。
「で、モレノは境内から一歩も出るなって言われちゃってさー、来る日も来る日も手持ち無沙汰にしてたんだー」
「まあ面が割れてる可能性を考えたらそういう対応にもなるよね」
「面が割れるってなぁに?」
「顔を見られてるっていう意味。ほら、お面が割れたら、隠れてた顔が見えるでしょ?」
「そっか。でも阿呼たちモレノさんのお顔は知らないでしょ?」
「うん。でもそれは向こうには分からないことだもん。それで用心したんだろうね」
「あたいは知ってるけどなー」
「分かってるよ。で? 続きは?」
「うん、その次に変化があったのは風声が通じたあの日だなー」
***
その日、先生と呼ばれる初老の男とハンスはふらっと現れ、本殿の横合いに渡り廊下で繋がった別棟に姿を消した。
モレノは相変わらず境内のあちこちをうろついて暇を潰していた。やがて見知らぬ渡人たちがちらほらと境内に集まり始めた。モレノは彼らと手振りや短い言葉で挨拶を交わしていたが、そうこうする内に誰かに呼ばれて別棟へと向かった。
「ハンスの旦那、お呼びで?」
「ああ、モレノ。今日は祈りの日だからな。いつも通り準備の方を頼まれてくれるか」
「ええ、それは勿論。ところで皇大神の件はどうなったんです?」
「それは今先生の方で調べを進めて下さってる。私の知る限りでは現状、神々の側にこれといった動きもない。一応こっちで集めた情報の裏取りも済んで、足取りを追えた部分と、その後の推測からしても、江都に皇大神が現れるのはあり得ない話ではないということになった。そうですね? 先生」
初老の男は例の仗を片手に黙って頷いた。その身なりは過日と異なって白一色の清浄な着衣に代わり、渡人の衣装でありながらどことなく宮守衆の雰囲気を感じさせた。
先生とハンスが別棟を出ると、残されたモレノも指図された準備とやらの為に後に続いた。
放谷の耳元で首刈の声が潜めいたのは、モレノが別棟の間口を出ようとした刹那だった。
「おけまる?」
「まるまるー!」
咄嗟に返して放谷は、直後、蚊や虱でも叩き潰そうとするモレノの手に襲われて続く言葉を途切らせた。
放谷は襟足から糸を垂れて背中の、どうやっても手が届かない位置に張り付き、再度風声を試みた。しかしこれが繋がらない。これまで通り何かに阻まれてぷっつり途切れてしまうのだ。
とはいえ放谷もまるっきりの馬鹿ではない。一つ社を預かる主祭として正しく勘は働いた。どうやら別棟の中では風声を断ち切る類の邪魔がないのだろう、と。それで一瞬、モレノから離れて別棟へ戻り、首刈に詳しく話をしようかとも考えた。けれどもそうしなかったのは、本殿に集まり始めた渡人たちの気配。それが思った以上の人出を感じさせたからだ。
これからここで何かあるに違いない――。
放谷はそれを思って連絡よりも現状の確認を優先した。モレノが本殿に戻った時、内陣に並べられた椅子を埋め尽くすだけの人数が既におり、加えて外陣の半ばを占める数の渡人たちが集っていた。
***
「それが最初の日に言ってた集会ってやつ?」
「だなー。とにかく大勢だったー。モレノが並びとか指示してる間にもどんどん増えてってさー。数えた訳じゃないけど三百は下らないなー。蔀の外から覗いてる連中もいたから、ひょっとして五百に届くくらいはいたかもー」
「ごひゃ……ごひゃく!?」
魂消た数だ。
普通、里山一つの人口は百にも満たない。街道上の里でも三百前後で、周辺の隣里と合わせてようやく五百だ。ここ御白様の里は大嶋最大と言うだけに千人に上る規模だけど、例外中の例外だ。
参った。そんな大人数の渡人が去り宮と思しき廃れたお宮で一体何を――。容易には想像もつかないけど、ただただ気味が悪い。だって、
「それってさ。それだけの数の渡人が神の、てか私の波長を手に入れようとしてるってことだよね?」
「なんだか怖いね、お姉ちゃん」
「ホントだよ。てゆーか不気味過ぎる。なんなの? 一人じゃちょっと夜の厠にも行けないレベルなんだけど」
「大丈夫。阿呼がお手々繋いで一緒に行ってあげる」
「うん? うん。ありがとう」
でもそうじゃない。そういう問題じゃないよねこれ?
「それで放谷。その後は?」
「うん。本殿はなー。普通はちょっとしたものでも祭壇がある筈の場所になんにもなくってー。そこに先生が立ってなー。そしたらモレノとハンスが両側から長竿を使って、奥突きの壁の上に巻いてあった幕を垂らしたんだー」
「幕? なんかの垂れ幕ってこと?」
「だなー」
「どんな垂れ幕だったの?」
「さー? 見たこともない模様だったなー。ほらー、砂滑神社から乗った船の帆があるだろー? あんな感じの帆が五つぐるっと並んでる感じのやつなー」
五つ帆の丸!
私は阿呼とバッチリ目を合わせて頷いた。阿呼は直ぐに輪違から紙片を取り出し、それを広げて放谷に差し向けた。
「放谷、それってこの模様?」
「あー! それそれー。でも、なんで阿呼がおんなじの持ってるんだー?」
「お姉ちゃん、合ってるって!」
「うわー、そー来たかぁ……」
西風さんが前以って暗宮に警戒を促していた渡人の動き。その渦中にある帆紋がここで浮かび上がって来た。言うまでもなく知らないよりは知っておいた方がいい事実だ。ただ、どう考えてもこれは取り扱い要注意。私がここで無い知恵を絞って、下手に動くのは得策ではない気がした。いや、はっきり言おう。やめておけ、というヤツだ。
「どうする? お姉ちゃん」
「いや、うん。これは……」
「これは?」
「よし、決めた! 明日、御白様に優曇華宮のことだけ聞いて、一目散に水走へ行こう。予定より一日早いけど、着いたら即で西風さんに報告! それからどうするかは向こうで相談してから決めるっ」
「おー、ほーれんそーだなー」
その通り。分かってるじゃないか放谷。ここで優先すべきは報連相だ。行動は二の次。特に狙い目を付けられている私が推して出たんじゃ愚の骨頂。ここでやらかしたら各方面からお叱りを受けるどころか、折角動き出した融和プロジェクトがご破算にもなりかねない。
「小鉤ちゃんはどうする? 忍火さんに状況報告しに本宮へ戻る?」
「いいえ。小鉤は首刈様に御供させて頂きますみ。本宮との繋ぎは透羽と火子がいるので大丈夫す。みっ」
「おけまる! じゃあそういうことで決定ね。あ、でも、このことは水走へ行っても夜刀ちゃんには内緒だからね?」
「なんでだー?」
「だって夜刀ちゃんには春告神事か控えてるでしょ? 大祭の主役なんだから邪魔をしたら駄目だよ。この件は渡人担当になってる北風さんと西風さんにだけ相談する。いい?」
「分かったー」
「阿呼も了解」
「承知しましたみっ」
それにしても乱れた麻の如きこの綾に、一体どう手を付けたら丸く収めることが出来るのだろうか。神々と渡人との融和は私が皇大神として立つ為の大切な支柱だ。ここはどうあっても上手いこと解決の糸口を掴まなくてはならない。




