088 仇なす影
「おけまる?」
「まるまるー」
これが昨日までに私と放谷とが交わした唯一の会話だ。私は誰に聞かれたとしても放谷以外には通じ難い言葉を選んで風声を投げた。それで返ってきたのが「まるまる」という訳なのだ。
いや、意味わかんないし! せめて「かくかくしかじかうんぬんとうとう」と言うなら何かしら伝えたいことがあるんだなあと分かりもする。それが「まるまる」ではそれこそ埒が明かない。そんな符丁を決めた覚えもない。以降は幾ら風声を投げても梨の礫。ぷっつりと音信は途絶えてしまった。
まあ結局は今朝になって返信があったんだけどね。それで以って私と阿呼は真神原以来の二人旅をしている最中なのです。そう、放谷との合流目指して――。
「お姉ちゃん」
「ん? どうかした?」
「水筒のお水がなくなっちゃった」
「あ、私ももうないや。じゃあ水場を探しながら行こうか」
私たちは転宮街道を川側に逸れて木立の中へ入った。そこで狼に移姿し、湧き水の気配を手繰りながら緑の中を駆け抜ける。
さて、状況を整理しておこう。
今日は水走月の二十六日。火取蛾本宮を出た私たちは一旦江都に戻り、マウロたちのお世話になりながら、三日間市場に出入りして路銀を稼いだ。
江都を出たのは二十三日。
絆川に沿って転宮街道を東へ進み、無人宿を拝借しながら三宮、玉殿神社に参詣したのが昨日のこと。
明けて本日。一晩お世話になった玉殿神社を辞して、さあ行くぞと意気込んだら放谷からの風声通信だ。細かい話は抜きにして無事の確認を取り、どこで落ち合うかを決めようとしたら、次の目的地である二宮、蚕種神社で待っていると言う。
放谷は声からして元気そうだった。散々心配させてくれた上に、先回りまでされて憤懣やる方なかったけれど、無事だったことには素直に感謝して、私は阿呼と先を急いだ。
如何に急いだかと言えば、今しているように途中途中、狼に移姿して野を走り、疲れたら人の姿に戻って街道を往く。とまあそんな要領だ。狼になればスピードは段違いだけど、街道を走ったり、ましてや空を飛ぶ訳にも行かないから、悪路を縫ってひた走った。
「お姉ちゃんこっち! 水の音!」
「おけ! 先に行って、付いてく」
地図で見ると一本の太い川に見える絆川も、実際には細い川筋が分岐と合流を繰り返しながら藻成須まで続いている。人はその流れに出会いと別れを見るのではなく、絡み合って強くなる絆を垣間見る。絆し絆され絆川。そんな温もり溢れる情緒を、私は心から好ましく感じていた。
「冷たくて美味しい!」
岩に根を張る木股から滴る湧き水。よく冷えたそれを啜れば本日最高の阿呼の笑顔。ぶっちゃけ水に困れば清水の御業で済ませればいいのだけど、それでは折角の旅が味気ないものになってしまう。こうして探し当てた岩清水に喉を潤す方が何十倍も楽しいし、想い出深く記憶にも刻まれる。
私たちはたっぷりと渇きを癒して空の水筒を満たし、そこでようやく辺りを見回した。渓流は耳心地のいい瀬音を奏で、川面に冷えた風が枝を撫でれば、たちまち葉風となって春待つ森を揺り起こすかのようだ。
「さあ、行こっか」
「うん!」
再び狼になって鶲囀る木陰を走った。川瀬を綴る小岩を渡り、紅開く万作の花枝を潜って、下生えの露を弾きながら駆け抜ける。柳の暖簾を押し分け、小滝を見ればまた飛び石を跳ねて元の岸へ。そんなことを繰り返しながら私も阿呼も思う存分狼の生を謳歌した。
日暮れ頃になると、玉殿神社から蚕種神社までの三日ある行程を二日分稼いだ標に出くわした。一日置きの場所にある無人宿の二件目に辿り着いたのだ。
転宮街道の中でも江都から大巳輪まではとみに人通りが多い為、無人宿も一軒ぽっちではない。中には店主が切り盛りする旅籠もあって、ここはちょっとした宿場町のようになっていた。
「どこも混んでるみたいよ?」
「そうだね。旅籠はお金がかかるし。今夜は雨も降らなそうだから、野宿にしよっか」
「うん、阿呼はそれでいい」
江都の市場では初日の稼ぎを元手に仕入れを増やして、烏賊焼きや茹蛸ばかりでなしに、三宮のレシピから貝のお吸い物やお刺身も出したりした。結果、得られた収入は大巳輪までの路銀として十分なもの。けれど大嶋廻りの先は長い。また何処かで実入りを得る機会があるまでは切り詰めることも肝心だ。
私たちは野宿と決めて森に分け入り、闇の中へと姿を隠した。折り重なる岩の隙間に潜り込んで、子守歌と晴れ乞いの歌を混ぜこぜに口遊んでは、毛繕いをしたりお喋りをしたり。
ねんねこ ねんね ねんころり
明日 天気にしておくれ
翌朝。
朝露が玉を結んで樹雨降らせる森を歩いた。昨日、一日分距離を稼いでいたので、出だしはゆっくりとしたペースだ。
開けた場所に出れば一面に繁縷の絨毯。周りを囲む低木は馬酔木だろうか。白い花を鈴生りにして甘やかな芳香を放っていた。
「いい香り!」
「鈴蘭みたいで可愛いよね。でも、これを食べたお馬さんは酔っぱらうんだってさ」
春の野原を思わす景色の中、私たちは人の姿になってそぞろ歩いた。繁縷の花を渡る小さな翅は小灰蝶に挵蝶。時折、ひと回り大きな紋白蝶もひらひらと。梢から降るのは上手に姿を隠した小鳥たちの歌声。
「春だねぇ」
「春だねー」
ここ数日、日増しに暖かくなる護解はどこを見ても春一色。温かく穏やかで、仄かな幸福感に包まれている。
「昨日までは放谷のことが気になって碌に景色も楽しめなかったけど。やっぱり春は素敵だね」
「うん。阿呼、春は好き――。ちょうちょ、ちょうちょ、菜の葉にとまれ」
「おっ」
菜の葉に飽いたら 桜にとまれ
桜の花の 花から花へ
とまれよ遊べ 遊べよとまれ
阿呼が歌い、続く私のハーモニー。
高く低く、自由に舞う蝶々たち。
薫る花。
歌う鳥。
手を繋ぎ、輪唱してどこまでも。
やがて兎が顔を出し、枝の上の栗鼠も耳をそばだてる。
どこからか啄木鳥の木を叩く音。
そして牛蒡を抱えて野を横切るビーバー……。
「んん!? ビーバー!??」
「びーばー?」
海の狸と書いてビーバー。しかし住まいは湖や川といった淡水域が主だ。
でっぷりと大きな体を揺すって五本も六本も抱え込み咥え込んだ牛蒡を、落すまいと懸命に移動している。一体どこから引っこ抜いて来たのだろうか。
ここは楓露。なんとなく日本にいる気になってビーバーの登場に驚いてしまったけど、何がいようと不思議はない。それでも初めて目にする生ビーバーは新鮮で、私は阿呼と顔を見合わせ、後を付けてみることにした。幸い、向かう方向は一緒だ。
「ビーバーの神社ってあったっけ? 例えば海狸神社だとか」
「どうだろう? 阿呼は聞いたことない。聞いたみたら?」
「聞くって、あの子に?」
「うん。神様や宮守衆かもしれないでしょ? だって、あんなに器用に牛蒡を抱えているもの。きっとささがきにしてお料理するのよ」
牛蒡飯……じゅるり!
「あ、止まった」
「止まったね」
こちらの尾行を察したのか、ビーバーは立ち止まって警戒心を露わにした。
「おーい、もしもーし!」
阿呼に乗せられてつい声をかけると、つぶらなおめめと視線が重なり、次の瞬間クワッ! ビーバー特有の赤錆た大きな前歯で威嚇して来た。
「あわわ、あれ野生だよ。神様でも宮守衆でもない」
「お姉ちゃん、しーっ。騒いだら怒らせちゃう」
「阿呼が聞いてみればって言ったんじゃん」
「うん。でも間違ってた。だから静かにしてて」
「はい」
阿呼って凄いな。初めて見た動物に威嚇されてもビクともしない。やっぱり根っ子が狼だと、捕食する側だから堂々としていられるのかな。
しばらく睨めっこが続き、やがてビーバーはクルッと向きを変えて小走りに移動を始めた。咥えていた一本こそ捨てて行ったけど、抱えた分はそのままな辺り、私たちを敵とはみなさなかったようだ。阿呼は草場に落ちた牛蒡を拾って、ビーバーの後を付かず離れず付いて行った。
野原を抜け、木立に入り、立ち止まって、また進む。やがて沢の音が近付いてきた。
今、私たちがいるのは転宮街道の南側、絆川とは反対側の森の中だ。このまま進めば絆川の支流、解川に突き当たる。
「わっ、凄い! お姉ちゃん見て、あれは何?」
木立を抜けて開けた視界に飛び込んできたのは豊かな水。そして両岸を繋ぐ無数の枝で築き上げられた天然のダムだ。
「おお、ビーバーダムだよ、これ」
「だむ?」
「堰のこと。あれはビーバーが枝を集めて作った堰なの。ほら、あっちを見て。堰き止められて流れの止まった水辺の真ん中。あそに枝の山があるでしょ」
「うん」
「あれがビーバーのお家」
「へー。あ、ビーバーさんが泳いで行くよ」
「うん。家族に食事を運んでるんだよ。もう春だから、ひょっとしたらあの中には赤ちゃんがいるのかも」
「赤ちゃん! そっかー。春が来たんだもんね」
阿呼は岸辺に牛蒡を置いて、ビーバーの姿が見えなくなるまで見送った。それから私たちは狼に移姿てビーバーダムを渡り、「またねー!」と挨拶を残して先へ進んだ。
しばらく行くとまた川に突き当たった。解川も絆川と同じで幾つもの川筋を持つのだろう。川幅からしてこちらが本流のようだった。
「ここは無理して渡ることはないね」
「うん。それより水分へ行こ」
「水分?」
「ほら、あれ」
阿呼の指で示したのは川面を流れる何やら小さくて白いもの。
「んー? なんだっけ?」
「んもぅ、繭玉に似せた紙風船! 昔は絆川と解川の水分に本当の繭玉を流して、どっちに流れるかで吉凶を占ったのよ。今はあの紙風船が繭玉の代わりなの」
「ああ、その話か。思い出した。じゃあ行ってみよう」
「うん!」
ぽつぽつと流れ来る紙風船を見ながら、川上に向けて岸を往く。きっと街道を行き交う人々が水分に立ち寄って願掛けをして行くのだろう。吉凶で言えば解川に流れ込むのは凶だけれど、それは単に縁遠くなるという暗示に留まらず、柵から解き放たれるという好事も含まれている。中にはそれをこそ願う人も少なくない筈だ。
「お姉ちゃん、橋が架かってる」
「あそこが街道だね。結構近かった」
転宮街道を横切る解川に架かるのは、渡人の手による立派なアーチ橋だ。そこを人や馬車が上り下りに過ぎて行く。私たちは人に移姿て街道に乗り、橋を渡って水分を目指した。
「あっ!」
街道を逸れて川岸へ下る道を行くと、一声を発して阿呼が駆けた。下り坂の先にはもう水分が見えていて、川の分岐点に迫り出す大きな平岩には沢山の人がいる。
「ちょっと待ってよ」
訳も分からず妹の背を追って人混みの中へ。すると、阿呼が誰ぞと両手を繋いでぴょんぴょん跳ねているではないか。その相手に焦点が定まると、私も思わず大声を発した。
「あっ! 放谷!!」
「おー、待ってるのもなんだから、ここなら会えるだろうと思ってなー」
確かに、半ば話を忘れていた私は別にしても、阿呼がいてここに立ち寄らないという理由はない。それを見込んで蚕種神社からここまで迎えに来たということか。
「チョーーップ!!」
「いってー! 何すんだよー」
「何すんだじゃないでしょーが! 散ざっぱら心配させておいてっ」
「あー、うん。ごめんなー?」
「報! 連! 相! もっとこまめに連絡を寄越しなさいっ」
「ほーれんそー?」
おとぼけ放谷め。顔を見た途端、引き摺りっぱなしだったモヤモヤが爆発してしまった。耳と尻尾を生やしてそんな大騒ぎをすれば、当然周りの目という目がこちらを向く。阿呼が「お騒がせして済みませんっ」と繰り返し頭を下げるのに倣って、私も放谷の頭を抑えながら頭を下げた。
「とりあえず移動しよう」
「あっち!」
目敏い阿呼を先頭に、紙風船を売る小屋の裏へ転がり込む。
「おー、白い水干になってるー。黄色は落としたのかー?」
「ちーがーいーまーすぅ。私がそんなことする訳ないでしょ。屋台の実入りで新しいのを買ったの! 綾目ちゃんが染めてくれた水干はちゃーんと仕舞ってあるんだから」
そうなのだ。私自身は気に入っていた黄色の水干。けれど参詣や神事といったフォーマルな場では如何なものか? ということで新調した。新品の着心地も同調させてしまえばしっかりと馴染んで不都合は欠片もない。再び阿呼とお揃いの白で、気分もバッチリ二重丸。
「そんなことより放谷の方はどうだったの? 全っ然風声を寄越さないからこっちは何ひとつ分かんないよっ」
「それなー。あたいも風声は何度も試したさー。でも声が飛んでかないんだー」
「はあ? 何それ。どゆこと?」
詳しい説明は後ですると言うので、一旦この場を離れようとしたら、今度は阿呼に袖を引かれてつんのめった。
「紙風船!」
「あ、そうだった。折角だからやって行こう」
小屋の表に回って縁台の向こうのお婆ちゃんに小銭を渡し、掌に乗る白い紙風船を三つ購入。脇に立てかけられた木彫りの看板には「繭玉流し――縁結び、縁切り、願い候え」とあって、文字の上下に刻まれているのは蛾巴紋。
「あれ? 火取蛾本宮の御神紋だ」
思わずこぼせばお婆さんが、
「ああ、御紋はおんなじだけど、小屋のあがりはみんな御白様に納めよるんよ」
「御白様?」
「蚕種の神様を御白様と呼ぶんよ。この水分は古くから御白様の息がかりでねぇ」
なるほど。蚕も蛾だから御神紋は同じということだろうか。火取蛾本宮は蛾のみならず蝶まで含めた総社。一方、蚕種神社は蛾の中でも蚕だけを祀ったお社だ。古くは蚕の作る繭を流したのだから、ここが御白様の息がかかりと言うのも頷ける。
私たちは人垣を分けて平岩の縁まで進み、目の前の水分を見渡した。それはさながら八岐大蛇。川上で束ねられた絆川の流れが三角形の分岐点で方々に枝分かれして龍門の淵を描いている。見た限りではどれが絆川の本流で、またどれが解川なのか全く見分けがつかない。
混雑した人の流れを止めてもいけないので、手にした紙風船を流れに向けて川面に放った。すると紙風船は素早く流れに乗って、途中幾度か渦に巻かれながらも三人分ひと塊りに流されて行く。
「へー! 全然離れてかない」
「みんな仲良しねっ」
「そーだなー」
「ええ? ほんと全然離れないんだけど」
「凄い凄い!」
「いー感じだなー」
不思議と感激が入り混じって、繋いだ手に力が籠る。遠のくほどに見失うまいと精一杯目を見開いて追いかければ、やがて紙風船は三つ揃ったまま奥の川筋へと吸い込まれて行った。
「おおー! 最後まで一緒だった!」
「きっといいことがあるねっ」
「だなー」
「あれだけ奥っ側なら絆川だよね。解川は手前を折れて橋を潜るんだから」
「阿呼たちみんな一緒の川筋に入ったから、これからもずっと一緒!」
「おー、糸で引っ付けといたからなー」
「え?」
「え?」
「んー? 糸で引っ付けといたぞー?」
「はあ!? なんでそんなことすんのよっ」
台無しだよ! 川面に揺られるたんびに一喜一憂していた私と阿呼の感動を返せ!
「あのね、放谷。どこへ流れるか分からないから願掛けなんだよ?」
「ほほー、そーゆーもんかー」
解き明かす阿呼に確信犯の笑顔でとぼける放谷。
これ絶対わざとだからね……。でもまあ気持ちは分からないでもない。私だって阿呼だってバラバラに流れて行くのを見たら多寡はあれ気持ちは沈んだことだろう。取り分け放谷はひとりぼっちが嫌いだ。そんな放谷にここ数日単独行動をさせたのは斯く言う私。
「まぁいいや。知らなかった私と阿呼はセーフ! とにかく行こう。そろそろお昼だし、さっき橋の袂に茶屋があったから、そこで何か食べようよ」
「阿呼、餡子のお団子がいいっ」
「あたいは挽き割り納豆ー」
「納豆!? いやまあ、お昼だからご飯ものでいいんだけど」
糸を引くからなのか? そうなのか、放谷?
どうでもいい謎を残しつつ、いつもの顔触れに戻った私たちは、足並み揃えて坂道を戻って行った。




