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異世界(まほろば)に響け、オオカミの歌  作者: K33Limited
章の一 真神編
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007 風合谷

 隧道の籠った空気から解放されると、入道雲が引退して久しい空は薄っすら茜色。

 人の姿に戻った放谷はなやつは境内の案内に立ち、私は私でいよいよ真神二宮と御対面かと、胸をときめかせていた。

 私の大好きなもの。一番は歌。二番に秋が来て、三番目は神社!

 鬱蒼とした杜は地面も岩も苔生して、緑の絨毯の上をそぞろ歩いて行くと、やがて古めかしくも立派な社殿の一角が目に映った。

 角を見るに一層一層が高い二層社殿の檜皮葺ひわだぶき。大樹を回り込めば次第に露わとなるその社殿は、どうやら平入りの切妻造きりつまづくり。私は期待に高鳴る胸を抑えて、ずずいっと大股に踏み込んだ。


「おおおおお! こ、これは!」


 真神二宮、蜘蛛ささがに神社。その全容は谷に迫り出す断崖の上、古寂びた佇まいを見せる独特の造りをしていた。


「きゃー! 割拝かっぱいでぃーーーーん!! 見てよ一層目のど真ん中! 貫通して谷が見えてる。凄い! こんな大きな割拝殿かっぱいでん見たことない!」


 いやっほぅ!

 小躍りして駆け寄れば彩色のない風合いこそ素晴らしい木の質感。侘びと寂びを組み上げた美しい宮造り。それは天理の石上いそのかみ神宮にある国宝の摂社によく似ていた。ただし、こちらは基礎の広さが数倍する上に重厚な二階建てという圧巻の迫力!

 割拝殿特有の中央を抜く土間には神寂かみさびた茅の輪が据えられていて、茅の輪と建物の狭間を蜘蛛の巣が埋め尽くしている。土間の向こうは美しく広がるV字谷。その景色はまるで一枚の絵画を浮かび上がらせたかのように……思えたの、です、が――。


「どこもかしこも蜘蛛の巣だらけだね」


 阿呼が遠慮がちにこぼした。かなり棒読みで。

 しかしそうなのだ。茅の輪周りに限らず至る所に張り巡らされた無数の蜘蛛の巣。それは玉に瑕などという表現を軽々飛び越え、むしろ蜘蛛の巣が主役でございと言わんばかりの様相を呈している。蜘蛛神社だもんね。うん、知ってた。


「どしたー?」


 いわゆる失意系前屈へと崩折くずおれた私の背を放谷はなやつさする。

 そっとしておいてよ。神社好きの私にしてみれば、参詣を楽しみにしていた先で修復中のブルーシートに出くわしたも同然。見たこともないスケールの大好きな割拝殿がこれはないだろう。


「腹減っちゃったかー?」

「ちがうよっ、てゆーかこんな蜘蛛の巣だらけの神社で一晩過ごせってゆーの?」

「え……。まずったかなー?」


 ちょっと尖った言葉になって放谷を戸惑わせてしまった。私は深く深く、も一つ深ぁーく深呼吸をして、両手でぴしゃりと頬を打った。


「掃除しよう! 片っ端から蜘蛛の巣を取り払っちゃおう」

「あわわ! やめてくれー、みんな隣近所だからー」


 隣近所と来たか。もう笑うしかない。前世では益虫と認識していた蜘蛛もここでは大出世を遂げて神様だ。致し方なし。


「じゃあ別の場所は? もう少し、こう、ご近所さんが少ないような」

「ここらはなー。山も谷も土を掘っても蜘蛛が出るからなー」


 致し方なければ逃げ場もないときた。ははは、殺せよ的な展開です。


「なんだよー。首刈は蜘蛛が好きだって言ってたろー?」

「言ったね、確かに。でもね? 数! 多すぎなーい? 分からないかな。ものには限度ってのがあるでしょ?」

「だいじょーぶ。みんな気のいい奴らだからー」

「そーいうことを言ってるんじゃないからね? 一体全体、気のいい蜘蛛ってどんな蜘蛛よ」

「んー、あたいとかー?」


 それ正解。確かに的を射てる。


「それは灯台下暗しだった。にしてもだよ。阿呼だってさすがに遠慮したいよね?」


 チラッと妹の様子を窺うと「だ、大丈夫!」みたいな身振りで強張った笑顔を見せてくる。


「く、蜘蛛さん可愛いよ?」


 愛妹の精一杯の社交辞令に放谷はすっかり恵比須顔。

 はぁ……。阿呼がそう言うなら仕方ない。「君が笑えば無敵のこころ」だもんね。私はいってきますの歌を思い返していよいよ腹を括った。いや、もうこれ括らざるを得ないところまで追い込まれてるもん。


「分かった! こうなったらどっからでも何匹でもかかって来いっ」


 でもセアカゴケグモだけは勘弁な。みたいな。




 ***




 早暁、私は割拝殿の土間に立ち、朝焼けに染まるV字谷を見下ろしていた。

 谷底を霞める朝霧が、昇る朝陽を浴びて橙の絨毯を織り上げている。それは陽が高まるにつれてまばゆい黄金色へと移ろい、やがてはほどけて行くのだろう。


「んーっ! 爽やか、最高の朝だねー!」


 大きく伸びを打って谷から昇る朝の香りをぐっと吸い込む。和毛にこげをなぞる冷たい風が肌に心地よかった。ちなみに、蜘蛛の巣は気合で見えない仕様になってます。


(それにしても、私ってどんな神様になるんだろうね)


 他人事のように思い浮かんだ考えと少し向き合ってみる。

 どんな神様になりたいか。漠然といい神様になりたいとは思うけれど、それはどんな神様なんだろう。

 前世での私は、小さい頃なら神社に行くたび無節操にお願い事をしていたけれど、何時からだろう、中学生になった頃にはもう、挨拶や報告をするばかりで、お願いはしなくなっていた。初詣や合唱コンクールの賞を仲間と祈願するのは風習やコミュニケーションであって、心からする願い事とは別物。

 私にとっての神様は既に願いを叶えてくれた存在だった。生まれて生きて、命が繁栄できる、奇跡の世界を与えてくれた。神様が見守る世界をどう生きるかは私たちの努力次第。

 けれども今は私自身が神様だ。自覚はないけどそうなのだ。現にこの世界には御業という魔訶不思議が存在していて、どこまでを指すのかは知らないけれど、なんだってできるのだと言う。ならばきっとこの先、私が誰かの願いを叶えることもあるのだろう。

 空恐ろしい話だな、と思う反面、好奇の心も付きまとった。


(神様って言っても、こうして現実に体があって、五感や思考も人間離れはしてないんだよね。だったら、いい神様になるって、いい人であろうとするくらいの感覚でいいのかな)


 だが人と言っても馬鹿にしたものではない。私なんか聖人君子と呼ばれるような人からすれば塵芥ちりあくただ。神様云々よりも先ず、人としてどう在るか。私の大嶋廻りはそこからになりそうだ。

 どんな人と出会うか、楽しみでもあれば不安でもある。沢山の人と仲良くなって、できればそう、歌で繋がりたい。地球では言語や思想、国境など、様々なものが人を分断していた。そうした中で常に、分断の壁を越えて行く代表格が愛、そして歌だ。


(飛び越して行けるかな。そうなればいいな。うん、そうなるように頑張ろう)


 そこまで考えて、気持ちに区切りの付いた私はストレッチに取りかかった。おいっちにぃ、おいっちにぃと身体を動かしていると、不意に遠くから届いてくる声。


(狼だ――)


 ハッとなって崖っぷちに飛び出せば、遠く谷にこだまする同族の声。二頭、三頭と、その数が徐々に増えて行く。

 私の耳は狼の声なら明確に個体を識別できるけど、どれも初めて聞く声ばかり。風合谷かそだにの狼たちが私に届けと歌っているのだろうか。


首刈すがるたちが谷に来たことが分かるんだろー。挨拶してるんだなー」


 じっと聴き入っていたら放谷が欠伸交じりにやってきた。続いて阿呼あこやも姿を見せて「おはよー」と、まだ眠たげな目を擦る。

 私は二人におはようと返して、また直ぐに谷を振り返った。今、無性に遠吠えを返したい気分だった。


「この谷にも狼って大勢いるの?」


 おめめをぱっちりと開いて阿呼が問う。


「いるぞー。それぞれの群れの束ねは大宮の従神だー。大抵が山暮らしだから谷底では見かけないけどなー」


 そう答えて伸びを打つ放谷。

 従神とは各トーテムの主祭神の下位に立つ神々だ。主祭神の親兄弟は特に族神と呼ばれる。大宮で言えば私が主祭神で、妹の阿呼は族神。


真代命ましろのみことの連れ合いも風合谷かそだにの生まれだって聞いてるぞー。隠居大鉢坐かくらいのおおはちすます風耳神かざみみのかみだったっけ?」

「お父さんのこと? 今はもう大牙おおきにお山を譲ったから風耳尊かざみみのみことだよ」


 再びストレッチをしながら答えると、二人も加わってラジオ体操でもしているようなムードになった。寧ろ生活にラジオ体操を取り入れるのはありだなと、思考が発展して行ったり。


「それなー。真神で名前に風が付くのはもっぱら風合谷生まれだー」

「おお、そーなんだね」

「だったらお姉ちゃん、ここはお父さんの故郷ふるさとね」


 そうか、ここがお父さんの生まれ育った谷か。動きを止めて感慨にふけることしばし、私はおもむろに大声を発した。


「おーーーい! 私はここだよーーっ、おーーーーーい!」


 するとそれまで不揃いだった遠吠えが奇麗に合わさって返ってきた。


「聞いた!?」

「うん、お返事してくれたね」

「阿呼も何か言ってごらんよ」


 促すと阿呼は崖の縁に立って口元に両の手を添えた。


「おはよー! 阿呼たち、これから大嶋廻りの旅に行ってきまーーす!」


 すると再び奇麗な唱和。私たちは嬉しくなって色んなことを谷に叫んだ。行ってきます。会いにきて。元気でね。ありがとう――。

 放谷も交えてひとしきり喉を嗄らすと、次第に谷を渡る遠吠えも絶えて、満足した私たちは寝間へ戻った。


「さあ三宮へ出発だ」


 残っていた鹿肉を朝餉にペロリ。銘々支度に取りかかる。

 私は掛け布団にしていたうちきを畳んで旅行李りょこうりに仕舞い込み、ぐるぐると脚絆を巻いて足結あゆいを結ぶと、指差し確認で忘れ物がないのを確かめた。放谷はとっくに外で、まだかまだかと待っている。

 手槍を取って一緒に出ようと阿呼を見れば、愛妹は衣桁いこうの前に立ち尽くしてまごまごしている様子。どうしたのかな? と覗いて見たら衣桁の端に掛けた市女笠に女郎蜘蛛が立派な巣を張っていた。笠と衣桁とを繋ぐ蜘蛛糸の架け橋、祝開通である。あらら。

 私が放谷を呼ぼうかと考えていると、阿呼は仕方なさそうに笑って、「大事にしてね」と巣の主に告げた。蜘蛛の方は両の前肢をピンと立て、まるで「分かったよ」と返事をしたかのようだった。


「いいの? お気に入りの笠なのに」

「うん、ここは二宮だもん。蜘蛛さんのお家は大事にしなきゃ」

「そっか、そうだね。阿呼の気持ちはちゃんと蜘蛛さんに伝わったと思うよ」


 旅に出て数日だというのに阿呼の印象は随分変わった。石舞台での放谷との対決も。隧道で私の怪我を治したことも。蜘蛛の巣だらけの二宮に泊まることだって、お宮での甘えん坊な妹という印象からは抜け出したものだ。

 これは私も見習わなくちゃ。と気持ちを引き締め、私は阿呼の手を取って拝殿を後にした。

 さあ、出発だ。




 ***




 首刈たち大嶋廻りの一行が蜘蛛神社を後にして、三の鳥居、二の鳥居、一の鳥居と神域を抜け出した辺り。枝振りのいいかやの古木に一羽の木葉木菟このはずくが留まっていた。と、その隣りへ木兎みみずくが飛来して仲良く並ぶ。


「お待たせしました東風こち。この谷はわたくし西風まぜが見ますので、東風は戻って貰って結構ですよ」

「それはいいけど、なんで西風西風まぜまぜが来たの? 南風姉はえねぇは?」

「南風は昨晩、北風姉さんの秘蔵の葡萄酒ワインを盗み飲みしたのが露見しまして、今も逃げ回っている最中です」

「まーた盗み酒? 懲りないなあ南風姉も」

「全くですね。それでどうです? 御一行のご様子は」

「普通に真神路を下ってったよ。草叢で荊棘おどろに絡まれてたけど、さすが皇大神だよね。あり余る星霊を垂れ流して撃退したのには正直笑った」

「垂れ流して? 何か御業を使ったりはしなかったのですか?」

「しないよぉ。だってあの娘たち道結ちゆいも使えないんだよ? てゆーか多分移姿(うつし)も使えないと思う」

「移姿もですか?」

「うん。距離を稼ぐなら断然狼になった方が早いのに、大宮を出てからずっと二本足だもん。そもそも見てくれからして生後半年かそこいらでしょ。ちょっと真代ましろちゃんの考えが分んないなーって感じはしたかな」

「そんなにお若いんですか。確かに大嶋廻りには早過ぎますね。他には何か?」

「特に何も。私、蜘蛛隧道には入らなかったし。でも無事に出てきたよ」

「隧道のような暗がりこそよく見ておくべきでは? 中に入らずとも梟神さけがみなら耳をそばだてるだけで充分でしょう」

「えー。だって月卵山つきのかいやまを飛んで越えたんだよ? 風は強いしめっちゃ寒いし、隧道の中の音まで拾ってらんないよぉ。――あ、あとお伴が加わった」

「お伴ですか」

「うん。二宮の蜘蛛神。あそこも代替わりして間もないから、役に立つかは分からないけどねー」

「なるほど、分かりました。ではこの場は西風が引き継ぎますので、東風は戻って報告をお願いします」

「ほーい。んじゃお後よろしくぅ」


 東風が飛び立つと西風はひとしきり羽繕いをして、道行く大嶋廻り一行を大きな二つの目で追った。




 ***




 風が集まってくる場所を風合瀬かそせと言う。今、私たちが行く風合谷かそだにが正にそれだ。柔らかく、時に力強く吹く風も、有難いことに今は背中を押す追い風。両側の山並を覆う木々がヒソヒソと語らうように鳴いていた。

 既に二、三時間は歩いて体内時計によれば時刻は午前十時を過ぎた辺り。今朝の霧は跡形もなく消えて、私たちの前に広がっているのは長閑のどか谷間たにあいの風景だ。これが放谷が暮らしてきた景色かと思うと、随分身近なものに感じられた。


「素敵な場所だね」


 風にそっと押されながら自然と口を衝いて出た言葉に、放谷が「なー」と相槌を返す。V字を形成する雄々しい山並みに守られながら、谷筋を行く道は谷川と寄ったり離れたり。秋の気配を匂わす風に雀の群れが舞っていた。


「お姉ちゃん、とんぼ。真っ赤なとんぼさんがいるよ」


 見れば槍の穂先に留まりたそうに赤蜻蛉あかとんぼが飛んでいる。大宮でも蜻蜓やんま糸蜻蛉いととんぼの姿を見たけれど、楓露ふうろに来てから秋茜あきあかねを目にするのはこれが初めてだ。


「じきに秋だからなー」

「だねー。私、秋が一番好きなんだぁ」

「お姉ちゃんは紅葉が好きなんだって。阿呼も早く見てみたい」

「紅葉かー」

「この谷が秋に染まったら見事だろうね」

「おー、野分のわきが立つと赤や黄色の葉っぱが一斉に舞い上がって、そりゃあ凄いぞー」


 そんなささやかなやり取りだけで胸弾む秋の話題。これはマイ・フェイバリットソングを披露せねばなるまい。と、私は一足早い秋の歌を脳裏に選んだ。


「よし、それじゃあお姉ちゃんの大好きな秋の歌から、三大秋の歌の一曲をお聞かせしましょう」


 三大秋の歌とはなんぞや。はい、単に私が愛してやまない三曲の秋の歌のことですね。それはそうと阿呼も放谷も期待して耳を澄ませてくれている様子。

 私はこの谷が秋色に染まる様を思い浮かべながら、選んだ一曲を口の端に上らせた。



 夕やけ小やけの 赤とんぼ


 負われて見たのは いつの日か



 秋茜がフイッと槍の穂先を離れた。その飛び行く姿を追えば、いつの間にか沢山の蜻蛉が前へ、前へと泳ぐように飛んでいる。



 山の畑の 桑の実を


 小籠につんだは まぼろしか



 阿呼と放谷が合わせるように静かなハミング。少しずれたり、遅れたり。合唱部の練習風景が脳裏をよぎる。雨の日の講堂。夕暮れの屋上。そして紅葉舞う橿原神宮。懐かしさに胸、震えた。



 十五でねえやは 嫁にゆき


 お里のたよりも たえはてた



 夕やけ小やけの 赤とんぼ


 とまっているよ 竿の先



 静かに余韻を楽しめば、目皮まかわの裏に映えていた幻の秋の夕暮れが緩やかに遠ざかって、晩夏の陽射しに抱かれた景色が戻ってくる。


「おー、いい歌だなー。秋の景色が見えたぞー」


 おお、友よ!


「阿呼もお山が赤く見えた。不思議な気持ち。とっても優しくてきれいな歌」


 我が、妹よ!

 どうやら私の愛する歌の魔法は二人にもちゃんと伝わったらしい。

 じんわりと心に溶け入る情感は懐かしさや切なさを美しく取り結ぶ。そこに描かれた世界は心のあり方ひとつで、歌に触れた誰をも笑顔にも涙にも変えてしまえる。これを魔法と呼ばずしてなんと呼ぼう。

 二人にせがまれて、私は丁寧に歌詞を教えながら歩いた。そしてみんなで繰り返し繰り返し歌う。こんな風に歌に興味を示してくれる二人は本当にかけがえのない存在だ。


「お姉ちゃんて、お歌を歌うとやっぱり薄っすら光るのね」

「え? そう? 今も光ってた?」

「赤とんぼ、最初に聞かせてくれた時、光ってた」

「最初だけ? 今二人に教えてた時は?」

「ううん、最初だけ。いってきますの歌の時とおんなじに光ってた」

「そっか。でも、お母さんは何も言わなかったね」

「うん。お母さんは何も言わないから」


 そうなのだ。お母さんは敢えて尋ねなければ何も言わないことが多い人。ならば私が光っていても、ただ黙ってそれを見ていたのだろう。

 阿呼が口にしたニュアンスは分かる。歌の世界に没入している時に光るという意味だ。遊んだり教えたりする時はそうはならない。遊ぶのが目的だし、教えるのが目的だから。

 歌っていて別段違和感も感じないので、変に歌を控える必要はないのかな。と都合よく結論して、今は旅程を消化しようと、吹き抜ける風を追うように行く手を見据えた。

 やがて景色は流れ、一方の山の斜面に棚田の跡らしき段々が。谷川に沿った辺りには集落の名残がぽつぽつと見えてきた。一軒だけ崩れ切って草生くさむしたれ小屋。他は基礎だけを残した民家の跡が、降る年月に晒されている。


「この分だと二十軒はあった感じかな?」


 見たままに言いながら、うらびれた形を残されるよりこの方がいいな、と思う。


「この先にも何ヶ所か似たような集落の跡があるぞー」

「どうしてみんな居なくなっちゃたの?」


 大きな石を避けながら阿呼が尋ねた。


「さあなー。真神原に続いて禁足地になったこともあるけど、外の暮らしは渡人わたりが来て以来、色々便利になったって聞くからなー」

「そうなの?」


 放谷は喜怒哀楽の喜と楽ばかりで話すので、今一つ渡人わたりと呼ばれる海の向こうから来た人々にどんな感情を持っているのか掴めなかった。


「海の向こうから来た連中は迷惑なばっかりじゃなくて、道具だとか農事のことだとか、役に立つことも広めたって話だぞー」

「舶来かぁ」

「はくらいー?」

「船に乗ってやって来たって意味よ」

「ほほー」

「お姉ちゃんは色んな言葉をよく知ってるの。でもどうして?」


 阿呼の疑問を「まぁちょっとね」と誤魔化しつつ、私は目先の問題に話を切り替えた。朝餉に平らげた分で手持ちの食糧が尽きていたのだ。

 さて、昼餉をどうするか。蜘蛛になれる放谷は別にしても、人の姿でいる私と阿呼は人の食事が必要だ。狼の姿でアツアツの料理を食べたいとは思わないように、人の姿で狩った傍から獲物を齧る気にはならない。丸呑みした毛を吐き出す機能もないからね。

 一応、手持ちの槍と小刃で狩りをして捌くことは可能。けれど上手く獲物が取れたとして、火起こしや調理の道具がない。そもそも余り時間をかけていると三宮までに一度、野宿を挟むことになりかねない。


「放谷。ここらで果物とか実の成ってる木はない?」

「今頃の柿は大抵渋いし、木通あけびもまだ早いかなぁ。あたいが川で魚獲った方が早いよー」

「魚か。火が起こせれば大歓迎なんだけど」

「お姉ちゃん。川原へ行けば火打ちに使える石が見つからないかな?」

「どうだろ? あったとしても打ち金がない」

「打ち金は槍の穂先で代えられない?」

「おっ、阿呼賢い!」


 閃きを得た私たちは早速谷川へ向かい、川沿いに石を探しながら練り歩いた。

 お昼までにはまだ多少時間がある。私たちは草場を掻き分け、岩場を登り下りし、時には川に入って沢下りをしながら、河原に出れば石を拾った。

 勘で以って集めた石を穂先に宛がい、火花の出具合を確かめる。えっちらおっちら進んで行くと、火花の出のいい石が二つ、三つ見っかって、その内に放谷が幾つかあると言っていた村跡らしき河川敷に出た。


「ここでお昼にしよう。放谷はお魚担当ね。火起こしは私がやる」

「おー、任せとけー」

「阿呼は?」

「阿呼は焚火に使う粗朶木そだぎを集めて来てくれる? 少し川から離れた場所で乾いてるのを選んで」

「はーい」


 阿呼が元気よく駆け出して行くと隣でドロン! 放谷は例の鉄黒の大蜘蛛とは違って、大きさも人間大と控え目な、透ける支子くちなし色の蜘蛛になった。


「え、その格好で魚獲るの?」

「おー。水蜘蛛だぁ。水の中の獲物はこれが一番獲りやすいからなー」


 なるほど納得の答えである。それにしても本当に放谷は移姿うつしを練り込んでいるんだな、と改めて感心させられた。

 水蜘蛛と化した放谷はササーッと川へ移動していき、水面を歩きだしたなと思ったら、そのままくるくる回って川下へと流されて行った。おい。

 大丈夫かな、と心配したものの、水蜘蛛と言うからには問題なかろうと、私は火を移すのに適当な枯れ草を集めにかかった。……平気だよね?


「お姉ちゃん、これだけあればいーい?」


 厳選した火打石で労せずこさえた種火を守っていると、阿呼が息を弾ませて帰って来た。


「お帰りー。沢山見つけてきたね。ありがとー」

「どういたしましてっ」


 両手一杯の粗朶木から細い物を選んで種火の上に置いて行く。しばらく待って火が燃え移ったら残る木を捩れ円錐に組み、更にそこへ立てかけるように木を宛がう。すると家族キャンプで覚えた見栄えのする焚火の出来上がり。くべた枝がパチパチと爆ぜる音を聞きながら放谷を待つ間、串代わりの小枝を阿呼と二人、小刃を使って整える。


「ねぇ、阿呼」

「なぁに? お姉ちゃん」

「阿呼はどんな神様になりたい?」


 今朝方の自問自答を妹に投げかけてみた。

 阿呼は上手に尖らせた串枝の持ち手側を下唇にトントンしながら、お母さんとおんなじ真朱まそほの瞳を上目に流す。


「阿呼はねぇ、お姉ちゃんを支える下枝しずえになるの。だからお姉ちゃんは上を向いてどんどん上枝ほつえを伸ばして行って。阿呼は月神つきがみだから、お空のお月様なんだってお母さん言ってた。だったらお姉ちゃんは楓露ふうろそのものでしょ? お姉ちゃんと阿呼は楓露とお月様みたいにずっと一緒よ」


 素直な笑みと素直な瞳。その言葉に否などあろうか。阿呼の支えと後押しがあるなら、私はその言葉通り、広々と枝を張って行けそうな気がした。


「ありがとう、阿呼。お姉ちゃん、今はまだ分かんないことだらけだけど、頑張って大きな木になる。阿呼やみんなが梢の下で安心して暮らせるようにね」

「うん」


 私は阿呼の隣に座り直して、焚火を前に肩を寄せ合った。

 そうか、私は楓露そのものか。天照大神は太陽だったけれど、私はもっとずっと、この星に暮らす人にとって身近な神様ということになるんだろう。天高くから見下ろすより、同じ大地に立つその距離感は、私にとって好ましいものに感じられた。


「おーい、戻ったぞー」


 待つこと三十分。胃袋がキュウと鳴り出しそうになった頃、ようやく放谷が帰って来た。放谷は見事に頭から濡れほぞって、たくし上げた貫頭衣の前垂れにピッチピチの獲物を入れていた。


「おおっ、甘子あまごだぁ!」


 魚に詳しい訳ではないけれど、前世で味わったことがあり、県の魚にも指定されているとなれば話は別。

 私は改めて思う。地球ですらないのになんでこの世界はこんなに日本なんだろうと。私の心が前世への郷愁に苛まれない最たる理由の一つがこれだ。そして何よりも、大好きな家族がいて、放谷という友達、旅の仲間ができたこと。私は今生の幸せを感謝せずにはいられなかった。


「放谷!」

「んー?」

「大好き!」

「ええー? 照れるよー」

「阿呼も大好きよ!」

「阿呼もお姉ちゃん大好き。放谷も大好き」


 突然飛び交う大好きコール。嬉しそうに頭を掻く放谷。その拍子に甘子をぶち撒けて、場は一遍に笑いへとひっくり返った。

 私たちは銘々、串を取って甘子を刺し、焚火の周りに突き立てた。一人頭三尾。他に食べる物がないとはいえ、小柄な私たちにはそれで十分だった。

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