087 青の怪3
磐根咋多比能姫命――。
彼女は今からおよそ三千年前、波宮の先代、須永媛と同じ頃に主祭の座に就いた。母神は多比能がそこそこ育つとさっさと神座から降りてしまい、この先は好きに生きるのだと言って青海鏡を遠く離れ、今に至るまで戻っていない。家族群を組む鯱にしては珍しいことだが、主祭ストレスとでも言うべきものがあったのかもしれない。
多比能が継いだ逆戟大岩神社は大嶋の西海に浮かぶ岩礁――逆戟岩に建つ古社で、人類が旧人から新人へと向かう過渡期に、宮守衆の手によって建てられた。
大嶋本土から遠く離れた社は独立独歩の気風強く、まつろわぬ社と呼ばれることすらある。そもそもが海と陸とは別世界という認識が根強く、故に青海全体の風土としてもまつろわぬ傾向は随所に見られた。
多比能は放任主義の母親を持ったが為に碌な知識もなく主座に就いた。それが原因で周囲から疎んじられると、立ちどころに喧嘩っ早い性分を発揮して、不満分子を片っ端から捻じ伏せて行った。
このように、母の愛護を得られなかった多比能の気性は、周囲の手に負えないほど荒かったが、幸か不幸か一宮の須永媛と意気投合。その結果、一時期の青海鏡は鯨と鯱の珍走団が跋扈する有様だったと伝わっている。
そうこうして千年の時が流れ、少しは落ち着きを身に付けた多比能の下に、思いもかけぬ母神からの報せが舞い込んだ。
呼び出された海域に出向くと母の姿はなく、いたのは幼い二頭の鯱。その二頭が「初めましてお姉ちゃま」と口を揃えて言ったものだから、多比能は「あんのババア、また育児放棄かっ」と業腹煮えくり返らせたという。
しかし、この出来事の少し前、陸で百歳を過ごした多比能は、そこで縁を結んだ嶋人の夫と二人の子らを野辺に送っており、その反動からか、不意に現れた年の離れた妹たちをそれは大層可愛がった。そこに芽生えた情は姉妹というより母娘に近いものだったろう。
そして今――。
「姉さんの仇!」
快波の発する物騒な台詞を聞いて、多比能は「え? 波城死んだの?」と一瞬混乱した。混乱ついでに生じた隙を突かれ、抑え込んでいた餓者髑髏の右腕が引かれる。すると多比能の体は丸太のように転がされ、成す術なく右腕を逃してしまった。
多比能は反射的に人の姿に移姿すと振鈴を鳴らし、音速に乗って右腕の攻撃圏を離脱。先刻まで食卓にしていた大岩近くに立って、ざっと状況把握に努めた。波城の姿はない。快波は――。
「破壊閃光!!」
清水で生じた水に珠鏡の御業を施し、創り出した球状の水鏡。快波はそこへ蛇紋石の石鏡から閃光を放って打ち込んだ。珠鏡の中で乱反射した閃光は無数の光条となって拡散し、餓者髑髏の腕と言わず頭と言わず、骨の壁全体に襲いかかった。
ドゴォォォォォォォォォオオンンン――。
一斉の弾着に轟音が鳴り渡り、濛々と粉塵が舞う中を石片やら骨片が乱れ飛ぶ。多比能は両腕を盾にして身を守り、快波の名を叫んだ。すると、返事代わりに一条の光が奔って頬を掠めた。続いて苦鳴。更にはドサリと倒れ込む音――。
「快波!」
音を頼りに粉塵を掻き分けて行くと、仰向けに倒れる快波がいた。見れば胸の中心に小さな孔が空き、それが背中まで貫通している。流れ出す血はセーラーを染め広がり、慌てた多比能は不得手な癒しの御業を懸命に施した。
「何があったの!? 波城は!?」
「……跳ね返された。……姉さん、は、あっちの、穴……」
腕も上がらぬ快波は視線で示した。
「分かったわ。後は任せておきなさい。血止めはしたから、私が戻るまで自分で治癒をかけるのよ」
「うん……。でも、気を付けて……。多分、波城姉さんが想像、したから……思った以上に、強く……なってる」
「まったく波城には困ったものね。とにかく快波、貴女はもう口を閉じて。傷を治すのに集中なさい」
優しく頬を撫でると、快波は安堵の笑みを浮かべて瞼を閉じた。位置こそ悪いが幸い治癒の御業が功を奏して出血はほぼ止まっている。後は快波自身に任せていいだろう。そう判じて多比能は軸足を回しながら立ち上がった。
「さて、と」
多比能の肚のド真ん中で沸々と怒りが燃えていた。手が焼ける波城も、たまにキツイことを言う快波も娘のように大切な可愛い可愛い妹たちだ。多比能は今、久方振りに己が体内に滾った真っ赤な血潮を感じていた。
紅蓮の双眸が睚む先は粉塵も収まり、骨の壁はすっかり失せて、禍々しい緑炎を絡ませた一体の狂骨――。
多比能は快波の言葉を反芻した。快波は波城が想像を逞しくしたことで強大化した怪異に足下を掬われたのだ。
疫病に連なる伝承として里人が怖れてきた狂骨。そこへ死壊の香りを厭う波城が、面倒なのがで出る、厄介なのが出る、と殊更に上書きしたことで狂骨は力を増した。人が想えば百歳を待つ事象も、神が想えば御業の如く一日に実る。それこそ餓者髑髏にもなろうというもの。
「随分と妹たちを痛めつけてくれたわね。けれど、それもここまでよ」
口の端を吊り上げると、覗く歯列は鋸刃の如く整然と鋭かった。人の姿に隠しきれない鯱の本性。
「あん?」
禍々しい緑炎が妙な動きを見せ始めたのを見て、多比能は訝った。
青海二宮の主祭たる多比能が本腰を据えたとなれば、多少の小細工など最早通用するものではない。片眉を跳ねた多比能はしばらく様子を見て、跳ねた眉を下げると、眉間と鼻とに皺を刻んで不快を露わにした。
「余興のつもりならとんだ失敗だわね。私の怒りに薪をくべたようなものよ」
緑炎は狂骨の表面を舐めるように流れて、揺らぎながらも肉体を纏うかのような幻を見せた。その幻に覚えがあることに多比能は気付いたのだ。
「まったくお久し振りだわね。もう名前も忘れてしまったけれど」
狂骨が見せたのは多比能がかつて陸で庵を編んで暮らした嶋人の姿だ。名は忘れた。しかし覚えている。まだ妹たちと出会う前、尖っていた多比能の心を変えてしまった男だ。
愛していた。二人の子を成し、まるで人に生まれ変わったかのように幸せだった。愛する者が老いゆく姿を見るのは辛かった。その無情が二人の子にも訪れた時、心が引き裂かれるような思いもした。今もその愛と哀の名残が胸の深まりに収まっている。
――た、び、の、
耳朶を打つ声に怖気と瞋怒りが噴き出し、多比能は手にした振鈴を力一杯鳴らした。
凛とした波紋が広がり、その中心から打ち出された音の塊が無回転の球の如くブレながら狂骨を目指す。ところが狂骨が片腕を振り上げると迸った緑炎が前方に散らばる骨の山に落ち、立ちどころに骨の壁を打ち立てて、砕けながらもこれを防いだ。
「その程度で!」
再び振鈴を打って別軌道から攻め手を寄せる。すると今度もやはり、今一方の腕を振り上げた狂骨によって骨の壁が立ちはだかり、砕けはするがどうにも抜けない。
こんなことってあるかしら? と、多比能の中で疑念が生じた。如何に波城の妄想が怪異の力を増したとはいえ、そのことを失念していた快波と異なり、今の多比能に油断はない。青海二宮の主祭として三千年を生きた多比能が、たかだか青の怪一つに手間取る謂れなどありはしないのだ。
――た、び、の、
懐かしい声。それだけに冷静になろうとする多比能の心は乱された。荒事の場面で取り乱したことなどない多比能も、こればかりは堪える。そこへ更なる追い打ち。
――母さん、
ハッとして目を瞠れば、今し方打ち崩した壁の位置に揺らぐ二つの緑炎。術中だ。そう思うのだが、可愛い盛りの子らを写した緑炎からは目を逸らすことができない。
何故だろう。何故、自分は愛した筈の良人と子らの名を忘れてしまったのか。こうして呼ばれても呼び返すことができない。そのもどかしさと苦しさに体の芯がぐらぐらと揺れ始める。こうした意識のずれ込みが罠へと陥る手順と分かっていても、姿形と声とによって抗う心は折れてしまいそうだった。
「姉さん、しっかり、して……」
少し離れた場所から快波の声が正気に触れた。それは真実の温もり宿る生者の声。多比能はそれを噛み締めた。翻って緑炎の放つ声は逆しまな魔魅でしかない。そのことに気付いて心が持ち直す。
「ありがとう快波。危うく騙眩かされる処だったわ。でも困ったわね。どうやら相手は無敵のようよ」
如何に怪異と言えども、骨如きで止められるような生易しい音波攻撃を繰り出した覚えはない。それを二度までも止められれば三度目には抜ける、などという自信は持ち得ようもなかった。
「簡単、だよ」
「あら言うわねぇ。何故そう思うの?」
「亡者の怪には……よくある話だから、ね」
「よくある話?」
「名前を、思い出してあげて」
「そこなのね……。分かったわ。なんとかするから、貴女はもう喋らずに休んでなさい」
多比能は快波にそう告げて、けれどもそう簡単に思い出せたら苦労はないと胸の内に苦味を広げた。
ただ、何故忘れてしまったのか、その理由には思い当たることができた。それは至極明快な理由だ。陸を離れて後、再び海へと戻った多比能はそこで二人の妹に出会った。波城と快波に出会ったのだ。だから陸でのことは忘れることにした。己の持てる全ての愛を、可愛い妹たちに注ぐ為に――。
「ええ、愛していたわ。けれど御免なさいね。今は愛しているの。手の焼ける可愛い妹たちを――。だーかーらーっ」
カラーン――。
軽く振って涼やかに振鈴を響かせる。音波の広がりと共に静寂が広間を支配して、直ぐさま波の音が寄せ返した。空気の色が薄っすらと海色を帯びて、一滴の海水すらないというのに、空間は幻の海中に没する。
「陸海還――。さぁ、ここからは私が支配する時間よ!」
地を蹴った多比能は滑らかな動きで空間を泳いだ。神余で塗り替えた大気の海は勝手知ったる我が庭だ。逆に狂骨は存在しない筈の水圧に捉われたかのように、ただでさえ木に竹を接いだ妙な動きが増々ぎこちなさに拍車をかけた。
「移姿!」
多比能は隆々たる威容の鯱に身を翻して、横合いから一直線に二人の子を模す緑炎へと突っ込んだ。攻撃が目的ではない。先ずは触れてみることだ。それが多比能の選んだ答えだった。
幻とはいえ星霊の質を読み解けば、大本となる情報があって、それでこそ息子たちの姿を結べるのだ。そう結論付ければ接触することでその情報を掠め取ることができるかもしれない。そこに名前が記されていれば御の字だ。
多比能は快波の言葉を信じた。賢くて優しい娘だ。いつでも正しいことを言う。だから先ずは名前を探る。思い出せないなら探るより外はないからだ。
傷付いた快波を想い、姿の見えない波城を想った。波城もまた優しい娘だ。快波のような賢さはないが、家族の為に馬鹿にも道化にもなれる不器用な優しさを持っていた。そんな二人こそ多比能の自慢の宝物。
ザンッ、ザザンッ――。
通り抜けに胸鰭を立てて緑炎に浮かぶ面影を裂いた。狡知に長けた怪異の幻と知って尚、多比能の胸はしくと痛んだ。愛は比べるものではない。如何に今、二人の妹を愛していようと、それが故にかつての愛が褪せてしまう訳ではないのだ。それでも尚選べと言うのなら、多比能は黙して今を選ぶ。そして結果は――。
(参ったわね。サッパリだわ……)
回遊して元の位置に戻り、多比能は岩を背に人の姿で立った。潮の引く音がして、陸海還の御業が解ける。
得意の力技で当たりを付けに行ったが空振り。こうなれば苦手な知恵で次の一手を講じねばならない。そこで多比能は無い知恵を一捻りして、どうにか見つけた糸口を手繰り寄せる。
「息子たち! お母さんには貴方たちの名前を呼べない訳があるのよ。だって貴方たちったら双子なんだもの。どっちがどっちだか分かりゃしないわ。さぁ、意地悪をしないで、貴方たちの方から名乗って頂戴」
傍で聞いていた快波は「母親としてそれもどうだろう?」と思わなくはなかったが、多比能が真面目である点にだけは理解を示した。
――呼んで、
「いや、だから、あのね」
――呼んでくれたら手を挙げるよ。
「せせこましいやらみみっちいやらだわね……。えーと、えーっと……。ちょっと待ってなさい」
――早く、呼んで。
「海彦! 貴方海彦でしょ?」
シーン――。
「あら、違ったかしら。じゃああれよ、波彦! これなら合ってるでしょう?」
シ-ン――。
――間違えた。
――間違えた。ひどいよ。
「いや待ちなさい。じゃあほら、潮丸はどう? え? 違うの? だったら波吉よ! さもなきゃ波平! あとは鳴海? 磯太郎に磯次郎! 海之介海太郎! 大体がこんなもんでしょうがっ」
自棄のやんパチで言い放てばゴワッと緑炎の勢いが増し、そこに浮かぶ面影も怨讐に染まって化怪の本性を露わと成す。
――お前なんかお母さんじゃない!
――悲しいぃぃぃ。許さないぃぃぃ!
恨めしく叫囁ぶなり、緑炎の丈は岩の天蓋に擦れるほど伸び上がって、立ち猶予う多比能を目がけて落ちて来た。
「氷海篋!」
多比能は水曲の要領で幾筋もの水流を紡いで凍結させ、氷の檻に身を囲った。
爆発的な炎は檻の隙間を抜けて来るのだが、それでも守りの力が働いて僅かばかりの炎の舌しか通さない。炎の触れた箇所は火傷とはならず、青痣のような痕を刻んだ。
痺れる――毒の類かもしれない。そう思いながら、荒れ狂う炎が吹き抜けるのを耐え忍ぶ。氷の檻がジュウジュウと溶かされ、背後の岩が急速に熱を孕んで行くのが分かった。
やがて吹き荒れた緑炎は折り返して元の位置に元の姿を結び、多比能もそれを見据えて檻を出た。
「姉さん、それ」
「?」
肩肘付いて上体を起した快波が背後の岩を指した。多比能は油断なく緑炎に意識を留めながら、チラリと後ろを見やった。
熱を溜め込んだ岩肌からは苔が剥げ落ちて、紫黒の焦げ目の中に淡く輝くものを見つけた。立ち揺らぐ紺碧の光煙をまじまじと見つめれば、そこには求めていた答えがありありと浮かんでいた。
峯緒――。
宿魚――。
嶋魚――。
噫乎、そうだったか――。
この、どこかしら海の底を思わせる青こそは、多比能が陸で日々を過ごした家族との惜別の地。この岩に自らの手で、良人の名と二人の子の名を確かに刻んだ。
良人を葬った時には共白髪も適わぬ哀切を岩の前で幾日と嘆いた。やがてそこに息子たちの名を添える日が来て、随分と長い時をここで一人過ごした。
在りし日の記憶が舞い戻ると、多比能の頬を一筋の流星が流れた。鯱は人よりも尚、その生涯を家族と共に生きる。時に眷属たちは、冷たくなった家族の元を離れられずに、いつまでもいつまでも寄り添い続けるのだ。
「忘れたくて忘れた訳ではないのよ。そうでもしないと、きっと私は前に進めなかったのね」
呟いて、緑炎に写る子らの面差しを正面に見据えた。
「宿魚、嶋魚――。貴方たちを覚えているわ」
緑炎が揺れた。くっきりと、険の取れた面影が浮いて、まるで海草の森から生きた息子たちが姿を現したかのようだった。
潤む瞳に染まって紅い涙が流れれば、息子たちが緑の炎を抜けて駆け寄って来る。多比能は大きく腕を広げてそれを迎えた。迎えて、そして抱きしめる筈が、手応えの欠片もなくすり抜けてしまう。振り返ってみても、息子たちの姿は岩に染み入ってしまったのか、最早どこにも見出せなかった。
――お帰り、母さん。
「ただいま。宿魚、嶋魚。待たせてしまったわね」
声の幻に触れて多比能はそう返した。その言葉だけは怪異とは無縁の、本物と信じることができたから。しかし、しみじみともしていられない。今一つ余すところ、怪異の根っ子が残っている。
多比能は袖に涙を拭い、毅然とした目で狂骨を睨んだ。
「お前は名を問わないのね。その名を呼べはこの岩を枕に常しえの眠りに戻るという訳でもないのでしょう。怪異の核ともなれば息子たちほど聞き分けはよくないということかしら?」
多比能は振鈴を鳴らし、直ぐさま鈴から手を放した。振鈴は面前に留まり、多比能が打った柏手に呑み込まれるようにして消えた。再び合わせた手が開くと、振鈴に代えて揺ら揺らと赤光眩い長物が現れる。
神宝、大海路敞鳴門槍――。
代々、逆戟大岩の主祭に受け継がれし光り輝く皆朱の槍。それは海そのものを生かす小さき存在の力と、その死によって現出する赤潮とを象徴して、万物流転の大海に秘められし大いなる神威を宿した一竿。
多比能は宙に浮く槍を取って大きく振り回し、一度頭上に掲げてから肩に担いで槍投げの構えに入った。
「何か言い残すことはあるかしら? なんなら久方振りに夫婦の会話でもしてみる?」
――た、び、の、
「ええ、私は多比能。そして貴方のその姿は峯緒。私の愛した良人を騙るとは、見上げた度胸だと言っておくわ」
軽口を織り交ぜながら多比能は快波の言う核の在処を探った。普通に考えれば頭蓋か肋の内側だ。暗い眼窩は底が見えず、胸元に目を凝らしても胸骨と肋骨に視線を遮られてしまう。それでも多比能にはとある確信があった。だから見えぬ的を相手に攻めあぐねるということをしなかった。
「怒涛、朱く朱く撓いて、磯触る波、尽く悪物を浚い、清み、祓え。以って疫病の鎮まるを吾、逆戟大岩の多比能が固めて此処に契り置く――」
白い歯を通り薄葡萄色の唇から流れ出た詔刀言に、槍の眩きと双眸の輝きが紅く、尚紅くシンクロする。狙い定むれば一寸の揺るぎとてありはしない。
これを見て狂骨もまた応じ手を取るように骨ばかりの腕を虎口に構えて突き出した。頭蓋、肩甲、尾骶、大腿。各所から狂おしく悶える緑の炎が虎口に集い、怨念の塊ともなって今にも噴き出すかに見える。
多比能は肩幅に開いた足を前後して腰を落とし、担いだ槍を目一杯引いた。そして大きく息を吸い込み――。
「峯緒! どこを狙えばいい!?」
その名を呼べば一片の真実が心の内に谺する。息子たちの真の言葉を耳にした多比能は訳もなくそう信じた。きっとそういう式なのだ。快波が口にしたように亡者の怪にはよくある話――。
そして答えは輝いた。胸骨の肋の内に一際明るい若草色の炎。それを目掛けて多比能は溜め込んだ怒りを、想いを解き放つ。
「母なる海の力、たぁんと喰らいなさいっ!!!」
細い見た目を見事に裏切る剛腕が刹那に振り抜かれた。
今、赫々耀々と燃える神の槍が一気呵成に飛んで行く。
ボンッボンッボンッ――。
爆ぜる音は放たれた槍が音速を超えた証。
三段重ねの赤い光暈を置き去りに飛び行く槍。それは狂骨の虎口から渦を巻いて流れ出した緑炎の空虚な正中を潜り抜け、一直線に狙い澄ました胸を穿つ。押し込まれた胸骨が砕けると同時に肋も飛散し、槍はそのまま脊椎を破壊して、以って与えられた使命を全うした。
命中の瞬間、洞穴狭しと金属が悲鳴を上げるような怪音が耳を聾し、広間の低い天井からパラパラと石片が舞い落ちた。
槍と交錯した緑炎は狂骨が木っ端無残に形を失くすと、急速に勢いを失って、多比能に届く寸での所で敢え無く儚く霧散した。
肋の内に守られていた狂骨の核は物の見事に撃砕され、二度と再び組み上がることはなかった。
「様をご覧なさい」
言い捨てた多比能が右手をかざすと、飛び戻った槍は穂先から掌中に吸い込まれた。その軌道を辿るようにして一筋の光の帯が奔り、多比能を過ぎて岩へと染み入る。そして刻まれた三つの名から再びの光煙が立ち上り、紺碧を燻らせて静かに消えた。
――お帰り、多比能。
温み深い言葉を感じて、ただいまと、それからありがとうを、多比能は胸の内に唱えた。言葉にすればどうにも涙が溢れる気がしたのだ。
期せずして邂逅となったが、多比能は既に妻として母としての役割を終えた身。今はただ姉として毅然と妹たちを導かねばならない。そんな照れ隠しとも見栄ともつかない考えでこれ以上の涙を断り、多比能は墓標に背を向けた。
「快波、終わったわよ」
歩み寄って抱き起こそうとすると、快波はやんわりと断って、
「僕は大丈夫。波城姉さんの方に行ってあげて」
その指の示す先を確認して、多比能は末妹の髪をくしゃくしゃっと撫でた。そして波城の待つ穴倉へと歩み始める。
「姉さん」
「ん? どうかした?」
「ありがとう。やっぱり多比能姉さんは頼りになるね」
「ふふん、当然よ! これからも幾らでも、この私を頼りになさいなっ」
素直な感謝と賛辞を受けて、多比能はチョロくも有頂天。にやけ面でスキップしながら波城を迎えに行くのだった。
(でも、そうね。これからは節目節目に墓参りをしないといけないわね)
愛する者たちが眠るこの奥津城に、次来た折には珊瑚の花を飾ろうと、どこか古代めく想いを抱いて多比能は静かに微笑んだ。




