085 青の怪1
黄色い声が囀っていた。
水仙の花咲く里山の辻端。波城は里の娘たちに囲まれて、矢車草のように高いその背丈を際立たせていた。
「里へは婿取りをなさりに来られたのですか?」
「んー、そーゆー訳でもないんだけどねー」
「うちの里なら力自慢の石切衆がいますよ」
「腕っ節もいいけど、顔も大事でしょー」
「里長のお孫様なら見目はよい。乙女も恥じらう白肌です」
「あー、ダメダメ。男は鮫肌に限るんだよねー」
少し離れた所で交わされるそんな会話を耳にしながら、多比能は呆れた風に溜息を吐ついた。里山を見渡せばこんなにも清々しいというのに耳にこびりつく俗っぽさときたら――。
とまれ、カロの家でグレンを絞り上げた三姉妹は、折よく表に付けた馬車に乗り込み、手っ取り早くカロの仕事――疫病の件を片付けてしまおうと、艫乗から馬追街道を南へ下り、海車神社の辺りで道を逸れ、二日かけてここ、青木の里へとやって来た。
「また始まったわよあの娘」
春を待つ野山に向ける感慨を雑音に邪魔され、多比能は隣の快波に話しかけた。
「ああ、波城姉さんは雄が大好きだからね」
露骨に返すのは擦れているからではない。人の如き色情と無縁であればこそだろう。取り分け快波はそういった向きの事柄に関しては淡白だ。言い換えれば未だその方面の情緒が芽生えていない、ということになる。
「波城の好み知ってる? 聞いて呆れるわよ。甚兵衛鮫のように大らかで頬白鮫くらい力強い青鮫みたいなイケメン、ですって」
「それなら海で探した方が早そうだね」
「まったくだわ。快波、貴女の方はどうなの? いい加減お相手がいてもいい頃じゃなくて?」
「僕? 僕はそうだなぁ……。肌はひんやりと滑らかで、瞳は鏡のように照り返す感じで、体は柔らかく泳ぎが得意な雄、かな」
てらいもなく言う快波を見て、多比能は苦虫を噛み潰したような顔になった。
「それって海蛇の類じゃないの」
「そうかも」
「そんなだから貴女たちはいつまでたっても母親になれないのよ。あー、ダメだわこれ。種の滅ぶ日もそう先の話じゃないわ」
「大袈裟だなぁ」
神々は他種と交配することも適う存在だ。それは時に人の姿を通じて行われる。例えば虎と獅子の交配からは生殖能力のない一代限りの子孫しか生まれない。しかし神が人の姿で結ばれて人の子を産めばその限りではない。もし、生まれた子が女児であれば、トーテムに由来する姿は必ず母親と同じものになる。これが男児の場合は天の配剤に委ねられるといった具合だ。
姉妹で唯一出産を経験している多比能だが、女児には恵まれておらず、鯱トーテムの次代の誕生はまだ先を待たねばならなかった。
「先々の話だとしても少しはその辺のことも頭に入れておきなさい」
「考えておくよ。それより何より今後の予定はどうなってるの?」
嵐に見舞われ、死体遺棄に遭遇し、それが何故だかランチに招待され、ビジネスとやらにありついた。と、流れに任せてここまで来たのだが、渡人と関わってこの先、多比能が何をどう考えているのか、陸慣れしない快波には測りかねていた。
「渡人の社会では何をするにも先立つものが必要なのよ。これが嶋人相手なら物々交換と言って、金銭にそう拘りはしないのだけど、渡人はそうもいかないわ。しかも貨幣紙幣といったものの普及を転宮の夜刀媛が推進しているのだから、私たちもこれを素通りはできない。私が里浜で暮らしていた頃にはお金の苦労なんてこれっぽっちもなかったけれどね。何せ今は無一文よ。波城の言う通り、ビジネスで懐が温まるというのなら、カロを伝手に一儲けしておくことだわ」
尤もな意見に快波も納得した。ただ、何もわざわざ渡人の調査員と足並み揃えて金銭を得るような真似をせずとも、陸に幾つかある分社にでも移って、そこで里人からの進物を受け取ればいいのでは? とも思った。
勿論、里山の困難を救うという今回のビジネスについては快波自身も前向きだ。が、その次を考えた時、どうも二人の姉は「儲かれば何でもあり」という思考であって、慎重派の三女としては危ぶむ気持ちを捨てきれずにいた。多比能も波城も一度走り出せばイケイケどんどん。それこそ厄介事の扉を自ら蹴破って行く性質と来ているのだから。
「ちょっとー、二人とも景色なんか見てないでこっちにおいでよー」
向けられた声に振り返れ、相変わらず波城が里の娘たちに囲まれている。嶋人は渡人と比べて神々との距離感など無きに等しい。祭礼ともなれば故実に倣って折り目正しく振舞うが、土地土地の神々とは近所付き合いだし、不意に立ち寄る遠方の神も皆、喜んで迎え入れる。
取り分け、青海では海神が陸に上がって里に現れることを、海神の婿取り、嫁取りと言って歓迎した。陸で婚いで子が生まれれば里にとってこれに勝る栄誉はない。と、昔から陸に上がった海神はどこの里でも歓待されるのだった。
「快波、貴女は行ってらっしゃいな。折角の機会なんだから」
「姉さんは?」
「私は結構よ。馬車で荷物の見張りでもしているわ。カロが戻ったら知らせて頂戴」
「分かった。じゃあちょっと行ってくるね」
「いい男でもいたら唾つけときなさいよ!」
離れ際の言葉に照れ臭そうに手を振る快波。その姿を見送ると、多比能は乗ってきた馬車へと足を向けた。馬車の後ろに回って縁に手をかけ爪先立ちで覗き込む。渡人の到来で様変わりした大嶋も、嶋人の里で荷物番が必要になるような場面は先ず考えられない。多比能が口にした荷物とは符丁であって、そこには出掛けに縛り上げたグレンが猿轡を噛まされた状態で転がされていた。
「放っておいて悪かったわね」
パチンと指を鳴らせば拘束は解けて、グレンはぜぇぜぇと重い体を起こした。何せ縛り上げられたまま馬車に放り込まれて二日だ。水だけは与えられたが食事は抜き。転がされたまま馬車に揺られ通しという、拷問と然して変わらない時間を過ごしてきた。
「か、解放して貰えるんで? しょうか……」
疲れた声には調査局で幹部面を下げている時の威勢は欠片もない。神に対しては乱暴な口調も改まって、苦境を逃れたい一心から媚びた視線まで添えている。
「な訳ないでしょうが。今、カロが里長を相手にビジネスの段取りを付けているわ。それが済んだらひと働きして、貴方のことはその後よ。そもそも調査局のゴタゴタなんて私の知ったことではないの。その話をするならカロになさい。とにかく、ここでの仕事が終わるまでは大人しくしていることね。逃げ出そうなんて考えるんじゃあないわよ」
グレンは呻くのも忘れて絶望の色を目に宿した。
局長ガスト・メローの意向でカロの不在にその動向を探ろうとしたグレンはカロ邸へ潜入。そのことが露見して神々の御業に捕われた。曰く、青海二宮――逆戟大岩神社の主祭と族神の妹神たち。それをバックにカロの詰問を受ければ踊らぬ舌など持ち合わせよう筈もない。
対して、道中グレンから聞き出した話は多比能の興味を引くものではなかった。調査局の局長とやらが局の私物化やら利益の占有を図って、カロを爪弾きにしようという下らない目論見。要するに渡人同士、内輪の縄張り争いだ。神々が食指を動かすほどのものではない。ただ、世話になった分はカロに肩入れしてもいいとする気持ちはあった。故に、この里での仕事を済ませて金銭の算段が付いたなら、カロの出方次第では力添えするのも吝かではない。
「あら、カロが戻ったみたいだわ。貴方も付いてらっしゃい」
「はあ」
快波の呼ぶ声に応じて、多比能はグレンを伴い馬車を離れた。
いずれにせよ、ビジネスが先で面倒事は後。多比能の中でその点が揺らぐことはなかった。
***
戻ったカロは里長を伴っていた。里長の挨拶を受け、里の娘たちを帰らせ三姉妹は、案内に従って里山の外れへと歩き始めた。
陽はまだ高く、風は時折吹き抜ける程度。野端を見れば健気に咲く福寿草。木立を向けば花の落ちた山茶花の合間で遅咲きの蝋梅が恥ずかし気に俯いている。
珊瑚と海草ばかりの森に慣れた海神の目にも、早春の花々は美しく映った。しかし道々交わされる会話はというと、心映えする景色とは無縁の、思わず眉根が寄るような内容だった。
「青? 青へ向かっているの?」
「へぇ、左様でごぜぇます。ここらで病が広まるとなると、専ら骸の怪によるものと言い伝にもごぜぇまして、先だて近隣の里の長たちが集まりました折に骨占をしてみましたところ、どうもこの先の青に妖しき物があると出たのでごぜぇます」
青と聞いて多比能は問い返し、その後ろで波城は「うへー」と嫌気を露わにした。グレンを挟んで最後尾にいた快波も軽く片眉を動かす。
青――それは墓所を意味する言葉で、山にあれば青山。これはおうやま、あおやま、せいざんと如何様にも読み、海にあれば青島。こちらも読みは様々。いずれも埋葬の地、弔いの地であって死に紐付けられた場所の名だ。
そもそも、青海そのものがそうした意味合いを持つ土地柄なのであって、海は広く青海鏡。山は高く青海山。伝承によれば太古の昔から黄泉へ続く地とされ、青海は死者の国への入り口とも伝えられていた。
「やだなー。骸の怪なんてどう考えたっておどろおどろしい見た目の、腐臭もドぎつい奴に決まってるじゃん。あーやだやだ!」
「そうだね。でも、変に謎解きめいたことをさせられるより、物の怪退治で済むなら、それはそれで手間いらずなんじゃないかな?」
「あー、まーねー。そこはねー」
快波の言葉を一理あるとはしながらも波城は本心から厭だった。
大海立波城とはその身を大波の城と成して海に住まう命を守る御柱であり、死を遠ざけることをこそ本義とするのだ。故に本質的な部分で波城は死に近い場所を忌避する。
一方、島曲立快波とは島波の複雑な流れを以って青海鏡に浮かぶ数々の青島、それらの静謐を守る御柱だ。快波にとって死の領域は最も身近なものの一つ。故に死にまつわる化怪を相手取ることにも慣れていた。
ついでに言えば磐根咋多比能とは岩をも噛み砕く巨大魚を意味している。その大口には生も死も隔てはなく、清濁併せ呑む大御柱として祀られていた。
「病にまつわる青の奇談、ね。となると相手は自然に宿る星霊の化生ということになるかしら?」
「そうなるね。霊塊の化け物や伝承の韻を踏んだ他所の神ということはなさそうだ」
快波にしてみれば過去、幾度となく相手にしてきた手合いだ。嶋人の間に根付いた伝承により、青には様々な奇怪が顕現する。仮にそれが百年単位のものだとしても、青海鏡に浮かぶ青島の数を考えれば、島曲立つ神として踏んできた場数はそれなりのものがあった。
民の間に長らく根付いた怪異伝承は根絶こそ難しいが、都度都度の対応で苦慮するほどの代物となるとそうはない。
「おおーい、助どんや」
「おお、里長ではねぇだか。なんじゃあ渡人の衆に、まさかそちらは神様け?」
山間の小径を行った先、少し開けた場所に猫の額の畑があって、小太りの中年男が鍬を放ってやって来た。
畑の先の小屋に通された一行は挨拶もそこそこに、堅塩を摘まんで酒粕を啜り、一息付けた。
カロにしてもグレンにしても、こうした場面で思うことは一つ。それは嶋人と神々との垣根のなさだ。渡人にしてみれば遥か西の大陸で想像を逞しくしてきた神とは神々しい存在であって、こんなみすぼらしい小屋の中で、固めた塩を肴に酒粕啜る間柄など想像し得ない。
ただ、グレンは別にしてもカロにはここ数日で分かったこともあった。恐れ敬うべき神々は、話をしてみれば自儘で感情を素直に出し、所帯染みたことを口にもすれば人のそれと変わらず姉妹喧嘩もする。今や出会い頭の緊張も薄れて、神々しさはどこへ行ったと探し回る始末。これが神か、と認識を改めざるを得ない心境だ。
「するとやはり出よるかの?」
「へい。おいらここで代々の墓守をしてますだが、ここしばらくは夜ともなると何かが這いずり回る音がしてくるもんで。里の衆にも言うには言ったが誰も彼も信じねぇ。どうしたもんかと頭を抱えていましただ。いや、長が来てくんなすって助かった。しかも神様にまでお運び頂けるだなんて」
助どんの話が済むと、里長は三姉妹を深々と座拝して、上げた面に白髭を扱いた。
「お聞きの通りでごぜぇます。昔からここら辺りは青が騒ぐと障り起こると申しまして、此度の病も先ずそれに違いありますまい。ここはどうか神々様のお力で以って一つ、我らの憂いを除いてやって下さりませ」
長は恭しく拝礼したまま、今度は面を上げる様子がない。カロが三姉妹の様子を窺うと、向こうもカロの方をじっと見返していた。何を求められているのかとカロが思案を巡らせていると――。
「この場合、実入りの話はどうなるのかしら?」
そこですか。と、意を得たカロは金周りの仕組みを説明した。
本件に於いて調査局は、疫病の調査及び対策に対して各里から謝礼を受け取ることになっている。
貨幣経済の行き届かない里山では品物や情報が金銭に代わることが多々ある為、それらの金銭的価値を算定した上で、三姉妹に対する支払金を用意することになる。
「全額貰える訳じゃないってことかしら?」
「さすがに全額という訳には……。調査局もこれまでの調査や対応に経費が掛かっていますので、最低限その分は頂きませんと」
「それがビジネスって訳?」
「そうです。それぞれが働いた分に見合った収入を得るということです」
ひたすら遜るカロに多比能は一応納得した。波城を見ても快波を見ても異を唱える様子はない。
「なら話はここまで。あとはけりを付けるだけだわ。今夜の内に手っ取り早く済ませてしまおうじゃないの――。快波」
「何?」
「この手のことは貴女の得意でしょう。舵取りは任せるわ」
「分かった。それじゃあ陽のある内に下見をしておこう」
青の怪に詳しい快波の提案で、三姉妹は助どんを案内に立てて畑の向こう、木石の奥津城が並ぶ青の中へと歩を進めた。
小屋にはグレンと彼を見張る為にカロが残り、里長は無事段取りが整ったことを報せに里へ戻った。
「空が狭いわね。どことなく海面を見上げるようだわ」
切り立つ山肌に三面を囲まれた青。それはどこか海溝を思わせる雰囲気があった。然程広さはなく、手分けをすれば見回るのに三〇分とかからない。ひと通り辺りを確かめると、姉妹は奥面の山肌に穿たれた天然洞の前に立ち並んだ。
「中々でっかい入口じゃん。こりゃ奥行きも相当ありそうだねー」
大柄な波城が言うだけに、眼前の口穴は一五米の高さから尖がった二等辺三角形を描くように開かれていた。外光の射す範囲を見ればそこそこ急な下り坂。ここに前世持ちの皇大神が居れば黄泉比良坂にでも例えたに相違ない。無論、その存在を知らない三姉妹に同じ言葉は浮かばない。しかし、想像するものは皆、似たり寄ったりだ。
「死者の国の入り口って感じなのかしら?」
「うん。多分、外の青は近頃のもので、この穴の先はもっとずっと古くからの青だと思う」
口穴から冷たい風が吹き付ける。どこか奥の方で外と繋がる孔があるのだろう。青に生した青草が音を立てて揺れた。多比能はその草鳴りが止むのを待って助どんに尋ねた。
「貴方、中に入ったことは?」
「へい、先代から小屋を継いだ折に。一度っきりですが。普段は入り口の脇にお供えをする程度ですんで」
「そう。中はどんな様子?」
「この坂をずっと下った先が広々としてまして、真ん中に墓石なのか磐座なのか、大きな岩があったです。後は壁周りに幾つか道のように穴が通ってるんですが、おいらはそっちの方までは行ったことがないもんで」
「別段変わった風でもなく?」
「へい、そん時はそうです。何事もなく広間だけを回って戻ったんで」
「以前にもあったという疫病騒ぎの時は?」
「それが先代の若い頃の話ですから、おいらは詳しくねぇんです。ただ、当時は海車様が病を鎮めてくんなすったって話で。ここら辺りの里は何かあれば海車様ですから」
海車様というのは青木の里から馬追街道への最短距離を出た所にある海車神社の祭神だ。祀られているトーテムは海盤車。人の手となり星ともなって援け導く神と慕われている。故に、浜辺にあって近隣の里の面倒を見ているのだろう。
聞けば今度の騒ぎでも海車神社に人をやったそうで、けれど方々の里から人が来たことで、主祭から海車衆までみんな出払ってしまっていた。日を置いて尋ねても、今度は青海鏡の青島へ渡ってしまったと聞かされた為、かねてから艫乗の大嶋調査局が助力を申し出てくれていたこともあり、彼らに任せて様子を見ることになったのだと。
「なんで海車が? 青海鏡は一宮や三宮も関わりはするけど、青島ってことならそれこそうちらの扱いじゃん」
波城が不思議そうに言う傍らで、多比能と快波は白けた視線をお返しした。
「うちで青海鏡の面倒を見ているのは誰だったかしら?」
「快波でしょ」
「そう。その僕が今ここに居るってことは?」
「あ、それで海車が穴埋めしてくれたってことかぁ。そっかそっか」
青海鏡は一宮の海開星坐神宮、二宮の逆戟大岩神社、三宮の大磯伊佐浜宮を結ぶ青海きっての聖域た。こと青島に関しては二宮の預かりで、快波が担当していた。
ところが先日の嵐が元で姉妹は勢い陸に上がってしまった。無論、陸から海の面倒が見られない訳ではないのだが、突発的な上陸にあれこれと気が回らず、すっかり海のことを失念していた。
「災難から始まったことだし、今更言っても仕方がないわ。ビジネスも絡んでいるのだから、捨てて戻るなんてのはできない相談よ。海車へは快波。後日貴女の方からお礼を言っておきなさい。今回は持ち場の入れ替えよ。誰が海で誰が陸だろうと、双方収まりが付けば問題ないわ」
「そうだね。それじゃあ中を見に行こうか」
***
椿油の仄明るさに影を差して、助どんの高鼾に寝付けずにいたカロとグレンが差し向いに酒粕を啜っていた。
三姉妹はいよいよ闇夜に骸の怪と対峙しようという頃合いだ。手伝いを申し出たカロは足手まといとピシャリ追い払われてしまった。
「少し痩せたか?」
「おい、ふざけんなよ。とんだ目に合わせやがって」
ポツリとこぼせは憤慨するグレン。縄目もないが、逃げ出す気などとうに失せている。カロはやれやれと頭を掻いた。
「それもこれも自分で蒔いた種だろう。寧ろ、いい切欠になったんじゃないのか?」
「どうゆう意味だ」
縮められて皺くちゃになった服を着込んだまま、冴えない格好でグレンは相手の目の奥を覗いた。カロは亀首を突き出してグレンの盃に酒粕を注ぎ足す。大して美味くもないものだが、何もないより話しやすい。
「局長とつるんで幹部の椅子を占めたところで、邪魔になるのがこの俺だ。先代の息子である俺さえ追い出せば晴れて支部を、艫乗の街を私物化できる。神様の前で吐いた話はそうだったよな?」
「……」
「お前たちは詰めの段階へ来て動きが雑になった。当然こっちだって備えていたさ。知っているぞ。どうやって船乗り連中や商人どもを手懐けたか。密貿易をやっているな? 沖合でシールレントの船に大嶋の品を吹っ掛けているんだろう? 神様の前じゃ言葉を濁していたようだが、こっちはとっくにお見通しだ」
「だったらどうした。こうなったら俺もお終いだが、それは旦那よ、あたんだって同じことだ。既に手足をもだれたようなもんじゃねぇか。今更巻き返しの策でもあるってのか?」
「確かに単独で組織を相手にするのは無理筋だ。しかし今は神様がいて下さる」
「はっ! 神頼みかよ」
吐き捨てるグレンにカロは更に酒粕を足した。束の間の沈黙を相も変わらず助どんの鼾が混ぜ返す。
「グレン。お前にチャンスをやろう」
「なんだと?」
「お前は今から俺の側に付け」
「そいつは無理だね。局長は既に半ば以上街を牛耳ってるんだぜ? そこへ来て今更旦那と俺とで何ができる?」
「まあ聞け。そしてよく考えるんだ。――昔の話だ。俺達渡人と呼ばれる西大陸の人間が大嶋を目指した。それは単に冒険心を満たそうというだけじゃなく、神と呼ばれる謎の存在に会うという大きな目的があった。いや、寧ろそれこそが航海の切欠だ。そして今、俺もお前も神に出会った。ただ見かけたと言うだけならこれまでにも経験はあったろう。だがそうじゃない。今度ばかりは本当に出会ったんだ。このことの価値は計り知れないぞ? だからグレン。お前が渡人としての正道に立ち返るとしたら今しかない。そうだ。今、この時でしかないんだ」
「…………」
「大嶋に来たってのに、渡人の間だけで金の算段をして、それで何が変わる? お前も耳にしてるだろうが、今、水走や護解では神々がどうした訳か渡人との関係を見直そうとしている。変化の時だ。己の立ち位置は慎重に選ぶことだな」
返答はなかった。グレンは黙って酒粕を呷り、それから薄ぼんやりと明るい椿油の灯をじっと睨み付けていた。




