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異世界(まほろば)に響け、オオカミの歌  作者: K33Limited
章の四 護解編
86/172

084 火取蛾本宮参詣

 摩天楼を見た。

 天を衝くとは大袈裟なと心のどこかで思っていたものが、実際に真下から見上げると、そぞろに頭の下がるを禁じ得ない。見事だ――。江都の中心街へ足を運んだ私たちは遠目にも高いと感じた建物群の本領というものを実感した。

 実際には前世に於いて高名無類のサグラダ・ファミリアよりも遥かに低い建物群だろう。けれどもそれが街中の雑踏に幾つも並んで聳えているのはそれだけで圧倒的だし、かてて加えて大嶋ではついぞ見ない景観。

 前世持ちの私はまだ例えが浮かぶような記憶を持ち合わせているからいいのだけれど、阿呼はそれこそ唖然茫然。二人並んで首が痛くなるまで、アホの子のように立ち尽くした。小鉤こはぜちゃんが袖を引くまでの時間は正に無我の境地だったと言っていい。

 我に返って目的を取り戻した私たちは、マウロとエレンの案内で次々と店を見て回った。

 中心街は実に賑やかだ。見世物小屋や劇場もあるだけに呼び込みの声が引きも切らず、これが予定のない旅であれば逸早いちはやく劇場に飛び込んだことだろう。とはいえ未だ元手は心許ない。今朝の儲けは手土産や新しい水干を買い求めれば、遊興に回すほど残りはしない。


「阿呼ー、小鉤ちゃーん。忍火おしほさんへのお土産は決まった?」

「お姉ちゃん。うん、小鉤こはぜさんが忍火様はほんのり甘いものが好きだって教えてくれたから、これにしてみた」

「みっ」

「ほうほう、どれどれ。ありひらとう?」

有平糖あるへいとう。カラゴラっていう国から入ってきた新しい種類の飴なんだって。とっても変わってるの」

「変わってる?」

「風変わりで美味しいのですみ」

「量り売りもしてたから、はい、お姉ちゃんも一つどーぞ」

「わーい、いただきまーす。ほむっ」


 ひょいと口に放ればなるほど、途端に面白味が広がる。毛細管現象で舌が飴玉にピタッと吸い付くのだ。そしてじんわりとした甘さが広がって、唾液を吸った飴玉はほろほろと崩れ始める。


「んー! むふー!」

「ね、美味しくて楽しいでしょ?」

「おもひろい! おいひい!」


 三温糖に似た上品な甘みが優しく崩れて滑らかに溶け出す。私は口の中がおもちゃ箱になったような時間を存分に堪能した。


「いいね、これ。お土産には持って来いだよ」

「みっ、媛様もきっとお喜びになるのですみ」

「それでお姉ちゃん、水干は買えたの?」

「買えたー。マウロたちが嶋人や神社から仕入れてる着物屋さんに連れてってくれた」

「よかったね。二人はどこ?」

「直ぐそこの生地屋さんにいるよ。行こ」


 相変わらず強烈な視線の照射を、近頃は慣れたもので気にも留めずスイスイ行く。渡人の若いカップルは四つ角にある店先で品物を眺めていた。


「お待たせー。なになに? 二人も何か買うの?」

「いえ、そういう訳じゃないんですけど」

「マウロは染め物に興味があるの。趣味で風呂敷を集めてるくらいだから」

「へー、そうなんだ。この辺は大嶋の生地だね」


 絞り染めや型染めの見事な生地が並んでいる。自然から引き出した様々な色に溢れて目に楽しい。


「あれ? でもマウロのご両親って木工の職人さんなんじゃ? 後を継ぐ訳じゃないの?」

「僕は昔から大嶋の技術に興味があって。木工でも木組みとか指物さしものが好きなんです。特に大嶋には西方の何倍も細かな色彩があって、自分でも染め物をやってみたいなって」

「偉い。将来の夢がちゃんとあるんだ」

「でもマウロったら、去年までは後を継ぐかどうかで迷ってたのよ」

「そうなの?」

「余計なこと言うなよ」

「何が余計よ。資金繰りの為の屋台だって、私が背中を押したから始めたことじゃない。そうでなきゃ未だにグジグジ悩んでたんでしょ」


 マウロってば今から尻に敷かれてる。そうか、エレンは旦那を育てて行くタイプか。いいぞ、もっとやれ。


「染め物に興味があるなら、私の知り合いに植物染料の研究をしてる人がいるから、そのうち紹介してあげるよ」

「ほんとですか!? あ、でも、ひょっとして神様ですか?」

「違う違う。渡人の魔法使いと植物学者さんだよ」

「魔法使い! さっすが首刈様。よかったじゃないマウロ」

「うん」


 首っ玉を抱き込まれて恥ずかしそうなマウロ。胸がほっぺたに当たってるからね。エレンさんや、もう少しそのガサツは引っ込めた方がいいと思うよ。ともあれ見ていて微笑ましい二人。純粋なマウロとてらいのないエレンはまたとない取り合わせに思えた。


「さて、二人のお蔭で予定の買い物もスムーズに終わりました。本当にありがとうね」

「どう致しまして。それじゃあここで一旦お別れですね」

「うん。とは言っても暗宮にはご挨拶に伺うだけだから、放谷に任せた件もあるし、お泊りなしで直ぐに戻って来るけどね。二人はもうしばらく街歩きして、ゆっくりめに帰ってね」

「はい」

「了解!」


 例の審神さにの小杖を持ち出した来たマウロの叔父、モレノの動向もあるので、二人には変にバッティングしないよう街で時間を潰して貰う。

 放谷からの風声みさを通信は暗宮の行き帰りにでも入るだろう。戻ったら浮いた日程を路銀稼ぎに当てる為、数日マウロの厄介になることになっていた。


「じゃあ、二人とも気を付けてね。夕飯は気にしないで済ませておいて。多分こっちは暗宮で済ませて来ちゃうから」

「小鉤がご用意致しますみ」

「ほらね。じゃあまた夜に」

「はい、夜に」

「首刈様、阿呼様、小鉤様もまたねー!」


 雑踏の中で和気藹々、手を振り振り別れる渡人と神々。今はまだ物珍しく衆目を集める光景も、いずれは当たり前になって、誰にとっても望ましの大嶋となる日が来る。その日を信じて、私は私の道を歩いて行こう。




 ***




「日和もよくって、気持ちのいい参道だね。とっても深い杜の空気」

「そうなのですみ。この杜はお宮創建の折からずっと変わらぬ姿のままなのです。みっ」


 待ち兼ねた皇大神の参詣。その先導に立った小鉤ちゃんはウキウキと弾む足取りで袴の裾を揺らした。火に魅入られて挙動がおかしくなる困ったちゃんだけど、舞うような足取りで先を行く姿はやっぱり可愛い。


「お姉ちゃん。放谷の方は大丈夫かな?」

「うん。何かあれば風声みさをで連絡してくるでしょ。マウロとエレンには時間を潰してから帰るように言ったし、そんなに心配しなくても大丈夫だよ」

「そっか。そうだね」


 勿論、阿呼の気がかりは私の気がかりだ。こうして火取蛾本宮の参道を歩いていても懸念は付きまとう。それでも姉が共鳴していては阿呼の憂患は増すばかり。よくないね。だから敢えてあっけらかんと平静を装う。

 本心を言えば放谷がここまで風声を寄越さないことに不安はおろか不満すら抱いている私。遅めの朝食を済ませて別行動になってから既に四時間が経過している。それだけの時間があって犯人ホシ――マウロの叔父が動かないなんてことがあるだろうか。先ずあるまい。どうせまた固有スキルのうっかりを発動して連絡を忘れているに違いない。かと言ってこちらから風声を投げることは憚られる。風声は当人にだけ聞こえる訳ではない。相手の耳元に声を届ける御業だから、仮に静かな場所であれば近くの誰かに聞かれることも十分に考えられる。隠密行動を思えばそうした軽挙は控えなくてはならなかった。


「首刈様! 二の鳥居ですみっ」


 小鉤ちゃんの明るい声が思案の縁から現実へ引き戻してくれた。

 目の前の立派な鳥居は天辺の笠木かさぎ杮葺こけらぶきの屋根が乗っていて、どうや暗宮の鳥居は皆こうした手の込んだ造りのようだった。

 神額には八大守蛾宮やひろのかみひひるのみやと記されている。そして何より目につくのは鳥居の向こう。間断なく深い杜が続いているのだけれど、張り出す梢が何層にも重なって、幽暗な葉影の隧道を織り成しているのだ。


「木陰の道。蒼闇あおやみの道だね」

「うん。とっても暗宮くらみやっていう感じ」

「あ、小鉤ちゃん。正面に見えてるのは舞楽殿?」

「そうですみ」

「じゃあちょっと袖を借りてもいいかな? 水干を新しいのに着替えちゃいたいから」

「どうぞなのですみ」


 道行けば阿呼の言葉は正鵠を射ていて、この鬱蒼とした参道こそ暗宮と綽名する由縁。そう感ぜずにはいられなかった。

 やがて参道を遮るように立つ舞楽殿に辿り着き、その袖を拝借してゴソゴソとおニューの水干にお着替え。

 大嶋の神社では無論、神楽殿も見かけるけど舞楽殿も多い。大きな神社では両方あったりもする。神楽殿は四隅柱囲いの壁を持たない舞台で、対する舞楽殿は奥面に壁を持つ。その壁がお能の舞台同様、鏡板になっているのだ。壁の左右にある袖は演者の控の間、いわゆる楽屋になっている。恐らく、神社と里が密接な関係を持つことから、農村芸能の舞台として舞楽殿が造られるのだろう。


「いよーっ、ほっ! どんなもんよ?」


 新しい水干を纏った私はお能の呼吸で舞台中央に進み、厳かに回って見せた。阿呼も小鉤ちゃんもウンウン頷いて、似合っていると褒めてくれる。でへへ、中身がいいからね。何着ても似合っちゃうよね。

 仕立てた訳でもない出来合いの水干は、同調して注連しめの御業をかけたことでサイズはぴったり。生地は元のものより粗いけれど、それも注連の効果で強化されている為、ほつれたりしないし、引っかけても破れにくい。つくづく思うけど注連って本当に便利だ。


「お待たせ。じゃあ行こう」


 葉擦れのさやめきが降る参道を再び先へ。鳥の声は少なくなり、段々と闇が濃くなって行く。まとわり付く闇のせいか、平坦な道がどことなく坂道を下っている気分になって心なし肌がざわついた。


 ポッ――、ポッ――。


 それが見えたのは少し離れて先を行く小鉤ちゃんの両肩辺り。焼き物の火色に似た深い色合いの小さな炎だ。不意に現れた光源は逆に周囲の闇を一層深めて、気付けば阿呼が私の手を握り締めていた。

 なんだろうこの演出。決して悪い予感がある訳じゃない。敢えて言葉にするなら覚束なさだろうか。どこを目指し、どこへ着くのか分かっているのに、まるで杖がないと歩けない道を進んでいるような気がするのだ。


「お姉ちゃん。このお宮、なんだか変」

「確かに。ちょっと雰囲気がアレだね」

「見て、ほら」

「んん?」


 阿呼の指先を追うと、小鉤ちゃんの肩近くに灯る炎が膨らんだ。おやっと思った隙に小鉤ちゃんまでもが炎に転じ、三点の炎火はゆっくりと三つ巴を描いて回り始めた。

 既に真っ暗闇かと思われた周囲がの明かりに照らされて、そこに杜の終わりと三の鳥居とが浮かび上がる。鳥居の先は未だ闇。巴の炎は回転を速め、徐々に輪を広げて終には弾けた。火の粉が舞い、それも闇に吸われるように消えて行く。すると闇深い鳥居向こうに揺らめく火光ほかげ。目を凝らせばどうやら篝火のようだ。


「お姉ちゃん、阿呼たちだけよ」

「困ったね。小鉤ちゃんはどこ行っちゃったんだろ?」


 昼下がりから一転、闇へと落ちた暗宮。最後の鳥居を潜れば開けた空は紫黒しこく濃藍こいあい紫紺しこんと宵口の層を成して、際の茜色に遠い社殿の棟木が黒々と横たわっていた。視覚的にははなはだ不気味。けれども神域特有の安堵感は欠片も損なわれていない。信心と畏怖とが調律された世界観に足を踏み入れたかのようだ。


「あ、ひひる。蛾たちが……」


 周囲の闇から篝火照らす明るみの袖に入った蛾たち。ひらひらと、はらはらと舞いながらその翅に赤々と火を取って尚奔なおはしる。

 篝火の前に立つと、一六〇糎はある私の、丁度胸の高さ辺りにくべられた炎が、薪の爆ぜる音に合わせて絶えず火の粉を舞わせていた。そして燃える最中に一匹、また一匹と、触れる端から小さく燃えて形を無くして行く蛾たち。


「なんで……。蛾のお宮なのに」


 燃え尽きる蛾に不条理を見て呟けば、ポッと軽い音と共に吹き上げた小さな火柱。その先端がふっと切り離されて蛾の形を留めた火片となり、たちまち舞い踊り始める。


「お姉ちゃん見て、いっぱい飛んでる!」


 気が付けばそうした炎の蛾たちが鱗粉のように火の粉を振り撒きながら美しく闇と戯れていた。命を燃やす炎の神楽。未だかつて見たことのない幻想だ。


 これは魂なんだろうか――。


 どこからともなく響く鈴の音に併せて羽搏くたびに散る火の粉。

 それは儚みながら散りなむ蛾。

 焦がれ焦がれて果て落つ蛾。

 寂寞じゃくまくとした闇を彩る末期まつごあけ、そして真紅しんく。それらは探せば遠く、感じれば近い何かを伝えようとしているようで、私の胸にはっきりとした答えの見えないもどかしさを落として行った。


「暗宮へようこそ」


 不意の声に目を凝らすと、篝火の向こう、三方に千早姿の影。一人は淡黄色たんこうしょくの千早を纏う小鉤ちゃん。その左右にはそれぞれ浅縹あさはなだ桑実色くわのみいろの千早に身を包んだ二柱。


「暗宮巴衆が八の翅。千早振透羽姫命ちはやぶるすきはひめのみことにございます」

「暗宮巴衆が九の翅。目抜盗火子姫命まぬかしぬすむぽっこひめのみこと火子ぽっこだよ」


 下に着込んだ白衣びゃくえを透かして、浅縹の千早を纏うのが透羽すきはさん。透明な翅を持つ大透翅おおすかしばの化身で、ぱっちりとした目に星が宿し、その上から逆さ八の字に節状触覚を突き出している。足袋蛾より小さな大透翅たけれど、人形のでは小鉤ちゃんより二回りは大きい。

 一風変わった名前の火子ぽっこちゃんは小鉤ちゃんと同じ背格好をしている。触覚はボテッと短く、ボソボソと話す辺り、日陰を好む蛾らしさを感じさせる子だ。見極めの難しい複眼なのに、どことなく視線を逸らしている印象があった。


「それでは小鉤たち三の巴が本宮へご案内致しますみ」


 小鉤ちゃんたちは私たちに向けて道を開くような仕草を取り、影ばかりの社殿へと歩み始めた。


「待って待って」

「どうかしましたみ?」

「いや、だって、ほら。蛾さんたちが篝火で燃えちゃってる。放っといていいの?」


 わだかまる不条理の訴えれば、三者一様にかぶりを振って曰く。


「羽化した眷属は月の満ち欠けも見果てぬ内に儚い命を終えるのですみ」

「世代を繋ぐ役目を終えた眷属はその身を燃やし、立ち昇るほとぼりに乗って大嶋のどこへなと流れて参ります」

「真紅の翅は末期を燃やす星霊の輝き。ほどけて散れば何処いずちか宿り、新たな姿で新たな生を生きるんだよ。例えばこんな風に」


 火子ちゃんが口を窄めて息を吸うと、眼前を過ろうとした炎の蛾が音もなく吸い込まれた。小鉤ちゃんと透羽さんもそりに倣う。


「巡る星霊を小鉤たちの中に迎え入れたのですみ。ほぐれたものをほだしてその先をまた共に歩む。火取之宮ひとりのみやは古来、神魂くしろの受け継がれる場所なのです。みっ」


 創建以来絶えたことがないという篝火――神魂之火元くしろのほもと

 伝承によると営みを終えたひひるは自ら篝火に焼かれ、一片の星霊となって、護解に住まう別の命に宿ると言う。

 羽化した蛾がひと月も待たずに命を終えるのは確かにその通りだ。交尾や産卵を終えた蛾たちは自ら篝火の炎に身を投げ出し、霧散した星霊は大嶋の何処かで何かに宿る。そうした楓露の根本にある循環を司るのが、どうやらここ火取蛾本宮であるらしい。

 私が目にしたものは生と死であると同時に、魂と星霊の流転。そのテーマが持つ重々しさは一度死んだ経験のある私には分かる。


「たとえ死んでもまた生きたい。ここにはそんな願いがあるのかな……」


 前世ではたった十七歳で死んだ。本音を言えばもっと生きたかった。家族や友達と一緒にいたかった。それなのに、余りの急さに動転して、何をどうしていいのかも分からず、ちゃんとお別れできるかな、なんてズレたことばっかり考えて――。

 死にたくない。生きていたい。そう叫べはよかった。それがみんなを苦しませることになっても、本音も言わずに死ぬのは寂しいよ。

 でも、今更取り返しは付かない。だから私は生まれ変わったこの世界を生きる。

 生きたいと願う命の声を知っているから。

 生き抜こうと輝く全ての命を愛し続けるんだ。


「お姉ちゃん?」

「ん、大丈夫。ちょっと気が引き締まった感じ」


 お蔭様で手土産片手に御挨拶といった軽い足取りは鳴りを潜めてしまった。

 黙々と玉砂利を鳴らして行くと、迫る社殿から質量すら感じる影が圧し掛かって来る。


「それでは真宮つつみやを閉じますみ」

「おん?」


 足を止めた小鉤ちゃんは隣り合う二人と息を合わせ、一拍の忍手しのびてを打ち鳴らした。要は極力音を立てない柏手だ。すると幾層もの闇の天蓋はさっぱりと消え去って、嘘か真か昼下がりの青い空に戻ったではないか。


「おお……」


 振り仰ぐ空からは目の奥に染みる光。白日の下には敷き詰められた玉砂利の境内。未だ燃え続ける篝火を中心に縦横均等に並んだ石灯篭。

 境内の左右を見れば深い蘇芳色の柱で檜皮葺ひわだぶきの屋根を支える長い廻廊。そこに石灯篭と同じ間隔で吊り灯篭が下がっている。


「おお!」


 更に驚いたのは左右に伸びる廻廊の後背。屋根越しに見える、まだ蕾にも早い桜の梢を挟んだ向こう。一段高い位置に同じように配された廻廊と石灯篭の列。そこから更に一段奥の高みにも同じ廻廊があって、玉砂利の境内は三段構えの灯篭群に囲い込まれていた。


「これは万灯篭! 素敵素敵! 好きーっ」


 我が魂の故郷。奈良の春日大社で節目節目に灯される万灯篭。それに負けない数の灯篭がこの広々とした空間を立体的に囲っていた。こんなものを見せられたら語彙力が低下するのも必然。しかしまだ終わらない。まだだ。


「お姉ちゃん、前はもっと凄い」


 袖を引かれて神前に向き直れば、ハッと息を飲まずにはいられない拝殿。先ず屋根が凄い。鳥居の屋根同様、杮葺こけらぶきではあるけれど、まるで蛾の翅を一枚一枚丁寧に寄せて集めたような秀麗な木肌の寄せ細工。小鉤ちゃんによれば細羽造さざれはつくりと呼ばれる火取系のお宮固有の設えであるらしい。それは即ち楓露固有の造り――前世の記憶に存在しないものな訳で、私はそのことにいたく感動した。

 拝殿に高さはなく、横に広がる穏やかな落ち着きが暗宮の静けさに溶け込んでいる。この場所に幾星霜を横たわってきたという歴史を確かに感じさせてくれるのだ。

 門扉も壁もない拝殿の外周は大外の柱ばかりが蘇芳色に塗られ、内は清浄な白木組み。磨き上げられた板張りの床に、折り目正しく並べられた燭台は全て、格天井から垂れ下がる吊り灯篭と対になって天地を結ぶかのよう。

 奥正面と左右から伸びる三本の渡り廊下も吊り灯篭と庭の石灯篭とに囲まれている。もし宮にある全ての灯篭に火を灯して夜を迎えたなら、一体どこまでの幻想を体現するというのか。私はもう想像だけで目が眩んでしまいそうなほどだった。


「阿呼!」

「なぁに?」

「お姉ちゃん気絶しそう!」

「しっかりして! ほら、お手々繋いでてあげる」

「ちゃんと握ってて!」

「うん」


 感動にクラクラしながら御挨拶の参拝を済ませ、草鞋を脱いで拝殿へと上がる。

 ひんやり――。

 長らく歩いてねつぼったくなった足裏に、磨き上げられた床のなんとも甘美な冷感。この一歩を踏みしめずしてなんとしようか。


「行けますみ?」


 私の様子を案じたのか心配そうな小鉤ちゃん。

 どんうぉーりー! 私は今、この上なくびーはっぴーだよ!


「行ける! ご飯三杯は断然行けるっ」

「み? それでは御神座へご案内しますみ」


 つい先刻闇間で得た心情などすっかり脇へ置いてしまって、私は深呼吸を繰り返しながら、一度は引っ込めた筈の軽い足取りで渡り廊下を進んで行った。

 中坪も見事なもので、まだ花が色を添えていないというのに緑だけで様々な美観を備えている。これぞ庭屋一如の精神で、社殿と一体の美を静かに映し出していた。

 途中途中、昼日中の光が届かぬちょっとした陰に蛾たちが翅を休めている。私はそれら全てに上機嫌の笑顔を振りまきながら、やって来ました本殿ででん!

 造りは拝殿と同じだけれど、こちらは竹の棒を錘にした玉簾たますだれが掛けてあって、中央の渡り廊下に突き当たる間口だけがゆったりと巻き上げられていた。

 お辞儀して踏み込めば何もない板張りの外陣。奥まって一段高く作られた内陣はほぼ全体を覆うような天井吊りの蚊帳にすっぽりと覆われていた。

 これまでと打って変わって本殿には吊り灯篭の一つもなく、燭台は柱に打ち付けられたものだけ。格天井には終歳歓迎の花々に代えて、一つ一つ趣の異なる巴紋が描かれている。


「どおぞ、お渡り下さい。みっ」


 外陣と内陣の段差に架けられた一跨ぎの小さな飾り橋。小鉤ちゃんはその橋の袂に立って奥へと勧める。段差を上った先には透羽さんと火子ちゃんが蚊帳の入り口の左右に並び、厳かな振る舞いで薄膜の帳を開いた――。




 ***




「お邪魔しまーす」


 伺いを立てて蚊帳を潜ると、微かに鼻を掠めたのは冬名残の澄ました梅の香。空間の中心に据えられた大きな香炉は素焼きのように見えて実に見事なむらのない弁柄色。その向こうにちょこなんと座しているのが、以前会った時の地味な茶系ではなく、白々と清らかな絹を重ねた主祭神――神魂召真闇忍火媛命くしろめすつつやみのおしほひめのみことだ。


「お久し振りです。ご無沙汰してましたけど、ようやくこうして御挨拶に伺えました」


 対面に正座して述べると、隣では阿呼が丁寧に手をついて忍火媛を拝した。以前の私なら慌てて倣っていたところだけど、皇大神が八大神に首を垂れるのは慣例にないことであるらしい。私は阿呼の姿勢が戻るのを待ってから、昨日の素通りについてお侘びの口上を述べた。が、返事が返って来ませぬ。


「あの、忍火さん?」

「ハッ――」

「え、そのリアクションは一体……」

「済みません。転寝うたたねをしていました」


 こらこら。春眠暁を覚えずと言うにはまだちょっと早い。真宮つつみややら荘厳な社殿やらで驚嘆と感銘を与えておきながら、当の主祭が居眠りとかないわ。


「お昼寝の最中でした?」

「いえ、普段から明るい内は眠るようにしているので、それで」

「ああ、それはそうですよね。蛾だもん。あ、そういえば十把骨とたばりかばねはどうしました? お宮の皆さんが引き取って行かれましたけど」

「はい。杜にある倉に迎えて休ませています。その説は大変お世話になりました」

「いえいえ、とんでもありません。お役に立てたなら私たちも嬉しいです」


 十把骨とたばりかばねとは赤土の物部大社殿もののふたいしゃでんに収められていた暗宮の兜鎧傀儡とがいくぐつだ。髑髏蛾どくろがと呼ばれる面形天蛾めんがたすずめの怪を写した、艶消しの美しい一領だったと記憶している。

 当り障りのない会話の横で阿呼が輪違わちがいを開き、江都の街で買ったお土産の巾着包みを取り出した。それを受け取った私は香炉を回り込んで忍火媛の間近に膝を付き、


「これ、江都で買ったお土産です。小鉤ちゃんに聞いたら忍火さんはほんのり甘いものが好きだというので、甘さ控えめの飴を買ってきました」

「まあ、お優しいお心遣い。飴玉を口に入れていると不思議と楽しい気持ちになれるので好きです」

「よかった。これ、ちょっと特別な飴なんですよ。おひとつどうぞ」


 選んだ品が喜んで貰えれば気分もいい。私は巾着袋の紐を解くと、口を広げて取るよう促した。平太鼓のような形をした飴は薄茶と濃茶の色合いで様々な柄を浮かべていて、それを口に入れた忍火媛は暫くの間を置くと、木の葉型の触覚をピンと上向かせた。


「口の中でほろほろと崩れて行くでしょ?」


 問えばコクコクと頷いて、目ばかりでは窺えない表情が全体的に美味しさを物語ってくる。


「材料は有平糖あるへいとうといって、口どけがなんとも言えない飴なんです。西大陸のカラゴラという国の飴だそうで、大嶋に伝わって来たのは最近のことだって言ってました」

「そうなのですね。これはたった今、わたくしの好物になりました」

「それ! そこなんですよ」

「?」

「つまり、神様が渡人のお菓子を好物だって言えちゃうこと。それってとっても素敵なことだし、そういうところから両者の繋がりを深めて行けばいいと思うんです」


 お土産の巾着を手渡した私は戻りもせずその場に座り込んだ。寧ろ阿呼を手招きして、三人膝を寄せて向かい合う。

 お土産にきっかけを得て始まった渡人の話は聞き上手の忍火媛に先を促されるまま止まらない。小鉤ちゃんが持ってきてくれたお茶やお茶請けもそっちのけで、のべつ幕なしにべらべらと。その内に阿呼に膝を叩かれ、ハッとして口を閉じるという始末。


「済みません。一人で喋っちゃて」

「いいえ。首刈様こそが護り解く神と、わたくしは感心しながら聞いていました」

「もりとくかみ?」

「はい。ここ護解はほだし絆され解き解かれ。よすがを結び、しがらみを断ち切る神の土地。この世のえにしは魂に結ばれるいと深きものです。渡人と神の縁を取り持とうとされる首刈様はわたくしの目に絆し神として映ります」


 絆を護り、しがらみを解きさく。私の行いがこの地の神の在り方に相応しいと忍火媛は言う。そんな風にリスペクトされちゃうと私の中のドヤ心がお慢心してここぞと調子に乗ってしまいますが、よござんすか? よござんすね? って、いたたた――。


「阿呼、痛いよ!?」

「お姉ちゃん、その辺にしておいて」

「……はい」


 膝小僧に爪を立てられドヤ心は無事消沈。まあ確かに、ここへは大嶋廻りの挨拶をしに来たのであって、手前勝手な独演会を披露しに来た訳ではないからね。そこのところの履き違えを痛みの伴う指摘で理解させられた格好だ。阿呼ったら「うちの姉が済みません」みたいな作り笑顔を忍火媛に向けちゃってさ。

 ともかくも仕切り直し。私は渡人の話を脇に置いて大嶋廻りの出来事を語り、次いで今後の予定についても話をした。

 赤土での出来事は忍火媛も大筋は把握していたようで、兜鎧傀儡の返還に伴い、あらましを夜刀ちゃんに尋ねたとの事だった。

 今後についてはマウロの家で起案したものを道中まとめていたので、それをそのまま伝えた。

 私と阿呼とで立てた予定はこうだ。

 先ず、江都に戻って二日三日は屋台の商売をして路銀を稼ぎ、その足で転宮街道を往って、道なりに三宮と二宮を訪ねる。二宮参詣が済んだら茅の輪を拝借して夜刀ちゃんの待つ転宮へ。そこで春告神事を見物するつもりだ。

 以降はまだはっきりと決めはいない。春告神事にはマウロとエレンを招待し、それが済んだら一度、真神三宮の犬神神社へ戻ろうかと思っている。月中に犬取神事があるから、野足のたり夜来よころたちと一緒に過ごせたらいいなと。そこで一息付いたら次はいよいよ青海道に乗って、目指すは伊佐いさ波宮なみのみやだ。


「そうですか。お犬取りの後に青海道を往かれるなら、伊佐に着く頃にはもう護解月もりとくつきになりますね」

「やっぱりそのくらいはかかりますよねー」

「はい。今年は護解月のつごもりには鎮魂たましずめ神事がございます。宜しければお立ち寄り下さい。真宮つつみやの全ての灯篭に火が灯って、それはそれは美しいですよ」

「それは是非とも見てみたいです! ね、阿呼」

「うん。きっとびっくりするくらい奇麗だと思う」


 火取蛾本宮の真宮――それは本来の暗宮の姿。遥か昔には常に闇に閉ざされていた暗宮も、闇を恐れる人の世の広がりに伴って、今では鎮魂神事の折にしか真の姿を見せることがないのだそう。今日のことはあくまでも皇大神である私を出迎える為の特例ということだった。本当にありがとうございます。

 四月に当たる護解月は桜の季節。三段廻廊の狭間と後背にある桜が咲き誇れば、灯篭の明かりに浮かぶ闇夜の花はどれほどまでに美しく映えるだろう。それを期待するなという方が土台無理というものだ。


「それで忍火媛様。二宮や三宮の他に見ておいた方がいい場所はありますか?」


 夜桜妄想に突入したきり帰宅予定のない私を他所に、阿呼は至極尤もな質問を発した。


「どうでしょう。わたくし余り詳しくないもので……」

「えっ……と……」


 阿呼も固まる凄い答えが返って来た。思わず耳を疑った私の意識も速攻で妄想から帰って来たよ! てゆーか、お膝元の話をしているのに詳しくないってどういうことなの?


「わたくし、生まれて以来、滅多なことでは宮を離れません。取り分け渡人が護解の土を踏んでからは真神や他所の八大で催される神事の他は出歩くのを慎んでいました」


 うん、分かった。ヒッキーだこの人。生来の引き籠りで、渡人が来てから更にその傾向が強まったと仰る。つまり、四千年以上引き籠ってきて、千年前から遂に秘められし本領を発揮し始めた、と――。手強い。しかし八大神ともあろうお方がそんなんで大丈夫なのかな……。


「ですからわたくしから申し添えることは一つだけ」


 そう言って忍火媛は後ろに置かれた文机から塗りの小箱をとって、丁寧な所作で結い紐を解いて一通の文を取り出した。


「これは?」

「実は年の瀬でしたか、水走にいる西風まぜさんからこちらの文が届きまして、何やらこの護解で渡人に妙な動きがあるらしいと」


 忍火媛は折り畳まれていた文を開いて行き、そこに差し挟まれていた一枚の小さな半紙を取り出した。

 受け取った私は阿呼と一緒になってしげしげと見分。そこに文字はなく、ただ一つの図柄――紋が印されているのみ。紋を成すのは五つの舟帆。それらが丸く収まる格好でぐるりと配されている。これまでに私も阿呼も目にしたことのない図柄だ。


「これを西風さんが?」

「はい。それは五つ帆の丸とでも言うのでしょうか。一つ帆巴や追いかけ帆菱といった紋には覚えがありますけれど、わたくしも初めて目にするものです」

「五つ帆の丸……。で、これがどう渡人の妙な動きと関わるんですか?」

「さあ?」

「……はい?」

「存知ません」

「存知ないのかーい!」


 ズビシッ――!


 思わずツッコミを入れてしまったぢゃないか! 阿呼だって虚を突く答えに私のツッコミを止める機なんざ完全に逸してたよ。


「痛いです……」

「あっ、済みません! だって、え? だってでいいよね、ここ」


 思わず阿呼に伺いを立ててしまう。私間違ってないよね? あれだけの振りからご存知ないは通らないでしょ? 過去最高にモヤモヤッとするんだけど。


「お姉ちゃん落ち着いて」

「いや、だって、おかしくない?」

「うん。でもまだ申し添えの内容を聞いてないから」

「あ、そか。確かにそれが先だね。はい、では忍火さん。続きをお願いします」


 両掌を上向きに並べてどうぞと促せば忍火媛は少し怪訝な表情を浮かべて黙り込んだまま。


「もうツッコミは入れませんから大丈夫ですよ。さ、どうぞ」


 重ねて勧めると、忍火媛はツッコミを受けた時から仰け反り気味になっていた姿勢を戻して楚々と居住まいを整えた。


「首刈様には、その紋に出くわすような事がありましたら、お気を付け下さい、と」

「はい。それは勿論!」


 私も阿呼も委細聞き漏らすまいと獣の耳に神経を研ぎ澄ませて続きを待つのだけど、これが何故だか一向に続かない。複眼の奥の見えない表情を探りながら待つことしばし。さすがにこれ以上は待てぬとなって、私は一音を発した。


「で?」

「? ……で、とは?」


 知ってた。そんな落ちだろうなって半ば以上思ってたよ! 大丈夫なのか八大神!? 赤土でも千軽ちゃんの世紀単位の危機管理能力の欠如とか! 蓋を開けて見れば原因はお前かという夜刀ちゃんだとか! 諸々懸念が尽きないんだけど。これ、私が正式に皇大神として認められた後にさぁ、ぶっちゃけ補佐役として八大神を頼みにしていいのかなって思うよね? 鬼が笑い転げる話だろうけど、私は今からそのことが心配で心配でしょうがないよ。


「あのですね、忍火さん」

「はい」

「西風さんからわざわざ手紙が届いたってことでしたよね?」

「はい」

「それなのに、今日ここに私がこうしてやって来るまで、暗宮ではこの紋について何一つ調べなかったんですか?」

「はい」


 言い切った。言い切って行くスタイル。ここで「はい」って言えちゃうんだからこのヒッキーは手強いな!

 忍火媛は楓露なにがしとはまた別のタイプのヒッキーだけど、手強いという一点に於いて両者一歩も譲らない感が余りあるというね。しかし、今現在水走を起点に渡人と神々との融和プロジェクトが推進されている以上、はいそうですかと引き下がる訳にも行かないぞ。


「私は何も偉そうなことを言うつもりはないんですけど。今後、この護解や青海でも今、水走で進めている融和プロジェクトを展開して行く訳じゃないですか。だからこそ西風さんも気にかかった事柄をこうして文にしたためて知らせてくれたんだと思うんですよ。ね? なのにそれをそのままほったらかしはないんじゃないですか? そもそも、暗宮では夜刀ちゃんに言われた通りプロジェクト推進の準備って進めてます? 会合の折に念を押されてましたよね?」

「その点はご心配に及びません。あの折に決まったこと。言い付けられたこと。それらは滞りなく準備を進めています」

「そうなんですか? じゃあなんで西風さんの手紙に限って無視するような真似を?」

「無視? とんでもありません。文には何をかせよとの文言は一つとして綴られていませんでした。ですからそのままにしておいただけです。ただ、これから護解を巡られる首刈様のお耳には入れておいた方がよいかと思いましたので」


 これを聞いて、私は自分でもどう言い表したらいいのか分からない表情のまま顔が固まってしまった。

 言われたからやる。言われてないからやらない。子供か! 神様だよね!? 私なんかより年季も筋金も鳴り物も入った謂わば大御所ポジの一柱だよね? それがこう来ちゃうのか……。


「……分かりました。ご忠告ありがとうございました。この紋については道中私の方で調べてみます。二宮まで行ったらそのまま水走の春告神事に出席するつもりなので、西風さんにはそこで直接報告しておきます」


 私は精一杯気を使って、これ以上、忍火媛を責めるような節のない言い回しを選んで話に区切りを付けた。だって埒が明かないもん。それより何より心配事の解決が先。それはここまで音信不通の放谷のことだ。ひょっとして放谷はこの紋と絡むような事態に出くわしたのでは? 余りにも連絡が遅すぎる。可能性は無きにしも非ずだ。そんな憶測が胸の内に小さく渦を巻き始めていた。

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