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異世界(まほろば)に響け、オオカミの歌  作者: K33Limited
章の三 赤土編
75/172

073 黄金の階3

 円十字を描く星霊の流れに波長を折り合わせ、その音色に耳を傾けて私は待った。瞼を閉じ、ただ静かに呼吸を整え、感じるのは私に背なを預ける放谷の鼓動。そして異世界まほろばの走りをじっと待つ不知火の五感。


「降って来た」


 ぽつりと落ちた雫を不知火の肩甲越しに感じた。それは直ぐに滝落としの激しい雨となって暗い谷間に水気を充満させていく。

 水追いの雨――。

 ここ数日大降りはなかったけど、今は雨期。例年、ひと月を超える長雨になると言う。

 篠突く雨は真夜の耳鳴りのように鼓膜へと貼り付き、反って静寂という実体のない存在を際立たせるように思われた。


「さあ、始めよう」


 気に満ち満ちた星霊の交差点で、私は開幕を告げる音に手を伸ばした。

 緊張はない。いつも本番前の張り詰めた感覚を、私は舞台の袖に置いてくる。そして凪いだ心でステージに並ぶのだ。

 ただ、今は一人。かつて肩を並べて歌った友人たちはいない。指揮台でタクトを振るう先生もいない。かといって孤独という訳でもなくて、知っている歌、覚えた歌であれば一緒に歌ってくれる仲間たちがいる。今、ここで一人歌うのだとしても、その歌が描く世界を染め上げていくのは、誰でもない。私と私の大切な仲間たちだ――。


 ダァァァァァァン――。


 触れた途端に鳴り響いたのは千軽ちゃんの銅鑼タムタム。シンバルのように乾いた高音ではなく、ズンと下腹に揺さぶりをかける、実にエレファントな一撃だ。そのたった一つ鳴り渡る大音量で以って、私のイマジネーションは大爆発。

 真っ赤に燃えた太陽が――。なんてフレーズに突き動かされて幻想世界を紡ぎ上げる。

 闇を払って青々と抜ける中天を描き、燦燦たる太陽を頂いて、無貌むぼうの崖には日照り雨に洗われる新緑のつたを浮かび上がらせた。




 ***




「うっそやろ……」


 千軽は大いに面喰った。目の当たりにした幻想はそれ程までに圧倒される二つとない絶勝だ。

 昨夕、出がけの同調練習で初めて体験した異世界まほろばは、そこにある景色の随所を変化させ、それによって目新しさを生み出す類ものだった。

 ところが今はどうだ。闇に閉ざされていた谷は煌々と真昼の太陽に照らし出され、降る雨を至る所で虹色に輝かせているではないか。雨に洗われた岩肌には見る間に蔦が這い広がり、瑞々しい若葉を開いて、せるような森の芳香を溢れ返らせた。


「千軽! 星霊が波立っているわよ」

「あ、あかん。いや、でも、こんなんビビるわ」

「ええ。さすがの私も魂消たまげたわ。幾らなんでもここまで自在に描けるだなんて」


 そう述懐した夜刀も、ともすれば上ずりそうな声を意識して抑え込んでいた。

 未だ正式な皇大神の座にない首刈をして、こうまで現実を裏返す幻想を編み上げるなど思いもよらないこと。初代皇大神、大口真神おおくちのまかみの再臨かと目を疑わずにはいられなかった。それが夜刀の抱いた偽りのない感想だ。

 首刈が如何にのままの星霊核を継承する皇大神であっても、かつてここまでの規模で御業を編み上げた神は大口真神を除いて夜刀は知らない。未熟な筈の首刈が、その身に受け継いだ女皇核の真価を余さず発揮している。そう思われてならなかった。


「夜刀ちゃん! 全然足りてない! どんどん下ろしてっ」


 夕星の声に我に返って、夜刀は意識を星霊に戻した。首刈を中心とした複雑な流れは、出だしより目に見えて細くなっている。夜刀は努めて意識を集中し、今や幻想に覆い隠された見えざる星霊の雲から、ありったけを引き出した。


「こーれーでーぇ、どうかしらぁ!!」


 莫大な星霊を瞬時に同調させて流れの中へ注ぎ込む。その荒業かつ早業は夜刀であるが故の芸当だ。白守の南風も瞬時の同調を得意とする神だが、今、夜刀が捌いている程の量となると話が違ってくる。

 神は年年歳歳、自らの星霊を放出することで周囲の星霊との親和性を高める。夜刀が一万五千年をかけて放出した星霊は、今では楓露の随所に宿っていて、その見返りとして高度な同調を体現できるのだ。


「ばかぁ! 今度は多すぎるってばぁ」


 五領の兜鎧傀儡を循環する星霊は、あわや途切れるかという細々しさから持ち直し、逆に加圧気味に太さを増して行った。


「誰が馬鹿ですってぇ!? 泣き言を言うんじゃないの! 神余かなまりを敷いて不慮に応じられるようになさいっ」

「兜鎧傀儡で神余って、そんなのやったことない!」

「何を今更。できるできないの話じゃないの! やるのよっ、ほら急いで!」


 神がその身に帯びる神余かなまりは神格が高い程に厚みを増し、身の内の星霊を補する役割を果たす。言うなれば外付けの燃料槽タンクだ。夕星も千軽も常からそれを帯びている。首刈や阿呼のような駆け出しであっても、無意識下に一定量を保持していた。


「好き勝手言ってもう! 夜刀ちゃんのバカッ」


 操縦槽の中でぶつくさと言いながら、それでも言われた通り夕星は神余を敷こうと意識した。

 ところが強いてやれと言われると、普段無意識でやっていることだけに困惑してしまう。神余かなまりは首刈が南風から教わった通り、一年かけて身に馴染ませる習慣の賜物だ。半ば以上意識せずにやっていることを、敢えて意識して、しかもこの急場で即応しろと言うのだから、夕星は同側歩のようなぎこちのなさに苛まれた。


「どうやんだったっけ? あああー、わっかんないんだよぉ、もう!」


 短気は損気――。もどかしさに地団駄踏めばペダルを踏み抜いて段切丸つだきりまるの姿勢が崩れた。

 段切丸の操縦槽は座席型で、不知火のような内転機構もない。操作を誤れば乗り手の体も前後左右に持って行かれる。夕星は腰、肘、腿の五点で突っ張ってどうにか姿勢を保った。


「夕星さん、大丈夫ですか!?」


 阿呼の心配に栗皮茶の馬耳がピンッと立つ。

 かっこ悪いったらありゃしない――。

 七百年を生きる夕星からすれば、首刈も阿呼もまだまだお尻に殻の付いたひよっこ。ペーペーの新米だ。そんな相手から心配されたのでは立つ瀬がない。

 夕星は顔を真っ赤にして、けれども手立てに暮れたまま、自分でも思いもよらない台詞を吐いた。


「もぉ! 段切丸、なんとかしてっ」


 するとなんのことはない。「任せておけ」とでも言いたげな実に男前な波長が返って、夕星の周りで宛もなく波打っていた星霊は外へと導かれ、段切丸の鎧各所に吸い込まれて行った。


「へ? 何よ今の?」

「段切丸は鎧の裏に星霊の収納があるんだって、目張さんが」


 ひょんな出来事に呆けていると、再び阿呼の声。

 阿呼は新米ながら、依り寄せの御業で憑依させた目張命まなばりのみことの助言を得て、卒なく状況に対応していた。

 眼百鬼まなきりは兜鎧傀儡第一号である段切丸を多分に模して作られた一領だ。その為、神余かなまり用の装具もそっくり似通った設えになっている。肩甲かたよろい草摺くさずりといった各部位を覆う鎧の裏に専用の収納を備えていた。

 一方、竹葉蛇は夜刀の独自性だけで組み上げられた一領。こちらは全体を構成する竹筒の一本一本が神余に取って代わる星霊収納になっており、他の傀儡と比べても出鱈目な容量を保持することができた。


「何よ夜刀ちゃんの意地悪! 最初からそう言ってくれればいいでしょっ」

「知らないとは思わなかったのよ。星霊を通わせるばかりでなしに、もっと段切丸と対話なさい」

「ふにゅ!」


 怒りと恥しさから、とんがった口先は形容しがたい声を漏らした。

 夕星は段切丸の操縦手管ばかりに腐心して、首刈ほどには傀儡との対話をしてこなかった。祖母の創ったやけに馴染む兜鎧傀儡を乗り回すことが楽しくて、何をするにも自分主体。段切丸の自我は後回しになっていた。そこに思い至った夕星は素直に反省しながらも、裏では「それでも一言言ってくれれば」と恨み節を鳴らすことも忘れなかった。




 ***




 周囲の四苦八苦など露知らず、私の意識は想い描いた幻想風致にどっしりと居を構えていた。

 今や光と雨と緑に覆われた大地の亀裂。

 両岸に流れる滝瀬に耳を傾ければ、篠突く雨は催花雨さいかうとなって、蔦の間に間に黄色い花を結び始め、馥郁ふくいくたる芳香を放つ。

 第一幕の舞台が整うと、私のイメージは更に先へと突き進む。

 変化は先ず、崖に張り巡らされた緑の下に顕われた。柔らかな若葉の蔭。咲き誇る花々の蔭。そこに透かす光を浴びて輝き漏れる金襴きんらんの帯。


「放谷、始めるよ」


 言葉にしたかは定かでない。ただ、温もり越しの鼓動に向けて、私は合図を発した。すると、それまで流れる星霊の辻でじっと佇んでいた放谷の星霊が、ぞわりぐるりと捻転し、私の四肢を這うように渡った。星霊は不知火の金手篭手から伸びる三本爪へと流れ込み、左右一対、計六本の爪に籠って溜めを作る。


「いち、にの、さん!」


 二拍の間を置いて、放谷が勢い矢の如く星霊を解き放った。私は感覚の帯を引いてインパクトの瞬間を追いかける。

 右っ河岸に三本、左っ河岸に同じく三本。それぞれ夕星と千軽ちゃんを躱して、ほとばしる星霊はワイヤーアンカーのように金鉱の帯を貫く。

 刹那、幻想に包まれた空間全体が俄かに震えた。葉擦れの音が後から後から鳴り続け、一斉に舞った花弁が異世界まほろばを黄色く染め上げて行く。


「あかるい色で、元気が出るね」


 綾目あーちゃんの言葉をなぞらえて、私はこの世界を希望の色、幸せの黄色で織り上げようと決めていた。それこそ歌のテーマに選んだ復興と対になる、またとない取り合わせに思えたからだ。

 私は瞼を閉じたまま、不知火の目を通して祝福舞う光景を見た。更にその向こうでは金襴の帯を捉えた星霊が、左右に奔って長大な金鉱を露出させ行く。延々と帯引く輝きは、まるで乱れ咲く山吹のように色めいた。


「よーし、ここからだよ。梯子のイメージで蜘蛛の巣状に両岸を繋ぎ合わせて」

「おー、枝糸を増やしてこしきを編んで行けばいーんだなー」


 カラカラカラ――。放谷の中で糸車のように星霊が回っている。

 リズムに合わせて、私はアンカーを打ち込んだ金鉱を溶解させ、崖一面を覆う鉤葛かぎかずら――猫の爪と融合させて、両側から一斉に大量の蔓を伸ばした。


「放谷、合わせて! 延びて来た蔓を片っ端から結ぶ感じでっ」

「だいじょーぶ。ちゃんと見えてるさー」


 私の想い描いたものが放谷にも見えている。

 果たして放谷は、互いを求めて両岸から延びる蔓に星霊の横糸を通してを結び合わせた。蜘蛛の巣用語で「こしき」と呼ばれる縦糸と横糸の交差点を無数に紡ぎ、頑健無比のネットを編んで行く。これならば安心と、私は私で別件に意識を放り込む。

 今、私は意図して一部の蔓を不知火に集中させている。それを使ってあるものを創り、幻景の中心に据えようとの目論見があった。不知火に到達した蔓を頭上一〇米の位置に巻き上げて、大きな鳥籠を創るイメージ。

 大方の形が出来上がると、蔓に融合させた黄金を裏返すように表出させて、頭上の鳥籠も、放谷が編む蜘蛛の巣も、全てを黄金色に輝かせた。

 蔓も葉も猫の爪の黄色い花も、翻すように金色こんじきに裏返り、それをまた溶かして延べて、黄金の鐘と、黄金の千畳敷を現出させて行く。


「夜刀ちゃん! 鐘が鳴ったら始めてっ」


 平和の鐘、首刈バージョンの完成を見て私は叫んだ。初鐘を鳴らせば最早後戻りは利かない。大地の亀裂に平和の歌が満ちるだろう。




 ***




 阿呼は姉が何を創り出したのか今一つ理解していなかった。不知火の頭上に現れた紡錘形に思い当る物はない。首刈にとってそれは鐘でしかなかったが、仏教由来の形状は大嶋には存在しない。大嶋古来の鐘は外から叩いて鳴らすのではなく、内側のゼツで以って鳴らすぬでが主流だ。渡人が持ち込んだベルを当初、嶋人は鐘と呼び定めたが、今では鐸も一緒くたに鐘と呼んでいる。しかし形までが変わった訳ではなかった。


「おい、阿呼。あれってなんなん?」

「分からないです。なんだろう? 金でできた……蔓竜胆つるりんどう? 蛍袋ほたるぶくろかな?」


 乱れ舞う花弁につられて釣鐘型の花を思い浮かべながら、阿呼は肝心なことはそこではないと直感したていた。例えば電子レンジのように、他者には到底理解の及ばないものを姉は出して見せるのだ。ならば考えても仕方がない。要はあれで何かをしようとしている。その何かに備えておくことこそ肝要だ。


「とにかく準備しておいて下さいっ」

「せやから何を?」

「分かんないけど何か、できること!」

「そんなん分かるかいな!」


 説明不能、理解不能。

 例え何があったとしても循環する星霊の維持を考えれば持ち場を捨てる訳には行かない。阿呼も千軽も四方八方どこから何が飛んできても応じられるよう脱力して軽く腰を落とし、瞬きもせず謎の物体を見上げた。と、そこでまた首刈が急激に星霊を吸い上げ始める。


「むおっ、なんか来るでぇ。気い付けぇ!」 


 全員に警告を発して、千軽は剛礼号の眉庇まゆびさしに当たる長い鼻を振り上げた。剛礼号の鼻は竹葉蛇を構成する竹筒と同様、星霊を収納する神余用の装具を兼ねている。いざとなれば吸引して溜め込んだ星霊を解放し、それで以って己の身を守るつもりだ。


「千軽ちゃん! 投げてっ」

「はぁ!?」


 緊張で身を固めた千軽に首刈から意味不明な言葉が飛んできた。


「早く投げてってば、そのトンカチ!」

「何がトンカチやっ、このトンチキ! 真木割槌まきさくつちや! だーほ! ほんま罰当てたろかっ」

「いいから、はよ! 鐘に当ててっ、はよはよ!」

「やかましわ。なんや、鐘やて? それ鐘かいな。まったブッ細工な鐘をこさえたもんやなぁ」

「そっちこそやかましわ! はよせーっちゅーねん!」

「こいっつ……」


 ド突き回したろかと思いながらも千軽は催促に応じて神宝、真木割槌をぶん投げた。

 縦回転で山なりに弧を描く真木割槌は的を外すことなく、黄金の鐘の上部曲面を強かに打ち付ける――。瞬間、眩い程に黄金色の光が弾けた。


 ゴオオオォォォォォォォォォォォォォォォォン――。


 総毛立つような大音量に始まり、振動の波が不知火を中心に広がって行く。それは音と言うより衝撃波であり、不知火を囲い込む四領は慌てて神余を放出。紡ぐ流れを維持しながら、盾や五体強化の御業で耐え忍んだ。


「貴女ねぇ! 一体なんの真似――」


 突如として煮え湯を飲まされた夕星が文句を投げつけた途端、今度は大地の亀裂全体が鳴動を始めた。振り仰いだ夕星の目に蔦の這う崖が圧し迫って来る。鐘を合図に、事前の示し合わせに従って、いよいよ夜刀が亀裂を狭め始めたのだ。




 ***




 危ないところだった――。

 鐘を創ることばかりに捉われて、打ち鳴らす為の撞木しゅもくの存在をすっかり忘れていた。焦る余り、つい千軽ちゃんを捲し立ててしまったが、なんだか文句を言われた気がしないでもない。でもまあそのことは脇に置いておこう。なんにせよ鐘は鳴った。ここからが掛け値なしに異世界まほろばの本番だ。

 異世界まほろばは歌心と共にある。私が前世でつちかった、歌の世界に没入する心。それによって織り成す御業。故に歌うことで望ましの風光は色合いを深め、現実味を帯びて行くことになる。そして強く願えばこそ、御業を解いた後もその場に留まる不変の事象として刻まれるのだ。

 勿論、規格外に広い大地の亀裂の隅々までを影響下に置けるという自信はない。けれど、今更それを疑っても何も始らない。今はただ信じることだ。私にならできる。そう背中を押してくれた夜刀ちゃんを信じる。この場に留まり、やってやろうと心を一つにしてくれたみんなを信じる。


「太陽とその輝きに染まる雨。黄色い花。黄金の音――。幸せの色が世界を染めるよ」


 世界は幸福の色に満ちている。復興が幸福のアナグラムならば、この色で大地の傷を塞ぐことにこそ意味がある。

 鐘が鳴り響いた直後、崖を結ぶ蔦花は残響に震え上がり、猫の爪の愛らしい花々はドロリと金に溶け、蔦も葉もそれを追うように黄金の縄へと姿を変えた。その縄を熨斗付のしつけて平らかに伸ばし、放谷が編んだ蜘蛛の巣はざるのように籠目を狭めた。

 夜刀ちゃんは鐘の鳴るに合わせて頭上から止めどなく星霊を下ろし、黄金の帯で引き合わせるイメージで崖を寄せ始めた。遅々とした亀の歩みだけれど、確実に空間は削られて行く。

 なんという光景だろうか。崖の動きは私の想像がさせていることではない。現実に、夜刀ちゃんがやって見せているのだ。私に限らず狭間にある神々の誰もが、己の力では到底及ばぬ神力を目の当たりにして固唾を呑んだに違いない。


「なんとも心強いね! さっすが夜刀ちゃん。伊達に歳は食ってない」

「聞こえているわよ」

「うひぃ!? ごめんなさいっ」

「無駄口叩いてないで、先を進めなさい」

「はいっ」


 叱られた。思ったことを直ぐ口にしてしまう私の悪い癖だ。

 しかし、鳴動する崖を見て得るのは驚きばかりではない。裏返して現れるのは信頼。幾ら夜刀ちゃんでも本当に出来るものかと心に掛かっていた懸念を奇麗さっぱり洗い流してくれた。それは励みとも後押しともなって、私は肺腑を広げ、喉を開き、通す息に魂を注いだ。



 雲白く たなびくところ


 空のはて 東に西に



 鐘の余韻が未だか細く残る中、歌い出しは静かに。

 息継ぎの度に願う心は幻想のきざはしを上って行く。

 黄金は輝きを増し、蔦の根は岩肌深く根付いて、岩棚には菜の花畑。

 花々を巡って白や黄色の蝶々がひらひらと舞う。



 おお高く こだまひびけと


 鐘は鳴る 平和の鐘に


 いまわれら 雄々しく起ちて


 その栄え ここに興さん



 ひと巡りして次の詩行へと移る前に、再び鐘を鳴らす。僅かに残る余韻の波動を増幅して、千軽ちゃんが最初に鳴らした音を蘇らせる。



 波青く たゆとおところ


 海のはて 南に北に


 おお遠く 祈りとどけと


 鐘は鳴る 平和の鐘に


 いまわれら 試練を越えて


 その行手 ここに仰がん




 ***




「お姉ちゃんはやっぱり凄い」


 薄く延べられた黄金の帯は、歌声を吸い込むように厚みを増し、そればかりか輝きをも増して行った。帯と帯の隙間も、三角や四角、菱形や多角形を押し込むように狭められ、このまま行けば大地の亀裂全体に金無垢の千畳敷を繰り広げるだろう。

 阿呼は再びの鐘に身を固めながらも、眼前に煌めく幻景に釘付けだった。


(阿呼様。下から来るようです)


「? 下から?」


 身の内に憑かせた目張命まなばりのみことに応じて、阿呼は全方位を見据える眼百鬼まなきりの下方視野に意識を向けた。


「何も見えません」


(恐らく先の蟷螂とうろうと、更に下から黒き雷が昇って来るものかと)


「えっ、そんなの困ります! 今はみんな動けないのに……。どうしよう?」


 普段は何かと先走る姉の蔭で半歩下がって冷静な阿呼も、身動きの取れない現状に焦りが生じた。自分ばかりではない。今は誰一人として持ち場を動くことはできないのだ。

 姉は歌の世界に入り込んでしまっている。放谷は黄金を編み上げ、それを手掛かりに谷を幅寄せする夜刀。大仕事を受け持つ夜刀に代わって、循環する星霊の維持は夕星、千軽、そして阿呼へと余分目に割り振られている状況だ。


(阿呼様、ここは依り寄せを解きましょう。わたくしが参ります)


「えっ? でも星霊は? それに、目張さんがいないと阿呼は眼百鬼を動かせなくなっちゃう!」


(心配ありませんよ。ここ数日の憑依で阿呼様と眼百鬼の波長は十二分に馴染んでいます。それに円環する星霊を借りれば、同調を解かない限り眼百鬼を繋ぎ止めておくことはできます)


「でも、一人で大丈夫なんですか?」


(わたくしも八大を務めた身ですから心配には及びません。少々星霊を拝借しますけれど、阿呼様はそのまま同調を維持して下さい)


「本当にいいんですか? だって……」


 阿呼はここで離れてしまえば、目張命がもう二度と戻らないであろうことを察していた。一つに溶けあっているが為に、覚悟めいた強い感情は相互に伝わるのだ。そして心残りがあることも。


「ここに居るって、夜刀さんに報せなくていいんですか?」


(阿呼様。わたくしはいつでも、どこにでもいるのですよ。だから、夜っちゃんが会いたいと願いさえすれば、いつだって会えるんです。そう、いつだって会えますとも)


 この惑星ほしにいる――。

 阿呼は目張命に出会ったことで、今生の死が、それまで思っていた単なる死とは違うことを学んだ。

 星霊は全ての情報を、記憶さえも蓄えて積み上げて行く。概念としての魂も、実は実態があって記録されているかもしれない。この楓露に生きたあらゆる個は、誰かの記憶ばかりでなく星そのものの記憶として永遠に残るのだ。


(それでは参ります)


 そう告げて、阿呼の白い髪を一筋黒く染め、そこから流れ出た目張命は白銀の槽内をすり抜けて行った。


「待って!!」


 阿呼の声は虚しく槽内に谺して、それから心はじわじわと、大切なものが抜け落ちた感覚に苛まれた。


「お姉ちゃん!」


 珍しく感情が走って、阿呼は考えなしに風声みさをを投げた。けれども肝心の姉は異世界まほろばの幻想と歌心にかかりっきりで、何ら反応を返して来ない。そこで阿呼は今一人の名を続けて叫んだ。


「夜刀さん!」

「びっくりした。阿呼ね? 何事?」


 こちらはすかさず反応があった。


「下!」

「おん?」

「目張さんがっ」

「目張? 目張まなばりってまなのこと? 白守の先代?」

 

 上ずった感情が言葉をブツ切れにして、伝えたい言葉がスッと出てこない。

 阿呼は一度息を止めて、ぐちゃぐちゃになった頭の中を整理し、それからようやく一連の状況を夜刀に伝えた。


「あの娘ったら来てたの?」


 とぼけた返事をしながら、薄々は夜刀も勘付いていた。印色いにしきで乗り手を白守の筋と定めた眼百鬼に、真神の阿呼が乗っているのだ。ならば依り寄せが行われていることは間違いない。それが去り神である筈の友、まなとは思わなかったが――。


「てゆーか貴女、この状況でそれを言われても私だって困るわ」

「困ってもいいから、なんとかして下さいっ」

「なんとかって……。ああっ、もう分かったわよ。貴女は貴女で集中してなさい。後は私の方でどうとでもするから」

「はいっ、お願いします! ちゃんと会ってあげて下さいっ」


 言うだけ言って途切れる風声通信。夜刀は阿呼の言葉を反芻はんすうしながら、さてどうしたものかと考えを巡らせた。

 何せ夜刀は今、全力で大地の亀裂を狭めている最中だ。それを打っちゃって別の用事をしに行く訳には行かない。さりとて無視もできない。かつての友がいて、それが下へ向かったというなら何事かが起きているのだ。それを放置して障りになったのでは目も当てられないではないか。

 この場に居ながらにしてできること――。夜刀はポケットに手を入れて小袋の中から黒曜石を取り出した。


漆石鏡うるしかがみ


 唱えれば石は円く平たく変化して、磨き上げられた石鏡へと形を変える。夜刀が最も得意とする鏡の御業の一つだ。


逢瀬鏡あわせかがみ


 眼前に浮かぶ石鏡に向けて次を唱える。会いたいと願う者の姿を瞬時に捉える高度な御業で、難度を言うならあなぐりなど比ではない。そして鏡面には懐かしい像が結ばれた。


「まな!」


 夜刀は千以上も昔に別れを済ませた懐かしい友の名を呼んだ。鏡の中で、かつて何色にも染まらぬ白を纏った神が、今は灰黒の気を帯びて飛んでいる。


「その声、夜っちゃん!?」

「夜っちゃんじゃないわよ。何をやっているの! 阿呼に憑依していたんですって? 何故言わないの」

「ごめんね。全部終わってからの方がいいと思ったの」

「相変わらず奥床しい娘ねぇ。で、今は何? 久闊を叙している暇はないようだけれど。これから閉じようという谷を下って一体何がしたいの?」

「意地悪な言い方! 下から邪魔が入ろうとしているのよ」


 やり取りを経て状況を把握した夜刀は、曲襲くまそで撃墜した筈の蟷螂かまきりが、狼姉妹の希望に沿って無事であった事実に辟易した。


「ほら見なさいな。こうやってこっちにお鉢が回って来るんだから!」


 その上、例の黒雷も山ほどのお目見えらしい。ここで派手に星霊を消費しているものだから、それに反応したと見るのが妥当な線だろう。


「まな一人ではとても無理でしょう?」

「いいえ、なんとかやってみる。わたくし頑張るわっ」

「無茶言わないの。待ってなさい、今助っ人を送り込むから」

「夜っちゃん優しい! わたくし嬉しい!」


 夜刀にしてみれば見捨てられる訳がない。初代同士の付き合い以降は皆、友と呼んでも夜刀からすれば娘や孫のようなもの。それがまた慕ってくれるとなれば、その窮地には万難を排して駆け付ける。夜刀にとってそれは極々当たり前のことなのだ。しかし――。


「さすがに今は行けないわね。なら、ここは貴女たちの出番よ」


 首刈が展開する圧倒的な幻想の維持。そこに加えて長大な大地の亀裂全体を閉じる作業を担っているのだ。さすがの夜刀でも顎が上がる。そこで風声みさをを投げた相手は谷の上方、岩棚で待機している二柱の小さ神たちだった。

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