071 黄金の階1
呉と聞けばほとんどの人が港を思い浮かべるだろう。フレーズとしてはかつての軍港の街。もう一歩踏み込むなら戦艦大和の街と言っても過言ではない。しかし、そこに住む人たちにとっては周り一帯を山手に囲まれ、灰ヶ峰を筆頭とする九つの嶺に守られた街であり、正に山と海とに包まれた自然の揺り籠と呼べる場所だった。
私が中学に上がった年の夏。一家は父方の祖父母宅に集い、毎年の恒例行事であるかのように、画面越しのグラウンドを見つめながら終戦の日のサイレンを耳にした。
祖父母の家があるのは海から遠い、山手と入り組んだ街の際。窓を開け放てば二河川の流れが涼しげな音を立てて、川風に煽られた軒の風鈴が一斉に音を奏でた。
「えれーん! おばーちゃんが呼んでるー」
「はーい!」
年の離れた高校生の姉に呼ばれ、私は滞在中宛がわれた二階の部屋を出た。古い造りの急な階段を下りて、廊下の突き当りにある台所に顔を出す。
「もう行く?」
「行くよ。ほら、これ持って」
手渡されたのはお椀とお茶碗。
呉生まれ呉育ちの祖母は、毎年終戦の日になると近所の神社にお供えをしに行く。小さい頃は居間の団欒から祖母だけが居なくなる時間があることなど知りもしなかった。気付いてからは毎年お伴をするようにしていた。
信心深い祖母は私が初めて見た安芸の宮島に感動していると、何くれとなく神社の仕来たりを教えてくれた。私の神社好きは多分に祖母の影響によるものだ。
「愛ちゃんは今年も行かないの?」
台所と居間を繋ぐ間口から顔を出して問えば、年の離れた姉、愛理はお煎餅片手に胡坐という格好で言わずもがなと頷いた。
「私はここで高校野球を見届けるという使命があるからね。高校生だけに」
「あ、そ。じゃあ行ってくるね」
恒例のやり取りを経ていざ出発。姉は自宅では見もしない高校野球を、ここへ来ると実に熱心に観戦した。他にすることがないと言えばそれまでなのだが、それなら一緒に来ればいいのに。
祖父母宅を出ると目の前には二河川。矍鑠とした足取りの祖母を追って川沿いの道を海方面に下って行く。途中、二股に分かれる道を近道はせず、あくまでも川に沿って歩く。吹く風の爽やかさに鼻唄を交えながら、やがて、橋のたもとを右へと折れて川に背を向けた。そこからしばらく行けばお目当ての神社だ。距離にして一キロとない。
出穂金神社はそのお目出度くも煌びやかな名前に反して、板張りの掘っ立て小屋のような小さなお社があるだけ。市内に十からある小宮の一つで、秋になると地元では知らぬ者のないお祭りが行われた。
小宮の祭りだから小祭りと称するものの、これが中々に盛大なもので、やぶと呼ばれる鬼面の装者たちが互いの宮の境界で睨み合う。初めて見た時はとても怖くて、寄って来られて泣いた記憶もあった。秋田は男鹿のナマハゲのようなものだろうか。鬼の姿をしていても決して鬼そのものという訳ではなく、神様をお宮へと迎える先駆け、道案内をする存在なのだと言う。ただ、今見ても怖いなと思うのは、やぶの袖口や胸元から覗くご立派な紋々。どう考えても中身はその筋の人たちなのだ。そんな訳で、辻で睨み合うやぶとやぶ。彼らを見ていると呉という土地柄も手伝って、仁義なき戦いなんてフレーズがどうしてもチラつくのだった。
「ほんじゃあお参りを済ませようかね」
そう促されてお椀とお茶碗とを並べると、祖母は御神酒と生米を捧げて苫屋のようにぞんざいなお社に向かって両手を合わせた。神社のお参りは二礼二拍手一礼。そう教えてくれたにも拘らず、ここでの祖母はただ手を合わせて、小声で感謝の言葉を紡ぐだけ。それが不思議と神妙な儀式に思えて、私も隣に倣い、日々の平穏無事に感謝を述べた。
***
何故、今、そんな昔のことを思い出していたのか。
答えはその時、神前に並べたお茶碗にある。
毎年、出穂金神社にお供えする御神酒と生米は、常に同じお椀とお茶碗に注がれる。いずれも年季の入った物で、取り分けお茶碗の方には目立つ特徴があった。
「ありがとう阿呼。お姉ちゃん、イメージ湧いたよ」
私は阿呼が示したものを見据えたまま、静かにそう告げた。そのイメージとは、割れた瀬戸茶碗を美々しく継ぎ合わせた日本古来の修復技法――金継ぎ。
目の前の崖を走る黄金色の帯を見て、私は呉の祖母に毎年持たされた使い古しのお茶碗を思い出した。
欠けた物を以前にも増して見栄えさせる伝統の技は、罅割れた大地を継ぎ合わせるに、これぞというイメージをもたらしてくれたのだ。
「どうやら目途が立ったようね?」
「まあどうにか。でも、さすがにこの広さを埋め合わせる程のイメージは難しいよ?」
率直な意見を述べると、夜刀ちゃんは「だから私がいるんでしょう」と、竹葉蛇の中から不敵な笑みでも浮かべてそうな声音を発した。
「貴女はただ自由に想い描けばいいの。ここには三柱もの八大が揃っているのよ。心配せずとも現実のものにしてあげるわ」
お茶の子さいさいとでも言いたげな気配にどこか気軽さを感じて、ここは一つ釘を刺しておかねばと、私は不知火を進めて竹葉蛇との間を詰めた。
「夜刀ちゃん。これだけは言っておくけど、夜刀ちゃんと私のご先祖様がしたことは、知らなかったじゃ済まされないことなんだよ?」
齢一桁の私が万古の神に戒め口調で物申せば、当の本人に先んじて不知火と竹葉蛇からシュンとした気配が漏れ漂う。
「ほら、この子たちの方がよっぽど神妙だよ。なのに夜刀ちゃんときたら――」
私は滔々と言ってやった。
遊びに熱中する余り壮大な事故を二度までも引き起こし、あまつさえバツが悪いからと記憶を封印。それが為に事態の推移を見逃して、他人事のように憂いながら、これといった手も打たずに今日まで来た。
その間、中央高地は見る影もなく変わり果て、それだけに留まらず、この地に暮らす者たちは生き方すら変えてしまったのだ。更に言うなら霊塊の化け物と化して退治されて行った命がどれだけあったことか。
「分かっているわよ。だからこうして来たんじゃないの」
「分かってない! 一寸の虫にも五分の魂なんだよっ。例えどんなに短くっても。生まれたら懸命に生きて、それで全うされなきゃダメなの! そういう、在り方って言うか、ありのままを守るのが神様の務めなんじゃないの?」
例え神として生まれ変わった身の上でも、全てを望むがままにすることなどできはしない。それでも手の届く範囲、目の届く範囲くらいはなんとかしたい。それが私の偽らざる気持ち。少なくとも坐辺師友のこの旅で、私はそうした姿勢を学んできたつもりだ。
「貴女の言う通りね。私が悪かったわ。御免なさい。これで許して貰えるかしら?」
先刻までと違う、真ぞ物慎ましい言葉に醒めて、私はやや走り始めた感情の切っ先を丸めて仕舞い込んだ。
無論、私が言う程度のことを夜刀ちゃんが理解してない筈もない。ただ、それを表に出さない風な素振りに、なかんずく不実さを感じたのだ。
「話は済んだんか?」
未だ夕星との間を割る位置にいた千軽ちゃんからお声がかかった。勿論、夕星の機嫌はとっくに直っている。私は「うん」と応じて頭を切り替え、次のステップに進むことにした。
何せこれからやろうとしている試みは未曽有のスケールで行われるものだ。これまでみたいに歌を歌って後は心の赴くまま、という訳には行きそうにない。
「それで? 何をどうするの? 手を繋いで輪になる?」
せっかちな夕星から早く先へ進めろとの催促。そう急かしなさんな。
いやはやさてはて、どうするか。
大地の亀裂は上層部が開けた地溝帯になっていて、星霊が雲に似た層を織り成す辺りまでがV字谷。更に下ると垂直に切り立った崖に挟まれた地割れの様相を呈している。これを金継ぎの要領で塞ぐとなれば、単に狭間を黄金で埋め尽くすような杜撰なイメージでは届かない。何せ地割れと言っても幅が途方もないのだ。
「よし、実際に始める前に大まかなイメージを共有しよう。前以って私が何をどう想起するか分かってれば、みんなも対応しやすいでしょ?」
「確かに、ぶっつけ本番で見せられるよりはいいかもね。それで?」
夕星に促され、早速初手を打ち込む。
「うん。まず、この広い谷の両側をググっと狭める」
「は?」
「なん?」
「お姉ちゃん?」
無言の夜刀ちゃんを除けば一様に予想外の反応が返ってきた。いや、ある意味予想の範疇か。
「え? だって亀裂を閉じるんだからそうなるでしょ?」
さも当然と言い放てば千軽ちゃんは剛礼号の手を面皰の下に添えて悩まし気に首を傾げた。
「いや待ちぃ。幅も然ることながら距離もあるやんか? ゆーて、どっからどこまでを狭める気でおんねん?」
「そりゃ当然、端から端までだよ」
「んーっ、ん、ん、ん! そらちと無理があるんとちゃうか? 端から端ゆーて、どんだけの距離かも分からんやろ」
「そうだね。でもスケールの話は私したもん。無理だって言ったよ? それでも夜刀ちゃんは私ならできるって言うんだもん。だったらできると思わなきゃやってらんないじゃん。でしょ?」
キッパリ言い返したら三人の視線は一斉に夜刀ちゃんへと注がれた。
私悪くないからね。
「何よ? できるわよ」
無言の圧をものともせず、夜刀ちゃんは言い放つ。
「夜刀さんにはできるかもしれないけど、阿呼は自信ないかも……。阿呼の星霊で足りますか?」
「足りないでしょうね」
バッサリ。
ちょっと夜刀ちゃん。そんな言い方したら阿呼が可哀そうでしょ。ほら、眼百鬼の肩が目に見えて下がっちゃったじゃん。
「それどころか夕星と千軽の分を足しても尚足りはしないでしょう」
「ちょっと、それでどうやれって言うの?」
「簡単よ。見なさい」
夕星の問いを軽く流すと、夜刀ちゃんは竹葉蛇の右腕を天に突き上げた。竹を接いだ筒状の指が頭上を指し示す。そこには遠く霞む星霊の雲が垂れ込めていた。つまり、夜刀ちゃんはあの濃密な星霊を有効活用しようと言っているのだ。
私は即刻合点が行った。ついさっき放谷と必死こいて碧雷を取り込んだ私には、それが可能であると分かっていたから。とは言え、頭上に渦巻くあれを丸ごととはさすがの万古神。伊達にお年を召してはいない。やんややんや。
「あれを? ……分かった。じゃあ預かりは夜刀ちゃんね。私や千軽じゃ直でやれるとも限らないから、一旦夜刀ちゃんの方で受けてからこっちに回してよ?」
「織り込み済みよ」
「そーゆーことなら行けんくもないか。ほなそーしよ」
八大神が合意する横合いで、ちょっとまごまごしている阿呼が可愛いな、と思いました。
「平気だよ阿呼。私と阿呼の息はピッタリなんだから、細かいことは夜刀ちゃんたちに任せて、お姉ちゃんのイメージに合わせてくれるだけで大丈夫」
「うん、分かった」
フォローすれば阿呼は気を引き締めた声で返事をしてくれた。
不安なのは私だって同じだ。けど、夜刀ちゃんができると言うのだから、鵜の目鷹の目で心配の種を探し回るより、いっそ火中の栗を拾うくらいの気持ちで臨んだ方が、存外上手く行ったりするものだ。そのくらいのゆとりある気構えで取り組むとしましょう。
私は振り返って絶壁に寄ると、岩肌の抉れた部分に露出している金鉱に不知火の鉤爪を触れさせた。
「不知火、開けてー」
手甲と具足を外しながら頼めば金音を立てて胸甲が開かれる。
水平な足場となった胸甲の上に立ち、伸ばしたままの不知火の右腕に飛び移って、そこから金手篭手を歩いて行く。伸びる三本爪の真ん中を平均台のように渡り、イメージの鍵となる金の手触りをしっかりと感じておく為に。
「移姿」
右手だけを狼のそれに変えて、爪で岩肌をガリガリやる。見る間に露出した金は一分の滑らかさもなく、晶洞のように複雑な面を呈していた。それでも、まちまちに反射する輝きは殊の外美しく感じられる。
「この感触か……」
よく純金は柔らかいなんて言うけど普通に硬いね。そして冷たい。
爪をグッと押し当てみても凹みはしない。そのまま力を込めて引けば、覚悟していた耳障りな音もなく薄っすらと筋のような溝ができた。
なるほどなるほど、と得たり顔で頷きつつ、折角だからとひと欠片。爪で穿ったサイコロ程度の欠片を左手に落とした。
「……。そうだ。放谷の分も取って共犯にしておこう」
独り言ちてもうひと欠片。
「お姉ちゃん、何やってるの? みんな待ってるよ」
ぎくぅ!
振り向けばそこに眼百鬼。明滅する無数の眼紋が、まるで窃盗犯を見つけた警官に思えて落ち着かないったらありゃしない。
「ち、違うよ?」
「? その手に光ってるのは金?」
「こ、これはね! 異世界の想起に必要だから、ちょっとだけね! 別にちょっとくらい貰ってもいいよねとか、そんなこと思ってないからっ」
「お姉ちゃん」
「はい」
「戻ろ?」
「はいっ、ただいま」
そそくさと操縦槽に戻り、大人しくみんなの元へ。金の欠片はちゃっかり袂に入ってたりするけどね。欠片を握りながらイメージすれば、きっと上手く行くんだよ。うん。
戻った私はイメージ構想の続きを語り、一通りの理解を得たところで私を中心に四方を囲む形で配置に着いた。
垂直の崖と崖は一粁以上の距離がある。これをありきたりな川幅程に狭めて、黄金の川床を創り出すのだ。
私の位置は両崖と、総延長の中間位置。これは夜刀ちゃんの索によって碧雷の落ちている範囲を測って割り出したものだ。不知火を中心に、向き合う位置に夜刀ちゃんの竹葉蛇。背後には阿呼の眼百鬼。右手崖側に夕星の段切丸。左手には千軽ちゃんの剛礼号。丸で囲って私に繋げれば、くっきりと円十字が浮き上がる。
「早く始めないと夜が明けちゃうわよー!」
はいはい。相変わらずせっかちなお馬さんだよ。されど時は金なり。後には愛発姫の件も控えていることだし、早速支度に取りかからねば。
「放谷、起きて」
袂から引っ張り出した小蜘蛛を掌に乗せて呼びかける。放谷はもそもそと前肢を蠢かして、瞼もないのに今正に開けたような目をしてみせた。
「んー?」
「おはよう」
「おー、なんだ朝飯かー?」
「それは後のお楽しみに取って置いて、今からもうひと仕事だよ」
「……ねるー」
「寝るなぁ!」
軽く小突いてやろうと指を立てれば、放谷はサッと横っ飛びに身を躱した。
「避けるんかい!」
「まーなー」
ドロン! と人の姿になって寝ぼけまなこをひと擦り。
「狭いんだから蜘蛛のままでいいよ」
「やだー。人の格好で打つ伸びが気持ちいーんだー」
あ、それ分かる。狼と違って蜘蛛が伸びを打つってなさそうだもんね。
ひとしきり伸びをして身体を解した放谷。次の行動は何故か私の腕の間に割り込んで、人を背もたれにして寄りかかるという暴挙。おい、お伴。皇大神だぞ私は。
「なんでよっ、小蜘蛛になってよ」
「やだー」
反抗期か。
放谷は人の頬に後頭部をすりすりして、ゆったりと寛いでいらっしゃる。無造作に束ねた棒束子がチクチクした。
「でー? 何をするってー?」
本気でこのままのつもりらしい。
まあいいか。動き回って大立ち回りする訳でもなし。こうして広く接触面を取っていればその分、同調もしやすい気はする。
「異世界を使うよ」
「おっ、そーきたかー。今度はどんな景色になるか楽しみだなー」
「ほんと放谷ってなんでも楽しめてお得だよね」
「そぉかなぁ?」
そーだよ。悩みなんて更々ないだろうし、仮にあったとしても鼻先に食べ物をチラつかせれば秒で忘れるレベルが精々。間違いないね、断言したっていい。
「それでどーする? あたいは何をすればいいー?」
「うん。放谷には糸を操るイメージでやって貰いたいことがある」
「なら得意だー」
さも機嫌よさそうに私の両腕を肘掛けにして、背中をググイと預けてくる。
こらこら。そんなことをしたら私の慎ましい胸が将来的にも平野になってしまうじゃないかね。
「ねえ、指を通しても絡まないような糸って出せる? ベタベタしないやつ」
「お安い御用さー。ほーら、これでどうだー?」
両の中指に出糸突起を移姿て、万歳した放谷は私の目の前で糸を引いてみせた。手甲から腕を抜いて糸の上に人差し指を走らせると、その滑らかさは絹。丈夫さはテグスのようだ。が――、
「太さが足りない。もっとずっと太くして」
「あいよー」
ぷつりと切れた糸がはらりと落ちて、出糸突起を合わせた放谷は改めて毛糸程の太さの糸を紡いだ。
「いいね! じゃあ私が引っ張るから、いいよって言うまで出し続けてね」
「分かったー」
私は放谷の中指を差し渡す糸の下から左右の人差し指を入れて、富士山を描くように上へ上へと引き上げて行った。
「おけまる。そーしたら糸尻をくっつけて輪っかにしてくれる?」
「なんだか楽しくなってきたなー。これで何するんだー?」
「ふふふん。これからやる異世界の予行演習だよ」
「ほほー、よこーえんしゅーかー」
「分かってないよね?」
「どおかなぁ? 早くやって見せてくれー」
「はいはい。じゃあちょっとくるっと回って向かい合ってくれる?」
「ほいきた。んしょ、っと」
狭い槽内で向き合えば、放谷のキラキラした空色の瞳がくっきり覗けて、持ち前の笑顔がいつもより眩しく感じられる。しかしはたと気が付いた。余りにも歯が汚いと。
「放谷。ちゃんと歯磨いてる?」
「……いやー?」
そう言って口を閉ざした放谷の目はバタフライを始めた。器用な娘だね。
牙を持つ狼と違って蜘蛛には歯がない。多分、そのせいで人間の姿の時にしか使わない歯の大切さを理解できていないのだろう。一緒に並んで歯を磨く時でも確かに放谷は素早い。お風呂で言うならに鴉の行水だ。
「神庭で竹ひごの歯ブラシを買ったでしょ。ちゃんと毎日あれを使いなさい」
「分かったー」
「しっかり磨かないと、その内もう一本歯が抜けるよ。食べたら磨く。磨かないなら食べない。これ今から大嶋廻りのルールにするからね」
「そーかー。世知辛い世の中だなー」
難しい言葉を使ってもダーメ。今後は私と阿呼とで厳しくチェックして行こう。
さて、閑話休題。
互いの狭間に畳んだ腕を立てて四本の腕柱を並べる。放谷の手指に糸の輪を引っかければ準備は完了だ。
「始めるよ。じっとしててね」
「いーぞー。やってくれー」
その言葉を合図に早速開始。もたもたしているとまたぞろ夕星が癇癪を起こすからね。
糸の輪に手を入れた私は、両手の親指と小指とにかけるようにして放谷の手から輪を取った。そして双方の掌に触れている部分の糸に、互い違いに中指を通して、親指、中指、小指にかかった三つの輪繋ぎを作り上げる。
「ほー、糸で形を作る遊びかー?」
「そ。あやとりってゆーの」
「ふーん。で、何つくるー?」
「まあ見てて」
お次は親指の糸を外して輪を二つに減らす。それから減らした輪の下に親指を潜らせて、小指の外側の糸を引っかけたら、再び下を潜りながら戻って、今度は中指の輪へと向かう。
親指は中指にかかる親指側の糸の上から入り、小指側の糸を下から引っかけて戻る。すると綾成す糸は、なんとなくブラジャーに似た形を描き出す。
多少なりとあやとりの心得がある人なら、ここら辺りで私が作ろうとしている形か想像できただろう。
小指を繰り、親指を連続で繰り回す。一見よれよれになった糸を見て、放谷は笑うでもなく、ふんふんと興味深げに見入っていた。多分、ここまで一度の瞬きもしていない。きっと見たことのない糸運びに蜘蛛の本能が惹き付けられているのだろう。
私は最後に出番の遠ざかっていた中指を使って仕掛けを整え、掌が放谷の方に向くようにして親指と中指にかかった糸をピンと張って見せた。
「おー! 上手いこと巣ができたなー」
「巣な訳あるか。は、し、ご!」
「梯子?」
「ほら、こうして縦にすれば梯子に見えるでしょ?」
「そおかなぁ」
ピンと来なかったらしい。蜘蛛だからね。仕方ないね。
ともあれ、梯子に見えるかどうかよりも大事なのはこの形。この形が、これから挑む異世界の根幹を担うことになる。
私は再び梯子を横向きに戻した。
「いい? 上下の真っ直ぐに伸びてる糸を、この大地の亀裂の両側にある崖だと思って」
「ん、分かったー。上のと下のが崖なー」
「そう。で、その間に四つ並んだ菱形が崖を繋ぎ合わせてるでしょ?」
「うん。菱餅だなー。白のと蓬と桜のやつ。あと一個はー、栃餅か?」
「食べ物の話じゃないの。真面目に聞いて」
「おー」
「この菱形になってる綾目を、崖に走ってる金で作る!」
「へー! 金で巣を張るのかー」
「だから巣から離れなってば。いい? 崖と崖を金の糸で、ううん縄だね。金の縄で繋ぎ合わせて、それを引っ張って内に寄せるの」
「んー? なに? 崖を引っ張るー? そりゃ無茶だー」
「無茶でも何でもやるの。それに、そこのところは夜刀ちゃんがやってくれるから気にしなくていい」
「え? 夜刀媛が来てるのかー?」
ああ、ずっと寝こけてたんだもんね。そこからになるか。
私は端折っていた説明を手早く済ませて、理解の追い付かない放谷に無理くり呑み込ませた。質問は受け付けない。私が話したことが全てだ。
「放谷は余計なこと考えなくていいから。とにかく私がイメージする金の縄を作って両側の崖を繋げばOK。分かった?」
「分かったー。考えなくていーなら楽ちんだー」
大丈夫かな。まあ慣れ親しんだ糸の扱いなら、それが縄だろうと大差はない筈。ここは相棒を信じて任せよう。頼んだよ、放谷。しくじったら針千本飲ませるからね。
「ちょっとー! まだなのー?」
「はーい! おっけーおっけー! 直ぐに始めるよーっ」
夕星の我慢時計がいよいよアラームを鳴らし始めたので、それではいざ! 始めるとしましょうか。




