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異世界(まほろば)に響け、オオカミの歌  作者: K33Limited
章の三 赤土編
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068 後夜の狂乱4



 麻の葉模様の鉄格子が座卓を基礎に完成した時、一瞬、空気の振動と言うのか、揺らぐ気配を感じてイビデは熱線暗視サーマルイメージャーの加護を咄嗟に用いた。辺りが明るいので暗所よりも見分けが難しい。それでも何かが夜刀媛とジーノスの狭間を抜けた気がした。


「……しくじったわね」


 通り抜けた気がかりを目探りしていたイビデは、夜刀を見て仰天した。蛇神の右肩口から先がなくなっている。


「夜刀媛様!」


 青褪めながら、イビデは夜刀の左手に触れるよう打刀の柄を差し出した。夜刀がそれを掴んでグイッと引けば、鞘走った白刃から霧が溢れて辺りを覆い、目当て恋しと輝き唸る。

 切り払う動きに合わせて夜刀は内陣に背を向け、外陣を睨んだ。三畳ほど先に転がる女神の右腕を見て、イビデとジーノスが腰を浮かせかける。


「よしなさい。二人ともそれ以上動かないように」


 静かに制して夜刀は相手の動きを推し測った。

 恐らく愛発あらち姫は幽身かすみ姿いろを消し、静寂しじまで音を隠し、香薫幻かくのまやかしで匂いを伏せたのだろう。そして何より猫の俊敏さで鉄垣かなくねの完成前に飛び出し、夜刀の右腕を持って行った。

 愚にも付かない――。夜刀は胸の内で毒づいた。

 つい悪い癖が出てしまった。それは夜刀のような古神ふるかみが一様に持つ癖だ。

 古式に慣れた古神は御業の前に言の葉を置く。それによって想起を深めるという意味合いはあったが、今や流行りは無言か、名付きの御業ならば名ばかりを唱える。想起さえしっかりしていれば言の葉など無用の長物。様式美でしかない古式を習慣から唱えてしまい、それが為に隙を生じて、愛発姫に先手を譲る形になってしまった。


生接いけづき


 唱えれば傷口から伸びた星霊が転がる右腕を捉え、引き寄せては元通りに繋ぎ合わせる。

 夜刀は冷静だった。本殿を覆う忌籬いかきが損なわれていないことを確かめながら、多少は自分に腹を立ててもいた。

 罔象瀬切丸みずはせきりまるの発した薄霧は外陣一帯に広がりつつある。それは使い手たる夜刀の感覚指となって、見えざる相手を探った。

 派手にやっていいのなら幾らでも手はあるのだ。瀬切丸のひと振りで大海嘯だいかいしょうを呼び起こすことすらできる。しかしまさか御神座を吹き飛ばす訳にも行くまい。

 夜刀は外陣の低い天井を睨んだ。霧は天地をせしめ、四方よもかたまで押し包もうとしている。だというのに愛発姫の居所は杳として掴めない。隅の隅にいるならこのまま詰めればいいだけだが――。


「だとしても後手ね」


 そう呟いて夜刀は瞼を伏せた。そして開眼のみぎり、まやかしを見抜く蛇目かかめの御業を重ねて八方見破る藪睨み。寄り目、ひんがら、天地眼と刹那に視線を散らして視界隈なく浚い尽くす。ところがそれでも見当たらない。追っ付け霧が外陣を越えて忌籬の縁まで届いても感覚指は虚しく空を探った。

 消えた訳ではない。忌籬も破られてはいない。ならば愛発姫の居所は神座みくらのある内陣にしか残されていない。

 夜刀は振り向きざま横一閃に罔象瀬切丸を薙ぎ払った。弧形の斬撃は銀の帯を描いて鉄垣を擦り抜け、後から後から霧を充満させて行く。

 斬撃は座卓の上を滑り、そのまま行けば奥の祭壇を破壊するかという直前で、音もなく爆ぜて無数の蛇を撒き散らした。

 その光景を目にしたイビデはたちまち脳裡に己が神の神名をなぞらえた。曰く狭蠅生古縄夜刀媛命――。狭蠅生古縄さばえなすふるなわとは即ち、おびただしい数の蛇を表す言葉だ。その名を体現する蛇の津波が内陣を覆い尽くさんと溢れ返ってのたうった。


「来るわよっ、太刀を!」


 夜刀は瀬切丸を畳に突き立て、ジーノスが捧げ持つ太刀の柄を掴み、一気呵成に引き抜いた。


 ずるり――。


 金音かなおとならぬぬめりを引いて、現れたのは暗紅色あんこうしょくのくすんだ本身。揺らめくまじこ梅紫うめむらさきに匂い立ち、毒気も荒くさわりを発っす。


毒臥ふすこい!」


 抜きざまの一刀を燕返しに切り返せば、夜刀の発した威に応じてみなぎるまじこ八十岐やそまたの蛇と化けて身悶えした。これに対し、寄せる蛇津波は左辺が膨れ上がり、その膨らみを内から押し破るようにして弾けた。

 飛び出したそれは、見えず、匂わず、音も無い。しかしまとわり付く蛇によって俄かに形が浮かび上がった。

 獣だ――。

 総社である霊猫じゃこう神社には麝香猫や白鼻心の他に、毒蛇にも怯まぬ猫鼬マングースも祀られている。

 一直線に夜刀へと向かう無色透明の化怪は、蛇の如くうねり網の如く広がる梅紫うめむらさき色のまじこに突っ込んだ。

 毒々しい刀身を根にして広がる八十岐やそまたの蛇頭が、投網のおもりのように八方に口を広げ、飛び込んで来た標的を袋綴じに絡め取る。

 刹那、強烈な獣臭が夜刀の鼻を襲った。まじこの網は確実に敵を阻んだが、芳香は脳幹を叩き付けるようにして眩暈めまいを生じさせ、力任せに突き進む化怪の見えざる爪が無防備な夜刀の首筋に迫った。

 この時、見えない筈の爪を見ている者が二人いた。蛇目かかめの御業を用いていた夜刀には、余人には見えない相手の全貌を捉えて。故に神宝の太刀を向けて相手を転倒させようと試みた。

 一方、加護の視力で漠然と目当てを付けていたイビデは、己が神の危機と見て咄嗟に夜刀を庇おうと飛び出した。


突智つちころ――」

「夜刀媛様!」


 神宝の力を放とうする夜刀に、横からイビデが覆い被さる。


「ちょっ! 動くなって言ったでしょ! わぷっ、こらぁ!」


 浴びせ倒しの体で倒れ込む神と人とに化怪の爪が迫り、逃げるように倒れ込むイビデの背中を浅く裂きながら突き押す形になった。勢い付いた二人はもんどり打ってジーノスへと雪崩込む。


「いったたたた。こんのおバカさん! 私が見えていないとでも思ったの!?」

「済みませんっ」

「ああもう! 蜿転もごよい!」


 渡人サンドの具材になった夜刀は蛇の動きを写して、するりと狭間を抜け出した。残されたイビデとジーノスは空いた隙間を埋めて抱き合う格好になる。


「そのまま大人しくしてなさいっ」


 言われたままに大人しくしていればいいものを、イビデは反射的にジーノスの胸を突いた。距離が生じて初めて、千載一遇のチャンスをフイにしたと知る。そんな渋面のイビデを他所に、ジーノスは抱き止めようとした腕を畳んで夜刀の動きに注視した。


搔退かきのき


 御業を解除する御業によって愛発姫の姿が誰の眼にも晒される。同時に、夜刀は毒臥ふすこいの網だけを残して、内陣に溢れる蛇や鉄垣かなくねの檻を消し去った。

 八十岐やそまたの蛇を成すまじこ。そこに囚われた愛発姫は、夜刀を目の前にしながら最早身動き一つ取れない。万古の神が神宝を介して練った毒臥ふすこいは、毒の効果と目に見えるオーラで愛発姫の動きを封じ込めていた。


「これまでのようね」


 夜刀は突智転つちころばしをジーノスの持つ鞘に戻し、畳に突き立てた罔象瀬切丸みずはせきりまるをイビデに回収させた。


「まったく、貴女は余計な真似をして。その上役得でご満悦だわね?」

「いえ、決してそんなことは……」

「あらそうなの? しっぽりと抱き合っていたのではなくて?」

「直ぐに離れましたからっ。てゆーか言わなくていいじゃないですかっ」

「ふぅん。ま、別にいいけど」


 取り繕うイビデに鼻を鳴らして、夜刀は二人を数歩下がらせた。そして愛発姫との距離を鼻先まで詰める。


「久方振りのはたり事とは言え、しりぞけるにこうまで骨折らされようとは。貴女も中々やるわね」


 愛発姫は毒臥の毒に痺れを得て、まじこの網に半ば身を預けながら浅く息を乱していた。落ち窪んだ眼はギラギラと。こめかみから頬にかけては黒い筋が浮かび、その有様は気狂いの病を得たかのようだ。


「や、と媛、さま……?」


 初顔合わせではあるが、夜刀の蛇目を見てそれと気付かぬ神はいない。正気の片鱗を耳にして夜刀は眉を曇らせた。

 愛発姫の内外を絡める毒臥ふすこいは何も毒で冒すばかりが能ではない。星霊の練り加減一つで毒を以て毒を制す類の効果も得る。

 夜刀は湧魂わくたまの御業を重ねて、出来得る限り愛発姫の星霊を整えた。すると明らかなさわりが見て取れた。整えようのない星霊のザラ付きを感じるのだ。


「信じ難いことではあるけれど、その様を見るに原因は霊塊たまぐさりのようね。これほどの有様になるまで兆しはなかったと?」

「分かりません。大地の、亀裂を……引き、上げてから、心なしか胸が苦しく……。けれど思い過ごしと……。些細なことと……」

「大地の亀裂……ね」


 口籠るように復唱して、夜刀はまざまざ苦虫を噛み潰した。大地の亀裂を作ったのは夜刀と火群ほむらだ。それが為に赤土の乱れた現状があることは既に記憶の回復と、星詠ほしよみによる調べで理解した。眼前の変異も額面通りに受け止めれば、遠因は自分だと言われたことになる。

 首刈辺りはこれを知ったら、鬼の首でも取った気になって元凶だと突き付けてくるに違いない。それを霊塊を生じるような危険に、軽々に乗り込んだ首刈の勇み足と切り返すこともはばかられる。何事も自助努力で切り開きなさいと口を酸っぱくして背中を押したのは誰あろう夜刀自身だ。過去の失態は今や、転宮の悪しき伝承に繋がりかねない事態となった。いや、それすらも些末事だろう。そんな先の話より、今できることは何かを探り当てるのが急務だ。


「重ねて問うけれど、昨日今日のことで間違いはないのね?」

「はい……。他に、心当たりは、御座いません」


 夜刀の知る限り、神とて霊塊を生ずれば変わり果て朽ちなむといった例はある。


「少し調べさせて貰うわ」


 夜刀としては霊塊の化け物と化した神を前に思い浮かべるものは一つ。神手還かなてかえしによる霊塊の浄化と星霊の解放でしかなかった。しかし、それを今この場でという訳には行かない。それは取りも直さず愛発姫の孫たちと交わした約束を違えることになり、また首刈に対しても、不在の折の勝手は不義理を働くに等しかった。首刈の性分なら本気で怒るだろうし、宥める術も思いつかない。

 夜刀は息苦しく喘ぐ愛発姫の胸に手を当てた。そして審神さにの御業を紡ぐ。

 審神は星霊の波長を読むことで様々な情報を読み取る御業だ。物が有する波長からは持ち主や作り手を知れる。生命が有する波長ならば心身の状態や星霊の老若、混じり気があれば誰と同調していたかすら分かる。その精細さを突き詰めれば霊塊の有無や大小を探り出すことも可能だ。

 夜刀は精神を研ぎ澄ませ、乱れる波長の中に意識を潜り込ませた。昨日今日の話であれば極々小さな霊塊と予想が付く。それが神をここまで乱れ狂わせたなら、余程の急所に生じたであろうことに疑いの余地もなかった。


「……これね」


 果たしてそれは心の臓と、そこに寄り添う星霊核の狭間に生じていた。

 位置と大きさを掴んだ夜刀は毒臥を練って愛発姫を麻酔の眠りへと誘い、畳の上へ静かに横たえた。


「貴方たち、ちょっと」


 夜刀はイビデとジーノスを招き寄せて声を潜めた。


「愛発姫はいずれ土に還すことになるわ」

「えっ!?」

「それは、しかし……」


 二人の驚きを余所に夜刀は淡々と語った。


「致し方の無いことよ。霊塊は確かに初期のもので小さい。けれど、余りに位置が悪いの」

「いえ、ですが――」

「勿論、今直ぐにではないわよ。幼な神たちとの別れもさせてやらなければならないし、首刈の帰りも待った上でのことになるでしょう」

「いえ、夜刀媛様――」

「とにかく、そういうことだから、貴方たちも覚悟はしておいて頂戴」

「夜刀媛様!」

「なんなの貴女は? さっきから」


 何度も遮ろうとするイビデに夜刀はようやく目を合わせた。覆しようもない事実をほじくり返すなとでも言いたげな眼差しでだ。けれどもその眼光に負けていられない理由がイビデにはあった。


「夜刀媛様。霊塊が原因ということでしたら、まだ可能性はあります」

「可能性? それはどういう」

「とりあえず首刈様たちが戻るのを待って、首刈様に治して頂きましょう」

「なお……、なんですって? 首刈が、え? 何?」


 訝る以前に意図が掴めず、夜刀は金色の蛇目かかめを何度もしばたいた。

 その様子を見たジーノスはイビデをたしなめ、事の次第を懇切丁寧に説き明かす。即ち、首刈の介在によって霊塊の化け物が元の兜虫に戻ったというくだりだ。無論、断定はしない。しないが、居並ぶ神々が打ち揃ってそうであろうとの意を示した事実は強調した。


「まさか、そんなことが?」

「重ねて申しますが断言は致しません。しかしながら、その可能性について、神々の見解の一致があったことは紛れもない事実です」


 夜刀は混乱した。若手とはいえ、八大神である夕星や千軽までもが首刈に起因する霊塊の治癒を肯定したと言う。

 夜刀は思考を一時停止して沈着を呼び戻そうと務めた。それでも油断をすれば次々と「まさか」が浮かび上がり、それを無理やり腹の底に押し込め、息を整える。首刈のこれまでを振り返れば、暗闇の鉄砲をここぞと当てる芸当をするやもしれない。そう思う反面、霊塊の化け物は土に還す他ないとする従来古来の考えとの板挟みになって、ろくすっぽ考えがまとまらなかった。


「と、ともかく落ち着きなさい。落ち着いて考えるのが先よ」

「夜刀媛様が落ち着いて下さい」

「貴女うるさいわね! 私は落ち着いているわよっ」

「失礼しました」


 宥めるイビデをキッと睨んで、プイッとそっぽを向く夜刀。


「だったらあれよ。首刈を呼び戻すのか先決だわ。そうでしょう? どこへ行ったって? ああ、大地の亀裂よね。私が行って、いやいや違うわね。先ずは風声みさをよ。直ぐに風声で呼び戻しましょう」


 自らに言い聞かせながら、夜刀は早速に風声を紡いで首刈に声を飛ばした。


「あ、首刈? ちょっと貴女――」

「むーりー! むりむりむり!! 誰だか知らないけど後にしてっ!」


 耳をつんざく叫びにクラクラしながら、なんとか踏ん張って夜刀は耐えた。それにしても誰だか知らないとは随分な御挨拶だ。


「何よ今の!? 聞いた!?」

「はい。さすがに漏れ聞こえましたけど……」

「余程の事態でしょうか」


 あんぐりと口を開けた夜刀からは品位も何も剥がれ落ちて、まるっきり豆鉄砲を喰らった鳩のような顔になっていた。それがみるみるムスッとした面持ちに変わり、ご機嫌斜めの少女さながら。


「行くわ。貴方たちはここで待ってらっしゃい!」

「お待ち下さい夜刀媛様。行くと仰っても首刈様たちは大地の亀裂へ兜鎧傀儡で向かわれました。夜刀媛様はまさか、そのままで?」

「兜鎧傀儡? ああそうだったわね。物招ものおぎ!」


 言うが早いか御業に応じて、本殿を囲う庭先にドドンと竹編みの巨人が現れる。夜刀の手になる兜鎧傀儡――竹葉蛇ささへみだ。

 夜刀は畳の上を滑って縁側で跳ねると、開かれた竹葉蛇の胸を目掛けて実に四千年振りに機乗した。


「直ぐに戻るわ! それまで諸事万端、任せたわよっ」


 言い捨てたかと思えば神渡みわたりの御業で瞬時に消失。残された方は何が何やら、それこそ始末に負えない。

 畳を見れば眠らされた愛発姫。その顛末を従神や霊猫衆に説明しなくてはならない。当然、幼い姫神や伏せる母神にも話をする必要があるだろう。その一切合切を大嶋では外様と目される渡人にやれと言う。


「イビデ。凄いな、お前の神様は」

「今からでも狼トーテムに鞍替えしようかと本気で思うんだけど」

「それもどうかとは思うが……」


 嵐が去って二人の肩に重く圧しかかる諸事万端。先ずは愛発姫にきちんとした床に就いて貰うべく、二人は外陣を離れ、霊猫衆を呼びに行った。




 ***




 逆さに落ちる不知火の中にあっても、球形の槽は回転して上下を維持している。しかし狭い。放谷はそこで何とか身を捩り、首刈の腕の間に体を捻じ込んで薄い胸に背中を預け、手甲の上から両手を添えた。


「ふんぎぎぎーっ!!」


 顔を赤くして小鼻と頬を目一杯膨らませる放谷。制御できていない首刈の星霊に同調して、どうにか落ち着かせようと試みる。しかし、肝心の首刈は犬万の影響で有卦に入ってしまい、合わせる気など更々ないのだから、皇大神と小さ神の星霊力の差も相まって試みは難航した。

 だったらほんのちょっとでいい――。

 放谷は首刈から不知火に流れ込む星霊だけに狙いを絞った。ありったけの力を吐き出して麻の乱れるが如き星霊を、お得意の糸繰りを想起しながら縒り合わせては織り上げる。縮れを伸ばし撚れた部分を整えて、それを繰り返す内にどうにかこうにか僅かの機を捉えた。


風衣かざごろも!!」


 今を逃せば元の木阿弥。放谷は同調が成った一瞬を逃さず、一所懸命に御業を紡いだ。不知火の周囲に風の膜を展開してすっぽりと覆い込む。すると一帯の臭気は遮断され、続けざま、内に残る異臭を換気して外に追いやる。


「どうだー!? 臭いは消えただろー!」

「ふひっ、えへへ?」

「頼むよ首刈ー! 合わせてくんないともう持たないよー」




 ***




 ふぁー! こんなにいい気分なのに放谷はさっきから何を騒いでいるんだろう?

 脳内お花畑でルンルン気分の私は、多幸感溢れる世界に混ざり込んだ雑音に眉を曇らせた。そうして意識が放谷の方に流れたのを機に、鼻腔を満たしていた幸福が冷たい空気に掻き混ぜられる。それを吐き出すと、脳にかかった花霞も一緒くたに流れ出して、お花畑が奇麗さっぱり消えてしまったではないか。


「ふへ? なんで消えちゃ……うわっ! どうなった!?」


 清浄な空気に脳を冷やされ、瞬く間に正気が御帰宅。そこからまざまざ記憶が蘇るのだけど、ラリッてる最中の抜け落ち部分が邪魔をして、現状との辻褄合わせがしっくり来ない。


「いーから合わせろー! このまま底まで落ちたらどーにもなんないぞー」

「落ちてんの!? そりゃ落ちてるか! どうする? どうすればいい?」

「さっさと不知火を動かせってー!」

「はいっ」


 今に始まった話じゃないけど、ものの見事に主従は逆転。そんな状況もうっちゃって、私はとにかく制御に取りかかった。


「不知火! 大丈夫?」


 問えば「さかさまー」と端的な思念が返って来る。おけ、はあく。

 私は手に足にと力を込めて星霊を巡らせ、姿勢制御と静止とに全力を注いだ。自分の重心と不知火の重心をイメージの中でピタリと重ねる。そこを軸にして鉄棒の逆上がりの要領でぐるんと回転。操縦槽は上下を保つ為に逆回転を始め、槽内に金物を擦る音が尾を引いた。


「これで逆様じゃなくなったよ。あとはブレーキ」


 下肢に星霊を回して両足を踏ん張りつつ、あたかも足場があるかのように仁王立ち。その姿勢から飛鳥の翼を打って降下を止めにかかる。


「これでおっけー!」

「なんとかなったなー。あー、参ったー」


 腕の中でぐったりとする放谷。狭っ苦しいけど文句を言えた立場ではない。宙に直立した不知火は落下を逃れ、どうにか事態は収まった。


「首刈様!」

「うわっ!?」


 深呼吸で落ち着こうとした矢先、目の前に梟の眼紋が明滅。現れたのは眼百鬼まなきりだ。思わず息が詰まって盛大に咳き込んだ。


「大事ないですか?」

「げほっ、げぇほっ! だ、大丈夫です。その話し方って、目張まなばりさんですか?」


 声は阿呼のままに大人びた言い回し。依り寄せの御業で阿呼に憑依した白守の先代、目張命まなばりのみことに違いない。


「阿呼も私みたいになっちゃいました? その、なんとゆーか御機嫌この上ない感じというか……」

「はい。それでわたくしが入れ替わりに眼百鬼を制御しました。ところで首刈様」

「はい?」

「不知火を覆う風の内に入れて頂けますか。そう長く代わってもいられないものですから」

「あ、はいはい! 放谷、お願い」

「おー」


 楓露なにがしの介在によって再臨した目張命は、星霊と相容れない楓露の本質エッセンスを内包するが故に、生前のように星霊を扱うことが難しい。自らの手で創り出した眼百鬼まなきりと言えども、星霊で動くものである以上、制御するのに骨が折れるのだろう。

 放谷は私の星霊を大いにむしって、不知火の周りに展開する風の御業を押し広げ、眼百鬼を迎え入れた。

 闇の中。目に見えない障壁に包まれて浮かぶ二領の兜鎧傀儡。風巻く音だけがひょうひょうと鳴り続ければ、なんとも心細くなってくる。


「お姉ちゃん?」

「あ、阿呼。気が付いた?」

「うん。とってもいい匂いがして、なんだが気持ちがふわふわってなっちゃった」

「分かる~。でも目張さんがいてくれてよかったよ。そうじゃなきゃ阿呼も真っ逆様になって落ちてたもん」

「うん。ちゃんとお礼言っておいた」

「あ、私もお礼言っとかなきゃ。ありがとね、放谷。……放谷?」

「どうしたの?」

「寝ちゃった」


 困ったことに人の姿のまま、放谷は私の腕の中ですやすやと寝息を立て始めた。お疲れ様。ありがとね。

 さてどうしよう。眼百鬼の明滅する眼紋で手近の闇は薄っすらと見通せる。けれど亀裂の中程にいる為か、どう見回しても崖の壁面が見当たらない。一先ず夕星たちに連絡しようと風声みさをを紡げば、途端に落ちてきたのは雷様。


「今どこ!? 何やってんのよ貴女は!?」

「うひぃ、怒鳴らないでよ。耳が痛い」


 二重の意味でケモ耳が痛いです。


「それで無事なの? 一体全体、何が起こったのよ?」

「いや、それが。私も阿呼も蚯蚓みみずの臭いには弱くってさ。それで意識が飛んじゃったってゆーか……」

「はあ? 何よそれ。とにかく無事なのね? 妹ちゃんも一緒ってこと?」

「うん」

「なら早く上がって来なさいよ」

「そうしたいのは山々なんだけど」

「まだ何か?」

「いや、放谷が臭いを締め出すのに風の御業で包んでくれてて、この中で羽搏いても意味ないよね?」

「貴女ねぇ! それこそ固定観念でしょ! 霊猫の御神座で長々と講釈垂れてた癖に今更何言ってんの!」


 そうでした。御業なら飛べと念じて飛べないことはない筈だ。しかしそれ以外にも問題はある。私自身は放谷の御業を引き継ぐ形で維持しているのだ。知らない御業だから、放谷が同調させた波長を維持することでかろうじて繋いでいる状態。そんなんで上手く飛べるのだろうか――。


「お姉ちゃん」

「ん?」

「飛ぶのは阿呼がするから、お姉ちゃんはしっかりつかまってて」

「おおっ、頼める?」

「もちろん!」


 自信に満ちた阿呼の声。きっと月神として依り寄せを成功させた事実が自信になっているのだろう。私はただただ信頼を寄せて、不知火の腕を眼百鬼の胴へと回した。傍から見れば二領の傀儡がひっ付くおかしな構図も、通い合う星霊を通じて肌心地をしっかりと感じることができた。




 ***




「最悪ね」

「うん。あかんかったなぁ」


 夕星が吐き捨てれば千軽も相槌を打つようにぼやいた。

 首刈を追って亀裂の深みに臨んだ夕星は、先行していた千軽と斑良まだら姫に追い付くと、斑良姫を岩棚まで戻らせた。

 斑良姫は戻った先で、折よく現れた当頭つつめき姫、目賢めがしこ姫らと合流。状況を知った夕星は直ちに指示を発した。

 先ず、落ちた首刈と阿呼に関しては夕星と千軽とでこれを見つけて連れ帰る。

、霊塊を発した小さ神たちは、当頭姫が磐貫いわぬきで開けた穴を伝って地上へ帰還。そこで馳哮はせたけ姫と合流し、霊猫神社へ戻って愛発あらち姫の状態の確認させる。


「まあ、たぎち審神さにもそうやし治癒の御業にも長けてるからな。馳哮や愛発の様子見は任せといて安心や。しかし戻してまってえーんか?」

「首刈には心配ないって言ったけど、霊塊は不安材料よ。私たちはまだしも、小さ神は用心させるに越したことはないでしょ」


 絹糸を引いたような柳眉をまなじりと同じ角度に吊り上げて、夕星は己の不甲斐なさに腹を立てた。

 二柱の八大神がいながらにして、霊塊たまぐさりを発する危険を回避はおろか、察することすらしなかった。その上、更に首刈と分断されているという現状。

 無論、首刈に説いた内容に嘘偽りはない。初期のものであれば霊塊といえども癒えはする。しかし神が霊塊を発したという事実が既にして歓迎せざる事態だということに変わりはない。夕星にしろ千軽にしろ皇大神を補する立場にあるのだから、これを大失態と言わずしてなんと言おうか。


「目賢姫、当頭姫、聞こえる?」

「あい」

「しびびっ」

「貴女たちは岩棚に留まって待機してて。首刈や妹ちゃんの状況次第では手を貸して貰うかもしれないから、そのつもりで」

「あい」

「承知しましびっ」


 初めて大地の亀裂に降りた当頭姫と目賢姫は、星霊雲を避けて地中を来た為、霊塊発症の心配はほぼない。

 二人は夕星の指示に応じて岩棚に降りると、地竜がぶち撒けた血反吐を清水すがみずで洗い清め、漂う異臭を打ち消した。次いで簡易神域を形成する神余千畳かなまりせんじょうの御業を展開し、降下組の帰還に備える。

 その報告を受けて、夕星は段切丸つだきりまるを、千軽は剛礼号ごうらいごうを駆り、眼下の闇へと速度を増して潜って行った。


「とにかく、首刈を連れ出して、私たちも早々に戻るわよ」

「せやな。にしてもなんや意外やなぁ」

「は? 何が言いたいのよ?」


 僅かに先を行く夕星に向けて、千軽はどこかしら見透かすような言葉を投げた。その含みを受けて即座に切り返す辺り、実に夕星らしい。


「別に悪い意味とちゃうで? ただ、首刈に対する思い入れっちゅーの? 結構あるんやなぁ思て、そのことが意外やねん」


 千軽の主観では首刈と夕星は並び立つ凸凹だ。時にはお誂え向きにピタリと嵌ることもある。だが基本的には食い違ったり、反りが合わなかったりの間柄。それが霊塊たまぐさりの一件では気遣いに溢れた態度で首刈を傷付けまいとし、一方で奈落に落ちた首刈と繋ぎが付けば心配が高じて怒鳴り付けるなど、らしいようでその実らしからぬところが感じられる。

 しかし夕星は言う。


「バッカ、お門違いよ。思い入れでも肩入れでもないじゃない。立場よ立場! ここで首刈に何かあってみなさいよ。いくらあの娘が勢いだけの考えなしだからって、不始末の咎は私と貴女に降りかかって来るんでしょ? 八大の一翼を担う神として、そんな恥を被るのは御免だって話よ」


 それは混ぜっ返す風でもなく本心からの言葉に聞こえた。つまり、自覚がないのだ。千軽は面白い変化だなと思った。

 千軽にとって夕星は、跳ねっ返りで七面倒臭い先輩という位置付けだ。夕星も千軽のそうした態度を感じ取っているのだろう。過去に幾度となくぶつかったが、千軽が躱す素振りを見せれば夕星もフイッとそっぽを向く感じで済んでいた。


「まぁ、首刈は躱さへんからなぁ」

「貴女ねぇ、何をブツくさ言ってんのよっ」

「独り言ですやん」


 千軽は笑いを噛み殺した。そして降って湧いた考えを纏めてみる。

 一本気と言えば聞こえはいいが、詰まるところが直情型の夕星。これに対して一拍の思考を挟みはするものの、首刈も大概直情的だ。それは歌を聴けばはっきりと分かる。ああまで気持ちを乗せて歌い上げる首刈は、良かれ悪しかれ心の赴くままに生きているのだ。少なくとも千軽はそう感じていた。

 真っ直ぐにしか走れない馬と真っ直ぐにしか歌えない狼。それはそれで実のところ、この上なく相性に優れた組み合わせなのかもしれなかった。




 ***




 はい、こちら首刈です。

 さてさて私はというと、不知火を眼百鬼まなきりの腰に抱き付かせた状態で、放谷が紡いだ風衣かざごろもの維持に務めております。放谷の苦労実って地竜の血臭は跡形もなくなった。お陰様で平常心。間もなく夕星たちと合流できる筈だ。

 そこで冷静に考えてみる。

 私たちは徐行速度で岩棚まで降下して、地竜とのひと悶着があった地点が予測二五〇〇米深度。そこから意識が飛んで自由落下したとなれば降下速度は徐行の比ではない。仮に興奮状態が一、二分持続していたとして、確か自由落下は重さ関係なしに毎秒約一〇米を加算して行くんだから、一分なら一八三〇〇米。二分ともなれば七二六〇〇米という驚異的な数字に……。


「それでも底に着かないのか……」


 いや、着底しなかったからこその無事と考えればそれこそ不幸中の幸いだ。けれど、それにしたって矢鱈滅多ら底が深い。私の乏しい知識からすれば地表から地殻までの距離は大陸部であれば五〇粁前後だったと記憶している。中央高地という隆起地形を加味しても大それた違いがあるとは思えなかった。まぁ地球での話だけど……。


「お姉ちゃん、今の見た?」

「え? ごめん、考え事してた。何かあった?」

「うん。上から降ってくる星霊の稲光が何かにぶつかったみたいに弾けたの」


 不知火の兜を巡らせば、遠近おちこちに光る星霊の稲妻。大本の星霊層は遠く離れて見えず、暗天から突如降って来るようで、不意の直撃でも喰らいはしないかと不安が過った。


「これと言っておかしな様子はないみたいだけど?」

「弾けたのは下の方よ」

「下か」


 不知火は眼百鬼まなきりの腰にしがみ付いているので、下を見るとなると些か手間だ。それでもどうにか肩甲越しに下方を覗く。そこには漆黒の闇に吸い込まれるように稲妻が奔るたび、赤墨あかすみを溶いたような黒紅くろべにの渦が巻いて――。


「あ、ほんとだ。弾けたね」

「でしょ? なんだろう?」

「なんだろうね」


 ドンッ――。


「うわっ!?」

「きゃあ!」


 抱き合う二領を突き上げた衝撃が、臀部から頭頂へと抜け去った。咄嗟に目で捉えたのは風衣かざごろもに纏わりついて煙のように解けていく質量のある闇。

 まずい――。

 そう思った次の瞬間、集中が途切れて風衣の幕壁が消失。私は慌てて全身を強張らせると、蚯蚓みみずの臭気に身構えた。


「……臭わない、ね?」

「うん。臭いはもうしないみたい」

「よかったぁ……。にしても今のはなんだろ?」

「分かんない。けど、下からぶつかって来たのは間違いないの」


 その時、間近を掠めた稲妻が下から上へと走る闇にぶつかり、くらくらするほどの眩さを放って盛大に弾けた。

 無音の雷光と闇とが爆ぜればその衝撃は凄まじく、余波の煽りで兜鎧傀儡は傾き、不知火の手は眼百鬼の腰から離れてしまった。

 震駭しんがいして宙を掻けば立ちどころに手応えが返って、阿呼が差し伸べた眼百鬼の手に不知火の手がしっかりと握られている。


「ありがとう!」

「うん。大丈夫?」

「大丈夫。でも、今のって……」


 風衣の維持がなくなったのだから飛鳥の御業で飛べばいい。私は星霊の翼を広げて眼百鬼の隣に不知火を寄せた。そして状況を見渡す。

 そこには星霊の稲妻と質量のある闇とが対消滅した残滓が漂っていた。星霊の粒子と闇の粒子とが弾き合うように乱れ動いたかと思えば、それらは次第に薄れて消えてしまう。


「さっきのドンッてやつもきっと、下からの闇が稲光とぶつかったんだね」

「うん。今の弾け方だと、星霊の稲妻とおんなじくらいの勢いで昇って来たみたい」


 その通り。上下方向に行方を違えて交差するのは星霊の碧雷と深淵の黒雷。そうと知ってぐるりを見渡せば、目にも鮮やかな碧雷は闇の淵に呑まれて消えるのではなく、どこかしらで次々と爆ぜている。遠間には線香花火のよう。近ければ今し方のまばゆい対消滅。


「これって、ひょっとして星霊と楓露のせめぎ合い? そうじゃない?」

「待って、目張さんに聞いてみる」


 阿呼は自らに憑依させている目張命まなばりのみことに問い合わせた。すると、私の推測は的を得ていたようで、今、私たちのいるこの場所が、星霊の侵食と、それを阻まんとする楓露の抵抗とがぶつかり合う空間で間違いないと言う。


「じゃあ当初の見立て通り、この真下が地殻のひびなんだ!」

「目当ての場所が見つかったね。お姉ちゃん」

「いぇーい!」

「いぇーい!」


 諸手を上げてハイタッチ。兜鎧傀儡の手が合わさって金属音が響いた。しかしそうなると事情も変わってくる。一旦、ウキウキを仕舞い込んで考えてみよう。


「ねぇ阿呼。真下にお目当てがあるんなら、このまま戻るって言う手はないよね?」

「下に行ってみるってこと?」

「うん。勿論、行って何かしようって訳じゃないよ? ただ、様子だけでも確かめておけば、次に来た時のひと手間が省けるでしょ?」

「それなら夕星さんたちに相談ね」

「おけ、そうしよう」


 さすが我が妹。話が早くて助かります。夕星も千軽ちゃんも、事情を知れば首を横には振るまい。

 私は水平方向に移動して、手頃な岩棚でもないものかと探し始めた。やがて眼百鬼の明滅する眼紋に照らされて、崖の壁面が浮かび上がって来た。ブロック崩しを途中で投げ出したような造形の中に丁度、横長のエントランスのような空間が切り出されている。滑り込めば兜鎧傀儡が身も屈めずに収まる広さ。崖側を除けば天地背面と三方を岩壁に覆われていて、その安心感からようやく人心地をつけた気がした。

 さあ、風声通信だ。


「夕星、聞こえる?」

「何よ? 早く上がって来なさいよ。貴女一体どこにいるのよ?」

「うん。今ちょっと庇付きの岩棚で休憩中」

「まーたそーやって悠長なことを……。ひょっとして動けなくなったりしでもした?」

「違う違う。あのね。目張さんに聞いてみたら、どうもこの真下が目的の罅割れみたいなんだよね。それで、戻る前に確認だけでもしておこうかなって思って」

「はあ? 戻らないつもりなの?」

「いや、戻るけど。その前にちょっと」

「貴女ねぇ……。はぁ、まあいいわ。直ぐに行くから、じっとして待ってなさいよ。勝手に動いたら怒るからねっ」

「はーい。いい子にして待ってるよー」


 これでよし。後は夕星たちと合流して、降下先で罅割れを確認。それが済んだら晴れて帰還だ。戻ったら改めて対策を練って、次こそは目的を果たす。段取りとしてはそんなところだろう。手前勝手に得心しつつ、私は輪違わちがいから懐中時計を取り出した。


「そろそろ縄七ツ、四時になるね。夜明け頃には霊猫神社に戻れそうかな」

「気を付けてね、お姉ちゃん。下はどうなってるか分からないから」

「うん。蚯蚓だけは要注意だね」

「だね」


 散々な目を思い出して姉妹で苦笑い。するとフッと辺りが暗くなった。


「あれ?」

「なんだろう?」


 元より星霊の層を潜り抜けてからは月も星もなく闇が支配する大地の亀裂。しかし、そこには最前から降り注ぐ碧雷によって、無視界の常闇という訳でもなかった。それが突如として真っ暗闇に閉ざされてしまった。


「塞がれた? じゃなきゃこうも暗くはならないよね?」

「でも何に?」

「分かんない。阿呼、眼百鬼まなきりのその光、もっと強くできる?」

「やってみる」


 阿呼が集中すると、眼百鬼の体表に浮いて明滅する梟の眼紋が、俄かに強い光明を放った。その輝きは鏡面のように磨き上げられた眼百鬼の全身に反射されて、辺り一帯へと光を届ける。


「うわっ、きもっ!」

「お姉ちゃん、これ虫?」


 岩棚前方に開けたパノラマを塞いでいたのは巨大な虫の腹と思しきもの。呼吸を思わす膨張と収縮は甲虫のものではなく、バッタなどの類のそれだ。長い腹部を視線でなぞって行けば、窄まった胸はこれまた長く伸びて、岩棚との間に僅かな隙間を残していた。そして折り畳まれた前肢から跳ね返ってくる反射光。


「どっ、どどど!」

「どどど? どうしたのお姉ちゃん?」

「どくっ、毒蟷螂どくかまきり!!」

「どくぅ!?」


 正式な名前なんて知らない。実際に毒があるかも分からない。ただ、子供の頃、公園や神社で見かけた茶色い蟷螂かまきりを私はそう呼んでいたし、友達もみんなそう呼んでた。鎌状の前肢には内側に毒々しい紫黒と黄色の斑紋があって、その部分がエナメル質とでも言うのか、光を当てるとキラキラと照り返してくるのだ。

 闇に紛れて岩棚近くで擬態していたのだろうか。地竜などの走暗性の生き物ばかりを警戒していたいたら、盲点を突かれた格好になった。


「お尻の側に逃げてっ」


 折り畳まれた鋭い鎌が伸びる前にと、その刃圏から逃れるべく岩棚の隅へ阿呼を誘導した。私は不知火の金手篭手かなてこてから伸びる鋭い三本爪を構えて、どう出るべきか思考を速めた。

 向こうが動いたらお腹目がけてこっちも動く――。

 手っ取り早く意を決して、瞬発力のあるはためきをいつでも発動できるよう身構える。と、次の瞬間――。


 バッツン――。


 丁度、毒蟷螂の胸部と腹部の境目辺りが盛大にひしゃげて、そのまま真っ二つに泣き別れ。岩棚を塞いでいた巨躯はバラバラに剥がれ落ちて見えなくなった。そこへ滑り込むように入って来たのは段切丸つだきりまる剛礼号ごうらいごうだ。


「夕星! 千軽ちゃん!」

「貴女ねぇ、何が下の様子を見るよ! 早速危ない目に合ってるじゃないのっ」

「うっ、それは……」


 毎度毎度お説教から始まる訳ですが。まぁ心配が高じてのことだから不満は漏らすまい。私は霊猫神社の神門へ向かう道すがら、「守ってあげる」と言ってくれた夕星の言葉を信じていた。だって夕星はとんがってる分、絶対に口にした言葉を曲げない。そんな風に私は勝手に思っているのだ。


「どうどう。まぁ落ち着こうよ」

「だからそれやめなさいよっ」

「おけ、やめる。はい、やめた」


 不知火の手で段切丸の肩口を撫でると、さも不満そうにいななくような素振りで夕星は傀儡を操った。気難しいけど居てくれると安心できる。なんやかや言っても、私は夕星のことが好きだった。


「それで? 今から更に下へ降りるってことね?」

「そそ。チャチャッと行って様子だけ見たら帰る。何もしないで帰っちゃったら、次来た時、また一からやり直しでしょ?」


 まぁそうね、と夕星が頷けば千軽ちゃんも粗方同意といった風。


「ほな早いとこ行こか。ここらでもえらい深みやと思うし、底までゆーて、あとなんぼもないやろ」

「うん。ところで、降りて来たのは二人だけ?」

「おう。さっきの岩棚んとこに当頭つつめき目賢めがしこを待機させて、他は帰したった」

馳哮はせたけさんも? 虫寄せの光がなくて、帰りは大丈夫なの?」

「平気よ。当頭姫が岩棚近くまで磐貫いわぬきで隧道を掘ってくれたから、そこを通って安全に地上まで出られるよ」


 亀裂の縁で発光担当の馳哮はせたけ姫を補佐していた筈の二人が岩棚に降りて来ていて、他は帰したと言う。妙な話だなと怪訝に思えば、治癒が得意なたぎち姫に霊塊たまぐさりの疑いが残る馳哮姫と愛発あらち姫の様子を見に行かせたとの回答。

 なら余剰の鉀兜よろいと姫と斑良まだら姫まで何故帰したのか。問えば夕星は、万が一に備えて滾姫の補佐を任せたと答えた。


「なるほどね。それならそれでいいや」


 なるべくなら大勢で地殻のひびを確認しておきたかったけれど、そもそも私が言い出すまでは、夕星も千軽ちゃんも合流直後に撤収するつもりでいたのだから、先行して小さ神たちを帰したことも別段おかしな話ではない。


「それじゃあ行こう。四人で固まって、離れないようにね」

「待って。ここからは私が先頭」


 先んじて踏み出そうとした私を夕星が制した。私は素直に「じゃあお願い」と先を譲って、岩棚の縁に向かう段切丸を見送った。


 ザンッ――。


 空気が震えたと思ったら何かが素早く岩棚の縁を舐めた。次いで段切丸が足を滑らせたかのように右体側から崩れ落ちる。


「えっ!?」


 驚いて見ていると瞬く間に地を滑って、段切丸は縁の向こうへ落ちてしまった。


「夕星!」


 私が叫ぶのと同時に千軽ちゃんの駆る剛礼号が闇へ躍り込み、それを追って私と阿呼も飛び込んだ。

 何が起こったのか――。

 闇を見越してやろうと必死に目を凝らせば、落ちて行く段切丸の右足に何かが引っかかっている。


「しくった! さっきの奴や。あれで生きとったとはなぁ」


 千軽ちゃんの言葉で認識を得た私の目に、胴体を断ち割られた毒蟷螂の上半身がくっきりと浮かび上がった。

 なんだっけ? 誰だっけ? 蟷螂が大好きな役者さんがいてさあ。私その人の番組を齧りついて観てたんだよ。なんて言うかもう、昆虫すごいぜぇー!!


「夕星、立て直せる!?」

「こっちはいいから! 後ろ、後ろーっ」

「はい?」


 昔のコントみたいな台詞だ。私の頭上には即座にクエスチョンマークが生えた。ぽよん。


「お姉ちゃん! 上から来てる!」

「何が!?」

蟷螂かまきり! たくさん来てる!」


 まじか!? これはひょっとして、共食い上等の蟷螂さんたちが千切れた仲間の臭いに誘き寄せられて来たという超展開!?


「夕星は平気や、こっちはこっちで迎え撃つでぇ! おらぁぁ! 真木割槌まきさくつち!!」


 屈強な剛体そのものが脅威の剛礼号は、何も持たなかった筈の手に巨大な木槌を握って振り回した。それは普段から千軽ちゃんが肩に担いで持ち歩いている大槌だ。恐らくはこれも神宝で、御業によって兜鎧傀儡の手に馴染む大きさへと引き上げたのだろう。

 千軽ちゃんは真木割槌まきさくつちを力任せに振り抜いて、触れる間際の圧で以って、迫り来る蟷螂を二、三体まとめて吹き飛ばした。


「すっご! さすが象さんだ」

「お姉ちゃん! 横っ!!」

「ふへ!?」


 ビュンッと唸った鎌が闇を切り裂いて不知火の左腕を掠めた。危うく躱したつもりが鎌に犇めくギザギサに引っかけられて、不知火は眼百鬼の隣からすぽーんと弾き出されてしまった。回る視界の中で阿呼と千軽ちゃんがみるみる遠ざかって行く。


「放谷起きて! 邪魔だから退いて!」


 ぐるぐる回りながら空間を渡る不知火。よくできた操縦槽もこう勢いよく回転しては内転が追い付かず、天地を維持できない。私は目を回しながらなんとか姿勢を取り戻そうと躍起やっきになった。然るにその障害となるのが腕の狭間で寝こけている放谷御大(おんたい)だ。


「んあー?」

「起きた! 早く小蜘蛛になって! 操縦できないっ」

「おー、どうしたー? 回ってるなー」

「はっなっやっつ! 真面目にやってよ!」


 幾度となく私を助けてくれた放谷の暢気さも、さすがにTPOを弁えろと言わせて頂きたい。やいのやいのと騒ぎ立て、どうにかこうにか小蜘蛛になった放谷が肩に収まるも、起死回生に至らず――。


 ザシザシッ――。


 飛来した蟷螂がタッチの差で不知火の両肩口を鎌腕に挟むと、組み合ったまんま真っ逆様に落ちて行く羽目に。


「ほら見なさいよー! 言わんこっちゃないんだからぁ!」

「ごめーん」


 怒ってはいない。怒っている余裕などない。ただただ焦りに囚われて、どうにかしようと必死に手足を動かした。


「くわーっ、無理だ! ガッチリ掴まれちゃって動かない。放谷、放谷! なんとかしてっ」

「そーは言ってもなー。糸は縛るのは得意でも突き放すのは難しいからなー」

「落ち着き払って言わないでっ」


 巨大な蟷螂は長いお腹を足せば不知火の上背を軽く五米は越えている。落下しているお蔭で体重による圧こそないものの、問題は落下しているという事実そのものだ。既に亀裂の深い位置にいる筈だから、いつドン底に激突してもおかしくない。相手が蜻蜓やんまなら不知火を運ぶように飛んで激突を免れただろう。けれどつたない蟷螂の飛行能力ではとてもそうは行かない。


「飛鳥!!」


 私は翼こそが本体だ、というくらい巨大な星霊翼を想起して、半ばヤケクソ気味にそれを広げた。本来、飛鳥の効果としては翼の大小に関係なく飛ぶことはできる。当然、秒単位で水増しされる落下速度も緩まない。それでも翼を大きくして、そこから一捻りを加える。


「本物、でろーーっ!!」


 こうなったら物理的に羽を広げて、その抵抗で速度を軽減してやる。そう決めてかかって私は青筋立つほど気合を込めた。

 思い起こすのは望月の夜。森羅万象の粋を極め、月下に聳える夜刀楠やとのくす。そこから飛び去った南風さんの流麗な翼だ。月明かりに美しく彩られたそれを想い描いて私は――。


「あ、首刈? ちょっと貴女――」


 ここで風声通信とか無理ぃぃぃぃ!!!


「むーりー! むりむりむり!! 誰だか知らないけど後にしてっ!」


 非常識にも程がある! 誰? 夕星? こっちのこの様を見てのことなら許さないよ?


「なー首刈。今の声――」

「ちょっと黙ってて! 集中してるんだからっ」

「……わかったー」


 分かればよろしい。大体声がなんだって? 申し訳ないけどこちとらそれどころぢゃないんだよ! 考え得るあらゆる手を使ってこの急場を凌がなくちゃいけない。少しでも落下速度が緩和できれば追っ付け阿呼たちが来てくれる。切り抜けろ。ここぞ生き死にの境目だ――。


 ドプン――。


「えぇ?」


 困惑――。誤解のないように言っておくと、ドタプンではなくドプンですよ。そんなお宝私は持ってないからね。なんて自虐はいいんだよ。


「どうなったの!? 落ちた?」

「水に落ちたかー?」

「ぽいよね。え? 地下水脈みたいなやつ?」

「いやー、これ流れてはないなー」

「じゃあ何? 地底湖? どうすんの!?」


 水じゃない。そんな意識が不知火から流れ込んできた。確かにあの勢いで落ちといてザパンとも言わないのは不可解だ。

 気が付けば先刻までビクともせずに引っ付いていた蟷螂もご不在。すわ今こそと直立姿勢に戻して、次に何が出るかと神経を尖らせる。


「えっ? 何? 痛いの?」


 不知火から苦しそうな意識が伝わってきた。これはよくない。そう思って、水ではない何かから抜け出そうと藻掻いてみる。


「おっもい! ホントなんなのこれ、まとわり付いてくる感じなんだけど」

「おい、首刈ー」

「え?」

「なんか浸み込んで来てるー」

「ほわっ!?」


 槽内を見回せば足下と言わず頭上と言わず、球形を成す所々の継ぎ目から黒いモヤモヤっとした糸束のような物が入り込んできている。呆気に取られて見ていると、それは煙のようにたなびいて、いよいよ槽内に充満し始めた。


「いちちっ! ビリビリするぞー。なんだこれー?」


 肩口に届いた黒いもやに触れると、放谷は慌てて前肢を引っ込めた。その反応は不知火の苦し気な意識と繋がる。

 私は分かった。この煙のような漆黒。その正体は――。


「これ、楓露だ」

「楓露?」

「黒坊主の大本だよ。星霊の稲光とぶつかってた上に昇る黒い稲妻の正体! ここが底なんだよ! ここから下は完全に楓露の領域なんだ」


 星霊の侵食を撃退しようとして楓露が発しているのだろう黒いもや。だからこそ星霊由来の私たちは触れれば痛みに襲われる。楓露は星霊を追い立てようとしているのだから当たり前のことだ。参ったことにとんだ蟻地獄に落ちてしまった。


「ってことは、ここを、この沼みたいな闇を塞げってことなのかー?」

「多分ね。とにかく今はここから上がってみんなと合流! 全景を見てみないとなんにも分からない。放谷、この中で風衣かざごろもってできる?」

「おー、いけるー」

「じゃあ、それを外側に押し広げて黒い靄を追い出せない?」

「試してみるかー」

「任せた! 私の星霊は好きなだけ使っていいからねっ」

「おー!」


 私は肩に乗る放谷に意識を集め、可及的速やかに同調を始めた。

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