066 後夜の狂乱2
最北の地、白守。雪深い山間に通す白雪の途を辿れば、奇しくも当代皇大神と音を同じくする末枯の里がぽつねんとある。そこは冬の怪を物語るに事欠かぬ樹氷の里。白銀が生み出す異形に覆われた世界だ。
里から途を外れて南へ下ると、海を挟んで北西に宮終島を望む小山の上、雪囲いの覆屋に守られた社殿がひっそりと佇んでいた。
時は縄五ツ、後夜の時――。
更け闇の風がびょうびょうと唸る中、緩やかな山肌を覆う雪は剥がされて、地吹雪へと姿を変える。やがて夜が明ければ目にも美しい風紋を雪原に刻むだろう。ただ、今はまだ闇に抱かれて、覆屋越しの風の音だけが籠るように御神座に漂っていた。
大梟神社はまたの名を南風宮と言って、白守の四方に配された守宮の一つ。主祭神は南方を守護し青葉の夏を司る白守朱引南風媛命。
同地の一宮、白守四方祝神社の主祭としても祀られる南風媛は、当宮を仮の住まい、いわば別荘として用いていた。
水走で首刈と別れた南風は昨年来、ここ南風宮に籠りきって星霊花を用いた神宝の製作に取り組んでいた。御神座の裏に構えた私室に入り浸り、黙々と作業を続ける日々。それも自身初となる星霊花を用いた神宝の創造となれば道理と言える。
この日も南風は寝食を忘れて作業に没頭していた。僅かに配した世話衆も膳の上げ下げだけで、宵の口には一宮へ戻らせている。普段は陽の光を浴びてのほほんと過ごす南風が珍しく打ち込めば、連日の疲れも手伝って、この頃は作業の途中で眠ってしまうことが多かった。
「んむ……また寝てたぁ。ダメじゃんあたし」
座布団の上で無様に転がっていた島梟は、人の姿を結んでトレードマークの鶏冠髪を揺らめかせた。昼間は人。夜は梟。なればこそ寝ずに済むだろうとの浅はかな試みは脆くも破綻した。
「無理だ。こーゆーの全っ然あたしに向かないわ」
作業台に散らばる部材を見てボヤく。躍起になって創ろうとしているのは身の丈ほどもあろうかという神扇だ。風の神の象徴であるそれは常の形に留まらず、三六〇度開いて太陽を模ることもできるといった仕様。完成した暁には御業で縮めて腰帯に差そうと考えていた。
「あー、喉が渇いた」
ふらりと立って柱時計を見れば午前三時を回った頃。部屋を出た南風は御神座を渡り、裸足のまま縁側から庭に下りて、覆屋の隅にある井戸へ向かった。
寒い。人の姿を取れば自然、人並みに寒さを感じる。南風はあっという間にかじかみ出した手を摩りながら、霜の立った釣瓶の縄を恨めしそうに見つめた。
下唇を突き出し、フッと上に息を吐いて鶏冠髪を揺らす。美人がする仕草ではないが、これが南風の癖だった。やがて意を決してガラガラと釣瓶を巻き上げ、上がって来た桶を縁に乗せる。そこへ柄杓を挿し入れ、なみなみと溢れた冷水を含もうとするのだが――。
「!? やばっ」
慌てて柄杓を挿し戻せば勢い余って桶は傾き、コンコンコンと派手な音を立てて井戸の中へと落ちて行った。それには目もくれず土不要の御業で舞った南風は、外陣内陣と滑るように渡って祭壇の鏡に手を触れる。
「鏡読!」
神道に於いて鏡は異界と繋がる戸口ともされる。しかし異界という概念に乏しい大嶋では距離や時を渡る呪具として用いられた。
南風は血相を変えて鏡を覗き、かつて自らの羽根を被け取らせた渡人の姿をそこに求めた。羽根に託した護りの御業――散の発動を察したからだ。
かくして鏡はどことも知れない瓦礫の山を映した。それはどうやら無残に破壊された廻廊で、辺り一面に夥しい量の羽毛が舞いっている。それを狂ったように掻き裂く物の怪の姿が二つ。やがて怪異は二つの体を一つに結んで、やおら瓦礫を飛び降りた。向かう先を確かめると南風にも覚えのある渡人の女が一人、槍を構えて立っている。
「最悪! 今からじゃ間に合わない! どーすんのこれ!? どーしよう」
事態の急に色を失い、額の上の鶏冠髪が盲滅法乱れて揺れる。
「やばいやばいっ、あの渡人に何かあったら首刈ちゃんがブチ切れる! そんなことになったら白守の信仰駄々下がりなんですけど!? こんな時どうすれば……。そうだっ、お母さん! おかーさーんっ!!」
神として甚だ情けない振る舞いと知って尚辞さず、南風は藁にも縋る思いで水走の母を叩き起こしにかかった。
矢も盾もたまらぬ声が北は白守から南は水走へ光の速さで迸る。その声、大巳輪芽喰の御神座で酒瓶抱えて寝こけていた蟒蛇を見事直撃。
たまさか、夜刀は天井に投げ出され跳ね返って床に落ちたかという勢いで衝撃的に目が醒めた。
「なななっ、なん、何事!?」
「おかーさん! お願いだから急いでっ」
「不躾を通り越して最早意味が分からない。てか、誰がお母さんですって!?」
「いーから! 早く鏡、鏡見て! 映ってるから、直ぐに行って!!」
「貴女ねぇ、全くどういうつもりで……」
言いながらも鬼気迫る声に突き動かされ、夜刀は祭壇の前へと移動した。案の定、鏡には禄でもないものが映り込んでいる。
「ちょっと!?」
「行って行って! 早くしないと間に合わないでしょーがっ」
焦る余りに乱れる言葉。
「貴女、後で覚えときなさいよ! ああっ、もう! 神渡!!」
文句を垂れながらも決断は早い。神々の中で唯一、道結もなしに楓露の何処へでも渡って行ける夜刀は、考えるのは後回しにして、急遽赤土の地へと乗り込んだ。
***
同刻。イビデの目の前でジーノスは瓦礫に押し潰され、辺りには訳知らぬ羽毛が舞っていた。
愛発姫は金の双眸ではっきりとイビデを捉えると、二藍の分身を一つに戻して瓦礫を降り始めた。
反射的に立ち上がるイビデ。汗ばむ両手に一本の半槍を握り絞める。どうしようもなく震えが抜けない。狂った神と目が合えば我が身の明日も知れていた。
「愛発姫様! どうか鎮まって下さいっ」
一縷の望みと声を張る。
愛発姫は耳が利かぬかのように瞬き一つしなかった。そしてゆらり。
来るか――。
イビデは槍の穂先を定めた。
手にした一本の心許ない逆茂木に全てを託す他、術はない。今はただ、じりじりと流れる時間こそ恨めしかった。いっそひと思いに――。と、捨て鉢になりかけたところで狂い神が動いた。槍など眼中なしとばかりに、彼我を分かつ距離を越えて跳び込んで来る。
イビデは最期まで目は閉じまいと生唾飲んで眼力を宿した。視界の隅で揺蕩う羽毛が妙な動きを見せたのはその時だ。羽毛はひと所に集まって白光を放ちながら形を結んだ。見忘れる筈もないその形――。
「ボスッ!」
無意識に叫んだ。それを合図に狂い神が牙を剥く。
思いを寄せた男が生きていたという半信と、このまま術もなく殺されるのかという半疑。未練の蛇が絡みついてイビデは堪らず叫んだ。
「神様っ!!」
「そこまで!!」
突如、凛とした声が降って来た。
気付けば槍を舐めるように躱した爪が、あわやイビデの見開かれた目を抉るかという寸前でピタリと止まっている。
何がそれを止めたかと眼玉だけを動かすと、ひしゃげた廻廊の庇、砕けた柱、折れた手摺の影という影が伸びて、狂える愛発姫の四肢に胴にと巻き付いている。
「影間封」
先刻の声が今度は静かに唱える。すると愛発姫を縛る幾筋もの影が膨れ上がり、見る間に玉を成して、その中へ狂い神を呑み込んだ。影玉はイビデの身の丈程からあっという間に縮まって、その向こうに佇んでいた少女の手の中へすっぽりと収められる。
「無事かしら?」
月明かりも届かぬ杜の下、自ら輝くような月白の肌を持つ少女は、それを引き立てる黒の装束に身を包み、碧く品のよい白群の唇には僅かばかりの笑みを湛えている。その姿形に知らずと打たれるものを感じたイビデは、問われて返す言葉もなく、ただ頷いて返した。
「それは重畳。そこの渡人も此方へおいでなさい」
ジーノスにあるのは更なる困惑だった。イビデを逃がして自らは死んだと思った。ところが崩れ行く回廊に挟み込まれた刹那、魂が体から抜けたかのように身軽となって、気が付けば目立った傷もないまま瓦礫の脇に立っていた。そこへ見も知らぬ少女から声を掛けられたのだ。
見回しても愛発姫の姿はない。イビデも疲れ切ってはいるようだが無事の様子だ。余す問いはこの少女が何者か、という一点に尽きた。
「赤土にいる渡人ならばいずれ首刈の知己でしょう。私も急かされて来たものだから、掻い摘んだ事情を聞かせて貰えると助かるわ」
平静を装いはするものの、夜刀にしても困窮極まるものがあった。
先に春告宮で記憶の封を取り除き、星詠の御業で赤土の事情を大まかに把握していた夜刀だが、敢えて水走に留まっていたのは、いずれ首刈が進退窮まって泣き付いて来ると踏んでいたからだ。それがこうして押し出された心太のように赤土の土を踏んでしまった。このまま首刈と顔を合わせるにしても何を言ったものか大いに躊躇われる。先ずは目先の騒ぎを鎮めて、その顛末を添えつつ、様子伺いに来たとでも言う他ないではないか。
「とりあえず封じ込めてしまったけれど、これは一体なんだったのかしら?」
お手玉を取るように右へ左へ影玉を遊ばせながら、夜刀は言葉足らずにどんな化怪かを問うた。
「霊猫神社の主祭、愛発姫様です」
返ってきた答えに虚を突かれた夜刀は、うっかり影玉を指甲套に弾いて取り落とした。それを慌ててイビデが受け止める。
「主祭? 私が封じ込めたのはこの社の神だと言うの?」
「はい。薫籠愛発姫命で間違いありません」
イビデは手にした影玉を差し戻しながら重ねて答申した。それを手慰みに夜刀は心当たりを手繰り寄せる。
知らない神だ。いや、霊猫トーテムは知っている。先頃解封した記憶によれば過去にその主祭と夜刀とは物部大社殿の戯れで顔を合わせたこともある。しかし当代となると、これは全く見知らなかった。
「私の目には貴方たちが襲われていたように映ったのだけれど?」
「はい。事情は私たちにも分かりません。ボスが、いえ、ジーノスが夜更けに気がかりな音を耳にした為、私たちは様子を見に出ました。そしてその最中、前触れもなく襲われたのです」
その言葉に嘘がないことは分かる。しかしどうにも腑に落ちない。確かに人を取って喰らうといった伝承を持つトーテムは存在する。蛇の伝承にも祟りや荒ぶる大蛇の話など幾らでもあった。そうした伝承の韻を踏むと、神は抗えぬ衝動に襲われ、時に荒魂となって相応の害を為すものだ。何故なら神、物の怪の類は斯く在るものと広く信じられているのだから。
「霊猫にそんな恐ろしい伝承があったかしら? 珈琲こわいが有名だけれど、笑い話の類よね」
珈琲こわいは巷陌で人気の小噺だ。
口から入れて尻から出した豆が上質な珈琲豆になるという麝香猫。それに味を占めた神が眷属を集めて無理やりに珈琲豆を詰め込み、長者となって大きな社をおっ建てた。以来、珈琲豆を見ると逃げ出す眷属が後を絶たず、無理に詰めれば尻から出ていたものを口から戻すという始末。このことから里山では畑を荒らす霊猫の眷属がいると、笊一杯の珈琲豆を見せて追い払うようになったという笑い話。一方で作物を守る大切な教えとして広く大嶋に伝わっていた。
「珈琲豆でも見せびらかして怒らせたとか?」
「そんなことは致しません!」
いらぬ誤解を招く前にと、イビデは目にした限りの事実を語った。それをジーノスが自らの視点を加味して補完する。証しとなる頬の傷は夜刀が立ちどころに治してしまった。
「聞くにつけ不可解。どうにも困ったことだわね」
夜刀は少し冷静になる必要があると思った。三の鳥居が示す内神域はトーテムに関わらず全ての命が加護を受ける場所。例え伝承に絡んでいたとしても、内神域で命を殺めるような騒ぎが起きることなどあり得ない。他に原因を探るにしても、先ずは沈着に努めることだ。
「それで、首刈は今どこに?」
「首刈様は神々を率いて大地の亀裂へ向かわれました。戻りは朝方になるかと思われます」
「あら、いないのね。そう」
「あの、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
イビデには問うに先立って確信があった。折に触れて首刈から聞かされていた美粧にピタリと嵌るその形。水走の地で白守の女神たちとことに当たっていた頃には、どこかで御姿を拝する機会もあるのではと期待していた己の神。それが今目の前に降り立ったのではないかと。
「貴女様は大巳輪芽喰の社に坐すいと古き神。夜刀媛様なのではありませんか?」
「ええそうよ。でもその古きってフレーズ要るのかしら? しかもご丁寧にいとまで付けて。誰も彼も口を揃えて言うけれど、貴女、この若作りを見てわざわざ古きって、それはもう当て擦りなのではなくて?」
自分で若作りって言うんだ。イビデはそんな思いを仕舞い込んで平身低頭、畏まって拝謁した。ジーノスもそれに倣う。しかし、
「ああ、そういう仰々しいのは結構よ。祭礼の場ならいざ知らず、貴方たち渡人の鯱張った信心には白守の娘たちも随分と手を焼いているのだから。それとそこのお髭さん、貴方」
「はっ、何かご無礼がありましたでしょうか」
「早合点しなさんな。その懐のものを出しなさい」
「はっ」
得物一つ引っ提げてきた身に何があったかと、ジーノスは暫時惑って懐に手を入れた。すると指先が覚えのある物に触れ、肌身離さずお守りとして身に帯びていた白布を取り出した。それを丁寧に開帳する。中には一枚の羽根。真っ新な布の中で無残に軸折れしたそれは、閑野生の調査局で南風媛から直々に授けられたものだ。
「南風の羽根に守られたわね」
ジーノスは己が女神の羽根を見つめ、深く拝んで信心を新たにした。対する夜刀は呆れたことに深甚さの欠片も示すことなく、ぶつくさと呟く。
「まあ、あの娘のお蔭でこっちはいい迷惑だけれど」
「は?」
「いいのよ。こっちの話。それより、社の神を封じてしまったとなると、代わりに立てる族神はいるのかしら?」
それを受けてジーノスは社の事情を説き明かした。
主祭の娘は離れで養生。次代に立てられているのは孫にあたる三柱の姫神。それを聞いて夜刀は眉根を寄せた。夜刀自身、幼子は好きだし相手をするのも得意な方だ。しかし混み入った事情を呑み込ませるとなるとこれほど厄介な手合いもない。しかも主祭にべったりのお婆ちゃん子とくれば、肩にかかる重みはいや増した。
「一杯引っ掛けないとやっていられないわね。御神座へ上がるわよ。案内して頂戴」
ぼやき調から凛と発して、夜刀は二人を先に立てると、静寂を取り戻した後夜の廻廊を音もなく渡って行った。
***
光の御業による誘引作戦が図に当たって、私たちは大地の亀裂を巨大昆虫の妨害なしに降下していた。
目無で切り替わった視界には昼も夜もない。無臭のものは灰色に沈んで、足場になるような土や下生えのある個所は暗色系の緑や茶色に覆われている。例え岩肌であっても土や地衣類がかかれば色を伴い、岩質によって微かな匂いがあるのか灰色のグラデーションも見受けられた。ただ、見据える真下は灰一色。そこを時折、地上の光へと向かう虫の臭跡が筋を残して流れて行く。
「この分なら行けそうかな?」
「とっても楽ですわ。助かりますわ」
「午前中に試した時は大変だったもんね」
「まったくですわ。雄に囲まれてそれはもう辟易しましたわ」
日中の試みでは怪獣クラスが居なければ大丈夫だと高を括っていた。ところが雄の兜虫が鉀兜姫の乗る独角仙に群がって大わらわ。星霊に中って酔った虫など物の数ではないけれど、これがダース単位となるとさすがに骨の折れる作業。みんなして鉀兜姫を守りながら降下を続けたものの、次第に肌がひりつくほど濃くなる星霊の中、目も利かないとあって無理が嵩張り、ついに撤退を余儀なくされたのだった。
「うあー」
「ちょっと、何やってんの?」
突然人の姿をとった放谷が狭い槽内で体のあちこちをバラ掻きし始めた。
「痒いんだよー。昼間もそうだったけど、星霊がこうも纏わりついてくると、なんだか段々痒くなって来るんだー」
「我慢してよ、狭いんだから。いざって時以外は小蜘蛛でいて貰わないと邪魔でしょ」
「だって蜘蛛だと肢が届かないとこがあるんだよー」
「もー。って、ちょっとバカ! 血が出ちゃってるじゃない!」
「だって痒いからー」
蚊に刺された痒さに負けて掻き潰してしまった経験は私にもある。それが瘡蓋になると痒みがぶり返して、また掻き潰すという悪循環に陥るのだ。
「それやってるといつまで経っても痒いまんまだよ。放谷は三十路なんだし、シミになっても知らないからね。とにかく早く戻ってよ」
「うー、分かったよー」
渋々といった体で放谷は小蜘蛛に戻った。けれど、肩の上でいつまでもモソモソとやっているもんだから、それはそれで気が散って仕方がない。
一方、感覚的には優に二粁は降下したかという頃合い。いわゆる徐行で三十分。二五〇〇米といった辺りだろうか。いつ底に着くのかは亀裂の深さ次第。時折、通わせた星霊を介して不知火の様子を伺うと、退屈そうな思念ばかりが返ってきた。
「まあまあ。便りがないのはいい報せ。無事に降りられるのが一番なんだから」
そう宥めて鼻唄の一つも奏でてやれば不知火の機嫌は立ちどころに好転する。馳哮姫にしても不知火にしてもイヌ科ってチョロイなぁと笑みが浮かんだ。しかし自分もイヌ科だとはたと気付いて「素直っていいよね」と言い訳がましく独り言ちる。
「お? なんや抜けたんとちゃうか?」
ややあって千軽ちゃんからの風声通信が舞い込んだ。確かに、それまであった星霊の圧がフッと和らいだ気がする。
「うん。なんだろうね? 星霊の気配が薄まって来てる感じするよね」
「せやな。どないする?」
「どないって、もっとゆっくり行く? 今でも大分ゆっくりめだとは思うけど」
「そやなくて、目無解いてみるか? この感じやったら見渡せるんとちゃうかな」
「そっか。普通に見えるならそれに越したことはないもんね。じゃあ試しに私だけ解いてくれる?」
匂いを見る視界から普段の視界に切り替わる。辺りは未だ闇深い。見上げると上方に溜まった星霊の層が雨雲のように垂れ込めていた。闇に蓋するエメラルドの雲。それはまるで暗い宇宙に輝く星雲のようだ。
「濃い星霊の層を抜けたみたい。とりあえずみんな目無は解いていいよ」
頭上から降る星霊の光で遠い崖の壁面は見える。けれども眼下の谷はどこまで深いのか、暗がりの縁に落ち窪んでいた。
「天津百眼――」
臭いを見る目無を解いてしまったので、闇に虫が潜んでいないかを確かめるのに、私は初代様の神宝を用いた。
「なんかいそーかー?」
「ううん。点々とは見えるけど、大したことはないみたい。――あれ?」
「どーしたー?」
会話に釣られて放谷を見た私は、天津百眼のネガのような視界に異変を感じた。
「放谷、ちょっと人の姿になってくれる?」
「おー、こんな感じかー?」
ドロンと狭い操縦槽に歯抜けの相棒がにっこり。そこに潜む異変の正体を探ろうとまじまじ見れば――。
「うわあ!?」
「どーしたー?」
「まずいっ、やばいっ、全員集合! どっか降りられる所ない!?」
風声通信を発すると、千軽ちゃんから岩棚があると知らされて、私は一目散にそこへ降りた。
「みんな直ぐに集まって!」
ハッチから飛び出した私は、本来なら何があるか分からない大地の亀裂の中、周辺警戒もほっぽり投げて全員に非常招集をかけた。
「びっくりさせないでよ。大声出してどうしたの?」
怪訝な顔をする夕星。他のみんなも一様に同じ表情だ。
「ごめん! 私が考えなしに亀裂に降りようなんて言ったから……」
「はあ? 貴女、一体何を見たの? 天津百眼を開いてるってことは何か見たんでしょ?」
「それが、実は……。みんなの皮膚の下辺りに、ほんの小さな奴だけど、幾つも霊塊ができちゃってて……」
私はバカか。
大地の亀裂を覗き込んだ時、星霊の中を泳ぐように飛んでいた虫たちは霊塊だらけだった。そこへ飛び込めば同じ憂き目に遭ったとしてもおかしくないじゃないか――。
翻って自分を見ると腹立たしいことに霊塊のたの字もない。阿呼も無事だ。他全員が発症している。私の浅はかさから、越えてはならないK点を越えさせてしまった。
「どうしよう? 無事なのは私と阿呼だけだ」
「それであちこちが痒かったのかー」
言いながら引っ掻き始めようしとた放谷の手を掴んで止める。
「ほんまかいな。そら、ふつーにビビるわ。なんや、汗疹でもできたかー思うとったら、そないなことになっとたんか」
「斑良のかいかいも霊塊? わー、びっくりんこー!」
うん、もっと真面目に驚いて貰っていいかな? びっくりんことか事の重大さがまるで分かってないよね? 千軽ちゃんの反応にしたって軽過ぎる。
「なるほどね。まぁ見た感じ誰も狂暴化しそうな気配はないし、大丈夫そうではあるけど。どうする? 今夜はこれで引き上げる?」
夕星まで。なんなのこのノリ。
「ん、ごめん夕星。ちょっと意味が分かんない。普通もっと深刻になるでしょ?」
「何がよ」
「いや、みんなもだけど。私の話聞いてた? 霊塊だよ? 霊塊って治せないんだよね? それでその反応はおかしくない? 化け物になっちゃったらどーするの?」
夕星は詰め過ぎてミニスカみたいになっている着物の裾をパンと叩くと、やれやれといった風に肩を下げて息を吐いた。
「貴女、霊塊のことは誰からどれだけ教わったの?」
「それは、南風さんから色々と聞かされたけど」
「なら知ってるでしょ?」
「何を?」
「霊塊って言っても一切合切、猫も杓子も一大事って訳じゃないの。ちょっとした病気に罹る程度のものから、化け物と言われるくらいに様変わりしちゃうものまでまちまちよ」
「それは南風さんからも聞かされたけど、一度霊塊を発症したら治す方法がないとも言われたんだよ」
曰く、身に宿る星霊が崩れると、その部位や宿主の生来の資質によっては面倒なことになる。その面倒の一例が霊塊の化け物だ。確か、あの時見せられた化け猪は脳の辺りに霊塊を発して、自我も定まらぬような状態に変わり果ててしまったのだと、そう南風さんは言っていた。
「でも私たちの場合、肌際以外に霊塊はないんでしょ?」
「うん、それは間違いない。あと、何故だか私と阿呼には全然ない」
私が目にしたみんなの霊塊はおしなべて皮下。極々小さなものが主には手足に集中している。夕星は得たりとばかりに顎を反らせて「ほら見なさい」と我知り顔。
「大丈夫、なの?」
「まあ平気でしょ。星霊核やら頭の辺りにできると危ないって聞くけど、そうじゃないなら心配し過ぎは返って毒よ」
垂らした釣り糸に希望が掛かって、浮が微かに動いた。されど待て。慌てて引けば坊主の憂き目。
「でも、だって、そんなに簡単なもの?」
「簡単とは言わないけど。例えば風邪を引いて熱が出たって時でも実は霊塊が原因だったなんて話はよくあるよ。でもそれ、治るし」
「治るの!?」
「治せないけど治るわよ。自然にね。特に御業で星霊を放出する私たちは他よりも治りが早い」
「その話、霊塊ができにくいとは聞いたけど、治りやすいってこともあるのか……」
「勿論、運が悪ければ重篤にもなるし、そうなったら治るにしても時間はかかるよ。それに、霊塊の化け物にまでなったら元には戻れない。ってのがこれまでの定説だったけど、それだって首刈は治しちゃったじゃない。忘れたの? あの兜虫」
「勿論覚えてるよ」
忘れっこない。あれこそ私の希望の光だ。それを早くも失ったと、そう思っていたのに夕星の言い分は一八〇度違っていた。
私は南風さんから教えを受けた時、霊塊は癌に似てる考えた。深刻さはステージで変わるにしても、霊塊=癌と思い込んだのだ。それはそれであながち間違いでもない。
けれども実際は風邪から不治の病まで、霊塊はあらゆる病状に関わっていて、程度が軽ければ自然治癒するし、星霊を放出し、星霊核から補填するといった循環が治癒を促進するとも言う。
「じゃあ、本当に平気ってこと?」
「断言はしないわよ? でも、百眼の見立てと今のこの様子なら私は心配してない。千軽はどう?」
「まあ行けるやろ。原因はどう考えても今抜けて来た星霊溜りや。抜けた以上は、帰りがけにまた通るけど、サッと抜けてもうたら、なんも心配いらん。今は用心してちんたら降りて来たからなぁ」
その言葉で沈んでいた私の心は潜水艦の如く一気に浮上した。潜望鏡深度まで上がって辺りを見回せば確かに病人めいた顔色は見当たらない。
「みんなは具合どう? 痒いだけ?」
「わたくしは少し肌がかさつくくらいですわ。蛹から孵ったばかりの肌が荒れたので驚きはしましたけれど、特に心配ありませんわ」
「よかった。斑良ちゃんは?」
「かゆかゆー! でも唾付けとけば治りんこするー」
唾では治らないだろうけどこちらも元気アピール。放谷は阿呼に治気をかけて貰って痒みは落ち着いたと言うし、千軽ちゃんは汗疹程度で気にも留めない風。夕星に至ってはどんと来いくらいの貫禄すらあった。
「滾姫はどうですか?」
袖の上から腕を摩っていた滾姫は私の前まで来て、見事な鰐皮を差し出した。
「一皮剥けてしまいました」
「剥けちゃいましたか!」
「折角ですから首刈様に差し上げます」
「え? あ、はい。どうも」
頂戴した。身から離れて本来の形となった皮はとても丈夫で、神の体の一部なら大切にせねばと、用途がある訳でもないのに輪違を開けて大事大事に仕舞い込む。
ともあれよかった。なんにせよ皆無事だ。けれども日中には馳哮姫と愛発姫も一緒になって亀裂へ潜ったのだ。ならば今は戻って、二人の様子も確認しなくてはならない。それと謎はもう一つ。
「ねぇ、どうして私と阿呼だけ霊塊がなかったのかな? 不思議だよね」
「それね。妹ちゃんのことは分からないけど、首刈には霊塊なんてできないんだよ」
予想外の答えに翡翠の瞳は焦点を失い、獣の耳は忙しなくピコピコした。
「なんで!? どうして私だけ?」
「どうしてって、皇大神の持つ女皇核は完全継承だからね。疵一つない至玉は霊塊なんて寄せ付けないの」
その理屈は今の私には遠く理解が及ばない。
以前、南風さんから、皇大神である私が霊塊を発症する可能性は皆無だと言われたけれど、その時は「追々ね」と理由を聞かせては貰えなかった。南風さんが言わなかった理由と、夕星が言った理由とは果たして一致しているのか?
「私の核が? え、分かんない。夕星やみんなとどう違うの?」
「それは大嶋廻りが終われば分かるでしょ。皇大神と八大神は神座に就けば星詠の御業を収めることになるから、望めば星霊のことは大抵分かる。首刈は私たち八大なんかよりよっぽど深く知ることができるでしょうね。そうなったら今度は私の方が色々と聞く番よ。でも貴女って説明が下手っぴだから今から心配だわ。せいぜい宝の持ち腐れにならないようにねっ」
「大きなお世話だよっ」
しかし、なんというもどかしさ。私は今直ぐ知りたいのに。でもきっと、大嶋廻りは星詠の御業を修める為の修行でもあるんだろう。焦って大股を繰り出すよりも、地道な一歩が大切だ。
「分かった。じゃあ阿呼は? 阿呼の核も完全継承ってやつなの?」
「それは違う。女皇核は皇大神だけのものだもの。妹ちゃんに霊塊ができなかった理由は別にあるか、はたまた偶然なのか……」
思案する夕星の脇から鉀兜姫が進み出る。
「それはきっと目張様と一つになっているからですわ。今の目張様は星霊と似て非なる楓露の質。それが星霊溜りの悪影響を遠ざけているのだと思いますわ」
「おお、なるほど! 楓露なにがしは四千年もの間、星霊の侵食を拒んで来たんだから、本当にそうかもしれない」
真偽は別として阿呼が霊塊を発症せずに済んだことは勿怪の幸い。喜ぶべきことだ。
「よし、一度戻ろう。ここから先の調査は馳哮さんと愛発さんの霊塊を確認してからってことでいいよね?」
一同了解の下、私たちは再び兜鎧傀儡に乗り込んだ。見上げれは紫黒の闇に翡翠の星霊が蓋をしている。そこから迸る稲光は、まるでこれから上を目指す私たちを迎え撃つかのように感じられた。
「みんな乗ったね? それじゃあ先ずは地上班と合流するよー」
各自飛行の御業を紡いで離陸。土不要で浮遊する独角仙が一番に上昇し、段切丸が天駆ける馬となって後を追う。よし私も、と不知火を羽搏かせようとした刹那、背後で谷を揺るがすほどの音がした。




