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異世界(まほろば)に響け、オオカミの歌  作者: K33Limited
章の一 真神編
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004 石舞台の戦い

 真神は卵型に連なる連峰、月卵山つきのかいやまに囲まれている。北が頭で南がお尻。私たちが長らく過ごした真神大宮まかみのおおみやは北にあって、境内の更に北には星霊が舞い降りた地とされる隠居山かくらいやまそびえていた。

 今、私たちは隠居山を背にして一路、南へと向かって歩いている。


「もう少ししたら時期に秋になるね」

「秋? 秋になるとどうなるの?」

「秋になるとねー、周りのお山が、みーんな赤や黄色に変わるんだよ」

「お山の色が変わるの?」

「そう。紅葉こうようって言ってね。山に生えてる木の葉っぱが緑じゃなくなるの」

「阿呼、赤い葉っぱ見たことある」

「そうだね。一枚だけ赤かったり黄色かったりする葉っぱが境内にもあったよね」

「それが紅葉?」

「うーん、そーゆーのは病葉わくらばかな」

「わくらば?」

「うん。紅葉っていうのは、もっとこう、一斉に山そのものの色が変わるんだよ」

「へー、阿呼見てみたい。きっと奇麗なんだろうなぁ」


 市女笠の垂衣たれぎぬを両手で分けて、阿呼は遠い峰々に目をすがめた。秋そのものはもうじきだけれど、それが深まるまでは紅葉もお預けだ。

 草原に虫を探して短く飛び繋いで行く鳥たち。それを目で追いながら、私はこの草の海を駆け回った狼の日々を思い返した。

 恐らく。いや、まず間違いなく。あの日々がなければ私は今のように穏やかな気持ちではなかっただろう。

 生まれ変わりの衝撃を素直に受け入れられたのは狼として生まれついたからに他ならない。否も応もなく人ならざる生き方を求められれば、脇目を振る余裕などそこにはない。あっという間に体は育ち、日々発見、日々挑戦だ。

 これが人から人への転生だったら、きっと郷愁に囚われて、泣き暮らす日々だったと思う。今、人の姿を得て心乱さずにいられるのも、狼として暮らす間にこの世界に馴染むことができたからだ。


「ね、お姉ちゃん、お歌うたって」


 さっきまで私が教えた茶摘み歌を歌いながら歩いていた阿呼が手を引いてねだる。私は一も二もなく応じて、それから二人、歌を道連れに先を目指した。

 私たちの向かう先は真神二宮があるという南の谷。その谷を越えると三宮があって、その先はもう真神の外。けれど言うは易しで距離は相当ある。狼育ちの私たちが人より健脚だとしても、私はよくて十歳児。阿呼はまず以って七歳といったところ。これではさすがに限度があった。なので目先の目標は真神原の中心にある石舞台。そこは狩場の神となった三男、追風おいてが庵を編む場所だから、一晩厄介になるには丁度いい。



 隠居山かくらいやま隠井かくらい


 おいしい水を汲みました


 鹿放原ろっぽうばるに鹿おって


 おいしいお肉を食べました



 野菜もちゃんと食べなさい


 お姉ちゃんは言いました


 私は野菜はいらないよ


 お姉ちゃんにあげました



 阿呼の即興に微笑みながら、後半の歌詞に軽くツッコミを入れるのも忘れない。


「野菜もちゃんと食べなきゃ。人の姿になったら人のお食事。お母さんにそう教わったでしょ?」

「阿呼、お野菜はあんまりなの」


 なら半分だけは貰ってあげる、とお姉さん振っていたらお腹が鳴った。歌っている内に時間は過ぎていたらしく丁度お昼時。私たちは木陰に寄って、お母さんに持たされたお弁当を広げた。

 お母さんはレパートリーは少ないけど料理そのものはとっても美味しい。私は阿呼と中の具を当てっこしながらおにぎりを頬張った。時折の野外学習では男家族とも合流してピクニック気分で食事をしたものだ。半日歩いた体に程よい塩が効いて元気が湧いてくる。


「ご馳走様でした」

「美味しく頂きました」


 手を合わせたら畳んだ竹皮包みを旅行李りょこうりに仕舞って、代わりにお母さんから渡された腕輪ほどの茅の輪を取り出す。食休みの時間は道結ちゆいの練習に当てると決めていた。


「さて、どうしようか」


 二人してミニ茅の輪を手に動きが止まる。

 私たちは道結ちゆいのやり方を一切教えられていないのだ。教わったのは御業の根本。如何にして現象を引き出すかという基本的な仕組みだけ。どうして教えてくれないのかと聞いたらお母さんはこう答えた。「自分で考え、出会った人から学びなさい」と。


「とりあえず基本通りにやってみよう。阿呼、御業の基本は?」

「想起!」

「うん。じゃあ茅の輪と茅の輪の間に道を繋ぐなら、どんな風に想像する?」

「うーん……。あ、阿呼たちが茅の輪を潜った時、茅の輪が光ってたでしょ? だから最初は茅の輪を光らせて、それから……光の幕を下ろす?」

「そうだね。それでやってみよう」


 星霊の御業はすべからく想起によってもたらされる。別の言い方をすれば「想像する」「念じる」ということ。

 道結であれば手元の茅の輪と今一つ、別の場所の茅の輪の間に道を通すイメージが必要になる。そして想起は身の内に宿る星霊に働きかけることを意識して行う。望む事象によっては周囲の星霊にもイメージを伝播させて、念じた通りの事象を体現する。と、これがまぁ、言うは易し行うは難しの極みなのだけど。


「ん?」


 ふと気配を感じて振り返ると、何やら黒いものが草場に引っ込んだ……ような気がした。


「どうしたの?」

「いや、今何か……。気のせいかも」


 何かいたにしても蛇や蜥蜴の類だろう。例え毒蛇がいても藪を突かなければ向こうの方から去って行く。私はそういうことにして、御業の練習に意識を戻した。


「よし、それじゃあ長床前の茅の輪に繋ぐ感じで始めるよ」

「はいっ」


 両手でミニ茅の輪を捧げ持って集中。道を繋ぐ先は私たちが人の姿になった時に潜った長床前の茅の輪だ。今向かっている石舞台や二宮、三宮にも茅の輪はあると聞いていたけれど、実際に訪れたことがないと道は結べない。道を繋いだ先のイメージが持てないから。


「あっ、光ったよ! お姉ちゃん、ほら」


 見れば阿呼の茅の輪が薄っすらと若草色の燐光を帯びていた。


「おおっ、凄いじゃん! 阿呼やるぅ!」


 さすが我が妹。これは金打に値する一打だよ。


「見て、お姉ちゃんのも光った。よーし、次は輪っかの内側に光の幕を作ってみよう」

「うん。それから行きたい方の茅の輪も同じように光ってるって考えるのみるのは?」

「そうだね、早速やってみよう!」


 二人して盛り上がったところで再度集中。それからは時間も忘れて、ひたすらトライ&エラーを繰り返した。




 ***




「うわ、まーじか。道結ちゆいとか初歩の御業も使えないを大嶋廻りに出しちゃったの? 真代ましろちゃん厳し過ぎなんじゃい?」


 遠く木の枝から狼姉妹の様子を見ていた木葉木菟このはずくは面喰ったように大きな目を瞬いた。


「てか昼休憩長過ぎ。いつまで御業の練習してんのよ。今日は石舞台に寄るんだろうけど、それにしたって暗くなっちゃうじゃない。あーもう、早く行きなったらぁ!」


 ヤキモキついでに思わず羽をバサつかせたら、幹の下で驚いた鹿の親子がケーンと鳴いた。その声にハッとなった狼姉妹は辺りを見回し、そそくさと移動を始める。


「よしよし、その調子。私が見張り番の時に面倒事は御免だからね」


 木葉木菟は一人得心して枝を離れると、遠間に姉妹を追いながら空を渡って行った。




 ***




 深い夕映えの赤に一番星がチラチラと輝きだした頃、夏の終わりの風がさめざめとした音を奏でて草原を吹き抜けた。渡る風は大きないわおに砕かれて散って行く。その磐の上に、ぽつねんと佇む影一つ。


「おっせーなぁ。何処で道草喰ってんだ。ったくよー」


 どこか幼さの抜けきらない声の主は真神原追風尊まかみのはらのおいてのみこと

 手入れ知らずのボサボサした散切り髪に浅黒い肌。首刈すがるがやんちゃ三兄弟と呼ぶところの末弟格、追風おいてだ。

 彼が座す磐坐いわくらこそ、三ツ子岩の上に延べ板のような大岩を横たえた石舞台。真神原まかみのはらのヘソとも言えるランドマークだった。その威容たるや、真神原の端から端まで余すことなく膝下しっかじ伏す怪物の如し。


「お?」


 鼻先を掠めた風に匂いを感じて、追風は槍を片手に立ち上がった。狩場の神として石舞台に拠を構えてより、父神の指導の下、槍捌きも上達し、手に馴染んだ槍だ。

 頭上の空色を窺えば、逢魔が刻にしっとりと暮れなずんでいる。追風は槍を担ぐように肩へと通し、その両端に手を掛けた。深々と息を吸い込んで風に紛れた匂いを確かめる。

 追風は母神が寄越した伝魔てんま――鳥や獣に言伝ことづてを持たせる御業を受け、しばらく前から首刈すがる阿呼あこやの到着を待っていた。


「ようやく来たか。仕留めといた鹿が無駄にならずに済んだな」


 姉妹の匂いを認めて呟く。兄妹の中で一番狩りが得意だった首刈は、今や狩猟神となった追風にとっても一目置く存在だ。阿呼も首刈の相棒として才覚を伸ばしていたので、再会が楽しみだった。

 邂逅を思い、ニヤッと笑みを浮かべかけた追風は、けれども寸ででそれを引っ込めた。大岩の突端に設えた茅の輪。その辺りに何やら妙な違和感を感じた。

 獣か、と訝ったものの、直ぐにその考えは捨てる。この石舞台に好んで寄って来る動物はいない。真神原の狼が集う場所に近付くなど、わざわざ狩られに行くようなものだ。

 追風は担いだ槍を利き手である右に持ち替え、茅の輪の方へと踏み出した。先刻の気配は鳴りを潜めている。

 思い過ごしか――。

 追風は茅の輪の前に立ち、ぐるりを見回した。


「なんだ、なんも――」


 いねーじゃねーか、と続く筈が、そうはならなかった。

 茅の輪の向こう。石舞台のへりから突如、白い何かが奔流のように襲いかかり、追風の体をすっぽりと呑み込んでしまった。




 ***




 奇麗な菖蒲あやめ色の夕空を睨み付けて、私は阿呼と先を急いだ。

 道結ちゆいの練習にのめり込んだせいで、石舞台に着く前に日が暮れようとしていた。魔法のような黄昏の空模様が一旦、藍色に呑み込まれてしまえば、夜の帳が下りるのはあっという間だ。


「あー、失敗したー。阿呼、平気? 疲れてない?」

「まだへーきー」


 隣を走る妹は、有難いことに余力を残している様子。よし、これならば、と思った途端、ドサッと音がした。


「阿呼!?」

「こけたー」

「まじかー」


 私は爪先でターン。阿呼の手を取って助け起すと、脱げかけた笠を直して、体中にくっついた草を払った。阿呼は笑顔だ。怪我はないらしい。


「ありがとう」

「どーいたしまして。どうする? ちょっと休憩する?」

「ううん、このまま行こ? 暗くなったら狼の時みたいには目が利かないもの」

「だね。あれ? 阿呼、袖が」

「え? あれ? 草で切っちゃたのかな?」


 草を払っていたら水干の肩口がスッパリと切れているのに気が付いた。確かに草で肌を切ることはある。が、夏向きに通気性のいい麻とはいえ、しっかりとした生地の水干をこうも奇麗に切り裂くとは思えない。

 と、その時。ザッ、とかガサッという音がして、私は見るとはなしに周囲を窺った。すると暗い草場の蔭で何やらゆらゆら蠢く物がある。


「……何かいる」

「え?」

「見ないでっ」


 咄嗟に妹を制した私は、直感的にお昼に見かけた草場の影を思い出した。どうも尋常の物ではないらしい。どうするか思案して、私は即座に結論した。石舞台が近いなら正体不明を相手に下手なことはせず逃げるに限る。


「いい? 今から手を繋いで思いっきり走るよ。絶対に振り返らないで。前だけ見て走って」

「分かった」


 その言葉を合図に私たちは全力で走った。何か得体の知れないものが草場に潜んでいて、それがワサワサと音を立てながら追いかけて来る。言い知れぬ恐怖が獲物として狩られる側の心境を呼び覚して、心臓がバクバク跳ねた。


「頭下げて! 止まらないでっ」


 獣の耳に風切音を察して私は叫んだ。咄嗟に身を低くして走る頭上を何本もの黒い帯が右から左から掠めて行く。


「お姉ちゃん何これ!?」

「分かんない! 分かんないけどヤバイ! 絶対に止まったらダメッ」


 ずっと平穏無事に過ごして来たのに、なんだってこんな目に遭うんだ。そんな未知と理不尽に対する怒りが湧いて、けれども次の瞬間、私は盛大にすっ転んだ。


「いったーい! なんか引っ掛けたぁ」

「お姉ちゃん立って!」


 引き起こされながら足元を見れば黒い帯の正体は茨。その棘が脚絆を裂いて足を傷付けていた。慌てて立ち上がると四方の草叢から鎌首をもたげる無数の茨。それが鳥籠のように天蓋を覆い尽くして行くではないか。


「お姉ちゃんどうしよう?」

「どうするもこうするも……」


 逃げ場なし。打つ手なし。武器になりそうなものは旅行李の中の小刃くらいなもの。未だ御業を体得していない私たちは狼に戻る術もない。そんな哀れな獲物目がけて鞭振るように茨がしなった。


「私は真神の皇大神だ! 大嶋治真神おおしましろしめすまかみの首刈皇大神すがるすめおおみかみだぞっ、あっちへ行け!!」


 咄嗟に叫んだ。背に妹を庇いながら、精一杯の虚勢を張って。

 すると辺りは突然に緑めいて、それに怯んだのか、茨が振り下ろされることはなかった。そのまま固唾を飲んで見守っていると、茨は草場に隠れてそれっきり。


「た、助かった……?」

「お姉ちゃんすごいっ」

「私? 私なんにもしてないよ」

「ううん。だってお姉ちゃん光ってる。その光で追い払ったのよ」

「へ? 私光ってる? この緑なのって私が光ってるからなの?」

「うん! 長床でお歌を歌った時も光ってた。奇麗だなって思ったもの」


 行ってきますの歌を歌った時か。確かにあの時、インタールードで目を開いたら辺りは新緑の時期に戻ったかのように見えた。そうか。あれも私自身が発した光だったのか。

 腑に落ちると同時に安堵。すると途端に若草色の光は引っ込んで辺りは再び暗くなった。


「とにかく急ごう。もう夜になっちゃう」

「お姉ちゃん、足は大丈夫?」

「掠り傷! へっちゃらだよ。阿呼は平気?」

「うん、へっちゃら!」


 やせ我慢ではない。出血もほぼなく、狼に生まれ変わった今の私には屁でもなかった。それに阿呼も決して弱々しい妹ではない。両親から分け隔てなく狩りのイロハを仕込まれていたし、私とのツーマンセルでは追い討ちアシストばかりでなしに、奇襲を任せることもしばしばだ。柳に雪折れなし。今不安があるとすれば、初めて人の姿で長距離を行くという点くらいだろう。

 私たちは夕闇迫る中を夢中で走った。そうして二藍ふたあいの空がまったき藍に染め変えられた頃、目の前にようやく石舞台らしき大きな影が見えてきた。


「ふぅ。どうにか暗闇の迷子にならずに済んだね」

「うん。早く行こ」


 石舞台の間近に立った時には私も阿呼も顎が出て、肩で息をしていた。なんにせよ今晩の寝床は確保できた、と額に汗を拭い、顔を上げて石舞台の主に呼びかける。


追風おいてー! 来たよー。出迎えてよー」


 涼やかな風が頬を撫でる。返事はない。

 おかいしね? と、阿呼と目を交わしてもう一回。

 やはり返事は……。


「んんー!」


 あったような気がします。なんとも苦しそうな、くぐもった声が舞台の上から。


「今の追風お兄ちゃん?」


 阿呼が小首をかしげる。私もそれに倣う他術を知らない。


「追風ー?」

「んんー!」


 どうやら間違いなさそうだ。なんだろうか?

 私は訝りつつも阿呼に待つよう言って、旅行李りょこうりをその場に落とし、石舞台に取り付いた。

 石舞台は幅三米、高さ二米程の三つ子岩の上に、厚さ五米、幅二五米はあろう俎板まないた岩が乗っかったものだ。どこも無骨にボコボコした岩なので取っ掛かりも多く、狼由来の運動性能を活かせば登るに苦労はしない。私は呼吸を整えるとスルスル登って行った。


「追風?」


 縁に手をかけたところで呼びかけ、すっくと立ち上がって舞台上を見渡す。闇が濃くなった景色は眺望が利かない。欠けた月明かりの下、茅の輪と、その手前に何やら白っぽい塊が見えた。


「追風なの?」


 嫌な予感がひしとした。謎の塊に向かって声をかけると「んー、んー」と返事をする呻き声。弟の変わり果てた姿に慌てながら、私は塊に飛び付いた。間近に見るとそれは白く、触れればベタベタと手に貼り付いてくる。


「ちょっ、なんなのこれ!?」


 言いながら繭のようなものを引っ掻き気味に取り除く。爪の間にニチャッと溜まる不快感も無視して無心に手を動かすと、ややあって追風の顔が現れた。


「ぶはっ!」

「一体何がどーなってるの!?」

「知るかっ、なんかいる! 気ぃつけろ!」


 逆切れ気味の警告に身構えると、被せるようにサーッと鉄黒てつぐろの影が落ちてきた。見れば茅の輪の向こう、月明かりを遮る巨大な生き物が、幾本もある脚を蠢かしているではないか。


「阿呼! どっかに隠れててっ!!」


 最優先で下にいる妹に警告を発し、後ろ向きにでんぐり返って立ち上がる。申し訳ないけど追風を自由にしてあげるだけの余裕はない。

 敵は、大蜘蛛だ。

 私は咄嗟に腰回りや懐をまさぐるが、惜しいかな、武器になりそうなものは何も持っていなかった。


「おまえが真神の新しい皇大神すめおおみかみかー?」


 なんということでしょう。

 驚いたことに大蜘蛛が言葉を発した。しかも見てくれに似つかわしくない女の子っぽい声で二度びっくり。


「なんなのよあなた!? 私たちを食べようとでも言うつもり!?」


 徒手空拳の心許なさを隠して挑みかかるように言い返す。追風が大蜘蛛の下で抜け出そうと藻掻いてるのを見れば、此処で弱気や迎合はない。

 私は相手に視線を外させまいと、翡翠エメラルド双眸そうぼうに全力全開の目力めぢからを込めてめ上げた。


「狼の子供なんかベロンと食べちゃうぞー」


 必死の眼光にも何食わぬ顔で、返ってきたのは随分迫力に欠けた言い回し。大蜘蛛は両の前肢を天に突き立てながらこちらを威嚇してきた。


(どーすんのこれ? え? どうしよう。おかしな茨の次は大蜘蛛とか私のスケジュール帳の何処を見たって載ってない!)


 巡る思考に問い合わせる。

 小刃は?

 旅行李の中です。

 杖は?

 下にほっぽて来ました。

 おお、もう、絶望しかない。

 いや、待て待て。と私のズレた思考が呼び止めた。

 蜘蛛は益虫だ。前世の私が意図的に殺生したことがあるのは蚊や例のGくらいなもの。部屋に迷い込んだ虫は積極的に逃がしてあげたし、蚊やダニを食べてくれる蠅取蜘蛛はえとりぐもは放し飼い。時にはその仕草を愛でていたくらいだ。そう、今この大蜘蛛がしているような仕草も。


「私、蜘蛛は好きよ。そのピンと立てた前肢を左右に振ってみせてよ」


 蜘蛛に鏡を見せるとコミュニケーションを取ろうと手旗信号のようにサインを送るという説がある。私は両腕をV字に広げて、少し右に傾いで見せた。別に意図的な駆け引きとは違う。話せる相手を前にしてこんなことを始めるのは、持ち前のズレてる感性のなせる業だ。


「こうかぁ?」


 一拍置いて何故か大蜘蛛は応じた。中々に人懐こいじゃないか。嫌いじゃない。


「ほら可愛い。あなたお名前は?」

「あたい放谷はなやつ!」


 元気のいいお返事。花丸です。いや、はなやつか。はなやつ、花奴、花やっこ!


「素敵な名前じゃない」

「そおかなぁ?」


 未知との遭遇から一転、会話の魔法で緊張感が旅立って行かれた。かに思われた。


「首刈! これ使えっ!」


 見れば、もろ肌脱いだかのように半身を抜け出した追風が、私に向けて何かを放った。


「ちょ!」


 カランカランと乾いた音を立てて転がったそれは、受け取ろうと体勢を崩した私と追風の中間でせせら笑うかのように急旋回。石舞台の下闇へと吸い込まれてしまった。見た感じ槍っぽかったね。


「下手くそっ!」

「うるせー!」

「もーいーかー?」


 姉弟喧嘩は蜘蛛も食わないとはこのことか。大蜘蛛は茅の輪を迂回して、思いのほか機敏に私へと迫ってきた。泡を食った私は即座に横っ跳びから側転決めて、隙を見せずに向き直る。

 狼由来の人体は前世のそれとは比べ物にならない運動性能を誇った。それから度胸。こうして対峙していられるのも、何度となくこなしてきた狩りの経験の賜物だ。感謝感謝。


(さぁてどうしよ? 手ぶらで攻勢に出るのはちょっと厳しい。なんたって方や横綱、こなた平幕。ここはやっぱりさっきの槍が欲しいけど……)


 考える暇すら押し潰そうと、大蜘蛛が再度巨体を浴びせかけてきた。こっちは一歩下がればもう土俵際。こうなればもう仕方がない。私は見切り千両とばかりに石舞台の縁を蹴って、足下の闇へと身を躍らせた。


 ドサッ――。


 足裏から頭上の耳先まで一気に衝撃が駆け抜け、尻尾は総毛立ってピンと張りつめた。しびれるぅ!

 見上げれば早くも舞台の側面に張り付いた大蜘蛛が、大小の目玉を赫々(かくかく)と輝かせている。

 ぞわり――、身の毛がよだった。


(あ、これダイブしてくるやつだ)


 コーナーポストから獲物を狙う覆面レスラーの如き鋭い眼光。危険を察した私は全速力で舞台の下へ逃げ込んだ。間を置かずに大蜘蛛の着地音が響く。

 そして訪れたのは静寂。

 ……ん? 何故ここで静寂が訪れるのか。腑に落ちない思いで振り返れば、そこには微動だにしない大蜘蛛の後ろ姿。しかも全ての脚を突っ張って背伸びでもしているかのような無理のあるポーズだ。

 私は用心しながら動かない大蜘蛛の脇を回り込んで行った。


「お姉ちゃん!」


 そこにあったのは槍を天に突き出すように構えた阿呼の姿。小さな体を精一杯伸ばして、槍の穂先に触れるか触れないかのところに大蜘蛛の下顎を捉えている。敵が全力で足を突っ張っていたのはこの為だ。


「阿呼えらい! でも隠れてるように言ったよね?」

「槍が落っこちて来たから拾ったの。そしたらお姉ちゃんも落ちて来て……。お母さんにお姉ちゃんを助けなさいって言われたから」


 ああっ、天使! ここに天使がいますよ? ご覧頂けてますか?


「ありがとう阿呼。お姉ちゃん、すっごくすっごく助かったよ」


 私はプルプルと伸び切った頑張り屋さんの手から槍を受け取り、ぐりぐりと大蜘蛛に突き付けてやった。


「ちょっとあなた。まだやる気?」

「や、やらないよー」


 凄んで見せれば先程までの迫力とは縁遠い情けないお返事。


「本当にぃ?」

「ほんとだよー。先っぽは嫌いなんだー」


 そんななりして先端恐怖症か。腹立たしくも気が萎える。

 突っ張った脚がブルブル震えだしたのが見えたので、私は突き出していた槍を収めてやった。


「ふいー、やれやれだぁ」


 こっちの台詞だよ。心の声で激しくツッコミながら、おかしな動きをしないかと目を光らせる。


「はなやつ、だっけ? とりあえず追風の糸を解いてきてよ」

「必要ねぇ! もう抜け出したぞっ」


 大蜘蛛の返事より先に、追風の不機嫌な声が響き、跳んだかと思えば大蜘蛛の頭に降り立った。


「こいつ、とんでもねー野郎だ」


 言いながら踵で頭を小突く追風。声からして野郎ではない気がするけどね。


「踏まないでよー。もう参ったしたんだよー」


 大蜘蛛からは情けなくも抗議の声。


「おいらは聞いてねーぞぉ、もっぺん言えー!」

「参ったよー、参ったよー、もーいーだろー?」


 頭の上で足踏みされて、大蜘蛛が泣き言を言い出した。

 一連の様子がなんだか滑稽に思えて、気が付くと私も阿呼も笑いを漏らしていた。そうなればもういざこざはお終い。私たちの笑いに引っ張られた追風も笑顔になって、突然の戦いは幕を引いた。

 そしてドロン!

 なんとも昔めいた効果音を伴って大蜘蛛は少女の姿に早変わり。見た目の年齢は私に近そうか。追風や阿呼よりは一つ二つ年上に見える。

 草臥くたびれた麻の貫頭衣を身に纏い、明るい筈の蒸栗色の髪も随分汚れている。お団子を作る位置と襟足の四箇所に短い髪を束ねて、どれも使い込んだ棒束子のようになっていた。パッチリした目は空色でキョロキョロとよく動く。浅黒い顔には屈託のない笑みを張り付け、愛嬌よろしく上の前歯が一本欠けていた。


「何もんだよ? お前」

「あたい? あたいは放谷はなやつ

「それはもう聞いたけど」


 茅の輪いらずの生変身をまざまざと見せつけられて、驚きと羨望の気持ちが綯交ないまぜになる。隣で目をしばたいていた阿呼が持ち前の素直さで尋ねた。


「すごいね! 今のどうやったの?」

「なんでー? おまえたちも狼になれるだろ?」

「……」


 気まずい沈黙が、こう、ね。

 大牙おおき月光つきかげがどうかは知らないけれど、私も阿呼もまだ無理だ。様子からして追風もそうなのだろう。放谷は不思議そうに私たち三人を見回していた。


「よしっ、飯にしよーぜ! 今日仕留めた鹿肉があるんだ。話すのは食いながらでいいだろ」


 追風の音頭に揃って石舞台の下へ。追風は草で隠した竹編みの落とし戸を持ち上げて中に案内してくれた。なんと地下に住処があるらしい。私は狩場の神様のお宅拝見とばかりに乗り込んだ。なんだか普通に蜘蛛っ娘まで連れ込んじゃったけど、一緒に笑った仲だし、まあいいか。

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