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異世界(まほろば)に響け、オオカミの歌  作者: K33Limited
章の三 赤土編
52/172

050 皀角子神社

 昨夜の雨が樹雨きさめになって、緑の雫に打たれるたびに、耳をピコピコさせながら進んで行く。高い高い樹冠の上には、雨上がりともなればひょっとしたら中央高地を跨ぐような大きな虹が架かっているかもしれない。そんな期待に突き動かされて、私は辛抱たまらず声を上げた。


飛鳥あすか!」


 習いたての御業を唱えると、背中からググンと星霊の翼が生えて、まだまだ思ったような軌道には乗れないのだけど、体は上へ上へと運ばれて行った。


「あっ、こら! 貴女が率先して目立つ真似してどうするの!」


 夕星の叱責に舌を出して見下ろせば、同じく覚えたての御業を試したがっていた阿呼と放谷が翼を広げて付いて来る。一歩遅れてほぞを噛みながら、夕星もふわり。私たちは樹冠を突き抜け、大空の風に五体を晒した。


「絶景かな! 絶景かなーっ!」


 鬱蒼とした樹海から視野が開けて喜色満面の私。修学旅行で乗った飛行機はもっと高い空を飛んだけれど、硝子越しじゃない空は一味も二味も違って見えた。


「うおー! 私、初めて神様やっててよかったって思えた!」


 感動が抑えきれずにお馬鹿なことを口走る。後頭部をペシッと夕星に叩かれたけど、なんのその。期待した虹こそなかったけれど見渡す樹海のスケールと言ったら! 飛べるって本当に素晴らしい。阿呼も小鼻を膨らませて興奮気味。放谷は腕組みして呵々と笑っている。


「あのねぇ。向こうの樹冠を見てご覧なさいよ。金蚉かなぶんの群がブンブン飛び回ってるでしょ。こんなとこに浮いてたらいい的よ」

「はいはい。分かった分かった」


 夕星の不満ゲージが振り切れない内にと、私は阿呼たちに声をかけて、今し方抜けて来た樹冠の中に身を潜めることにした。


「でもさでもさ、こうやって高い所から見渡して、皀角子さいかち神社の位置を割り出しちゃえば、手っ取り早いってのもない?」

「それは確かにね。そうだわ放谷、貴女ってば目端が利くんだから、ちょっと見回してご覧なさいよ」

「ほいきたー」


 打てば響く放谷は幽身かすみを紡いで姿を消した。阿呼は地図を広げて、太陽の位置から方位を割り出し、凡その方角を放谷へ。


「どう? なんか見えるー?」

「んー、どうかなー。まだ随分遠いだろうからー」


 それはそうだ。下を行けば順調に進んでも二日三日の行程。期待し過ぎるのもよくないと、降りる提案をしようとした矢先。


「おっ! なんかあったぞー!」


 発見の報に我先と樹冠の上に頭を並べ、しきりにキョロキョロ。肝心の放谷が透明化しているのでどこを指差してるのか分かりゃしない。


「ちょっと、幽身を解いてよ」

「おお、悪い悪い。あっちなー」


 一方の手で頭を掻きながら指差す放谷。一斉にそちらを見やれば――。


「お?」

「んん?」

「あれ?」

「あのおっきなやつ?」

「丘?」

「建物?」

「建物!? 大き過ぎない?」

「見間違い?」

「分かんない」


 頭上に並んだ四つのクエスチョンマーク。それでも確かに目を引くものは存在した。遠目も遠目にぱっくりと樹海が開けて、そこに収まる謎の陰影。方角は間違いなく皀角子神社の方向と一致している。


「なんにせよ、見えたんなら飛んでく?」


 大胆不敵に夕星。


「ありっちゃありだけど危なくない? 私たちまだ夕星程には上手く飛べないし」

「お姉ちゃん、阿呼なら平気よ」

「あたいも行けるぞー」


 なん……だと……。それじゃまるで私一人が下手っぴみたいじゃないのさ。


「あ、二人が行けるんなら私も問題ないよ」


 プライドがそう言わせましてね。

 満場一致で飛行プランが成立するや、飛び慣れた夕星を先導役に立てて、私たちは樹冠から大空へ舞い上がった。

 中天から降り注ぐ太陽の光を一杯に浴びて、広げた翼に風を掴む。星霊の翼はこの上なく美しい輝きを孕み、大気を打つたびに光の欠片を散りばめて、流れる帯を空に描いた。

 眼下に過ぎ行く樹海を見れば、昨日までのあくせくした行程が嘘のよう。夕星はほんの少しずつ速度を上げて後続を牽引。離されまいとする内に、自然と飛び方のコツが身に付いて行くのが分かった。

 そして前方。お目当との距離が刻々と縮まって、陰影に輪郭が生まれ、全容が明らかになって行く。


「あれって何だろう? やっぱり建物っぽいけど」

「なんだか馬宮うち外宮げぐうに似てる。それにしても随分と大きいわね」


 馬宮まみやの外宮と言えば、原初の九つの宮の大祭でも抜きん出て規模の大きな馬競うまくらべ神事が催される建物だ。実際に見た訳じゃないけど、聞いた話では大嶋でも最大級の建造物だという。夕星は前方の目標物がその外宮よりも大きいと言っているのだ。ほんとかな?

 やがて辿り着いた目標物は、真円に近い楕円形をした、途轍もなく巨大な建造物だった。


「お姉ちゃん、これは?」

「これは――」


 周辺警戒を怠ることなく建造物の端に着地。阿呼の素朴な疑問に対する答えを、私は一つしか持たなかった。


「嘘みたいだけど、これ、円形闘技場コロッセオだ……」

「ころっせお? それはなぁに?」

「神楽殿や舞楽殿なんかと同じかな。ここで色んな催し物をして、周りを囲んでる観覧席から見物するんだよ」

「ふぅん。こんなに広い場所で」


 かの巨大帝国ローマが残した代表的な遺跡の一つ。それが数倍するスケールで厳然と蜷局とぐろを巻いている。


「しかも木造なんだけど。樹海の木を切り出したって、ここまでの物が造れると思う?」

「さあ。でも、そんな大がかりな造営の記録は聞いたこともない。誰かが御業で立てたって言われた方がピンと来るわ」


 夕星の言葉を裏打ちするように、建物には雨風によるくすみなどが一切なかった。大きさはざっくり目測で直径一(キロ)。闘技場と断定するには二の足を踏むサイズだ。どうしてって、観客席アリーナから見た闘士は豆粒ほどになってしまうのだから。


「なーなー。東の端の櫓、あれはなんだー?」

「あれは中に神座みくらを据えた神明櫓しんめいやぐら。神々の観覧席ね。うちの外宮にも同じものがあるよ」


 それは他より一段高い位置にあって、観覧席に迫り出す立派な楼殿。神明造しんめいづくり独特の鰹木かつおぎが大棟の上に並んでいる。


「お姉ちゃん、こんなに奇麗なのは虫や獣が寄って来ないから? だとしたらここって、三宮の境内なの?」

「どうだろう。夕星はここが神域かどうか分かる?」

「確かに神域だけど、ここだけの単立の神域みたいね」

「単立? この建物限定ってこと?」

「そう。三宮なら鳥居ごとの三重の神域になっていなきゃ変だもの。ここからは外神域や合神域、内神域のどの気配も感じない。ここは神と神が許しを与えた者、例えば宮守衆だとか、個別に許された者だけが出入りできる結界になっているみたい」


 要は関係者以外立ち入り禁止と言うことだ。神様以外は入場パスが必要ってことだね。


「それで虫や獣が入り込んだ形跡もないのか」

「ここのことなら三宮に行けば分かるんじゃないかー?」

「放谷の言う通りだ。ここは後回しにして先に三宮参りを済ませちゃおう」


 飛行で一気に距離を稼いだから、既に皀角子神社も手の届く位置にある筈。私は一際高い神明櫓に目を付けて、そこから周囲を捜索することにした。




 ***




 千軽率いる調査隊は、二度の野宿を経てこの日も地震の痕跡を探し歩いていた。現在地は猟豹さっぽう神社から南東へ二日の地点。東へ向かえば犲狠さいろう神社。南へ進めば中央高地から流れ落ちる突兀とっこつの滝へと到る。


「おっと、どうやら見つけちまったみたいだな」

「ああ、そのようだ。バースタン、千軽様とみんなに報せて来てくれ」

「まったく。顎で使ってくれるぜ」

「早く行け」

「いい子にして待ってろよ」


 相棒の軽口を手で払って、ジーノスは草場に隠されていた地割れを見据えた。幅は二米そこそこ。恐らく揺れた時にはより広く口を開いて、収まるとともに狭まったのだろう。煉瓦ほどの石を放り込むと、壁に当たる音を繰り返すだけで消えてしまった。


「相当深そうだな。それに――」


 裂け目を追って視線を走らせると、草の海を割ってどこもでも続いている。中々お目にかかれない長大な地割れだ。

 やかて千軽以下、同班の面々が集まって調査が開始された。

 千軽は霊塊たまぐさりの化け物の出現に備えてバースタン、ラデルとともに周辺警戒に出た。猟豹神社を出発してから今日まで平穏に過ぎており、五日に一度の遭遇率を考えるとそろそろ危ない頃合いだ。

 地割れの調査はバースタン以下、イビデ、カリュー、カルアミが担当。発見地点の裂け目に丸太を渡し、そこに縄をかけ、カリューとイビデが両岸に分かれて二点支持。ジーノスが単身で降下する。


「ボス、私かカリューが代わった方がいいんじゃない? その、ボスは太目だし」

「これでも年の割りに無駄な肉は付けてないつもりなんだがな」

「体格の話ですよ、ボス。僕やイビデの方が明らかに細い」

「だが俺は、耳と目に加護がある。行ける所まで行ってみるさ」


 ジーノスは信奉する梟トーテムから鋭敏な聴覚と夜目を授かっている。地の底に潜るとなれば、一際役立つ加護だった。


「気を付けて、ボス」

「ああ。合図をしたら引き上げてくれ。それじゃあゆっくりと頼む」


 いつ閉じるとも知れない地割れに潜るのは命懸けの作業だ。イビデはジーノスの肩を二度叩き、それからカリューに目交ぜをして縄を肩にかけ、ジーノスを降ろして行った。

 表層の土臭さが絶えると、冷やりとした岩盤の間を降りて行く。ジーノスは広げた両足を軽く壁面に擦らせながら下を覗き込んだ。

 暗い。真上からの光は底なしの闇に呑まれ、夜目が役に立ちそうな状況ではなかった。そこで、途中途中目を閉じながら耳に神経を集中する。コォォォオオ――、と下から風の吹き上げるような音がしたが、実際の風はない。例えば貝殻を耳に当てると波音が聞こえるように、地割れという狭い空間で感じる特異な音の類だった。


「ボース! 今、三〇米だけど、まだ行けそう?」

「ああ、問題ない! このままのペースで行ってくれ!」


 三〇米地点から再び降下。徐々に狭まる岩盤は足を開く必要もなく触れるようになり、倍の六〇米地点で腰や肩までも岩盤に擦れ始めた。


「止めろー!」


 即座に降下が止まる。ジーノスは掴んでいる位置より少しい高い所に括り付けた角灯カンテラに火を入れて取り外し、手持ちの細縄に括って下に降ろした。闇の淵に橙色の光が落ちて行く。一〇米、二〇米、三〇米。


「ん?」


 光を追う目に何か黒い、もやのような物が見えた。瓦斯ガスかと思ったが異臭はしない。耳を澄ますと微かにシュワシュワと音がした。


「そこの方に黒い靄が見える。黒く見えるのは光の加減かもしれないが、とにかく霧のように目に見える気体だ。異臭はしない。誰か見当は付くか?」


 地の底から響く声に地上班は首を捻った。カルアミは少し考えて、気体のサンプルを取るべくイビデに告げた。


「黒い靄は念の為調べてみたい。一度ボスを引き上げて瓶を渡したいのだけど」

「多分、ボスの体格だと今以上に下へは行けないわ。私が行くからバースタンたちを呼び戻して」


 カルアミがバースタンたちを連れて来ると、イビデは縄をラデルに託し、もう一本丸太を渡して自らが降下することに。


「千軽様は一緒じゃなかったの?」

「他の班の様子を見に行かれたわ。どの班が化け物と遭遇するか分からないから」


 カルアミの答えを聞きながら、イビデは手早く降下の準備を始めた。支度が整ったところにカルアミが小瓶を差し出す。イビデはそれをウェストポーチに仕舞い込んだ。

 ジーノスより軽いイビデはバースタンの単独支持で降下を開始。ジーノスの支持はカリューとラデルの受け持ちだ。バースタンは遠慮のない速さで縄を繰り出した。イビデも場数を踏んだ調査員だけに声の一つも上げない。


「お待たせボス」

「来たのか。この亀裂は底が知れない。落ちたらお終いだぞ」

「それはお互い様。状況は?」

「あれだ」


 二つの輪っかを両足に履いているジーノスに対し、一つ輪に右足を引っかけただけのイビデは、自らの爪先の向こうに角灯カンテラの灯を見た。


「薄青く見えるわね」

「ほう、温感があるのか」


 イビデは蛇トーテムから加護を得て、集中することで目を熱線暗視装置サーマルイメージャーとして機能させることができる。今、彼女の目にはオレンジ色の角灯の灯の他に、亀裂に揺らめく靄のようなブルーを見ていた。


「ボスは上がって。私は靄のサンプルが取れるか試して来る。角灯も引き上げて貰って構わないわ」

「分かった。危ないようなら直ぐに言えよ」


 イビデは頷いてジーノスと拳を合わせ、上で支えるバースタンに降下を指示した。ジーノスも引き上げを頼み、二人は上下に離れ始める。

 バースタンは先程よりは緩めに降ろしたが、それでもジーノスの引き上げペースより倍は早い。一〇〇米に到達して縄の余長が無くなった時、ジーノスは四〇米地点にいた。


「おい、イビデ! 限界だが間に合うかー!?」

「あと少しよバースタン! あとほんの二、三米!」


 縄は亀裂に差し渡した丸太に結んでいる。その丸太からバースタンの肩に回して昇降を制御しているのだ。要望の二、三米を稼ぐにはバースタンの肩から縄を外し、丸太に直接荷重をかける他ない。


「よし、ちょい待ち!」


 バースタンは担いだ縄に細縄を結んで補助索にし、それが済むと縄の支持を丸太に任せた。草原サバンナの灌木はカラッカラに乾いているし、いい物を選べるほど数がない。補助索で負担を減らしながら、騙し騙しやるしかなかった。


「どうだー、行けるかー!?」


 イビデが足下を確認すると靄までまだ一、二米るある。誤差は対象の揺らぎによるものだ。イビデは余す距離を詰める為に輪に足首まで通し、逆さ吊りになってポーチから瓶を取り出した。

 ミシッ――。無理な体勢で背骨が軋んだ。と同時に、亀裂に渡された丸太も軋んだ。


「くっ、逃げるな、このっ」


 揺らめく靄はあざ笑うかのように瓶から逃れる。動くたびに足首の締め上げがきつくなり、イビテの動きは精彩を欠いて行った。


「おい、メスゴリラ! さっさとしろ! 丸太が持たねぇだろーが!」


 バースタンの銅鑼声が亀裂に響く。誰がメスゴリラだ、せめて女豹と言え、とイビデは戻ったら眼帯禿げを殴る決意を固めた。そして体を振り子にして一度の振幅で広範の靄を浚い、反動を利用して足首の縄を掴む。咥えたコルクを瓶を持つ手で取り、指を器用に動かして栓をすると、ポーチに仕舞って両手で縄を掴んだ。


 ベキバキッ――。


 乾いた木の砕ける音がして、イビデは二米降下した。上ではバースタンが補助索を手に踏ん張った。ジーノスは二〇米地点。カリューとラデルは支持の為バースタンの補助に回れない。カルアミが細腕をバースタンの腰に回したが、調査員でもない彼女の膂力は大した足しにはならなかった。


「動くなよー! 絶対に動くんじゃねーぞぉ!」


 バースタンに従って、イビデは体を丸めた苦しい態勢で動きを止めた。その両脇を二つに折れた丸太が掠めながら落ちて行く。片足を縄に取られていなければ体そのものをつっかえ棒にすることもできたのだが、とにかく今は動けない。

 上ではバースタンの目の前で補助索の結び目が解け始めた。細縄は上質の麻を縒ったもので強度こそ高かったが、荒縄のように引っかかりがなく、一定の負荷を越えると滑ってしまうのだ。解け切る前に手繰り寄せて主索の荒縄を掴まねばならない。


「くそっ、イビデ! 壁に突っ張れ!!」


 荒縄に手が届く寸前で補助索が抜けた。イビデは吊られた足が自由になると肩と足で亀裂に突っ張ったが、一〇米滑り落ちた所で裂け目が開けて支えを失った。闇に横たわる大空洞に出たのだ。


(死んだ――)


 直感して、イビデは最期に目に焼き付けておこうと真上を見た。そこには抜ける青空を背景にしたジーノスの姿。その手がバースタンの手を離れて落ちる縄を掴んだ。


「むおっ!」


 手筒の中を滑る縄がいとも簡単に革製の手袋を破り、それでもジーノスは痛みを無視して、丸太に縛り付けていた輪を逃がさなかった。結び目の瘤で一瞬制止した機会を捉え、輪に腕を捻じ込む。そして上に怒鳴った。


「引き上げろっ!!」


 急激な負荷を受けたカリューとラデルは肩が抜けそうな衝撃を受けた。カリューが足を突っ張ると亀裂の縁が崩れ、あわやというところをバースタンとカルアミが引き摺り倒す。対岸のラデルは咄嗟に亀裂に背を向け、縄を担ぐようにして踏ん張った。負荷か大き過ぎる上に片側が体勢を崩したのでは、腕力で引き上げるのは無理だ。縄を担いだまま、亀裂から遠ざかるように一歩一歩前進する。


「カリュー! 抜け出して鏑矢かぶらやを撃てっ。カルアミは俺の後ろに座って膝を両脇に入れろ!」


 バースタンが吠えると、下敷きになっていたカリューが抜け出し、カルアミは股を開いた三角座りの姿勢になって、そこに体を返したバースタンの上体が被さった。バースタンは両脇にカルアミの膝を挟んで体を固定し、腕力で縄を巻き上げる。対岸でラデルが踏ん張っている分、なんとか手繰り寄せることは可能だ。

 荷物に駆け寄ったカリューは弓と鏑矢を取り、素早く直上に放った。緊急用に声風こわぶりの御業を載せた鏑矢は天を引き裂くような音を発し、四つの班と、彼らの様子を見に行った千軽の耳にまで届いた。


「イビデ! 大丈夫か!?」

「ええ、ボス。お蔭でまだ生きてるわ」

「俺の見ている前で、誰も死なせはしないさ。怪我は?」

「多分、足首を脱臼したと思う。他は擦り傷だけ」

「耐えられそうか?」

「大丈夫でしょ。誰かさんによれば私はメスゴリラらしいから」

「軽口が聞けて安心したよ。知ってるか? ゴリラってのは見かけによらず心の優しい、いい奴なんだぞ」


 欠片もフォローになってない。そう思ったが、イビデは「そうらしいわね」と相槌を打っておいた。好意を寄せた男に命綱を握られている。そんな今の気分は決して悪いものではなかった。




 ***




 神域のもたらす安堵感からか、神明櫓に入り込んだ私たちは、あれやこれやと建具やら調度やらに目を惹かれて、櫓の中を右左。二つ並びの高神座たかみくらは木の香も薫る燦燦とした白木組。座面には赤々しい毛氈もうせんが敷かれ、シンプルな美がおいそれとは人を寄せない雰囲気を醸している。


「なんて素敵空間! こんな別荘が欲しいっ」


 思わず両手を差し上げてくるくる回っちゃう。大好きな神社建築の別荘なんて浪漫溢れ過ぎ。お花飛ばして飛ばしてー、なんて舞い上がっていたら本当に花びらが吹雪いてびっくりした。


 ペシッ!


「あいたっ」

「貴女ねぇ。そうやって勢いで御業使うのよしなさい。こんなに散らかして」

「ごめんね天才で」

「自称天才は大抵バカだけどね」

「んがくっく」


 ぐうの音も出ない。確かにちょっとした想像から電子レンジを出したり花びらを出したりと、ここのところ普通じゃない。慣れてきた頃が一番怖いという普遍的なジンクスか。はたまた体から漏出する星霊と赤道帯に溢れる星霊の謎めく調和音シンフォニーか。

 それはそうと、夕星は相変わらず力加減を知らない。はたかれた後頭部がジンジンする。


「お姉ちゃん! 見て!」

「あれが皀角子さいかち神社じゃないかー?」


 二人の声に招かれて外周側の御簾窓に駈け寄ると、樹海の中に切り拓かれた一筋の道。それを辿って傾斜の上を見ると半ば隠れた赤い鳥居を発見。後方には神域らしい普通サイズの森が窺えた。


「神社には違いないね。三宮かな?」

「きっとそう。行ってみよ、お姉ちゃん」


 珍しく阿呼に手を引かれて神明櫓を駆け下りた。一旦観客席(アリーナ)へ出て場内を横目に外回廊へ。外に出ると上から見た参道までの小径こみちが目の前に開けていた。

 懐中時計を手繰れば時刻は午後一時。心なしか胃の腑が催促にうねっている。小径を渡り、参道を抜けて、斜面の上の一の鳥居へ。神額には赤土三宮の文字。

「ここだ。やっと、や……っと辿り着いた!」


 そこからは神域の加護に身を委ねて、深閑な杜をそぞろ歩いた。示し合わせたように言葉もなく、青い葉風を胸一杯に吸い込んで、道端に団栗どんぐりを見るだに久方振りの歌を紡ぐ。



 どんぐりころころ どんぶりこ


 お池にはまって さあ大変


 どじょうが出て来て こんにちは


 坊っちゃん一緒に 遊びましょう



 団栗をお手玉に歌詞が一巡すると、今度は阿呼が後を繋いでどんぶりこ。そこに放谷が輪唱をかける。



 どんぐりころころ よろこんで


 しばらく一緒に 遊んだが


 やっぱりお山が 恋しいと


 泣いてはどじょうを 困らせた



 団栗と泥鰌どしょうのおかしなおかしな組み合わせ。のほほんとした出会いと一抹の哀切を添えた郷愁。水場を抜けられぬ泥鰌はどれだけ困っただろう。できることなら団栗を送って行ってやりたい、そんな泥鰌の情けが思われる。


「団栗が何をして遊ぶって言うのよ。おかしいじゃない」

「はい台無し」

「何よ」

「ものの例えでしょ。雰囲気を楽しむの。お話だったら山や岩だってお喋りするじゃない」


 ピシャリと言って様子を窺えば、納得顔の夕星はうんうんと頷いた。


「なるほど、お話かぁ。分かった。覚えるからもう一回歌って」

「よろしい。じゃあ阿呼、放谷、さん、はいっ」


 ぐるぐると楽し気な歌を携えて私たちは二の鳥居を潜った。やがて歌詞を覚えた夕星が加わると、段々坂を膝ガクガクで下る様に、輪唱の輪はガタガタになって崩れて去るのであった。南無――。


「見て、三の鳥居! 大きいねっ」

「ほんとだ。この石段を上って行けばいよいよ三宮だ」


 鳥居には皀角子神社と書かれた額束。ようやく参詣が叶う。

 浮き立った阿呼はひょいひょいと軽い足取りで石段を駆け上った。登り切ると林立する常緑広葉樹のくるわ。正面に仰臥するのは待望の赤土三宮。いよっ、待ってましたぁ!


「わお! 枝垂れ木の枝が緑の滝みたいに覆い被さってる! 杜と一体化してて素敵!」


 社殿の雰囲気は桜井市の外れ、大宇陀おおうだ寄りにある忍坂坐生根おしさかにますいくね神社に似ていた。木に枝葉にと、すっぽり抱きかかえられて眠る静かな社殿だ。スケールは横広がりに随分と大きい。さすがは巨大な版図を擁する赤土の三宮。要所要所に目立つのは皀角子の木だろうか。花の時期ならそれはそれは見事だろう。


「真神より、九代皇大神が大嶋廻りのご挨拶に参上しました」


 一歩前へ出て阿呼がのたまう。すると、束の間の静寂を割って流造ながれづくりの庇の下に社殿の門扉が開かれた。ギィィと僅かな軋みも耳に心地よく、何が出るかと首を伸ばして覗き込む。

 やがて、鈴の音と共に現れたのは、触覚のある六名の皀角子衆に担がれた小振りのお神輿。濃紅こいくれないの木組みに花緑青はなろくしょうの鮮やかな碧い屋根をのせて、軒に下がる風鈴棒が涼やかな音を流す。担ぎ手の頭には兜虫の角をあしらった小帽子。腕に嵌めた鈴釧すずくしろの朴訥な音色と相まって清々しい音の風がそよいだ。

 神輿は鳥居と社殿の中間にある、大きな切り株に据え置かれ、六名の担ぎ手は左右に距離を取ってかしずいた。


「初めまして。貴女が鉀兜姫よろいとひめです……か?」


 進み出て神輿の神座を覗いた私は驚いた。育守鉀兜姫命はぐくもるよろいとひめのみこと。その姿は奇麗なおべべに包まれた雌のカブト虫の蛹だったのだ。


「こんな姿でごめんなさい。驚かれたでしょう?」


 艶のある飴色の蛹は私の腕に抱え込めるほどの赤ちゃんサイズ。それが殻の内に僅かに身を捩って言葉を発した。

 驚いたのは確かだ。が、同時に私は感動もしていた。それは決して三宮に到るまでの苦難を思ってのことではない。それは私が常々、完全変態する昆虫に於いて蛹という形態が最も神秘的だと感じていたからだ。なんの変哲もない芋虫がその身を固め、殻の中でドロドロに身を溶かして美しい成虫へと変貌を遂げる。一体、蛹の殻の中では何が起こっているのか。それこそ神懸かりと言うべきものではないのか、と。


「とっても奇麗な飴色。殻を破ったら凄い美人さんが出てきそう」

「あら! お上手ですわ」


 何処から声を出しているのか、すこぶる機嫌のよさそうな声色に私の頬もほころんだ。赤土へ来て苦節三ヶ月。ようやく辿り着いた実感が小波のように押し寄せる。


「昨今はむしもうでばかりで、人は元より神すらおとなわない社なのですわ。大嶋廻りとはいえ、大変なお骨折りだったでしょう」


 ほんとそれ。お宅の眷属に追い回されて何度死ぬかと思ったことか――。

 愛想の下に本音を押し込め「いえいえ」などと調子を合わせれば、横合いから放谷が「散々だったー」と歯に衣着せぬ物言いをする。ここまでがテンプレだからね。仕方ないね。

 私たちは鉀兜姫の計らいで、直ぐに休めるようにと来客用の奥棟へ通して貰える運びとなった。本殿前での別れ際、私は鉀兜姫に気になって仕方のないことを尋ねた。


「あの、さっき物凄く大きな円形の建物を見て来たんだけど、あれは一体?」

「ああ、物部大社殿もののふたいしゃでんのことですわね。赤土の大祭、角力すもう神事はご存知でしょうか?」

「話には聞いたことあるかな」


 赤土一宮の大祭、角力神事。それは一宮ばかりでなく、広く赤土のお社総てで執り行われる神事だ。一所の規模こそ野飛の馬競うまくらべ神事に劣るものの、赤土全土で一斉にとなればその盛大さは疑いようもない。


「遥かな昔、あの建物があった場所には、当社の角力櫓が組まれていたのですわ。それをいつの頃だったか、九柱の神々が催し事を開きたいと申されて、あのような大きな建物が造られたそうですわ」

「ん? それは皇大神と八大神があれを造ったってこと?」

「そうなりますわ」


 はて? 全く覚えのない話が出てきたぞ。千軽ちゃんもこの件に関してはなんにも言ってなかった。畢竟ひっきょう、大嶋廻りだから余計な予備知識を持たせなかったということも考えられはするけれど……。


「夕星は知ってた?」

「私? 知らないわよ。言ったでしょ、中央高地は初めてだって」

「だとしてもさ、耳学問で何かしらってのがあるでしょ?」

「しーらないっ」

「左様か」


 助っ人、頼れず。

 この場は一旦、体を休めて、頭の中を整理するのがよさそうだ。物部大社殿も気にはなるけど、星霊を吸う巨大昆虫のこととか、次に目指す大崩落跡地のこととか、鉀兜姫には色々と聞いておかなくちゃならない。

 それと、なんだっけ? 他にも何かあったような気がするけれど、あれこれ考えてたら瞼が重くなってきました。遅めのお昼を頂いたら、少し横になるとしよう――。

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