044 黒坊主2
水走一宮の参道は一の鳥居から二の鳥居まで、町屋並びの石畳を中央に水路を通して真っ直ぐに続いている。二の鳥居から先は鎮守の杜。続く水路に大蛇楠の枝が張り出して、あたかも通せんぼをするかのようだが、枝下を蛇のように這って進む奇影の参道だ。体か辛い者は杜の遊歩道を伝って拝殿まで進む。子供ならアスレチックのように楽しむだろう。
拝殿に到ると水路は手前、三の鳥居で地下に呑まれる。転宮の拝殿は実際には堂間を持たない神門で、五社神明造の五枚門扉の向こうに大きな岩々と玉砂利の石庭が続いている。五百年前の戦以降、参詣が許されるのは拝殿まで。その先の玉砂利に足跡を刻めるのは神と宮守衆だけだった。
今、石庭の玉砂利を鳴らして足取りも軽く歩むのは馬宮の主祭、野狭飛逆髪夕星媛命。冬晴れの空を見上げてくるりと回れば、目に眩しい黄色の振袖が、蝶のようにひらりと舞って、夕星は石庭の最奥に臥す岩小山の前に立ち止まった。
「夜刀ちゃーん、来たよー」
岩小山に穿たれた大穴は地下の本殿へと下る参道の入り口。手前には両脇に小さな鳥居を寄せてくっつけた転宮様式の三ツ鳥居がある。
穴に向かって放った夕星の声が深奥に谺した。すると間もなく口穴から一筋の影が這い出して、鳥居の陰に人の形を結んだ。当宮の主祭、狭蠅生古縄夜刀媛命だ。
「北風さんから夜刀ちゃんが呼んでるって聞いたんだけど、何か用?」
「悪いわね、わざわざ来て貰って。実はそうなのよ。夕星、貴女、例の小杖の件は片が付いたのよね?」
互いに鳥居の柱を背にして、黄色い振袖と黒のゴスロリが不思議なコントラストを描く。夜刀の蛇目が陽射しを反射すれば、夕星は栗皮茶の馬耳を小気味よく動かした。
「うん。ラデルっていう調査員をシバキ倒してから、首根っ子引っ掴んで護解に行ったでしょ。そこで波長を盗む依頼を出した奴を探して、ぶん殴って取り返したよ」
「うん? そう。しばくやら殴るやら随分と暴れたみたいだけれど、貴女、神旨って知ってる?」
「もちろん!」
「そうよね。当然よね。なら私の耳がおかしいのかしら? 貴女のしたことって大分、神旨を破っているわよね?」
「そうかな?」
「いや、明らかでしょう! 渡人と諍うなという話よ? それがどうやったらしばくだの殴るだのの話しになるの」
「んー、ギリギリのところを攻めてみた。みたいな?」
「ギリギリ過ぎるでしょ」
「でもほら、神旨って破ると神には分かるんでしょ? 私は経験ないけど、大昔に須永様が派手にやらかして、鼓膜が破れそうな音が頭に響いたって、お母さん言ってたよ? でも今回は鳴ってないもん。だから大丈夫」
夜刀は夕星の言い分に苦虫を噛み潰した。神旨はその定めたるところが破られると八百万の神々に警報を届ける。確かに今回はそれがない。すると神旨は破られていないのだ。恐らく、物理的に痛い目を見せられた側が、奇跡的に敵愾心を抱かなかった為だろう。神旨には諍いと成り得る行為も禁じるとあったが、その点は補足文だったということか――。
「八大神ともあろう者が、結果よければなどという論に拠って立つのは危ういこと。以後は気を付けなさい。いいわね?」
「はーい。でも、用ってそれだけ? 私、お説教の為に呼ばれたの?」
「他にもあるわ」
「ひょっとしてまたお説教? 他に何かしたかな?」
「違うわよ。貴女、急で悪いのだけど、今から赤土に行って頂戴」
「赤土!? なんでまた。どうして私が?」
意想外に降って湧いた話に思わず身構える夕星。赤土についてはここしばらくいい話を聞かない。星霊の崩れが激しく、地勢は変貌し、霊塊の化け物も年々出現頻度を増していると言う。
「今、首刈が中央高地のお社巡りをしているのだけど、日に半歩も進めばいいような状況で難儀していてね。貴女、中央高地に行ったことは?」
「ないよ。赤土は北部原野に走りに行ったことがあるだけ。てゆーか今の話って、南風さんみたいに私に大嶋廻りに付いてけってこと?」
「有り体に言えばそうね」
「えー、夜刀ちゃん、それって過保護過ぎなーい?」
「そんなことないわよ。あの娘は普通に考えたら半年以上早く大嶋廻りに出ているのよ? そこへ来て状況視察が主目的とはいえ、今度は中央高地。添え木の一本も必要になるでしょう」
「でも赤土には夜刀ちゃんが行かせたんじゃ……」
「分かっているわよそんなことは。だからって私に行けとでも? 宮が空っぽになってしまうじゃない。貴女なら今は野飛に東風が入ってるんだし、彗星だっているんだから行けないことはないでしょう」
「それはそうだけど」
「何よ、嫌なの?」
「だって、私、あの娘と上手く行きそうにないし」
「七百年生きて子供みたいなこと言うんじゃないの。とにかく、赤土にいる間だけでいいから、行って面倒を見てやって頂戴。いいわね?」
「……はぁい」
「返事はきちんとなさい」
「はい! それで、首刈は今どこにいるの?」
「それは土宮に行って聞けばいいわ。一宮に挨拶もなしに動き回る訳にも行かないんだから、ついででしょう」
「はいはい、了解。もー、夜刀ちゃんてば人使いが荒いんだから。戻ったら何かご褒美くれるんだよね?」
「考えておくわ。いいから早く行きなさい」
「はーい」
***
狩猟豹を祀る猟豹神社は、野広川流域から些か東に離れた熱帯草原の只中にある。ここへはまだジーノスたちが来る以前、千軽ちゃんと一度訪れたきりだ。その時は御業の修行やら霊塊の化け物の捜索やら、余りゆっくりとはできなかった。
「よっと」
「ほいきたー」
「着きましたー」
水門神社から歩けば直線距離でも四日はかかる所を、より遠い避役神社に寄ってすら、ちゃーの間で辿り着く。ほんと、道結様々だよね。
茅の輪を出れば水鏡と呼ばれる神聖な水場の真正面。
神籬や磐座よりも、ここ赤土では水場が大切だ。そこに映る己の姿に、今を生きる喜びや感謝を見出すのかもしれない。多種多様の生物が犇めき合えば、それだけ生存競争も激しいのだから、生半可な世界ではない。
水鏡を中心に神門と拝殿の狭間を取り囲むのは幅のある懐深い廻廊。視線を巡らせば、そこには思い思いの姿で寝くつろぐチーターたちの姿があった。
廻廊に抱かれた中坪の空間に立っていると、凪の生み出す静けさも相まって、忍びの里、甲賀の油日神社を彷彿とさせた。なんともはや、質素の中の長閑を感じる佇まいは、猛獣の苑を思わせぬ落ち着いた雰囲気を醸している。
「あはは、見て見て阿呼、みんな廻廊でダレちゃってる。今日は風が出てないから、神域の外には出たくないのかな?」
のんべんだらりと寝過ごす姿のなんと微笑ましいことだろう。獰猛な肉食獣も、油断と隙しかない神域の中ではネコ科の愛嬌ばかりが目に止まった。
私はほっこりしながら水場に置かれた柄杓を借りて、手水を取り、口を漱いだ。それから本殿の神額に猟豹の文字を見上げ、柏手を打ってご挨拶。
「こうして手を合わせてると暑さも忘れちゃうね」
「お姉ちゃんは本当に神社が好きね」
言わずもがなだね。神社と白米で十分生きて行けますよ。
「さてさて、千軽ちゃんたちはいそうにないけど、化け物探しに出てるのかな?」
「聞いてみよー。おーい」
放谷が呼びかけると、廻廊の端っこでゴロゴロしていたチーターが人に移姿て寄って来た。
「ふわぁ……。皇大神様が来るなんて聞いてなかったの。みっともないとこ見られちゃった」
てへぺろコッツンして見せたのは当社の主祭、足羽斑良姫命。陽射しに窄まる点のような瞳孔が、いわゆる目が笑ってない状態を演出して、なんとも言えない笑みを覗かせている。
人に移姿たその姿はネイティブアフリカン。南大嶋は人に関してもかなり北大嶋とは違っている。赤浜路界隈に暮らすのは、バッチリと日焼けをした東南アジア系のニュアンスを持った嶋人たち。これが野広川を遡って奥地へ行くと、ブラックチョコレート並みに黒々とした嶋人が暮らしている。彼らの生活様式は正に自然と一体化していて、それでも嶋人だからちゃんと嶋言葉が通じる。つまり、嶋人とは大嶋先住の人種を越えた枠組みを言うのだ。
斑良ちゃんは縮れの強い髪を丁寧に編み込んで、野の花をあしらった素朴なお洒落。無駄な脂肪のないスレンダーな肉体美は、どういう訳か胸にだけは子供らしからぬ羨望の膨らみを湛えている。秘訣があるなら是非ともご教授願いたい。
「しばらく振りだねー。ひと月半にはなるかなぁ? 千軽ちゃんたちがどっちに行ったか分かる?」
「んー、あっちなの」
一度顎に当てた指先で、ついと示したのは野広川から更に遠ざかる東の方角。いちいち可愛い仕草に脂下がるおじさん気分を味わいつつ、ありがとうを述べて、私は以前、大水門で購入しておいた珈琲豆と加加阿の実を進呈した。赤土の奥地ともなると貨幣経済が全く浸透していないので、物々交換が主流になる。その為、常にこうした物を輪違に入れているのだけど、珈琲や加加阿は贈答品としても喜ばれるから重宝だ。
「わーい、ありがとうなの!」
「どう致しまして。そういえばさっき地震があったけど、斑良ちゃんは分かった?」
「うん。ゴロゴロしてたらぐらりんこ揺れた。小屋根の鳥さんたちがバサバサーッて凄かったの」
可愛い。
斑良ちゃんは私と同じで、まだ代替わりしたてのお子様神様だ。言葉尻にも仕草にも、なんとも言えない丸味があって、それがとっても可愛いらしい。思わずナデナデしようと手を伸ばしたら、猫手でペシッと払われた。
ああん、いけずぅ!
きっと子供扱いが嫌なお年頃なんだろうね。残念だけど仕方ない。
「斑良ちゃんも一緒に来る?」
「斑良はもうちょっとおねんねしてたいなぁ。今日はお外、とっても熱いから」
「そっか。分かってたけど自由だね。まぁいいや。じゃあ私たちちょっと見に行ってくるから。また後でね」
「はーい、気をつけてなのねー」
楓露の神様ってみんなして自儘だけれど、ネコ科は一際だなぁと妙に感心しながら、私は阿呼と並んで神門を潜った。いや、潜ろうとした。
「あれ? 放谷は?」
「あれ? どこだろう? あ、あっちの生け垣の前」
「あ、いた。何やってんのあの娘は」
本殿脇の橄欖の垣根を前に突っ立っている放谷。近付けば何やら身をくねらせてモジョモジョしていらっしゃる。
「おーい、放谷」
返事がない。お伴の身の上でご主人様をガン無視するとかあり得ない娘だよ、まったく。
「はなや……ちょっと、どんな顔なのそれは?」
肩に手をかけてグイッと振り向かせれば、眉も目尻も垂れて、頬っぺたゆるゆるの放谷が、片手を頬に、もう一方で頭を抱えるようにしてモジモジと顔を赤らめている。
「え、なんなんの? キモい」
「えへへ、求愛された~」
「はぁ!?」
垣根の向こうに誰ぞいますかと目を凝らしても何ら気配の一つもない。
「お姉ちゃん、これ」
目敏い阿呼が指差す先をじっと見つめてみれば、葉っぱの上にちんまい蜘蛛が右に左にステップ踏んで踊るような仕草を見せていた。
「おおっ、孔雀蜘蛛だこれ! めっちゃ奇麗!」
その名の通り、孔雀の飾り羽のような煌びやかな腹背部を立てて、体長五粍ばかり小さな蜘蛛が求愛のダンスを踊っている。その美しさには思わず感動したものの、
「ちょっと待って放谷。あんたこれを相手にメロメロになってる訳?」
「めろめろだぁ。あたい求愛されたの初めてだよー」
嬉しそうにまぁ……。
しかし本当に楓露の神様は自由だな。もうちょっと、こう、私が言えた義理ではないけど、神様然とできないものかね? 野生の本質が駄々漏れ過ぎるでしょ。
「放谷、さすがにサイズが違い過ぎない? 大きさが噛み合ってないよ」
「あたい小さくなれるもん。それにこんな奇麗な雄蜘蛛は初めて見たー」
「イケメンなのは分かる。痛いほどにね。でも早いところ帰って来なさい。あんた私のお伴なんだからね?」
「えー、でもさー」
「ダメッ、大嶋廻り!」
言うなりセーラーの裾を取った阿呼が放谷をグイグイ引っ張った。我が妹も容赦がない。真面目ちゃんなので物事を四角四面に捉えがちなところがある。
「はいはいブレイク。阿呼、手を出しちゃダメだよ?」
「だって」
「うんうん、そうだね。――ほら、放谷。あんたが買って出たお伴の役目をきちんと果たさないとだぞ?」
「うー、分かったよー」
そんなにシュンとしなさんな。初恋というものは得てして実らないものなんだよ。それに、
「あのね、放谷。常夏の国の蜘蛛さんが真神の厳しい冬を越せると思う? 放谷を好きになってくれた蜘蛛さんを死なせたりしちゃ可哀相でしょ?」
「そっかぁ。そーだなー」
似合わない寂し気な笑み。
放谷は差し伸べた指を左右に振って、すると孔雀蜘蛛は、はたとその動きを止めた。自慢のダンスにノーと返されてしまったのだ。
三十年を生きる放谷には、婚期を逃すまいという本能でも働いているのかもしれない。或いは孤独を知るが故に、自分の家族を持つという点に於いて熱烈なものがあるのか……。
けれども私の本音を言えば、放谷には結婚なんかして欲しくない。何故なら、子を産んだ母蜘蛛は力尽きた骸を子供に食べられちゃうのだ。放谷自身が母神の骸を食べたと言うのだから間違いない。そこに種を残す者の喜びがあるのだとしても、私はそれを蜘蛛の生態として呑み込むことができそうになかった。
だって、放谷は私にとって楓露で初めての友達なんだもん。ずっとずっと傍にいて欲しい。
「じゃあ行くかー」
孔雀蜘蛛を見送った放谷はいつもの笑顔で振り向くいてくれた。
「どしたー? 行くんだろー?」
バツの悪い気持ちから止まったままの足を、当の放谷が後押ししてくれるのだから、自然と愁眉も開けてしまう。
私も含め、いずれはみんな、添い遂げる相手と出会うのだろう。でも今はまだこの輪の中で水入らずに過ごしていたい。我儘だけど、分かってくれるよね。
「よし、行こう。阿呼もいい?」
「阿呼は準備万端よ」
えへんと胸を張る愛妹の髪をサラリと撫でて、さぁ、炎天下のサバンナへ繰り出しましょう。
***
パノラマを埋め尽くすのは見渡す限りの枯れ黄金。これがひと雨降ればみるみる青い草海に塗り替わるのだから、魔法の原野とでも呼ぶべきか。でも今は高い空から遠慮会釈のない陽射しが注いで、雨雲の気配は微塵もなっしんぐ。
日傘代わりに夜刀ちゃんの所から黙って失敬した番傘を差そうかと思ったのだけど、阿呼がさっさと白狼に移姿てしまったので、私も付き合うことにした。
ところがですよ? 私が狼になった途端、背中に放谷が乗っかって来るんです。おかしくない? 私がおかしいのかな? 以前に小蜘蛛の放谷を乗せたことはあったけど、人の姿で最高神の背中に打ち跨るお伴って……。仕方ないので、私は安定するように一回り体を大きくした。
「阿呼、臭いは追えそう?」
「うん、なんとなく漂ってる。こっちよ」
駆け回りたそうな阿呼に先を任せて、私は不条理という名のお客を乗せたタクシーよろしく愛妹の尾っぽを追いかけた。
藪から藪を繋いで渡る走りは狼たる姉妹の真骨頂。暑さに負けてなるものか、と風を切って躍動すれば、俄然、野生の喜びが胸底を突いて、スイスイとスピードに乗って行く。いいねいいね、最高だね!
「期尅!」
私は骨格強化と筋力増強を施す肉体への注連を行って、一躍飛翔の勢いで阿呼の隣に躍り出た。阿吽の呼吸で阿呼も期尅を使って、そこから併走してサバンナをぐんぐん駆け抜ける。
跳だとか期尅だとか、身体系の御業は全て千軽ちゃんのスパルタ教育による賜物だ。阿呼は更に奇香追という御業を使って千軽ちゃんたちの臭跡を追っている。私なんかよりよっぽどの器用さんだよ。
「ひゃっほーい!」
奇声を上げて疎林に飛び込み、水場の脇をすり抜ける。驚いた鳥や獣が慌てて散って行く様子を背に、「ごめんねー!」と謝りつつ、足は一向に止まらない。やがて――
「お姉ちゃん、見て! 石舞台みたいに大っきな岩」
故郷、真神原の中央に鎮座する石舞台。それとは形こそ違うけれど、中々大きな岩が無造作にデデンと佇んでいた。
「懐かしいね。放谷が追風を簀巻きにした石舞台」
「おー、そんなこともあったなー」
「お姉ちゃん、登ろう!」
「らじゃー!」
目の前にすれば熊野は神倉神社のゴトビキ岩くらいもありそうな立派な大岩。そこに飛び乗った私たちは、一息入れましょうかと移姿を解いた。
「おおー、ひろびろー! でぃす、いず、ねいちゃー!」
これぞサバンナ。四方八方、無辺なるかな大草原よ。
「ほほー、でぃす、いず、ねーちゃんかー」
放谷は「これは姉ちゃんです」と宣って私の笑いを誘う。それは阿呼が私を指して言う言葉だよ。
私たちは輪違から水筒を取り出して、浴びるように飲み、頭のてっぺんから注いで涼を取った。夜刀ちゃんが秘色と呼んだ私の青灰色の髪は、たっぷりと水を吸って深い青を滲ませた。
「あっづーい」
散々走ったのだから当然だ。御業まで使って野駆けを満喫した代償だね。私は灼けた岩からお尻を守る為、輪違から座布団を出して座り直した。なんでもかんでも入れてあるんですよ。本当に便利な神宝です。
と、隣から伸びた手がヒョイッと水筒を奪って行く。これぞ放谷。お伴のなんたるかをまったく以って理解してない。まぁ不発に終わった初恋の慰めが水だって言うならお安いもんだけどさ。
「阿呼、何か見える?」
巌に立つ阿呼は右手を庇にしながら、辿る臭いの先を覗き込んだ。結構走ったし、ひょっとしたら千軽ちゃんたちが見えるかなと、私も隣に並んで手眼鏡をしてみる。
「うーん、いないね」
「うん。でも臭いは濃くなってきてるから、もうちょっと行けば見つかると思う」
頼れる妹の太鼓判に大きく頷き、合流したらお昼にしようと示し合わせて、再び狼に変身。そして当然のように私の背中には放谷だ。もう何も言うまい。これが当代皇大神とそのお伴の既定路線であるらしい。
「それじゃあしゅっぱーつ!」
声かけして颯爽、岩を飛び降りた。
真神原よりも丈の高い草原に飛び込み、成長した体躯に見合ったロングストライドで駆け抜ける。疾駆に生じる向かい風を浴びて、なんの労もない放谷が一人、気持ちよさそうに歓喜の声を響かせた。こちとらの気分はまるっきり観光バスのドライバーだよ。居眠りして事故起こしたって責任は取らないよ。
「うわぁ、すごーい」
頭上を紅鶴の群が擦れ違って行った。ちぎれ雲の下を通った時みたく一瞬の日蔭を抜けて、逃げ水を追いながら走る走る。この構図って、鼻先に人参ぶら下げて走るお馬さんみたいだ。飲みたい水には追えども届かず。
「お姉ちゃん止まって!」
「へ!? うぎゃわー、ちょっと、これなんなの!?」
急停止につんのめれば、すっぽ抜けた放谷が軽やかに前宙。体操選手のように着地した。問題はその足下。
「うわっ、踏んじったー。なんだこれ? あっちもこっちも死骸だらけだぞー」
そうなのだ。いつの間にか踏み込んだのは、どうやら地獄の一丁目。眼前には、食い散らかすにしても限度を超えた無残な紅鶴の死骸が点々としていた。
「お姉ちゃん。さっき行違った群れ、何かから逃げてたんだね」
「うん、でも……何から?」
問いかけながらも、頭に浮かぶのは霊塊の化け物しかない。野生の狩りの結末に獲物の残骸が残るのは当然だとしても、ここまで酷い有様にはならない。優美だった筈の長い首も、大空に風を掴んだろう翼も、何もかもがしっちゃかめっちゃか。こんなのはあんまりだ。
「放谷、索ってみて。まだ近くにいるかも」
「分かったー」
放谷は両手を地べたにつけて探知の御業に集中し始め、私と阿呼は放谷の両サイドを固め、見えぬ敵の不意打ちを警戒した。やがて頭上のケモ耳がピクリ。何かの音を感じ取った。
「阿呼、今の聞こえた?」
「うん、お姉ちゃんも?」
「うん……。聞きたくない音だった」
舞い込んで来たのは昆虫の羽音だ。ただ、中央高地で幾度も心胆寒からしめてくれた甲虫のものとはちょっと違う。蜂かな? そう思って、一先ず放谷に索を中断させると、私たちは藪を割って中に身を潜めることにした。
「近付いて来るね」
「凄い羽音だなー。これ中央高地じゃなきゃ聞かない大きさだろー?」
放谷の言う通り、そこが謎だった。中央高地から舞い降りて来たなら、多少は星霊が抜けて小振りになっている筈。北部原野と中央高地を隔てる断崖、陽炎壁は、ここからだと北に二〇〇粁は離れている。距離を考えれば異様な羽音の大きさだ。
「天津百眼」
私は神宝の名を唱えて、眉間に第三の眼を開いた。
双口の神宝は、それが完全に同調しきった時、それぞれ私と阿呼の体とに同化して、以来、身の内に取り込まれたままの状態。こうして集中し、その名を唱えて顕現させることで、神秘の力が扱えた。
天津百眼は見据えた対象に宿る星霊を見透かして、霊塊の有無をも割り出せる。目にした紅鶴の惨状からすれば十中八九、霊塊の化け物だろう。そう思うのだけど、中央高地の巨大昆虫ときたら先日の鍬形のように、霊塊と無縁であっても相当な脅威だから参ってしまう。
「今度も霊塊がなかったらどうしよう?」
「そしたら千軽さんと合流しよ? 牽制しながら行けると思うの」
「それはダメだよ阿呼。千軽ちゃんは渡人のみんなと一緒だもん。もしみんなが別の化け物と戦ってる最中だったら、挟み撃ちになっちゃう」
そこが痛恨のネックというやつだ。霊塊の化け物との戦いに慣れた調査員であっても、中央高地のスケールは厳しい。ましてや同時に二体相手ともなれば、千軽ちゃんがいても不安だった。
「風声で千軽だけ呼ぶかー?」
「それはありだね。あとは私たちでやっつけて、放谷の蜘蛛糸で雁字搦めにしてから合流するとか」
そんな二案を懐に忍ばせて、ともかくも先ずは相手を見てみることだと、近付く羽音に合わせて、こっそり藪から顔を突き出した。
来た――。
独特の羽音と、右へ左へ、まるで瞬間移動するかのような変態飛行。正体は蜻蛉だ。
その全身はまったき黒ずくめ。私は目賢ちゃんの言っていた黒坊主という言葉を容易に思い出した。
脂汗を滲ませながら、眉間の瞳に集中する。なんてこったと叫びたい衝動を噛み殺して、黒々とした中身に言い知れぬ脅威を感じた。
例えばあの巨大鍬形を見た時、そこに宿る星霊は神経叢を浮き彫りにしたような、複雑に絡み合う若草色の糸束のように見ることができた。それ以外の部分も濃密な星霊に覆われていて、体格を縁取る緑色の地に、光る神経網が浮かぶように映ったものだ。
ところがこの黒い奴さんは、黒地の中心に消え入りそうな緑の糸束があるだけで、およそ漲る星霊なんて表現には当たらない。むしろ枯渇寸前の印象すらあった。それなのに矛盾するほどの威圧感があるだなんて、絶対に普通じゃない。
「……黒坊主だ」
私は身を引っ込めると、苦しい息を吐きながら二人に告げた。
「黒坊主? お姉ちゃん、それって目賢さんが言ってのってこと?」
「見た感じはそう。外身も中身も真っ黒けの蜻蛉だった。あの大きさなら蜻蜓って言った方がいいかな」
「なんだ。蜻蛉なら糸で引っ絡げちまおー。ここはあたいにお任せだー」
得意の歯抜け笑顔で放谷はいとも簡単に言う。でも、ネイチャー番組を飽きるほど見ても飽きが来ない私は相手の凄さを知っていた。
蜻蛉は地球上の生物随一のハンターなのだ。狩りの成功率は実に九五パーセントという驚異的数値に達している。正に「狙った獲物は逃さない」を地で行く凄腕ハンター。楓露ではそうでもないですよ、なんてことは先ずないだろう。
さっきは雁字搦めにしようなんて思ったけれど、相手を知ったらそんな余裕はどこかへ消えてしまった。中央高地サイズで、謎の黒ずくめ。どう考えても不安要素の塊りだ。でも――。
「……倒そう」
「え、お姉ちゃん?」
その眼差しが問いかけるものが何かは分かる。正体不明とはいえ、霊塊の化け物でない相手を倒すのは如何なものかと阿呼は言うのだ。けれど、こちらの身が脅かされるなら、それはもう正当な生き残り合戦。雑な考え方かも知れないけど、やらねばやられてしまうという危機だ。ならば然るべき対応が必要になる。
更に思うのは、逃げたりやり過ごしたとして、でもじゃあ、それで他の生き物が代償を迫られたら? 奴に襲われたらどうなるのかは、紅鶴たちの亡骸が既に教えてくれた。それを片眼を閉じて見過ごすような真似をして、私は一体、なんの為の神だと言うのか。
「阿呼」
「はい」
「まだ一度も試したことないけど、双口の神宝で勝負しよう」
「う、うん」
手立てはある。いつだってそうだ。要はそれをするのかしないのか。
双口の神宝は二つで一つの強力な武器だ。私と阿呼がそれぞれの神宝に集中しながら、尚かつ互いに同調を保っていれば、私の天津百眼が照星となり、阿呼の天左右牙は正確無比に目標を貫く。って夜刀ちゃんが言ってました。行けるよね?
「できるかな?」
「どうかな。お姉ちゃんも自信ある訳じゃないけど、ここはいっちょ挑戦してみて、できたかな? を確かめてみよう」
「分かった。阿呼、やってみる」
私たちはしっかりと目を見て頷き合った。
私と阿呼だって双口の神宝に負けないくらい二人で一人だ。そこに放谷も加われば紛う事無き三位一体。大丈夫、きっと今度も上手く行く。
「放谷」
「おー」
「どうにか糸を引っかけて少しでも動きを止められない? 鈍らせる程度でもいい」
「なら幽身で隠れながら、見えにくい糸を張り巡らせるよー。完成したら風声で合図するんでどうだー?」
「おけ、それでお願い」
「まかせろー」
即座に幽身で透明化した放谷は、草を掻き分け離れて行った。蜻蛉は視覚のモンスターだけど、聴覚についてはとんと聞かない。放谷は音を立てるにしても蜘蛛だけにほんの僅かだ。動き回っても平気だろう。
「よし、それじゃあ阿呼。手を繋いで同調しよう」
「うん。阿呼の提案はここを真神原だって思うことよ。さっき休憩したのは石舞台。何度も走ってよく知ってる場所。阿呼とお姉ちゃんの共通の思い出」
「それはいいね。よーし、ここは真神原だ」
手に手を取って瞼を閉じる。直ぐに阿呼の、遊び歌のような明るい波長が流れ込んできて、目皮の裏には故郷の草原が眩しく浮かび上がった。




