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異世界(まほろば)に響け、オオカミの歌  作者: K33Limited
章の二 水走編
34/172

032 蛾神頌歌

 時刻は午後七時。石楠さくなさんが部屋に転がり込んでから、二時間ばかりが過ぎていた。

 歌を仕上げて後、私たちは宿の夕食を断って街へ出た。転宮街道を下って円形広場を抜け更に南。やや行った辻を西に切って小路へ入ろうという段。道案内の石楠さんが立ち止まった。


「首刈様、本当に調査局へ乗り込むんですか?」

「当然」


 きっぱり告げて二の句を封殺。いつまでも踏ん切りを付けられない相手と話すのは時間の浪費でしかない。勿論、石楠さんはいい人だ。南風さんだって大好きだ。ただ、今度の件では二人とも一周回ってめんどくさい。

 南風さんは八大神召集に一案を示してくれたけど、それはまた後の話。今はくだんの犯人とまみえるのが先だ。いや、私としては最早犯人に然程の拘りはない。目的は既に渡人の、中でも問題視されがちな調査員と会うこと。その一点に絞られていた。


「この道で合ってるの?」

「はい。そこに、もう見えてます」


 気負いなく問えば返る声音はやや硬い。目抜き通りを離れてからは随分と暗くなり、人通りもまばら。石楠さんの示す方を窺うと、まだ少し距離はあるものの、戸口から明かりの漏れる大きな建物が見て取れた。私は一旦手近な路地に入って、そこから様子を確かめることに。


「正面口の上に看板なのかな? 読める?」

「西方諸国、大嶋調査局、閑野生しずやなり支部と書かれています」

「支部? 本部は?」

護解もりとけにある渡人最大の都市、江都ごうとにあります」


 ここで石楠さんから仕入れた調査局の概要を反芻してみる。

 正式名称は今、石楠さんが言った通り。読んで字の如く大嶋に関する様々な調査を請け負う組織だ。

 基本的には各種研究団体や学術組織から発される多様な依頼を調査局が取りまとめ、事前に資格を取得して登録した調査員に告示する。調査員は各依頼を検討、選択して調査に当たるという流れ。

 調査内容は多岐にわたり、地理、地質、海洋、動植物から民俗風習、建築、工芸、神社、遺跡物等々、枚挙に暇がない。そうした中に霊塊たまぐさりの回収も含まれる。

 霊塊たまぐさりの回収には危険を伴うことが多く、強力な化け物相手には負傷はおろか落命する者も少なからずいるという。それでも地に宿る霊塊を当てもなく探し回るより、痕跡を残す化け物相手の方が効率がいい為、霊塊の回収を引き受ける調査員は専ら化け物退治を生業としているそうだ。

 聞けば聞くほどロールプレイングゲームにありがちな冒険者とそのギルドを彷彿とさせてくれる。


「随分大きな建物だけど、中がどんな感じかも分かってるの?」

「はい。忍部おさべからの情報が回ってきてますので」


 諜報機関だという忍部おさべは、字面的に忍者部隊を想像してしまうけど、聞けば対渡人専任の公安っぽい組織に思われた。石楠さんの所属する刑部おさかべが生活安全課だから、どっちも根は同じ警察的なものと言える。

 閑野生支部は二階建倉庫のような四角く無骨な建物で、観音開きの正面口は片側が開け放たれ、内部の明かりが石畳に長い三角形の筋を描いていた。綴じた側の扉にはパイプをくゆらす男性が寄りかかっている。見張りという雰囲気ではない。中から漏れる喧騒からすると、酔い覚ましでもしているのだろう。


「なんだか賑やかな感じだけど?」

「はい。二階が調査員専用の宿泊施設で、一階は受付の他に食堂もあるようです。丁度夕食から酒盛りに入る時間帯ですから、それなりの人数が集まっていると思います」

「そっか。じゃあ私たちも中で食事をしよう」

「えっ?」

「お宿の夕飯断っちゃったし、阿呼も放谷もお腹空いたでしょ?」

「阿呼、さっきお腹鳴っちゃった」

「おー、早くなんか食わせろー」


 石楠さんを置き去りに三人の意見が一致すれば、豆腐で歯を痛めたような顔の南風さんと目が合った。南風さんは余程私の言葉を気にしているのか、例の鶏冠髪を解いてしまって、流れる髪も麗しい、すこぶる付きの別嬪さんモード。それがそんな顔をしていたのでは、こちらとしてもいたたまれないというもの。


「南風さん、鶏冠は?」

「鶏冠じゃないし! 首刈ちゃんが変だって言うから、渡人の前に出るのに指でも差されたら嫌じゃん……」


 もごもご言ってる。なんだこの可愛い生き物。


「別に気にすることないじゃない。変とか言ってごめんね。鶏冠は南風さんのトレードマークだから、私としては復活希望だよ」

「だから鶏冠じゃないって!」


 ムキになる南風さんに、阿呼が違うんですか? とトドメを刺しにかかり、放谷は鶏冠以外の何物でもないと強引な介錯を決めに行った。あんまりいじめないであげて。


「ところで南風さん。この件が済んだら招集の話、なる早で夜刀媛様に通しといてね」

「なる早って……。まあ分かってるけど」

「鉄は熱い内に打てって言うでしょ」

「りょーかいりょーかい」


 南風さんがいそいそと鶏冠を括るのを確認して、私が路地から踏み出した。


「とにかく、腹が減っては何とやら。さあ行こう」

「あ、ちょ、ちょっとすみません。本当に中で食事を?」

「そだよ。どうせなら調査員の人たちと同じものを食べてみよう。そういう体験から分かることもあるって思わない? 調査員以外立ち入り禁止とかじゃないよね?」

「え、ええ。調査局には当然依頼人の出入りもありますし、食堂は一般客も出入りします。けど、それも渡人だけですよ?」

「そうなんだ。でも、私はその渡人に会いに来たんだよ」


 私だって自分のテンションがおかしいのは百も承知してる。宿屋で捲し立てた時、渡人の話に飛び火した前後から既におかしい。けれど、時にはそんなテンションでしか成し得ないこともあるし、出てこない発想だってある。

 要は大人がお酒の力を借りて何事をか成すのと大差はない。寧ろ、今の私はお酒に呑まれていない分、より条件はいい筈だ。それに、私は対話と歌が目的で来ているんだから、会食形式に持ち込めそうな状況を利用しない手はない。


「石楠さん。心配なのは分かるけど、てゆーか私のことを心配してくれてるんだろうけど、ここで手をこまねいてたって何が変わるの? 何も変わらないし、何一つ実を結ばない。そうでしょ? 里山で美味しいお米が実るのは、毎日田んぼに入って、泥んこになって働いてるからだよ。私たちも望む結果に相応しい努力をしなくっちゃ。仮に上手く行かなかったとしても、それならそれでまた考えればいい。神も人も、失敗から学ぶことは山ほどあるんだから」


 私だって何も、自信があって言う訳じゃない。ただ、自信を付ける為にも一歩前へ進む。そうした判断が必要な時ってあると思う。私にとって今がその時だ。

 正面口の前に立つと、酔い覚ましと思しき男性は、深酒でこちらの風体にも気が回らないのか、特に声をかけては来なかった。


「放谷、何かあったら阿呼をお願いね。街での御業禁止は忘れないように」

「おー」

「ダメ、放谷はお姉ちゃんの方をお願い」


 阿呼はキツい表情と硬い声で訂正した。


「今回は私が無理に来るって決めたんだから、私のことは後回しでいいの」

「ダメ、阿呼だってお母さんに言われた役目があるの」


 困ったことに正論なので言い返せません。


「二人ともあたいが守るからへーきだー」

「あたしもいるから心配ないって」

「いざという時は私を捨てて逃げて下さいっ」


 締めの一言がどうにも締まらない感じで、それでもどこか能天気に構えた私は、お酒と汗の臭いが絡む未知の領域へと足を踏み入れた。




 ***




 男は局内にあるカウンターバーで何杯目かの麦酒エールを呷った。赤茶けた長い前髪に反して、刈込みは耳の上まで達し、右の耳には深い裂傷痕。二十代半ばなのに、酒に緩んだ表情にさえ残る険が、既に三十路を踏んだかのような印象を与えている。


「久し振りだなラデル、調子はどうだ?」


 野太い声を発してドッカと隣に腰を下ろしたのは熊のような年嵩の男。仲間内のまとめ役といった位置付けの練達の調査員だ。通称ボス。見た目のごつさに反して、化け物相手に機敏に立ち回る腕前は、第一線の現役として一向に衰えを見せなかった。


「よくも悪くも……。いや、悪いね。たまには目の冴えるような依頼が入ってこねーもんかなー」

「はっ、そんなもんがあればとっくに俺が頂いてるさ。なぁみんな! ここんとこ碌な仕事がないよなぁ!」


 食堂の長テーブルに着いた一団から応と声が返ってくる。集まっているのは調査員の中でも動物標本や霊塊たまぐさり関連の依頼を専門に請け負う戦闘に特化した調査員たちだ。そんな彼らが商売上がったりとぼやいて流し込む酒は、如何にも酸い味わいのようで、そんなクサクサしたムードを変えようとしてか、ポロロンと八弦琴の音色が流れた。


「カリュー! なんでもいい。景気のいい曲を頼む」


 ボスからの声がかりに、細身の若者が八弦琴を立てるようにして掲げた。そしてカッティングの切り口鋭いリズムが弾ける。その躍動に足を踏み鳴らして応える仲間たち。テーブルをドラム代わりに平手で打ち鳴らす者もいる。酒の味も変わったようで、さっきまであったどこか投げやりなムードは見る間に散逸した。


「ラデル、ラデルよ。噂になってるぞ。お前、小杖を使ったそうだな?」

「いや、まぁ……」

「馬鹿野郎。裏の依頼には手を出すなと言っただろう」


 ボスは声を低くして、視線を外したまま言った。ラデルの顔色が黒ずむ。しかし、それも一瞬のこと。ラデルはフッと鼻で笑って、木杯に残る麦酒を一口に干した。


「どうせ向こうは何もしてこないだろ。今まで何かあったなんて話は聞いたことがない。こっちが何やったってシカトだよシカト。ふざけてるよなぁ」

「確かにな。三宮までを外しとけば、まあいつも通りだろう」

「それって……、どういう意味だ?」

「何が?」

「……いや、別に」


 ラデルの態度にボスは、よそ見で射た矢が的に中ったと直感した。軽く釘を刺すだけのつもりだったが、そうなれば話は違ってくる。ボスはラデルの肩口に手をかけた。


「おい、お前まさか」

「おーい、ボス! ラデル! 何を隅っこでイチャ付いてんだよぉ。妬けちまうだろぉ! こっち来いって、一緒に飲もうぜ!」


 横槍に紛れてラデルはボスの手をスルリと逃れた。カウンターバーを離れ、これ幸いと呼ばれた席に混ざり込む。


「どうしたよ? ボスも来いって」

「俺は遠慮しておくよ。もう年だ。酒が過ぎると明日に響くからな」

「あらら、下り坂かよ。そういう時はね、コレ! コレだよっ」


 ボスと同年代、四十絡みの眼帯男が、禿面に下卑た笑みを浮かべて小指を立てた。


「男が女を見る目も年々下り坂! なぁ? 青い頃には顔を見て、色気づいたら胸に行く。知れば知れほど尻を追い、一度こじらしゃ足の指、ってなもんだ。一方、倅はウナギ登り! それが女のいい所! なぁ、おいイビデ! ボスの酌をしてやれよぉ」


 下品な物言いで笑いを誘う禿頭に、名前を呼ばれた金髪女が「ボスの扱いなら任せて」とカウンターへ向かった。そこへ「相手にされたためしねーだろ」と今度はまた別方面から茶々が入る。ドッと笑いの渦が巻き、一層楽しい夜になるかというその時、カリューの八弦琴が可笑しな音を立てて鳴り止んだ。


「おい、何だよカリュー、どう、し……」


 禿頭の酒焼けした声が尻すぼみに途絶える。演奏の手を止めたカリューもお化けを見たような顔をして、入り口を向いたまま身じろぎもしない。その目線を追って次々に金縛りになって行く調査員たち。ラデルはテーブルに顔を伏せ、ボスは目元を覆って天を仰いだ。調査局に現れる筈もない存在ものたちが現れたのだ。




 ***




「今晩は。食事をしに来ました。どこか席は空いてますか? あ、演奏はあった方が嬉しいです」


 正面口から入ってぐるりを見回した途端、いい感じに鳴っていた弦楽器の音がたわみ、腰砕けになって鳴りやんでしまった。

 確かに私も、いきなり入って行ったら一風変わったリアクションが見れるかな? と思いはした。したのだけれど、まるでパフォーマンス集団が駅や空港で一斉に動かなくなるシーンのように、調査員と思しき皆さんは一斉にフリーズしてしまわれた。


「おーい、あたいら腹減ってんだー、席に通してくれー」


 放谷が私に続くと、ド真ん中のスペースで拳を振り上げるポーズのまま固まっていた女性がようやく瞬きをした。見た感じ女給さんではない。女性調査員だろうか。室内は圧倒的に男性過多だけど、彼女の他にも二人ほど女性がいた。


「あの、ここは調査局、だよ? ですよ?」


 金髪の女性がブリキの人形みたいな動きで振り上げていた腕を下ろす。


「知ってます。でも食堂は一般客も入れるって聞いたので」

「一般じゃねーだろ……」


 ボソッと言ったのはツルツル頭に眼帯という漫画に出てきそうなおじさん。見た目で判断するなら犯人はこの人で間違いない。はい逮捕。

 しかし困った。本当に渡人の人たちは私たちのような相手にどう接したらいいのか分からないのだろうか。或いはこの場の全員が例の事件の共犯者で、後ろめたさを感じているとでも? いずれにせよ反応が極端に過ぎる。

 と、そこへカウンターバーで天を仰いでいたゴツイおじさんが進み出てきた。短く縮れた顎髭を摩ったりして中々に貫禄がある。彼我の身長差は四〇糎以上ありそうだ。


「失礼。本当に食事が目的で調査局へ?」

「食事をしにきたのは本当です。勿論他にも用向きはあります」

「その用向きというのは?」

「あの、とりあえず席に着いてもいいですか? あ、相席で構いませんよ」

「相席!?」

「はい。皆さんと混じって一緒に食事をするという意味です。お互い滅多にない機会でしょ?」


 騒めきの中でおじさんの喉が低く鳴った。誰かが椅子ごとひっくり返り、他の誰かは食器を落とす。果たしてどうなることやら。

 ともあれ、私たちは三つ並んだ片側十人掛けの長テーブルへと向かい、希望して真ん中のテーブルのそのまた真ん中に腰を落ち着けた。

 私の左に阿呼、石楠さん。右に放谷、南風さん。相席でいいと言ったのに同じテーブルにいた調査員たちはみんな奥か手前のテーブルへ移動してしまった。恥ずかしがり屋さんどもめ。


「誰に注文すればいいですか? あとメニューを下さい」


 誰とはなしに尋ねると、カウンターバーのバーテンが恐る恐るやって来てメニューをくれた。手渡しではない。対面側に回ってテーブルに置き、スッと差し出した格好だ。

 早速見てみると左半分が料理、右半分がお酒。西方諸国の料理やお酒に嶋言葉を当て字しているものが多く、食通の石楠さんに見せてもよく分からない様子。私は財布から千縁札と五百縁札を一枚ずつ抜くと、意趣返しとばかりにバーテンに手渡した。


「予算は一人三百縁です。これで適当に見繕って下さい」


 バーテンが逃げ出すように厨房へ飛び込むと、何やら慌ただしく指図する声が聞こえた。


「皆さん、遠慮しないでもっと近くに座って下さい。耳付き尻尾付きに会うのが初めてなんてことはないでしょ? ああ、話すのが初めなのかな? いいじゃないですか。一緒に食事をしながらお話ししましょう」


 反応は芳しくない。一人一人窺って行くと、金髪女性はスッと目を逸らし、ツルツルさんは頭を撫でて固い愛想笑い。大体がそんな反応で、目を合わす方が少ない。その癖こっちの視線が外れるとチラ見、盗み見、あから様、と、呆れるほどの視線を感じる。そうした中で、例のゴツイおじさんとだけはバッチリ目が合った。マホガニーの瞳が私の翡翠から逃げまいと踏み止まっている。

 おじさんは一拍の間を置いて肩の力を抜いた。次に顎髭を摩って立ち上がる。それを契機に私も次のステップへ進むことに。


「遠慮しぃさんばっかりみたいなので、こっちで選ばせて貰いますね。はい、そこの金色の髪のお姉さん、どうぞ。それと眼帯のおじさんも。隣の貴方もどうですか。え? なんでそんなに遠慮するんですか。取って食いやしませんよ」


 ゴツイおじさんは自ら席に着くと、指名された面々に着席を促した。片側十人掛けのテーブルに向かい合って九人。私の正面だけが空席。付け足せば私たちの並びも依然、両端が空いたままだった。

 ひと先ずは九人の勇者を笑顔で迎えて、私は阿呼の背中越しに石楠さんの袖を引いた。


「例の人はいるの?」

「はい。奥のテーブルで顔を伏せている男がそうかと。それに向かいに座ったツルツル頭の眼帯男。彼は昨夜、犯人と一緒にいた男です。首刈様も声を聴かれましたよね?」

「ああ、言われてみれば聞き覚えのある声だった。でも昨日盗み聞きした感じでは共犯じゃないよね?」

「そうなんですか? 私には聞こえていませんでしたので」

「まあいいや。丁度私の真ん前が空いてるから、そこに犯人を呼ぼう。石楠さんが呼んでよ」

「名指ししてしまっていいんでしょうか? 逃げ出す可能性もあると思いますが」

「その時はその時。確か今ここには優秀な刑部おさかべの人がいるんじゃなかったっけ?」

「間違いなくいますね。分かりました。お任せ下さい」


 密談を終えて居住まいを正す。すると示し合わせた通り、石楠さんが口を開いた。


「コホンッ、えー。皆さんの中にラデル・スピッケルという方がいると思います。首刈様のご招待です。正面の席へどうぞ」


 どよめく調査員たち。けれど席を立つ者はない。ただ、周囲の視線を追っていけば、私にもそれが誰かは見当が付いた。

 石楠さんの手帳には犯人の特徴がしっかり書かれていた。犯人ホシは赤髪で右耳に傷を持つ二十代半ばの男。この空間に赤毛の人物はそういない。それが奥のテーブルに顔を伏せているとなれば明らかに一人。尚も動かない犯人を見て、私は石楠さんに目配せを送った。


「そこでテーブルに伏せている方。貴方ですよ。狸寝入りは止めてこちらへ」


 言い方――。まあ、この際スビシッと詰めてしまった方がいいのは確かだけどさ。

 さて、明々白々と白羽の矢を立てられたラデルなにがし。動転しているのか最早意固地なのか、それでも動く気配がない。まさか狸寝入りで押し通すつもりか。と神経の図太さを疑っていると、ようやく立ち上がりはしたものの無言。目も合わさないまま、ゆっくりとテーブルを迂回し始めた。

 こっちへ来るならばよし。さもなくば――。テーブルの角に達したラデル。来るか? 否か? その時ラデルの視線が動いた。私はその先に裏木戸を見止めた。途端に尻に帆をかけ走り出すラデル。それを見て石楠さんが動きかけた刹那――。


「ラデルッ!!」


 食堂全体の空気が震えた。声を上げたのはゴツイおじさん。犯人は水を打ったような静けさの中に固まっていた。最早逃げ出す気配はない。そう確信した私は席を立ってラデルを見、次いでこの場の全員を見渡した。


「皆さん。皆さんの祖先は遥かな海を越えてこの大嶋へとやって来ました。困難な航海に挑んだ理由は様々だと思います。ただ、中にはまだ見ぬ神に会うことも目的として含まれていた。そうですよね? 今夜はこうして私たちの方から会いに来ました。そちらの石楠さんは馬宮衆ですけど、今、ここには四柱の神がいます。はじめまして皆さん。ようこそ大嶋へ。これからもどうぞよろしく」


 そこには身じろぎする者とてない。全ての視線が私に集まっていた。神か宮守衆かと、ある種値踏みをしていたところへ答えを出され、しかも四人までもが神であるという事実に、認識が追い付かないのかもしれない。彼らは私が「はじめまして」と挨拶した意味も理解していない。それが神から渡人への、千年越しの歓迎の挨拶だということを。


「今夜は同じテーブルで、同じ食事をして、色んな話しをしましょう。髭の貴方、食事以外の目的を尋てましたね。私の目的は今言った通り、貴方たちと話をすることです。貴方のお名前は?」


 ゴツイおじさんは調査員たちのリーダーだ。最初に自らの意思で私たちの席へと向かい、逃げ出そうとしたラデルもひと声で制止した。その彼が対話に応じてくれれば、この場の全員が後に続くに違いない。


「俺は、私はジーノスと言います。ここの連中は皆、ボスと呼びますが」

「そうですか。俺で構いませんよ。それで質問なんですけど、ジーノスさんのトーテムは熊ですか?」


 尋ねると、ツルツル頭のおじさんが噴き出した。咄嗟に目が合えば途端に黙り込む。けれど、何人かがそれを切欠に笑い声を漏らしたのはいい傾向だ。ありがとう、見た目犯人のおじさん。


「いえ、私の、ああ、俺のトーテムはふくろうです」

「梟!? 聞いた? 南風さん! 南風さんの信徒さんだよ、ほら、何か言ってあげてっ」


 のっけからの当たりくじに興奮して捲くし立てると、南風さんは渋々といった体でジーノスを見た。方やジーノスは完全に固まっている。私の正面を遠慮したジーノスは放谷の前。南風さんからもほぼ真正面の席だ。


「梟トーテムなら、あたしが誰かも分かるんじゃないの?」

「はっ、峰峰宮ほうほうぐうの四陣風、朱引南風媛命あからひくはえひめのみこと様かと。まさかお目にかかる栄誉がこの身に訪れるとは、思いもしませんでした」

「白守には?」

「いえ、未だ赴いたことがなく」

「遠いからね。それで加護は? ちゃんと届いてるの?」

「は、目と耳に」

「へぇ、二つ。信心深いんだ。なら、あたしからはこれを」


 南風さんはおもむろに薄紅梅の髪を一本引き抜いた。移姿うつしが解けて羽根に変わったそれを、紙飛行機でも飛ばすようにジーノスに投げる。ジーノスは自らの手の中に舞い降りた羽根を捧げ持つようにして首を垂れた。


「大したものじゃないけど、多少の役には立つでしょ。代わりにあそこで突っ立ている男をそこへ座らせなさい」


 ジーノスは羽根を大事そうに仕舞い込むと、己が神の言葉に従い、立ち上がってラデル手招いた。諦め顔のラデルが重い足取りでやって来る。そして苦り切った顔を隠そうともせず私の正面の席へ。

 ところで、南風さんは大したものじゃないと言ったけど、神の体の一部を貰うなんてことは、渡人からしたら相当な衝撃なんじゃないだろうか。私がそんなことを考えていると、折よく「お待たせしました」と両手に料理のトレーを乗せたバーテンが現れた。厨房の料理人たちもトレーを持って後に続いている。

 テーブルに次々に並んでいく男の料理的な品々。立ち上る香りに溢れた唾液を飲み込めば、放谷が早速手を出して、山出しの神丸出しのまま鳥の腿肉にガブリッ。

 私はバーテンを呼び止めると、新たに財布から一万縁札を取り出して、


「皆さん、お酒は自由に頼んで下さい。お近付きの印に私が持ちます。お腹が空きました。これは何て言う料理ですか?」


 一通り料理の説明を受けて、興味を引いたもの、目についたものを取り皿に集める。肉料理中心で、煮込み、焼き物、燻製、揚げ物とこれまで中々口にする機会のなかった品々ばかり。それを順々に味わっては舌鼓を打って、飲み物をと思ったらお酒しかない。


「済みません、お酒以外の飲み物も下さい。私と阿呼、それに放谷はお酒は飲みません」

「えー、あたい酒くらい飲めるぞー」

「そうなの? じゃあまあいいけど。阿呼は普通の飲み物ね」

「はーい」


 そういえば放谷は三十路だった。見た目も中身も全然追い付いてないから、ついつい忘れがちになる。

 調査員たちを見ると、こっちは無礼講のつもりだというのに、まったく以って大人しい。取り分け南風さんが八大神と知れた今、同席した面々は相当委縮してしまっている。奥や後ろのテーブルでは徐々に飲み食いが始ったものの、中央テーブルはしめやかなお通夜ムード。


「そっちのお料理冷めちゃってるじゃないですか。よかったら私のをどうぞ。お酒もじゃんじゃん飲んで下さい。寧ろ飲まなきゃやってられないんじゃないですか?」


 私は代弁するように誘い水をかけた。彼らの心情としては正にそうだろう。いきなり乗り込んで来た神が相席を要求した上に一人を名指し。恐らくこの場の何人か、或いは全員が名指しの理由に勘付いた筈。そこへ来て当のラデルをほったらかしに飲み食いを勧める神。彼らにしてみれば訳が分からないといったところか。

 けれど石楠さんは別として、私はラデルを例の事件の犯人だからと断罪しに来た訳じゃない。目的は既に述べた通り、対話なのだ。


「調査員のお仕事はどうですか?」


 私はラデルに問いかけた。彼は一瞬目を泳がせてから「どうと言われても」と口籠った。その横合いからジーノスが「ぼちぼちです」と答える。


「お姉さんはどうですか? 調査員のお仕事は楽しいですか?」


 向かって左にラデルと隣り合う、金髪のお姉さんに振ってみた。


「楽しいというか、生活の為に必要なので……」

「お名前は?」

「イビデ、です」

「イビデさんのトーテムは?」

くちなわです」

「私の知り合いも蛇ですよ。渡人の四代目でレブさん。神庭こうにわの街に住んでます。知ってたりします?」

「いいえ。存知ません」

「そうですか。神庭に行ったら寄ってあげて下さい。喫茶店をやってます。夜は酒場レストランです。そっちのツルツルさんはお酒はもういいんですか?」

「ツルツル!? 敵わねぇな……。おい、酒持って来い! ボス、あんたも飲めよ。神様が言ってるんだ。飲まなきゃ罰を当てられちまうぞ」

「そんのことしないですよ。でもツルツルさんの言う通り、遠慮しないで食べて飲んで下さい」


 どうにか飲み食いが始まると、それでもラデルは気もそぞろと言った感じ。でも放置だ。先ずは場の雰囲気に馴染むのが先決。ラデルを拘束する気なんて更々ないけど、気不味さを罰とするくらいは妥当だと思う。

 それにしても彼らは、こちらから話しかけないことには中々話さない。普通はこれだけ人がいれば、先陣を切る目立ちたがり屋が一人はいるものだけど、それっぽいツルツルさんもチラチラ見てくる割には言葉を発さなかった。一方で視線の方は、時を経るごとに圧を増してくる。だからさ、そんなに気になるなら話そうよ。

 やがて料理も大分片付いて、調査員も飲みが主体になってきた辺りで、私はここへ来たもう一つ目的に取りかかることにした。ナフキンで口元を拭い、手を二回打ち鳴らして「みなさーん」とアテンションプリーズ。


「私は歌が大好きです。皆さんもお酒を楽しむのに歌があってもいいでしょう? 是非聴きたい歌があるのでリクエストさせて下さい。皆さんのご祖先がこの大嶋へやって来てから千年が経ちました。その間に作られた歌の中で、一番知れ渡っている歌はなんでしょうか。それを私に聴かせて欲しいと思います。勿論、お礼もしますよ」


 突然現れた神がまた妙なことを言い出した。そんな反応。それをスルーして続けよう思ったら、そこに石楠さんも紛れてて思わず二度見してしまった。よっぽど変に思われているらしい。

 私は咳払いをして後ろのテーブルを振り返った。隅で八弦琴を脇に一人飲んでいる細身の男性。背後にいて油断していたらしい彼は、私が声をかけると慌てて居住まいを正し、その拍子に木杯を倒した。そんな彼に向けて私はエアギターを掻き鳴らす。すると及び腰の彼にジーノスが親指を立てる。彼は私のいるテーブルとカウンターバーの間に椅子を持ち出すと、落ち着かない様子で八弦琴を構えた。


「よろしくお願いします。お名前を伺ってもいいですか?」

「か、カリューと申します」


 痩せ型のカリューは長い腕にしっかりと楽器を構えて、あちこち弦を弄ってから、一つ咳払いをした。私が頷いて返すと、カリューはもう一度咳払いをして息を整え、緊張した指に最初の一音を爪弾いた。

 静かな出だしは私の予想と異なり、みんなして歌うような明るいムードの曲ではない。大嶋にはない異国の音色と調べ。低い音階に時折高い音を混ぜて、渡人の間に広く知られているという曲が紡がれて行く。


「吟遊詩だ――」


 思わず漏らすと、歌詞はメロディーの合間を繋ぐように語られた。題材は驚いたことに五百年前の戦争。神を前にそんな曲を奏でるというのは、何か思うところがあるのだろうか。私は軽く不安を感じた。

 私は南風さんを振り返って手振りで「この曲知ってる?」と尋ねた。南風さんは首を横に振った。まぁそうだろう。南風さんに限らず、神々は渡人に殊更の興味を示さないようだから。石楠さんならと思ったけど、奏者に向き直った今、彼女は私に背中を向けている。演奏中に騒がしくするのはマナー違反なので、私は口を噤んで聴き入った。


 第一幕。曲は護解もりとけに築かれた渡人の都市の繁栄に始まった。その長く平和だった都市を新興国の軍勢が席巻し、護解もりとけは物々しい建造物に覆われて行く。


 転調して第二幕。時が来て指揮官が軍勢を動かす。陸を行けば水走みずはを目指し、海を行けば青海おうみへ帆走した。

 水走の蛇神は神々を従えて土地の境に水城みずきを築き、渡人の軍勢を迎え撃った。万古の神の大いなる御業の前に兵士らは道を失い、口を塞がれ、視力すら奪われてしまう。満足に戦うことも許されず、たちまち水走から追い出されてしまった。


 更に転調して二幕の後半。そこに展開されるのは軍船と大波の、こちらも一方的な海戦だ。渡人の船は怒り狂う鯨神が起こす荒波に呑まれ、次々と大破転覆。海の藻屑と消えて行く運命さだめの兵士たち。曲調にも詩行にも、一片の救いすら感じられない黒々とした歌だった。


(これは失敗したかな……)


 私は選択を間違ったと思った。神々によって己の祖先が散々に打ち負かされる歌。それが本当に彼らの間で最も知れ渡っている曲なのだとしたら、横たわる溝は余りにも深過ぎる。そこにはいぶせし恨みというものしか感じられなかった。


(あー、どうしよう? まさかこんな歌を聞かされるとは思ってもみなかった)


 二段構えの二幕が終わり、新たな調べが流れ出す。まだ続くのか、と滅入る気持ちを持て余していると突然、この場の渡人全員が立ち上がった。驚いて見回せば、誰もが奏者と正対し、胸に拳を当てて直立している。何事?

 曲調は依然として暗いものの、今までの吟遊詩然とした語り調から、歌曲を思わせる曲調へと変わった。耳慣れないそのリズム。今の気分と相まって背筋をゾワゾワさせる。そこへ、低く太い声が一斉に折り重なった。



 薄闇の中

 一人静かに


 そばむ影は踊りて

 夢占ゆめうら映す


 ひひるの羽根が

 舞いつど


 一途ひとみちに祈る神

 瞬きもせず


 明昏あけぐれの鐘が

 とむらう夢


 魂導く

 火取蛾ひとりがたち


 狂い咲く花は

 見果てぬ夢


 生まれ変われば

 比翼ひよくの命


 巡り合えた



 篝火かがりび

 酔い惑う影


 燃えて尽きる命は

 魂風たまかぜに乗る


 語り継がれる

 霊振たまふりの神


 呼びまつかえすのは

 波間の命


 明昏あけぐれの風に

 散りゆく夢


 その身を差し

 火取蛾ひとりがたち


 乱れ舞う花は

 嘆きの夢


 家路を辿る

 連理れんりよすが


 巡り合えた



 余す演奏もなく曲が終わり、渡人たちは再び席に着いた。何人かは立ったままに酒を呷り、場はどこか厳粛とすら思える空気に包まれる。


 蛾神頌歌がしんしょうか――。


 海に沈んだ数多の命。その全てを呼び戻したという護解もりとけの八大神。神魂召真闇忍火媛命くしろめすつつやみのおしほひめのみことを讃える歌だった。

 神に会いにきた筈の彼らが、神と争う誤断を下し、その報いとして海に沈められた。散り行く魂の全てを、忍火媛おしほひめが自らの眷属である蛾の命と引き換えにして救った。歌詞からはそう読み取れた。

 暁闇あかときやみに散る桜のように、無数の蛾がその身を篝火へと投じて、水没した兵士たちの身代わりとなったのだろうか。よくは分からない。けれど、長い吟遊詩に暗澹あんたんとしていた私の気持ちは、これによって一気に晴れた。

 私は立ち上がって静かに拍手を送った。そこに阿呼が続き、放谷が続けば、石楠さんも南風さんもそれに倣う。


「ありがとうカリューさん。ありがとう皆さん。私は感動しました。この歌が渡人の間で一番知れ渡っているというなら、忍火媛おしほひめの存在は皆さんとってとても大きなものなんですね。同じ神として嬉しいです!」


 私が素直に喜びを伝えると、石楠さんの正面に座るツルツル頭のバースタンが控えめに手を挙げていることに気が付いた。今宵初めて目にする消極的な積極性。私は更に嬉しくなって、早速発言を促した。


「なんですか? 質問ですか? なんだって聞いて下さい。私に答えられることならんでも答えますよっ」

「俺が聞きてえのは……あ、伺いたいのはですね。八大神であるらせられ……、あらせられる南風媛様をですよ? 端に座らせてらっしゃる貴女様は、一体どういう神様かってことをですね」

「私ですか? 私と阿呼は狼トーテムですよ。真神の主祭とその妹です」


 言わぬが花。そうは思ったけれど、初めて向けられた渡人からの問いを、嘘や沈黙で流すことは私にはできなかった。だから正直に答えた。するとまたもや、ここへ踏み入った時同様、全員がフリーズ。……ですよねー。ついでに派手に物が割れる音がして、見ればバーテンさんが追加のボトルを床に落としたまま立ち尽くしてたり。あらら、勿体ない。


「そんなに驚くことないですよ。どの神も皆さんと同じ大地に立って暮らしているんです。出会う時には出会います。それが大嶋でしょう? それではツルツルさん。今度は私から質問です。と、その前にお名前を」

「お、俺はバー、バースタンです。ごっ、ご質問はなんでしょう」

「バースタンさん。私はしょっちゅう耳や尻尾に渡人の視線を感じます。なのに、神社の境内ならいざ知らず、街で渡人から声をかけられたことはありません。これは何故ですか?」

「そりゃ、俺らは神々にはよく思われてねぇから……それで」

「どうしてそう思うんですか?」

「どうしてって、過去には戦争を仕掛け訳だし……」


 予想の範疇にある答えに、そうですかと着座を促して、今度はジーノスに問いかける。


「ジーノスさん。渡人の祖先が大嶋を目指したのには、私たち神々に会う目的があのは間違いないですよね?」

「そう、ですね。何よりも先ず、神々を見出す為の航海だったと聞いています」

「それでは戦前戦後の五百年。それぞれ神と渡人の関係にはどんな変化がありましたか?」

「変化、というのは正直分かりません。ただ、劇的に変わったことはないように思います。勿論、戦後、渡人社会は再びの戦争を忌避して変わりました。ですが、神々との関係となると……」

「本当にそうですか? では何故変化がなかったと思いますか? 分からなかった理由は?」

「……俺には分かりません」


 俯きがちに頭を振る姿に、私は重ねて聞くことはしなかった。一旦質問を止めにして、木杯の水を口に含む。正面の特等席からラデルの視線が、まだか? と訴えていた。残念ながらその時は延々と訪れはしない。どうしてもと言うなら石楠さんにでも頼むことだ。


「千年の時を経て変わらない関係。それが良好なものなら誰も不満は言いません。けれど、そうじゃありませんよね? バースタンさんは言いました。渡人は神々によく思われてないと。それが事実かどうかは別として、バースタンさん自身がそう思っていることは事実です。この点だけでも神々と渡人、両者の関係を良好とは言えません――。一方で変わったかどうか分からないと、そうジーノスさんは言いました。ですがこれは私には信じられません。少なくとも渡人は変わったと、私はそう思います。そして、渡人が変わってしまった原因は神の側にもある。そうも思います」


 もう一度水を含んで、渡人を見渡した。するとそれまでのよそよそしい気配は鳴りを潜めて、みんなが私の言葉にじっと耳を傾けている。さあ、本題だ。


「私は今日、ここに来るに前に歌を作って来ました。是非、皆さんに聴いて貰いたいと思って作った歌です。そしてこれは先程の皆さんの歌へのお礼でもあります。この歌を聴いて貰えれば、渡人がどれだけ変わってしまったのか、皆さんにもきっと分かって貰えると思います」


 私はテーブルとカウンターバーの中間に移動し、もう一度カリューに出て来て貰った。

 遠慮がちに近付いてきたカリューに屈んで貰い、懐から取り出した帳面を開いて筆書きの楽譜を見せる。通用するかどうか不安はあったけれど、どうやら五線譜は楓露でも通じるようで、カリューは真剣な目で譜面を読んだ。次いで弦を爪弾きながら、メロディを指に頭にと叩き込んで行く。私はラララで音を取り、呼吸が合えばカリューも笑顔を見せて、そうして準備は整った。

 私はカリューを一人残し、自らはテーブルに向かって走り出す。そして、えいやっ、とその端に飛び乗った。


「お姉ちゃん、お行――」

「阿呼、これはもうテーブルじゃない。舞台だよ。お姉ちゃんの歌のステージ!」


 妹の制止を遮って私は宣言した。それから狼同士にしか通じない耳配せで「ごめんね、今だけ」と阿呼に伝える。阿呼は眉を八の字にして「分かった。頑張って」と返してくれた。

 伝わるのはニュアンスだ。言葉そのものじゃない。けれどそれで十分だった。ありがとう、お姉ちゃんは頑張るよ。


「渡人の海へ。これから私が歌う曲の題名です。どうか皆さん、目を閉じて聴いて下さい。そして想像してみて下さい。千年前、この大嶋にやって来た皆さんの祖先。彼らがどんな思いで大嶋を目指したのか。私は想像しました。想像だから違うかもしれない。でも私は信じています。こうであったと、信じています」


 私は振り向いてカリューに合図を送った。カリューは唇を固く結び、細い顎をグッと引いて頷いた。そしてその指が踊る。

 イントロの音色は部屋一杯に広がって滑り出しは好調だ。

 瞼を閉じれば灼けつくような日差しに照り返す一面の海原。そこへ勇敢で向こう見ずな男たちを乗せた船がフレームインしてくる。

 空に雲の一つもなければ、男たちの胸には一片の憂いもない。目指すは神々の住まう島。

 帆が張られ、舵輪が回り、天に突き出す船長の手には太陽が握られた。

 私は大きく息を吸って、帆に受ける風にもなれと歌声を上げた。

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