028 逆髪の媛
野飛―― 真神の西北西に位置するこの地は、真神原に似て広範に草原を擁し、秀でた牛馬の育つ雄大な土地だ。
南に青海、北に白守、東に黒鉄と接し、街道は整備され、往来も多い。この地に暮らす嶋人の多くは、季節ごとに草原を移動する集団を形成し、それらは馬族と呼ばれていた。
野飛の一宮は馬トーテムを祀る競大社。一般には競大社だの馬宮だのと呼ばれている。
時は遡って首刈ら大嶋廻り一行が犬神神社を発つ数日前のこと。
一五一紀、十五年、野飛月の十五日。
競大社では月中の十五日を迎え、原初の九つの宮の大祭でも最大規模と言われる馬競神事が催されていた。
大嶋全土から速さ自慢の優駿が集い、重量馬、中量馬、軽量馬、そして小型馬の階級別で自慢の脚を競う。生来の姿が馬であれば神であろうと何であろうと、月初めから始まる前哨期間を勝ち残ることで神事への参加が認められた。無論、御業は使用できない。
会場は野飛外宮、祭祀奉納大社殿。馬競神事の為に造られた巨大木造建築で、他に類を見ない独特な外観はトルコの戦車競技場にも似た長さ九〇〇米、幅三〇〇米の長円形。それが丸里の街の中心に堂々と横たわっていた。
外宮は元々、丸里の中心にあった内宮に対し郊外の平原に建設された。それがいつしか周囲に人々が集い、囲い込むように長円形の街を形成して、今ではそこが丸里と呼ばれている。
平常、市場として開放されている外宮は日々賑わいをみせているが、毎年九月――野飛月を迎えると市場は翌月まで閉鎖。神事の為に隅々まで祓い清められた。
今、街は上を下への人々でごった返し、その流れは街の中心部に建つ野飛最大のランドマークへと向かっている。この日の為に育ち、鍛えられた脚自慢たちの檜舞台だ。
外宮に入ると神事の舞台を囲い込むのは階段状の観覧席。どこを見ても黒集りの人の群れだ。次々に出走する駿馬への声援。着順を占う神籤の当たり外れに一喜一憂する人々の声。それらが喧々諤々《けんけんがくがく》と場内に響き渡っていた。
外宮観覧席の北面、一般参賀の席上に迫り出す神明櫓に、野飛の主祭である野狭飛逆髪夕星媛命はいた。
裾を短く切り落とした金糸雀色の振袖を纏い、後ろ髪を長く垂らした紫黒の髪は、くっきりとした眉の上に奇麗に切り揃えられて、頭頂からシュッとした栗皮茶の馬耳が突き出している。
見た目には十七、八の少女。黒々とした主張の強い瞳。眦は少しきつめに吊り上がって、細い鼻梁は小鼻もこじんまりと低く愛らしい。薄い唇をぺろりと舌先で湿らせれば、腰から垂れるふさふさの尻尾が同時にふわりと揺らめいた。
「来たわよ、夕星」
神事への挨拶を兼ね、水走の八大神、夜刀が姿を現した。
「来たか夜刀ちゃん待ってたホイッ!」
「……何よそれ。もっと普通に出迎えなさい」
待ち兼ねたとばかりに駆け寄る夕星。そのお道化た出迎えに夜刀は軽く眉根を寄せた。
御簾に閉ざされた優美な楼殿の中。会場の喧騒は御業によって和らいでいる。二柱の八大神の他は、その世話に当たる数名の馬宮衆がいるばかりだ。
「他は顔見せに来てないのかしら?」
「何言ってんの! とっくに来たよ。もう十八競だもん。夜刀ちゃんが遅いの!」
「それは御免遊ばせ。でも、ちゃんは止めなさいちゃんは」
ゴスロリ姿の最古神が窘めれば、大胆に裾を切り落としたミニスカ状の振袖姿でくるくる回る夕星。「やーだよっ」と舌を出して笑う主祭に「近頃の若い神は」と夜刀は肩を竦めて溜息を吐いた。
夕星は八大神の中では齢千に満たない若い神だ。年齢順に並べれば下から三番目。十数年前に青海で代替わりがあるまでは、赤土に次いで二番目の若さだった。
夕星の直ぐ上には白守の四姉妹。更に上がると三千年から四千年を生きる風渡、黒鉄、護解の神々へと連なって行き、それら全ての上に桁違いの夜刀が立つ。
夕星は夜刀の来訪に喜びを隠そうともせず、ウキウキとその手を引いて、二つ並びの神座へと賓客を導いた。
「夜刀ちゃんラムネ飲む? しゅわしゅわして美味しいよ?」
「あらいいわね。焼酎で割るからそっちも用意して頂戴」
「あいあい~。お酒とラムネ持ってきてー」
夕星の命を受けた馬宮衆が一礼して下がり、ほどなくしてラムネと焼酎を載せた盆を捧げ持って来た。塗りの酒杯にラムネと焼酎を注ぐ馬宮衆。その目は古き神の隣、稚気溢れる笑みを覗かせる己が主祭に注がれていた。というのも、夕星がこのように素直で純粋な笑みを見せるのは珍しいことだからだ。
平素からの夕星は非常に気難しく、扱いの難しい性格をしている。喜怒哀楽がコロコロと入れ替わり、その振れ幅も大きい。日々誰かしらが叱責を受け、或いは無軌道な出歩きに振り回され、側仕えは常に目の回る思いをさせられていた。
「今年も大活況ね。水走の馬たちはどうだったかしら?」
夜刀は酒杯を側台に置いて、一口目の後味を愉しみながら問いかけた。隣の神座に飛び乗るように座った夕星は両の手をパッと開いて答える。
「水走は第三で二着がいて、第七で一着が出たよ」
「あらまあ! 一着が出たならどうにか今年も面目は保ったわね」
「今年は一着の馬たちみーんな内宮に呼んで、私の鬣から結い飾りを被け取らせることにしたの」
「それは素敵ねぇ。それこそ神馬駿馬の面目躍如に相応しいものだわ」
にこやかに語らう二柱の神は、傍から見れば友人、姉妹、親子の何れにも見えて微笑ましい。夜刀は塗りの酒杯を呷って喉を通る爽やかな刺激に目を細めた。隣ではいよいよ最終盤の大競に目を輝かせる夕星。
「夜刀ちゃん、もっと前で見よっ」
「はいはい」
神座を飛び降りた夕星は夜刀を手招いて御簾の前に駆け寄った。御簾越しに見降ろす競技場には最後の競争へと向かう神馬駿馬たち。それらが出走線上に張られた縄を前に並ぶと、興奮して嘶く者、静かに蹄を鳴らす者、いずれも隆々たる馬体を輝かせて合図を待つ。
かつて最後の大競は、馬宮の主祭が競技場の中央櫓に立って号令を下したものだ。時には自らも出走することすらあった。しかし、五百年前の渡人との戦を境に、八大神は人前に姿を見せなくなった。それは姿を隠すことで渡人の妙な執着をいなそうという、八大神の示し合わせによるものだ。無論、そのことを面白く思わない神もおり、夕星もその例に洩れなかった。
「私もみんなと思いっきり走りたかったなー」
「野駆けはしているんでしょう?」
「そうだけど、全力の勝負がしたいのっ。大嶋全土から優駿が集うのは馬競の時しかないんだよ? 渡人がいなければもっと伸び伸びとしてられたのに。今の八大はホントつまんない!」
馬宮の伝統で、大競に勝利した神はその神名に速の名を冠することが許される。だが、御業を用いてはならない競争に於いて、神といえどもそうそう勝てはしない。主祭神ですら歴代に僅か二柱しかその名を許されていなかった。夕星も八大が身を隠すようになる以前、幾度か挑戦したが、やはり勝てない。そして今、その機会すら奪われていることが不満で仕方ないのだ。
夜刀は頬を膨らませる夕星を抱き寄せて、よしよしと頭を撫でてやった。宥めすかすのではなく、ただ慈しむ。欲しいものを欲しい時に与えるのが夜刀であり、それ故に誰からも慕われる神だった。
二人、身を寄せながら眺め渡す競技場を、十頭の裸馬が疾駆する。夕星はともに走る自らの姿を思い描いた。それを察した夜刀が慰めるようにその背を摩る。
先頭は夕星が手ずから育てた黒鹿毛の駿馬。直線では他を突き放す驀進。曲線への切り込みは観衆の目すら振り切る鋭さだ。
「行け、早坐」
呟く夕星。まるでその声が届いたかのように黒鹿毛は最後の直線に一層の土煙を立てて疾駆した。馬体から迸る汗に、夜の如き黒が艶めいて漆闇を描き出す。
夜刀は溜息を吐いた。これほどに美しい馬にはそうはお目にかかれない。夕星が如何にこの黒鹿毛に愛情を注いだか、それが手に取るように解る。
「いい名前ね。彗星もさぞ喜んだでしょう」
先代、速野飛早々坐彗星媛命は夕星の母神だ。今は主祭の座を譲って名を改め、速彗星命と呼ばれている。夕星は速の名を持つ母の神名から名を頂いて、自らの愛馬に与えたのだった。
「夜刀ちゃん、その言い方、なんかお母さん死んじゃったっぽい」
「やぁねぇ、さっきそこで挨拶したばかりよ」
ドッと笑えば愛馬の勝利も高らかに、夕星は夜刀の手を取ってくるりくるりと輪を描いた。さあ祝杯を上げましょうと神座へ戻って玉鈴を鳴らし、祝いの御神酒を運ばせる。
と、そこへ突然、藍鉄の袴を着けた、側衆とは異なる装いの馬宮衆が駆け込んで来た。彼は足音を殺しながらも急いで夕星の前に進み出て、突然の無礼を詫びた。
「騒がしいわね。どうかしたの嘆星。何かあった?」
夕星が問えば嘆星と呼ばれた馬宮衆は面を伏せたまま報せを奏じる。それを聞いた夕星の顔色は俄かに一変。隣で聞き流していた夜刀の容貌にも微かに険が宿る。夕星はみるみる青筋立をて、烈火の如く怒鳴り散らした。
「どこの誰がそんなふざけた真似をしたって言うの!? 神事の最中だというのに刑部は一体何をしてたっ!? 居眠りでもしてたのかっ!?」
夕星の怒りが爆発し、激震する楼殿の中、神座を離れた夜刀は側衆から酒瓶を取って手酌の酒を呷った。同じ八大といえども宮が異なれば、頼まれもしないのに余計な差し出口は挟まない。
今、夕星の足元で身を縮める嘆星は刑部の長だ。宮の境内外に於ける警邏の統括を任としていた。この重大な神事に於いては警備の最高責任者でもあった。
彼の報告によれば、馬宮の分社から神事に参じた従神に対し、渡人が審神の小杖を用いたという。そして従神の波長を写し取り、そのまま持ち去ったと。
これまで小さ神に仕える宮守衆が被害に遭う例はあったが、一宮はおろか二宮、三宮でもそのような被害は出ていない。馬宮としてはこの一件、醜態以外の何物でもなかった。
審神の小杖は触れた折に違和感がある。情報が出回っている今では触れた瞬間に写されたと分かるものだ。それを己の手に収めて渡さねば問題はないが、今回は持ち去さられてしまっている。正に恥の上塗りとなる格好だ。
「どうするのよ!?」
「それは……どうすべきかとお伺いを」
「バカッ! さっさとその渡人を捕まえて小杖を取り返して来なさい!! 捕まえた渡人は私の前に引っ立ててくるのよっ!」
「ですがそれは……」
嘆星は困惑した。主祭の怒りも言い分も分かる。尤もだ。しかし、渡人との間に争いを招きかねない事態は避けよ、というのが大宮の決定だった。七代皇大神である月酔命によって下された神旨は未だ厳然としており、覆されてはいない。よって犯行に及んだ渡人の捜索、身元確定まではするにしても、拘束となるとどうにも躊躇われた。
「媛様、お怒りは御尤もに御座いますれど、拘束は如何なものかと」
「馬宮の恥をそのままに捨て置けとでも言う気!? 貴方正気なの? どう御祖に顔向けするの! さっさと行きなさいっ、忍部と組んで徹底的に探すのよ!」
逆髪の名の通り、髪を逆立て目尻を吊り上げた夕星は、怒りに任せて側衆から何から全て追い出してしまった。後に残るは酒瓶抱えて手酌に勤しむ夜刀一人。
夜刀は自分の置かれた状況を絵を描いたら中々にシュールだなと思いつつ、楼殿の中を行ったり来たりする夕星の頭が徐々に冷えるのを待つことにした。
(困ったものだわね……)
夜刀は常々考えていた。渡人と神々、ひいては大嶋との関係は今のままではよろしくない。しかし、それを口にするのが自分という訳にも行かない。二代前の皇大神が神旨を下している以上、その座を継ぐ者が改めてこそ話ができるというものだ。
代替わりしたての当代皇大神は未だよちよち歩きも同然。育てばその器たり得ようか。分からない。ただ、そうあって欲しいとは思う。今、渡人への怒りに呑まれる逆髪の媛を目の当たりにすれば、その思いは一入だった。
「夜刀ちゃん!」
「うん? どうしたの?」
「えーん、もうやだ! 折角の神事が渡人のせいで台無しっ! 後ろ脚で蹴っ飛ばしてやりたい!」
「よしなさい。八大神ともあろう者が、そんなにカッカッするもんじゃないわよ」
だってとごねる夕星の頬を夜刀は優しく撫でて、次いでその手を取り、神座に座らせる。自らも隣の席に腰を下ろし、脇息に乗せられた夕星の手に、そっと指甲套の光る青白い手を重ねた。
「渡人も嶋人と同じ人間よ。そう悪く取らないで頂戴」
「大嶋の民なら渡人みたいな悪さはしないもの」
「そうね。けれど、渡人にしたってそんな手合いは一握りよ。もっと広い目で見ないと」
「じゃあ悪い奴らだけ懲らしめればいい。でしょ?」
夜刀はそれには答えずに、重ねた手を優しくぽんぽんと叩いた。
一度「嫌いっ」と思った相手を冷静に見つめ直すのは本当に難しい。それは神といえども至極困難だ。何故なら楓露の神々は天界や冥界のような異界に住まう超然異質の神ではない。感情面では尚更だった。
楓露の神は如何なる存在とも隔てず同じ大地に暮らし、如何に長命なれど死を定めとする。よって価値観も似通る部分があるし、元来の動物の性や人間臭さを色濃く併せ持つことにもなる。夕星のように高い神座にある神であっても、ともすれば簡単に相手方の土俵に上がってしまうという欠点に繋がっていた。
もうしばらくかかるわね。と、夜刀は少し落ち着きを取り戻した夕星の、愛らしい横顔を見やった。
「夕星」
「ん?」
「そろそろ帰るわ」
「怒ったの?」
不安気な瞳を揺らす夕星。夜刀はそれを慈母の笑みで包んで優しく告げる。
「おバカさんね、違うわよ。私もこれで色々と忙しいの。また来るわ。それに、たまには貴女も水走へ遊びにいらっしゃい」
「……うん、分かった」
夜刀は神座を離れ、神渡の御業を唱えると瞬く間に姿を消した。一人残された夕星は、今し方夜刀が立った居場所をじっと見つめ、ややあって神座を降りると、側衆を呼びながら楼殿を後にした。




