023 開戦
明けて合戦当日。
御神座に枕を並べて寝こけていた私は、漫画のような寝返りを打って覆い被さってきた放谷に叩き起こされた。人の上で鼾をかく放谷をどうにか押し退け半身を起こす。すると今度は隣でカッと目を見開き天井を見据える阿呼の姿が目に入った。実に異様なその様に私が言葉を失っていると、
「お姉ちゃん」
「はい」
「阿呼、全然眠れなかったの」
「そ、そうなんだ。おめめぱっちりだもんね。ひょっとして、ずっとそのままだった?」
「うん」
「今日、合戦だけど、大丈夫?」
「うん」
「そっか。まだ朝ご飯まで時間あるし、ちょっとでも寝ておくといいよ」
「うん」
私は遠足前日症候群に罹った妹の布団を引っ張り上げて、頭から被せてあげた。
祭壇近くに床を敷いた筈の痲油姫の姿はなく、ぐるりの戸は全て開け放たれている。どちらの坪庭もよく晴れた朝の陽射しに照り輝き、鹿威しの鳴るに合わせて、蛙の池に飛び込む音が後を追った。
「おはよー」
濡れ縁に立って朝の空気を胸一杯吸い込んでいると、縁側の隅で胡坐を掻いていた南風さんから欠伸交じりのご挨拶。昨夜は就寝間際に滑り込みで帰ってきたので、碌に話もしないまま眠ってしまった。
「おはよう南風さん。そう言えば昨日、お姉さんが来てたって聞いたんだけど?」
「あー、うん。西風西風ねー。ちょっと話があって。もう帰っちゃったけどね」
「会わせてくれればよかったのに。会いたかったな」
「それは失礼。でも大嶋廻りは焦ってする旅じゃないんだし、あたしの姉さんや妹に会いたかったら、そのうち白守に来ればいいじゃん」
「まあそうなんだけどね。てか南風さん朝弱い?」
寝ぼけ眼に大欠伸の様子を見て問えば、よっこらせとおっさんじみた所作で腰を上げて、
「あたし梟だからさー。朝型ではないよねぇ。そこの蜘蛛っ子が乗っかって来て起こされちゃったんだけど、ついでだから首刈ちゃんの方に転がしといたよ」
「なんてことすんのさ。やめてよね。それとその格好だけど。もうちょっときちんとしたら?」
寝巻の小袖は乱れ、たわわな胸がはだけそう。南風さんは気にならないのだろうか。もっときちんとした所作を身に着ければ芍薬、牡丹、百合の花だというのに。「おっとこぼれかけてた」なんて言ってようやく袷を直してる。
「それにしてもなんだか賑やかだねぇ?」
耳を澄ませば、ざわざわと何処からともない喧騒。
「あっ、忘れてた」
「何を?」
「いや、昨日ちょっと。――ほら、放谷。いい加減起きてっ」
とんだ寝相で寝こける放谷を無理矢理に引き起こして、私は本殿を出て境内の様子を見に行った。阿呼はまぁ、そのままで。
太鼓橋を渡り、梁の傾いた拝殿にやたらと軋む板張りを渡って、お日様の射す切目縁に立てば、一望する境内には里人がびっしり。
「おー、随分な人出になったなー」
「何これ? 里人? どゆこと?」
大欠伸をかく放谷の隣で、南風さんは呑み込めない状況に目を丸くした。
放谷の感嘆然り。南風さんの驚き然り。境内は人に移姿た従神に混じって、老若男女が五十人ばかり。鳥居の向こうを覗けば、まだ人の来る気配が窺えた。
「首刈様。この通り、やつがれが夜の明けぬ内から里へめーって皆々を集めてめーりやした」
「瀬所丸さん、お手柄です。大勢集まってくれたね」
浜床に立つ瀬所丸さんの報せに私は大いに喜んだ。
眼前に集う彼らは一体何か。南風さんの疑問には勿論答えがある。彼らはこれから始まる泥んこ運動会の、いわば地元応援団なのだ。
「実は昨日、会合の帰り道で合戦神事に里の人たちを招待しようっていうことになったの」
「へ? いやいや、合戦神事は神々だけの秘祭の筈だけど?」
「そうなんだってね。それは痲油さんからも聞いた。でも私は思ったの。神様が里人の為に一生懸命になってやる神事を、知らぬ存ぜぬで恩恵だけ受けていたんじゃ、里の人たちだって味気ない。違う? 自分たちの為に頑張ってる神様を応援したい。そう思うのが人情でしょ?」
「でも湧玉の池は星霊の湧く神聖な場所だよね?」
「それも痲油さんから聞いた。湧玉の池は神聖な場所には違いないけど、真神のような禁足地じゃあないんだって。池の生き物を殺めたりするのは駄目だけど、そうじゃなければ立ち入りも自由。だったら構わないじゃない」
「それはそうかもしれないけど、だからって里は今刈り入れで忙しい時期よ? 月末にやる実りの祭りまでに、全部の刈り入れを済まさなきゃならないんだから」
「そのことも言われたなぁ。でも幾ら忙しいからって合戦神事は正午には終わるんだよ? 誰も半日くらいで目くじら立てたりはしないでしょ? 万一遅れが出ても、お祭りまでの数日に、今度は神様たちがお手伝いして上げればそれで済む話じゃない」
「神が里の刈り入れを手伝うの? えー……。うん、まあ、それで痲油姫は何て?」
「最初は渋ってたかな」
「そりゃそうだわよ」
と、ここでご本人ご登場。大笊抱えた谷蟇衆を従えて、切り目縁を炊屋の方からやって来た。笊の中身を覗き込めば、
「あー、知ってる! 勝ち栗、昆布、打ち鮑!」
「ほー、なんだそれー?」
「敵に打ち勝って喜ぶ。合戦前の験担ぎだわよ」
境内に下りた谷蟇衆は験担ぎの振る舞いを従神から始めて里人にも隔てなく配って行く。
「皇大神御一行に助っ人を頼んだら、とんだ運びになっただわ。お蔭様で今日の合戦、絶対に負けられなくなっただわよ。無様に負けようものなら谷蟇への信心が失われてしまうだわ」
パチンパチンと扇を鳴らして、痲油姫は厳しい表情のまま境内を見ていた。私の突飛な発案が原因なら申し訳ない。けれどもそれは杞憂だと私は信じていた。
「そんなことにはならないよ」
「頼もしい限りだわ」
「背水の陣、いいじゃない。人が見てようといまいと勝ちに行くのは変わらないでしょ? なら、励みになる声援はあった方がいい。気持ちに張り合いができるし、そしたらいつも以上の力だって出せる。絶対にそう」
痲油姫は無言のままじっと境内を見つめていた。けれどパチンと扇を鳴らしたその口元には、確かに笑みが含まれていた。
「首刈の言う通り、祭りは賑やかじゃなくっちゃなー。あたい犬神神社のお犬取りを見たことあるけど、大勢人が集まってたぞー」
「お犬取り?」
「おー。犬と人とが一対になって、どれだけ息が合うかを競う神事だー。毎年春が来ると楽しそうにしてなー」
「それは是非、春になったら見に行きたいね。合戦神事だって今年は里人だけの招待だけど、もっと大々的に人を呼び込めば、信徒の数も増えるんじゃない?」
「はいはいそこまでー。脱線してるだけの時間はないよ。そろそろ支度して移動しなきゃ」
南風さんのツッコミに懐中時計を見れば八時半。合戦神事は十時に開戦だから確かにのんびりしている暇はない。
「あっ、阿呼起こしてこなくっちゃ!」
私は慌てて本殿に取って返した。行った先で布団をめくれば、相変わらず目を爛々とさせた愛妹が、木に竹を接いだような危なっかしい動きで起き上がる。大丈夫なのこの娘。合戦中に倒れなきゃいいけど……。
阿呼の手を引いて戻ると拝殿前に八十には増えたと思しき里人がずらり。そこへ瀬所丸さんが進み出て。
「さあさあ里の皆々。こちらは大宮のおえらい神様じゃ。ご挨拶ご挨拶。皆を合戦見物に呼んでくれなすった御方じゃ。首刈様にご挨拶いたさねば罰も当たろうぞ」
いや、罰なんて当てないよ。と苦笑いを浮かべたところへ里人たちが一斉に傅いたものだから、実に気骨の折れる具合になった。駆け出しとはいえ神様だからこうして拝まれるのも仕事の内だ。
「よかったなー。首刈が言い出さなきゃこうはならなかったんだ。さすがだなー」
人の気も知らずに放谷は得意の恵比寿顔。南風さんはスッと腕を伸ばしてにこやかに前へと促してくる。とりあえず何か言わないことには里人も身動きが取れないようなので、私は階の縁に進み、息を整え声を発した。
「大宮から来ました首刈です。今日は私も谷蟇勢の一柱として合戦に加わります。妹の阿呼と、ここにいる放谷も一緒です。里の皆さん、来年はどうなるか分かりませんが、今年は是非、盛大に応援して下さい。一つでも多くの池に谷蟇の旗が立てば、里の暮らしもきっとよくなります。そうなるように頑張りますので、応援よろしくお願いします。それと、これはお祭りですから、目一杯楽しんで行って下さいっ」
言ってる最中から最高神といより司会進行役の物言いだなと呆れつつ、私は誤魔化すように、締め括りに拳を突き上げた。
「がんばるぞー、おー!」
小さい子たちがパッと顔を上げて、歓声と一緒にすっごい勢いで手を振ってくれた。可愛い。
「勝つぞー、おー!」
放谷が続けばそこへ従神や谷蟇衆が加わり、里人たちも順々に立ち上がって、境内に必勝祈願の声が溢れる。
「ほわぁー、これはまた随分と賑やかになったこと」
気が付けば隣に鉢巻をした痲油姫。主祭神の合戦装束を見た里人たちは輪をかけて盛り上がった。社の衆と里の衆、そのやり取りを見れば仲のよさは歴然としている。それこそレブが言っていた近所付き合いというやつだ。やはり声をかけて正解だった。私が手応えを感じていると、痲油姫が一際大きな声で号令を下した。
「いざ、湧魂の池へ向かうだわ!」
「おーっ!!」
***
号令一下の行軍が始まると、南風は一人先んじて湧魂の池へと羽搏いた。谷蟇の杜から湿原へ抜け、上昇気流に乗って澄み渡る数多の池を望む。
青空を映し込む湧玉の池は真神の地下水、伏流水が湧き出したものだ。その根を辿れば星霊の故地とも言える隠居山に行き着く。
一方、水走の中心を流れる蛇川は、真神を囲い込む月卵山から水を集めた川。双方を比べれば、そこに含まれる星霊の量は湧玉の池に軍配が上がった。玉は霊であり、文字通り星霊の湧く池であった。
「よっと、到ちゃーく」
「これは南風媛様。本日は合戦神事の見届け役。よろしくお頼み申します」
ドロンと、自身お気に入りの鶏冠髪を揺らして櫓に立てば、閑野生神社の主祭、石臥女が恭しく腰を屈めて出迎えた。
「見届け役なんて大層なもんじゃないってば。見学。ただの見学だから」
「なんにせよ皇大神のご参加に加え、八大神の立ち合いともなれば皆々の励みにもなりましょう」
「そんなもんかなー。お、浮寝と床滑が来たみたい」
見渡せば東から浮寝勢、北からは床滑勢。それぞれに旗を高々と掲げて列を組んでいる。そこに遅れて西の方から、今度は谷蟇勢が乗り込んで来た。
「おや? 痲油さんの一党は随分と賑やかな様子ですが……」
「あー、あれねー。実は首刈ちゃん……あ、皇大神ね。それが里の嶋人たちを呼び込んじゃってさ。どうしたもんかとは思ったんだけど、痲油姫が承知したんならどうこう言えはしないし――。やっぱまずかった?」
「いえ、時期が時期で自然と秘祭になったようなものですから、殊更に止め立てする必要は御座いません」
「ならよかった。たださあ、首刈ちゃんが来年はもっと手広く人を呼び込もうなんて言ってて、そうなると渡人が紛れ込んで来ちゃうでしょ? だから来年から先のことは石臥女の方で上手く話をまとめといて欲しいのよ」
南風は決して首刈の行いを否定的に捉えた訳ではなかった。単に意外だったのだ。秋の実りの祭りに向けて星霊を集めるこの神事に、収穫に追われている只中の里人を招き入れるという発想は三社の神々にもついぞなかった。
「柔軟というか、場当たり的というか、鋳型には嵌らない神様だよね」
遠目に見える首刈の姿に南風は微笑んだ。祭りとして人を楽しませることは悪いことではない。神の行いとして適うだろう。たた、問題があるとすれば人の口に戸は立てられないということ。この神事が巷説となって、嶋人が集まる分にはいい。しかし、渡人の中には、神々や池に目を付けて面倒を引き起こす者がいないとも限らなかった。
「要報告、要対策だねー。ま、とにかくよろしくお願いね」
「畏まりました。――ところで南風媛様」
「はいはい何かな?」
「折角で御座いますから、久方振りに媛様の笛などお聞かせ願えませぬか」
「いいけど、今持ってないんだよね」
「でしたら私めの笛をお貸し致しますので」
石臥女は帯に差した麻の葉柄の笛袋から篠笛を差し出した。受け取った南風は陣太鼓の傍らに控える閑野生の従神に目配せをして、サッと構えを取って太鼓の音を待つ。
トントントン カラカッカ ト、トン トトン
トントントン カラカッカ ト、トン トトン
陣太鼓の役割を脇に置いて軽快な祭囃子のリズム。そこへ一際甲高い笛の音が重なれば、南風は過日、同調練習で首刈が披露した歌の数々を思いながら、返礼とばかりに大嶋の息吹を紡ぎ上げた。
***
昨日往復した道をぞろぞろと里人を引き連れて、乗りつけました湧玉の池。
私たちは浮き島に「たにくぐ」の旗が立つ二つの池の端に広がって、合戦場を見渡した。五十から成る湧玉の池の西の端、そこが我ら谷蟇の陣。水に飛び込む蛙の姿を描いた御神紋を堂々と描いた陣幕の前、そこに大きな木製の盥が置かれている。この大盥は泥を浴びた者が顔を洗って出直すた為もの。さてはて、何度お世話になることやら。
昨日の申し合わせによれば、我が谷蟇勢は私たち飛び入りの三人を含めて総勢十八名。対するは床滑勢は十六名、浮寝勢に至っては二十一名である。
現代日本人の感覚を引き合いに出せば、頭数の不平等は気になるところだったけど、当の本人たちはまったく以って無頓着なのだから世話がない。
従神の差はそのまま社格の差だというのは放谷の談。いや、でも放谷。それだと蜘蛛神社にはまだ見ぬ従神がわんさか居るということになるのでは? どうにも一概に言えることではないらしい。
トントントン カラカッカ ト、トン トトン
トントントン カラカッカ ト、トン トトン
櫓の陣太鼓から軽やかなリズムが打ち出される。それを追って甲高い一吹きから滑らかに添い合わせる篠笛の音。振り仰げば櫓の天板に太鼓を打ち鳴らすずんぐりとした影と、笛を奏でるスラリとした影。
「あれ? 南風さんだ」
手庇してよくよく見れば、小股の切れ上がった笛の吹き手は南風さんに相違ない。陽に輝く桃花色の髪から、トレードマークの鶏冠髪が突き出していた。盛り上げてくれるじゃありませんか。なんとも景気のいい音色が一層、合戦の意気込みを高めてくれた。
「さて、合戦前の挨拶を済ませに行くだわよ。皆々、支度はよいの」
千早姿に鉢巻、襷、足結と、臨戦態勢の痲油姫。見渡す配下の精鋭も、みんな出立前から鉢金や陣笠、葦の鎧を身に着けて、私と阿呼も襷で袖を、足結で裾を留めて動きやすく身仕舞いを整えていた。放谷は例の袖なしセーラーに半ズボンという出で立ちだ。
「そなたらは配置について待っておるだわよ」
瀬所丸さん以下、十三柱の従神が移姿で蛙頭人躯に変貌しながら左方の池に飛び込んで行く。蛙の面に何とやらという水飛沫への対策だ。それを目の当たりにした里人が喝采するやら拝むやら。子供たちのはしゃぎようと来たらもう――。
「姫様、それではあっしらはあちらに」
不意に声がかかって、十数名の里人たちが二手に分かれて陣を離れ始めた。
「え? なんで?」
口を衝いた言葉に痲油姫は、
「里には川で魚を獲る者もいれば、鳥を獲って暮らす者もいるだわ。あの者らは床滑や浮寝を奉っているのだわよ」
離れ行く里人に手を振る痲油姫を見て、そういうものかと腑に落ちかけたものの、降って湧いた疑問に問いが重なる。
「浮寝の信者が獲る鳥って浮寝鳥なんじゃ? なんかあべこべなような?」
すると痲油姫は「あべこべだわ」と笑い、放谷が「でもそんなもんだー」と笑った。えー?
聞けば浮寝の信者は水鳥を獲るにも社にお伺いを立て、獲れば獲ったでこれを報じ、鳥塚を建てては供物を備え、余所者の出入りにはしっかりと目を光らせる。また、谷蟇の信者であっても、ひもじい折には蛙を食べることがあるのだという。そしてそれは赦されることだと。
私はなんとなく、精肉業者などが食肉となった動物の慰霊碑を建てたり、毎年法要を営んだりするという話を思い出した。狩ることで命を繋ぐからこそ、狩る側が狩られる側を信仰する。そんなこともあるんだなと納得した。
そんな一幕を経て私たち三人は痲油姫と共に櫓へと向かった。そこで雌雄を決する相手と挨拶を交わし、陣へ戻って鐘が鳴ったらいよいよ合戦の始まりだ。
「ところで痲油さん。目標とかって立ててる? 自陣の池を幾つ増やすぞ、とか」
思ったままに尋ねると、痲油姫は振り返ってパチンと扇を打ち鳴らした。
「欲を言わば十! 成らずんば末広がりに八!」
向けられた扇子の先に気持ちが籠っていた。手持ちが二つという点からすれば少なからず、五十近い総数に対しては多すぎず、目標の数字としては妥当なところだろう。
「まあ、作戦通りにやれば目標は目標として、池の数自体は増やせると思う。相手は二つばっかりのこっちの池より、お互いの池を取り合いっこするだろうし、片側を知泥で牽制して、片側にドッと攻め込めば上手く行くよ。きっと」
「承知承知! 皇大神の仰せのままにだわ。ともあれ先ずはお目見えの方々にご挨拶」
バッと扇をかざして意気揚々と痲油姫。櫓下を見れば既に水毬姫と八頭姫が待ち構えるように立っていた。
***
大小織り成す池に浮き島を見れば一竿の旗が立ち、挿げ替え用の二竿が寝かされている。風に靡くは現在の陣割を示す旗。東から南にかけて浮寝神社が二十七竿、床滑神社は北から西へ二十二竿、西の端には谷蟇神社の二竿。
今から戦場となる池の生き物は石臥女の御業――石凝によって石に封じられている。これにより合戦の害を被ることはなく、石凝から放たれれば日常の営みへと帰って行けた。澄んだ池が濁り返って清麗さを失っても、合戦後に施される清水の御業で元通りの美しい水面が甦るのだ。
「ふぅ、お疲れー」
三方から軍勢が集うと、南風は笛を置いて太鼓を打つ亀の従神を労った。そして土不要で浮き上がり、半鐘の下がる中階へと降り立つ。
「御笛、かたじけのう御座いました」
迎えた石臥女が恭しく頭を下げる。
「よしてよー、久し振りに吹いたからあんまり上手くなかったでしょ」
「いいえ、左様なことは」
南風は遜る相手に合わせる気配など微塵も見せず、笛の歌口を指で拭ってぞんざいに手渡した。石臥女はそれを麻の葉柄の笛袋に丁寧に収める。
「では私は下へ参りますが、南風媛様はこのままこちらで見物なされますか?」
「上で邪魔にならないように見てるよ。なんか必要な時は気兼ねなしに声かけてね」
石臥女は小腰を屈めて承知の意を表すと、梯子を無視して縁へ後退り、仰向けに倒れ込むようにして転落した。直後に下から首刈の悲鳴が上がる。
「出た。石臥女恒例の落ちネタ。初見はみんなこれでビビるんだよねー」
南風は楽しげに喉を鳴らすと、再びふわりと舞って天板の端に腰を下ろした。戦場は抜けるような青空の下、キラキラと眩い光を散らしている。
「泥遊びにはお誂え向きの天気になったじゃん。さてはて、皇大神の活躍や如何に? てなもんだ」
正にうってつけの合戦日和。風は南から吹いていた。
***
櫓下に二柱の女神と再会した私は、判じ役の石臥女さんを待って立ち話に興じていた。お囃子も止んでそろそろ来るだろうと思っていると、突如暗い影が差して小屋の壁を擦るようにズザーッ、ゴロゴロ、ゴトン! と何かが落ちて来た。
「ぎゃーーー! 石臥女さんっ!!」
眼前に転げ落ちて微動だにしない亀甲を前に、口から心臓が飛び出す勢いで絶叫する私、皇大神。その拍子にそれまで無言を貫き、息をしているかも怪しく思えた阿呼が、耳と尻尾をピンと立てて覚醒した。
「ハッ!? どうしたのお姉ちゃん? 何かあった?」
「石臥女さんがっ、石臥女さんが転落したぁ!」
青褪めて指差す私の前で甲羅がゴトリ。次いでムクリと起き上がった。
……はい?
「失礼致しました。皆様お集りのようで」
平然と言う石臥女さんに、これまた平然と返す三社の神々。私が口をパクパクさせていると、放谷がお腹を抱えて笑い出した。
「あっはははー! ぎゃーー、だってさー。おどろかすなよー、首刈ー」
「驚いたのはこっちだよっ! てゆーか石臥女さん、何やってるんですか!?」
逆切れ気味に問い詰めると、石臥女は「はてな?」といった不思議顔。その置き眉をグリグリしてやりたくなりましたよ。ええ。
「まあまあ、いつものことですよ首刈様。初のお目見え恐れ入るというものです」
雨模様の線を流した白い袖を上品に揺らしながら水毬姫が仰る。隣に目を移せば激しく同意とばかりに繰り返し頷く八頭姫。こちらは小ざっぱりした紺の甚平姿。
口を揃えていつものことと言われてしまえば、それ以上騒ぎ立てるのも憚られる。これが神々の常識ですみたいな空気には甚だ納得が行かなかったけれど、私は深呼吸をして気持ちを切り替えた。そして先ずは覚醒した阿呼の様子を窺う。
「大丈夫? ずっとボーッとしてたけど、おめめ覚めた?」
「うん、阿呼は大丈夫よ。いよいよね、お姉ちゃん」
どうやらいつもの阿呼に戻ったようで一安心。先程の心臓に悪い出来事もこの結果なら文句はない。
石臥女さんの話は大方が昨日のおさらいで、それが済むと互いに目礼を交わして合戦前の挨拶は済んだ。
「それでは自陣へお戻り下さい。鐘を合図に合戦の火蓋は切って落とされます。移姿は今の内からどうぞ。この石臥女が終わりの鐘を鳴らしますまで、各々、定められしことに違背のなきよう願います」
途端にドロン! 水毬姫の撫で肩に元よりあった翼がより大きく、身を包むほどになっていた。だよねー、飛んでくるよね。
続いて痲油姫が瀬所丸さんのように顔を変え、禿頭に蛙顔という絶対に笑ってはいけないスタイルに……。私は引き攣る頬を必死に堪えて視線を逸らした。セーフ、セーフです!
放谷は器用にも腰から下を水蜘蛛の胴に変じて多脚を現わし、最後に八頭姫が移姿を行えば、これには私も阿呼も、あんぐりと開いた口が塞がらなかった。
「うっそぉ……」
「すごい……こわ……」
怖いと言ったら失礼になると思ったのか、阿呼は言葉を飲み込んだ。
元々がでっぷりと恰幅のいい八頭姫。その体格が二倍以上に膨れ上がって、割れた頭部にぬらりと八つの山椒魚の頭。なんと言うかもうB級ホラーも裸足て逃げ出すクオリティです。
例えば八岐大蛇のようにスラっとした首の先にそれぞれ頭があるのならまだしも。肩の上にぎっしり寄せた、ぬめつくピンクの坊主頭が犇めいている。ぶっちゃけ生理的にかなり厳しい……。
問いたい。姫の要素はどちらへ?
「あんなのとやり合うのか……」
自陣への帰路、夢に出そうな八頭姫の変貌を掻き消す努力も虚しく、気鬱に滅入る私に痲油姫は言った。
「それが為のあれだわよ。の?」
水平に差し向ける扇の先。そこには大手を振って迎える里の衆。手に平太鼓を提げて叩く者もいれば、竹笛を吹き鳴らす者、それに合わせて踊る者と、見ているだけで頬が緩む。元気が出る。
「姫様ー、首刈様ー、此度の戦は勝って帰るの心ですじゃあ」
里の長らしき御老体が杖に両手を預けて音声を放てば、間髪入れずに平太鼓の若者が拍子を付けて「勝ってかえろ」と煽りをかけた。
勝って勝ってかえろー 勝ってかえろー
勝って勝ってかえろー 勝ってかえろー
大人は互いに肩を組み、子供らはその周りを跳ね回って、心沸き立つ大合唱。
お尻の辺りがソワソワソワ。私は阿呼と駆け出して輪の中に加わった。池を見れば谷蟇の従神たちが愉快な蛙顔を並べて、意気軒昂に唱和している。そこへ歩幅に遅れた痲油姫を放谷が蜘蛛の背に乗せれば、騎馬姿の主祭神に高まる熱気の渦よ。
「この戦、勝った!」
私が根拠もなく宣言すると、いつにも増して気の開ける放谷の笑いがそれに応じた。そして――。
ドドドン! ドン!
青天井の下、重い陣太鼓が轟き、水面に小波を誘った。そして高々と鳴り渡る鐘。その瞬間に全てが動き始める。
北の方に床滑勢。東の方に浮寝勢。そして我らが西の谷蟇勢と、三方に挙って鬨の声が上がり、いよいよ合戦絵巻が紐解かれた。
「持ってて下さい。開始が十時で終わりが十二時ですっ」
私は急いで里の長老に懐中時計を手渡し、阿呼に呼びかけて畔を走った。
合戦は途中休憩なし。きっちり二時間の戦いだ。
「左方、知泥の陣!」
放谷の背で痲油姫が左の池に差配を下す。兼ねてから示し合わせの通り、左は半裂の侵攻を喰い止め、右から浮寝の陣へと攻め込む段取りだ。
飛び降りた痲油姫が左の池に走り込めば、護衛役の放谷がそれに続く。私と阿呼は右手の池へ。そしてその次の池との狭間にある稲城の陰を目指した。
「谷蟇ーっ、勝つぞー!!」
走りながら里の衆を振り返って拳を掲げる。
「応ーっ!!」
合戦場の息吹に覆い被さる地元応援団の声。その朗々たる後押し。文字通りの泥仕合を前に、私にはそれがなんとも心丈夫に感じられた。




