000 魂になった?
2020/12/25 大幅改稿につき000-124まで再投稿
その時は訪れた。やがて、辺りは暗くなった。
「夜だ」と私は思った。死後の世界とはこういうものか、と。
それは想像していたものとは随分と違っていた。小説やドラマにイメージを吹き込まれたせいだろう。てっきり抜け出した魂の目線から、自分の亡骸を見下ろすものだと思っていた。けれども、最期の光景は余す所なく黒に塗り込められてしまって、このまったき闇の中、ただ、意識だけが漂っている。
鈍色の、今にも雪がチラつきそうな空。吹き付ける師走の風に打たれ、カタカタと音を立てていた窓。お気に入りの紅葉柄のカーテン。誕生日に印をつけておいたカレンダー。全て闇に沈んで消えた。私の痩せた手に重ねられていた母の温もりも、今はもう感じない。
十七歳。確かに短い。この夏までは活き活きと人生を謳歌していた。余命を悟ってからは、泣きわめく様な悲壮さはそっちのけで、「ちゃんとお別れできるかな」という焦慮が勝っていたように思う。日頃から「ズレてる」と言われた私の感性は、そんなところでも我を通そうとしたのだろう。
(ちゃんと生きたよね)
ゆったりとした浮き沈みを感じながら思う。病気に負けたんじゃない。与えられた命数を、ちゃんと生き切ったんだと。
心残りは、ある。
あと数日で十八歳だった。もう少し生きて、卒業式を迎えたいという気持ちも少なからずあった。でも、それも過ぎたこと。過ぎた望み。
最期を迎える直前、私は精一杯の力で、ほんのかすかに唇を震わせながら、声にならない声に乗せて、十七年間の感謝を伝えた。両親のハッとした表情を覚えている。それからお姉ちゃんの涙声も。ちゃんと聞こえただろうか。
(ありがとう――)
暗い、暗い、虚空の中で呟いた。それからしばらく、じっと静けさを味わう。
やがて歌が聞こえてきた。看取り看護で自宅へ戻る前、病室へ足しげく通ってくれた合唱部のみんな。彼女たちが順繰りに歌ってくれた私の好きな歌。赤とんぼ、旅愁、ちいさい秋みつけた。どこか切ない秋の唄が私のお気に入りだ。
古都奈良に生まれ育って、吉野の桜よりも、談山神社の紅葉に故郷を感じる私。やはり「ズレてる」のだろうか。ただ、秋の神社が好きだった。
みんなで歌の練習をした地元の橿原神宮。桜井のいと古き大神神社。山の辺の道を辿れば檜原、石上。少し遠出をして御所の高鴨、葛城の一言主。合唱部の恒例で、コンクールの前には必ずお参りをした芸能の神様、天河弁天。
歌と、秋と、神社。思い出は巡り、それはやがて家族へと帰って行く。聞こえてくる歌も、いつしか母の鼻唄へと変わったていた。
それは私の歌の原点だ。お料理をしながら。洗濯物を干しながら。掃除機をかけながら。家族の誰かが病気の時も、反抗期のお姉ちゃんに「うるさい」と言われても。それは決して止むことがなかった。熱塩のお婆ちゃんにも「おぎゃあと泣かずに鼻唄歌って出て来た子だよ」と言われるほどの筋金入。
懐メロ、流行歌、ジャンルは問わず、時には即興も交えて、途切れることのないメドレー。私はよく、母の鼻唄に合わせて歌っていた。知らない曲や即興には取って付けた歌詞を紡ぎ、半ばムキになって付いて行く。おしまいには可笑しくなって笑い出す。先に笑った方が負けという謎のゲームだ。
(ずっと歌っててね。私がいなくなっても、家にはお母さんの鼻唄がなきゃだからね)
しくりと痛む胸の内。それに応えてか、さっきまでなんにもなかった果て無き闇の向こうに、ぽつんと一点、灯が見えた。
(星……?)
白くも青くも感じられる、遠く幽かな輝き。それは確かに瞬いていた。
私の意識は切り替わる。
瞬きはリズムだ。リズムは音楽だ。私はそっと、光のリズムに耳を傾けた。
……聞こえる、まだ胎児の拍動のように弱々しい音。
歌おう。
まだ頼りない光を一音、一音。ピアノの音色に置き換えて、私は歌った。
star 輝いて
いま 闇の中で
醒めた私の心 夜空へと導いて
star 手招いて
この 宇宙の涯へ
思い出の先にある 路を今、歩きたい
また一つ光が灯るのが見えた。また一つ。私の歌に応えるかのように。それまで闇と思い出だけだった夜が、星たちの輝く夜空を描き出そうとしているのが感じられて、私は歌い続けた。
stars 散りばめた
夢 すくいあげて
広がりゆく世界へ つづく扉開いて
stars 幸せは
その 宇宙の向こう
めぐる思いは遥か 羽ばたいてゆけるの
そしてオーケストラが鳴り響いた。もう数え切れないほどになった星が天の川のよう。それまでの無辺の闇は嘘みたいに姿を変え、いつだったか天体写真で見た色鮮やかな銀河や星雲が浮かび上がってきた。
泣いて 手放した想い
解けゆく愛が 君を呼ぶよ
胸に 抱くその希望
もう一度だけ 向かい合おう
涙がこぼれた。
錯覚だ。漂っているのは意識だけ、体は見当たらない。
それでも心は泣いていた。暗がりの中、様々に想いを巡らすことで、孤独を遠ざけていたことに気付いたから。
ただ、今や眼前を埋め尽くす星々の世界も、歌い上げたこの余韻が去ってしまえば、孤独を癒すほどのものではなくなる。そうも感じていた。
(地球は……?)
私は探した。青い星を。けれども見当たらない。この星の海にそれを見つけ出すのは確かに困難なことだろう。砂浜で、目当ての砂粒ひとつを見つけ出そうとするようなものだ。ならば、と一点の星から帯状に広がった天の川を見上げる。あれを越えられないものかと――。
清浄な白と淡く儚い青が織り成す光の架け橋。その向こうには中心が赤く、外縁は紫から闇へと溶け出す星雲。また一方には群青の水面を描き出すかのような別の星雲。様々に闇間を彩る色鮮やかな星海がそこに広がっていた。
私と、その色付いた未知の世界とを隔てる川を、越えてみたかった。
宇宙は広い。そして果てしなく深い。
周辺の闇はさめざめと冷たくて、遠く眩い天の川に一刻も早く身を投じたい。そんな思いばかりが溢れた。けれども、体が見当たらない。だからジタバタすることもできない。私にできるのは「えいっ」「進めっ」と、躍起になって天の川を睨むことだけだ。そうこうする内に、虚しい努力が生み出す徒労感は、じくじくと心を蝕み始めた。
(……帰りたいよ)
分かっている。今や寄る辺なき身の上だ。帰る当てなどどこにもない。これが死ぬということなら、神様はあまりにも残酷だ。そんな恨み心が現れかけた時、私は何かを感じた。
それは天の川とその向こうにばかり気を取られていた私の背後。上下左右という、重力と常識に根差した感覚が当てにならない空間で、私は闇を払うように振り返った。
見えたのは眩いエメラルドの輝き。それがまっしぐらに迫ってくる。強烈な光の塊は、予想に反して何ら衝撃もなく私を呑み込んだ。肉体がないのだから当然かもしれない。光に包まれた私の視界は、急速に流れ始めた。
(なんだろう? 暖かい。光と溶け合うみたい――)
プラネタリウムのドームが崩れ落ちたかのように天の川が近付いてくる。その衝撃を表すかのように突如、静寂を破って鳴り響いたのは“フニクリフニクラ”! 合唱部でも何度か歌った馴染みのある曲だ。力強く、火山の奥底から湧き上がるその曲調は、沈みかけていた心を、否が応でも弾ませた。
光に呑まれた私は、エメラルドの奔流の先頭に立つ。曳航する煌めきの帯が、まるで続く車両のよう。さながら宇宙を駆け上がる登山電車。開かれた視界は展望車両のそれだった。
天の川が迫ってくる。驚くような速さで描く軌道は、銀河鉄道も裸足で逃げ出す大うねり。そんな中でも生身とは違うからか、意識は酔わない。むしろ益々ハッキリとしてきた。そこへ曲の山場が押し寄せて、私を一層奮い立たせ、勇ましい気持ちに押し上げる。
やがて、満天の星々が逆落としに降り注いできた。天の川の星々だった。
(行こう! もっと先まで。闇も星も越えて、どんどん進め! フニックリッ、フニックラーッ!)
最早心は狂騒状態だ。ポジティブな感情が一線を越えてしまい、訳が分からなくなってはしゃぎ出す子供のあれ。四方八方、上下方向、余す所なく星の海。天の川を突き抜けて、あの赤々とした星雲へと踊り出す。
あれぞ火の山、いざ進め――。星界を飲み干す宇宙海賊もかくや、といった気分になって行く。
(んん? あれれ? 宇宙にそんなのってある? あはっ、え? ウソだよね?)
星雲の中心にそれを見た私は、突拍子のなさに可笑しくなって笑ってしまった。
私の目が捉えたもの。それは隆々と聳え立つ鮮烈な朱の鳥居。それを鳥居だと思った次の瞬間、赤い星雲は一面の紅葉に様変わりした。
緋色、紅、煉瓦色。
金茶、照柿、黄檗色。
様交う色のとりどりは、神秘的な宇宙というキャンパスに幻想的な秋色の舞を描き上げる。その様相はまるで私が常日頃、秋の峰々に抱いていた「燃える山」という心象風景そのものだった。
(すごいすごいっ! これって、ひょっとして私への誕生日プレゼント!?)
いいえ、命日です。
とはいえ、あとほんの数日で十八歳の誕生日だったことも確かなことで……。
私は突如、宇宙に咲いた秋の絢爛に、瞬きも惜しんで見入った。
どれくらいの間そうしていただろうか。我に返った頃には、大音量のフニクリフニクラも止んでいて、意識はエメラルドの輝きに包まれたまま、景色の中心、超弩級の鳥居へと落下し始めた。
大気を感じないスカイダイビング。
浮遊感を伴った奇怪めく落下感覚に身を預けながら、いよいよ鳥居が近付いてくる。国道一六九号線の近くに立つ大神神社の一の鳥居も、これと比べればミニチュアだ。これが宇宙規模というものか。
私はどの神様にという訳でもなく、心の中で両の手を合わせた。そして潜り際、額束に掛けられた神額を覗き込む。そこに記されていたのは二文字。意味は分からなかった。ただ、どちらも私の好みに合う文字だったので、不思議に思いながらも胸に刻んだ。
鳥居を潜り抜けると今度は急激な加速。ありもしない五臓が突き上げられるかのよう。
エメラルドの輝きは再び光の帯を延ばし、奔流へと立ち戻る。新たな宙域に散らばる星たちが、次第に点から線へと移り変わり、さながら固定撮影の天体写真だ。
やがて、星々の光条が一気にその太さを増して、いつだっただろうか、家族で観たSF映画のワープ航法の場面へと突入して行く。光のトンネルが姿を現したのだ。
その時、さっきまで私を満たしていた興奮の殻にピシリと罅が入った。そこから恐怖と期待が綯交ぜになって弾け出すまで、大した時間は掛からなかった。
(やだやだ。早過ぎるよ)
余りにもスケールの大きな情景が僅かの間に入り乱れて、そこから得た情報を何一つ整理できないまま、目の前には全てを溶かしてしまいそうな光。走馬燈すら追いつかない。
(ああ――。私、これで終わっちゃの?)
眼底を焼くような激しい輝きが無際限に飛び込んでくる。まるで光るトビウオの大群だ。手放すまいと必死に握りしめていた意識は、やがて渦を巻き始めた光の収束点へと吸い込まれ――
消えた。