017 霊塊の化け物
眼下に繰り広げられる状況は目を覆わんばかりのものとなった。
吹っ飛ばされて木の枝に引っかかった私は、自由になった化け猪を視認した後、直ぐに三人を探した。すると阿呼は結界を挟んで反対側の木に引っかかて無事。放谷は地面に着地したところを化け猪に追い回され始めた。そして南風さん。これがひどい。
恐らく南風さんは私たちと一緒に吹き飛ばされた時、本能的に島梟の姿になったのだろう。そのお蔭で放谷より大分遅れて空から落ちてきた。で、落ち葉の地面に爪を立てて着地したと思ったら、たまたま放谷の逃走経路と重なった。身軽な放谷は飛び跳ねて南風さんを避けた。けれども直後に突進して来た化け猪はそうは行かない。物の見事に人化したばかりの南風さんを牙に引っかけた。南風さんは猛然と吹き飛ばされてバッチーン! 物凄くいい音立てて銀杏の大樹に激突。美しく舞い落ちる色葉の下で安らかにKOですよ。ええ。
「阿呼! 聞こえる!?」
「うん、阿呼はへーき!」
「おけ、じゃあ私と放谷で猪を引き付けるから、阿呼は安全が確認できたら南風さんを看に行ってあげて!」
「はいっ」
「放谷!」
「な、なんだー!?」
「作戦は一個しかない! 分かってるよね!?」
「おー? おー!」
飛び降りながら狼に移姿た私は即座に放谷と合流。迫る化け猪に殊更尻尾を振り立てながら、誘き寄せるようにして疾駆した。
「放谷、とにかく阿呼たちから引き離すよ!」
「おー、それからどーするー?」
「しばらく走って、どこかぐるぐる回れる場所を探す」
「おー、それでー?」
「私は回り続けるから、放谷は輪の中心に陣取って糸の御業を打つタイミングを計って。そしたら私が大蛇の時みたいにありったけの星霊を叩き込むから!」
「分かったー。最初はぐるぐるからだなー」
放谷は付かず離れず横手を走り、私は獣道や踏み分け道に見えるラインを探して落ち葉を蹴った。まったく、折角秋の山中だというのに紅葉狩りもできやしない。けれどこれは神の使命だ。私は走りながらそんなことを思った。
真神にいた頃、自分がどんな神様になるのかを考えた私は、漠然といい神様になりたいと願った。それは放谷がなれると言ってくれた優しい神様かもしれない。私自身が望んだ歌で垣根を越えて行く神様かもしれない。けれど南風さんに会って、霊塊の化け物を見せられた時。そこには自分がしたいことばかりじゃない。これをせずんば神に非ずといった、義務とも言うべき役割があることを知ったのだ。
いや、朧気には分かっていた。お母さんに名を与えられた時から、この世界の中柱の神として課せられた使命があるのだと。それは星霊が望む生命謳歌の世界を維持して行くこと。スケール大き過ぎてちっともピントが合わなかったけど、現実に妖がいて、大蛇がいて、背後に迫る霊塊の化け物がいる。ならばそこに神が介在してこそ人や獣の平穏が護られるのではないか。
ひょんなことから転生した合唱部員に戦う才覚なんか欠片もないし嫌だけど、それだけの能力が備わってしまった以上は他でもない。未熟だろうと私がやるしかないんだ。
地形を読み、匂いや音から予測を立てて、狩の呼吸で勘を働かせる。私は行けると踏んだら迷わず左に針路を寄せた。
「繋がった! 放谷、円の中心に行って!」
「おー、任せろー」
一度通った道に戻って来た。私が叫ぶと合いの手入れて放谷が消えた。化け猪の注意を切る為、本来のサイズに戻ったのだろう。周回経路を固定した私は全力で疾駆した。ここまで来れば後は大蛇の時と同じパターンだ。円の中心で見渡す放谷は、あの時より楽に御業を放つことができる筈。もうしばらく走れば化け猪は糸に絡められて、そこに私の星霊を流し込んでお終い。締め括りには南風さんを呼んで対処して貰えばいい。
なんてことを考えていたら背後に迫る気配がない。
「あれ? なんで!?」
「首刈ー! あいつ山を降りてったー!」
「ほわっ!?」
爪先が摩擦で熱くなるほどクイックターンを決めて、私は斜面を目張った。すると木立の向こう、斜度のきつい傾斜を転がるように降りて行く化け猪。何が目当てかと行く先を辿れば人影がある!
「いけないっ」
猟師か、木の実や茸を取りに来た里人か。いずれにしろ何か手を打たなくては大変なことになる。直ぐさま追いかけると放谷も斜面を降りて来た。
「糸でどうにかできない!?」
「遠すぎるー」
放谷は瞬発力を活かして跳ねるように進むが、長躯になると総じての速度は私の方が上だ。
「乗って!」
「あいよー」
小蜘蛛化したお伴を乗せた私はウォンウォンと短く警告を発した。距離は詰めているが間に合わないかもしれない。とにかく人を逃がさなくては。逃げ切れないとしても相手は猪突猛進。大樹や岩陰に身を潜めるだけでも少しは違う。果たして人間は気付いた。背に籠を背負っている様子からして採集に来た里人だろう。
「放谷は行ける時に行ってね! 私はとにかく突っかけるからっ」
「任せとけー」
「南風さんの話が本当なら、あの子は相当弱ってる。判断力も何もない状態だから、こっちが仕掛ければ絶対刺激に反応して来る」
「おー、それで釘付けにして里人を逃がすんだなー」
「そゆこと!」
化け猪に気付いた里人が籠を放り出して転がるように斜面を下り始めた。その後方五〇米の辺りに化け猪。更に後方一〇米の位置に私。距離的にはもう糸で行けるだろうと思うのだけど、真後ろからでなく斜めに迫っているので、放谷にして見れば木立が邪魔をするのだろう。しかし――。
「放谷っ、もう待てない! ドンピシャじゃなくていいからやって!」
「分かったー。八方紮!!」
ぶわっと広がる糸束は歌舞伎の一場面を思わせて、大半を木々に邪魔されながらも一部が化け猪の後ろ半身に縋り付いた。
「よしっ」
化け猪は負荷の生じた後ろ半身をガクンと落して急失速。止まらないけど十分だ。案の定向きを変えて私の方に向かって来た。こうなることを望んでいたのに、こうなってからのことを考えてない私、皇大神。
いやいや、ここまでやったんだ。後はどうにかなるんだよ。きっとね。多分ね。世界は転生者に優しい筈!
ドガッ――。
吹っ飛ばされました。はい。
正面衝突の衝撃と同時に鼻の奥がきな臭くなって、またまた空の旅ですよ。よく飛ぶね、今日は。
ぐるぐる回ってガサガサ言って、引っかかると思った枝がボキンと折れまして、そしたら地面とこんにちは。はい、こんにちは。
「んべぶっ」
しこたま下顎を打ち付けて、くらくらする頭を振ると、もう目の前に化け猪。これは負けたな。第三部完――。ギュッと目を閉じれば頭の上で相棒がもう一回、
「八方紮!!」
いける? と片目を開けると、化け猪は糸で真っ白になってるのにそのまんま突っ込んで来る。ご愁傷様、私。
バチコーン――!!!
とどめはいい音するね。なんて他人事のように思ったら、痛みも衝撃も何にもない。
「あれ?」
訝って様子を見ると目の前に立っているのは南風さん。それからバスン、ベキベキッと音がした方を見れば、恐らくは南風さんに吹っ飛ばされた化け猪が、大樹をへし折って昏倒していた。
「ごめん首刈ちゃん、遅れたわ。鼻血出てるけど大丈夫?」
「一応生きてますね」
「生きててくれないとあたしが困る。とりあえず後始末しちゃうからそこで待ってて」
「はあ、よろしくお願いします」
南風さんはズカズカと歩いて行って、最早ピクリともしない化け猪に両手をかざした。そして体を縁取るように赤い神気を波打たせ、未知の御業を発動。
「神手還――」
御業を施された化け猪は断末魔のように全身を震わせ、それからまた固まって、後はぼろぼろと崩れて土くれに変わってしまった。
「お姉ちゃん!」
「阿呼!」
二本足で駆け寄ってきた愛妹を人の姿になって出迎える。そしたらボタボタと鼻血が垂れて、「怪我したの?」と心配顔。阿呼は直ぐに痛いの飛んでけのおまじないをかけてくれた。
鼻血も止まって痛みが引いたところで私は里人を探した。すると籠を拾いに戻って来た里人とばったり目が合う。
「おーい、大丈夫でしたかー?」
手を振って呼びかけると、里人は頭に巻いた布巾を取って深々とお辞儀をした。
「神様、ありがとうございました」
顔を上げるとそこには私の前世と同じ年頃の女の子。彼女は笑顔で手を振り返してくれた。
「阿呼、聞いた? 私お礼言われちゃった」
「うん。よかったね、お姉ちゃん」
「放谷も聞いた? 私たち感謝されちゃったよ?」
「おー、嬉しいもんだなー」
「ね! ちょー嬉しいんだけどっ。おーーーい! 気を付けて帰るんだよーっ」
はーい、と返事をして立ち去る少女。その後ろ姿を見送りながら、私は初めて受け取った人の感謝に、得も言われぬ感情を抱いた。
「とにかくみんな無事でよかったー。あたしの不手際でホントごめんね?」
「いえいえ。どうにかなったんですから全てよしですよ。それより霊塊の化け物の方はもう大丈夫なんですか?」
頷いた南風さんは私たちを土くれの所へ案内してくれた。それは最早、腐葉土の塊りにしか見えず、散々手を焼かせてくれた化け猪の面影は何処にもない。
「今回は既に弱っていたからあれだけど。活発な内は御業を弾いたりもするから、こんな風に簡単に土に還すことは難しんだけどね」
「御業を弾く、ですか。それは相当厄介ですね」
「うん。普通の妖だとそこまでは中々ね。例えば伝承の手順に従うだけでどうにかできたりもするし。けど、霊塊の化け物はその手のとは毛色が違う。特に強力なのが出ると神であっても神経が尖る。さっきみたいに里人を巻き込んだり、里山や街道、街にでも飛び出されたら大変だからさ」
「するってーとー。伝承になるような化け物退治は霊塊の化け物相手が多いのかー?」
「全部が全部じゃないけどその傾向はあるかな。大物相手の苦難の末の賜物として伝承が残るって言うのはその通り」
そこまで聞いて、私はふと疑問に思った。星霊の劣化老化が霊塊を生むなら私たちは?
「あの、例えばですけど。私たちも星霊を宿してる訳じゃないですか。だったら今の猪さんみたいになる可能性が?」
「神や宮守衆が霊塊を発した例はあるし、そのまま化け物になっちゃった例も少なからずあるね。首刈ちゃんの言う通り、星霊が宿っている以上万物が霊塊を発し得るってこと。でも首刈ちゃんに限って言えば可能性は皆無だよ」
「皆無? どうしてですか?」
「理由ははっきりしてるけど、それはまた追々ね。ただ、そうだな。神様って言うだけで霊塊は発しにくいってのは確かかな。理由は神様が最も頻繁に御業を使う存在だから。御業を用いれば星霊は放出される。減った分は体内の核から新しく生み出されて補充されるよね? この循環のお蔭で、神や宮守衆みたいな御業使いは、身に宿す星霊が残留劣化しにくいってこと。言ってる意味分かる?」
「阿呼分かる! 神様は御業をたくさん使うから、だからどんどん星霊が……入れ替わる?」
「そう、意味合いとしてはそういうこと」
正答した阿呼は南風さんに撫でられてこそばゆそうにはにかんだ。
曰く、星霊は宿った個体に必ず一つの核を持つ。大地のように広範ならば凡そ三尺立方に一つの核を結ぶ。
星霊の核は御業を使う存在とそうでない存在とで質が異なる。
御業を使う者の核は、御業によって消費した分を補填する為、高い増殖能力を備えている。対して御業を用いない者の核は、大気中に漂う未融合の星霊を少しずつ取り込んで、宿った固体や範囲の維持に努める。
「私たちが御業で消費した星霊は大気中に拡散して、それを御業を使えない個体が取り込むということ?」
「ざっくり言えばそゆこと。放出された星霊は大気や水に溶けて楓露の隅々まで浸透して行くの。だから御業は星霊の消費じゃなく放出って考えるのが正しいよね。ただ、現象を引き起こした星霊はその分劣化するから、必ずしも新鮮な星霊の供給源とは言えないんだけどさ」
御業によって消費すると思われた星霊が実はそうではない。これはエネルギー保存則というやつだろうか。私のライトフライ級の頭脳には難解なお話のようです。
「で、御業を使えない者。使えても使わない者。大して使えない者なんかが、比較的霊塊を生じやすい。現状では霊塊を解消するような御業も技術も確立されてないから、頼れるのは自然治癒だけ。霊塊の発症は難病と同じかな。手足が利かなくなったり、言葉や記憶があやふやになったり、勿論死期が早まったりもする。今の猪みたいに狂暴化しちゃうのは稀な例だけど」
しかしその稀な例が弱っていても脅威であることは身に染みて分かった。南風さんの言う通り、人や里、街を巻き込んだらとんでもない騒ぎになるだろう。
「まあ霊塊の化け物については、その土地その土地の神様が目を光らせてるからそんなに心配する必要ないけどね。生き物に宿る星霊の崩れは、見つけさえすれば今みたいに手が打てるから、街道筋にまで化け物が出た例は滅多にないよ。この先も見つけたらその場で対処。そう心がけておけば問題なしってこと。これが野山に宿る星霊だもっと大変だからね。事前に見つけ出すのは不可能に近いし、密集した範囲で崩れが起きれば、地滑りだ洪水だって話になって甚大な被害に繋がる。危なそうな場所にはあらかじめ星霊を注いでおかなくちゃならなくて、その為に神々が連携すのはよくあること」
つまり星霊は天変地異にも関わっていて、そこにまた神様が対処をして行かなくてはならない、ということか。いきなり神としてすべきことのスケールが広がったなぁ。それに比べて真神にいた頃の私と来たら、のほほんと温泉に浸かって「適度な刺激と目一杯の幸せがありますように」なんてことを考えていた訳で。そんな訳アル〇イダって話だよ。万物に星霊が溶け込んでる以上、ゲリラのようにそこかしこに火種は潜んでいて、発火の時を手薬煉引いて待っているのだ。
危うく「皇大神が暢気過ぎて楓露がやばい」ってな状況に陥るところだった。まあ、当て所もなくどんな神様になるかばかり考えていた今までより、こうして一つでも明確にすべき事が分かったのはいいことだ。うん、そう思うことにしよう。
「ありがとう南風さん。色々と勉強になりました」
私はペコリと頭を下げて謝意を述べた。
「ありがとうございました。御業も色々教えて下さい」
阿呼も続いて頭を下げた。
「やっぱり真神の外は違うなー。あたいもあの消える御業使いたい。よろしくなー」
お礼はどこかへ行ってしまったようだが、いつもの放谷だった。
「はいはい。今回はあたしのミスだし、頭なんか下げなくていいから」
南風さんは照れ臭そうに笑って、さて街に戻りますかと音頭を取った。そうして私たちは来た時と同じように、姿を消し、空を飛んで神庭の鎮守へと戻って行った。




