014 雨の野音
天気は雨。
門出を飾った美しい虹を潜るぞと勇んで歩けば、たちまち幻のように掻き消えて、雲間から注いでいた天使の梯子も即撤収。なんと言うか、撮影終了したロケ現場と言うか。気分はドッチラケ。それで阿呼が、
「あ、雨。お姉ちゃん、雨が降ってきた」
と言えば額にポツリ。西から延びてきた雨雲が頭上を覆わんとしている訳です。
私と阿呼は早速旅行李から袿を取り出し、それを壺被りにして懸け帯で結わうと、即席の雨合羽に身を包んだ。
「放谷は平気?」
「へいちゃらだー」
もう秋の風が吹いて久しいこの季節。まばらな雨でも袖なしの貫頭衣では見てる方が寒くなる。なのに放谷は鼻の下を指で擦って平気の平左。
「まあパラつく程度なら雨も悪くないよね」
「うん。ぴっちぴっちちゃっぷちゃっぷらんらんらん、だね!」
そんな風に雨模様の景色を見渡しながら、私たちは真っ直ぐ南を目指した。
既に足は水走の大地を踏んでいる。犬神神社の鳥居を出たらもう水走で、今日の目的地と定めた神庭の街まではものの数時間。神庭は東の転宮街道と西の青海道とが交わる街道分岐点だ。二つの大道からは真神詣での人たちが絶えず通って来ると言う。
ところが道中行き交う人影は皆無。道の両側は原っぱで、時折遠くに里山と思しき民家が見えても、人の暮らしてる様子までは分からなかった。
「雨のせいはあるにしても、拍子抜けするくらい人がいないね」
「うん。なんでだろうね」
「真神詣では真神月だから、この道がごった返すのは年の瀬からひと月くらいさー。あとは春に三宮の祭りがあるから、その時にも人がわんさか来るぞー」
「なるほどね。今はシーズンオフってことか」
「しーずんおふってなぁに?」
「季節外れってことだよ。お蔭でご覧の通りの閑古鳥」
「まー、街とやらへ行けば少しは変わるだろー」
「そうだね。となればこのまま人もいない道を降られながら歩くのもなんだし、獣に移姿て原っぱを行こうか?」
「うん、そうしよ」
「よしきた、急げーっ」
途端に放谷がドロン! それを見た阿呼もドロン! 私はギョッとしたものの、最前から人の気配もないので、そのまま二人を草叢に追い立て、身を隠してから変身した。
「二人とも道端で御業使っちゃダメだよ」
「どうして?」
「なんかまずったかー?」
「いや、あのね? 私たちもう真神を出て、今までとは状況が変わったの。分かる? 今のだってもし周りに人がいたら騒ぎになってたかもしれないでしょ? どうするのが正解なのか分からない内は、絶対に人前で御業を使ったりしないこと。これ、今から大嶋廻りのルールにします。分かった?」
「うん、分かった」
「分かったー」
「おけ。私たちはただでさえ見た目子供の三人連れで十分に目立つんだから、何をするにも慎重にお願いね」
「はーい」
「おー」
このレベルで神様だってんだからほんとちゃんちゃらおかしいよね。勿論、私も含めての話だよ。世の中の常識というものをまるで分ってない。それすら一から学んで行く必要がある。
さて、獣となった私たちは疎雨の中、足早に草を踏み分けた。たまに立ち止ってブルッと水切りしながら、二本足より早いペースで進んで行く。隣りを行く放谷は羨ましいことに細かな体毛で雨滴を全て弾いていた。
「おっとぉ!」
パッと草が開けた場所で前足がポチャンと水に浸かった。幸い浅瀬で、見渡すと水と緑が入り組む湿地帯。
「沼だ。そう言えば水走は沼沢地帯で、何処へ行っても湿原が広がってるんだったっけ」
「どうする? お姉ちゃん。道に戻って二本足で歩く?」
「別にいいんじゃない? どうせ雨だし、何度か落ちて水に濡れたって変わんないよ」
「ならあたいに考えがあるぞー」
放谷はいつもの鉄黒の蜘蛛姿を私たちと同じくらいにしていたけれど、それを支子色の水蜘蛛に転じて周りの草を刈り始めた。刈った草をひと所に集め、更に糸で絡めて大きな橇の出来上がり。
「引っ張ってってやるから乗りなよー」
「え、じゃあお邪魔します」
「なんだか楽しそうね、お姉ちゃん」
「行くぞー、転ばないように伏せてろー」
言うなり草橇を牽き始めた放谷は、そのまま沼に飛び出して水黽のように水上を渡り始めた。
「おおー、凄い! 水の上を滑ってる!」
「面白い面白ーい!」
さながら遊園地のアトラクション。私も阿呼も大はしゃぎ。私は人間感覚が強いからあれだけど、狼は普通、水に浸かることを厭う。それが橇に乗って安全に水上を行くとなれば、阿呼にとっては未知の体験だし、私も大いに楽しんだ。このまま沼を渡って街まで乗り込めー、と意気揚々吠え立てれば、途端にバケツをひっくり返したような土砂降りの雨。
「おー、これは凄い雨だなー。天の恵みだー。あははははー」
「お姉ちゃん、このままだと橇が水浸しになっちゃう!」
「これはひどい。放谷、どっか雨の凌げそうな場所を探して!」
「ほいきたー」
ザー、ザー、ザー、の間にザバーッが混じっててもおかしくない爆弾雨に見舞われて、放谷が見つけたのは円形の大きな浮き島。まるでゴルフ場のグリーンのように短い草に覆われた真ん中には、泥を固めて作ったかまくらがあった。
「入り口は狭いけど中の広さは丁度いいね。ここで雨足が弱まるのを待とう」
「うん。それにしてもすごい降りね。雷様もゴロゴロ言ってる」
稲光こそ見えないものの、夏に戻ったかのような遠雷がひっきりなし。かまくらはしっかりしたもので雨漏りの様子はなく、どうやら何かの動物が使い捨てた巣穴のようだ。
私たちは狭い間口に顔を寄せて降りしきる雨を眺めた。水鳥たちも草際に寄ってじっと雨が過ぎるのを待っている。
あめあめ ふるふる たにはたに
こどもは せっせと なえはこび
こいぬも かけます たんぼみち
秋微雨が始まってから三宮で何度も歌ったあめふりの歌。
野足と夜来を交えて延々と輪唱した歌は、阿呼も放谷もすっかり覚えていて、たちまち合唱になった。ならばここは野外音楽堂。見ての通りの雨の野音。
あめあめ ふるふる のにやまに
おとなは そろって たうえする
つばめは とびます かさのうえ
バササッと白い翼を広げて大きな鳥が目の前に下りてきた。白鷺と呼ばれる鷺の中でも一番大柄な大鷺だ。まだ黒い嘴は冬になるにつれて黄色く変わる。
「見てよ。私の歌声に惹かれて素敵なお客さんが来てくれた」
軽口叩いて、今度晴れた日に鳥寄せチャレンジをしてみようなどと思っていたら、白鷺の背後、間口で狭まる視界の外から得体の知れないピンク色がビュンと伸びて、次の瞬間白鷺は消滅。はらり一枚の羽根が目の前に舞い落ちた。
「……は?」
「お姉ちゃん、今のは何?」
「おい、見てみろー」
間口から顔を出す放谷に倣い、鼻面だけを出して横手を覗く。すると浮き島の端にドデンと腰を落としているのは全長全幅共に一米を超える丸々太った巨大な蛙。緑と黒のごちゃっとした模様をして、目の上に棘が張り出す形は角蛙だ。口の端から覗く白い翼が、波打つ喉の動きに合わせて引っ込むと、のっそのっそと私たちが見ている前を浮き島中央までやってきた。
「こいつ。よくも私のファンを……」
ぐるりとこちらに向きを変えた蛙を睨み、私は勝手に白鷺が私の歌の熱烈なファンという設定をでっち上げ、正当な弱肉強食にケチを付けた。
「お姉ちゃん、もしかして阿呼たちも狙われてなーい?」
「動くなよー。動くとさっきの舌が伸びてくるぞー」
そんな会話に、真神の捕食者が今や被捕食者かと、ようやく現実を知る私。それにしてもこんな巨大な蛙がいるとは驚きだ。今まで日本みたいだなと思っていた世界もやはり異世界。妖怪はいるわ、巨大蛙はいるわ、中々にオカルトでワイルドじゃないか。
「放谷、何か手はある?」
「糸を張る隙があればなー。ただ、今動くとそんな暇もなく誰かが食われそーだー」
オーマイガッ。大島廻り再開初日から命の危機ですよ。やってられるかっ。と恐怖すべき場面でムシャクシャしていたら次の瞬間とんでもないことが起こった。
あれ? と思ったのはまたも横手から、今度は黒く濃い影が差したからだ。一瞬雲かと思ったけど、これだけ降っているのだから今更ちょっとの雲でこうはならない。
バクン――。
影が濃くなったと思いきや草色をした巨大な何かが大口広げて蛙をひと呑みにしてしまった。蛇だ。しかもアホほどデカい。胴体だけ見ても体高五〇糎は超えている。いわゆる巨大蛇と言う奴だった。
大蛇は浮き島の上を舐めるように這って弧を描き、鎌首もたげて私たちを見下ろした。薄萌葱の美しい蛇体に山吹色の輝く蛇目。チロチロ見え隠れする舌だけが毒味深い虫襖色をしている。
「え? どうすんのこれ?」
「大きすぎるよ、お姉ちゃん」
「わははー、なんだこいつー?」
正直予想外過ぎて思考が麻痺。私は他人事のように大蛇を見上げていた。そして閃く。
「あ、分かった。この蛇、神様なんじゃない?」
「え?」
「そおかなぁ?」
「そうだよきっと。こんなおっきな蛇そうはいないもん。蛙を食べたのだって、私たちを助けてくれようとしたんじゃ――」
人がまだ名推理を披露してる最中だと言うのに、大蛇は轟然と鎌首を打ち下ろしてきた。
「あうちっ!」
「きゃあ!」
「飛び出せー!」
かまくらが叩き壊された正にその瞬間。脱兎の如く飛び出した私たちは訳も分からず大蛇の背を飛び越え、浮き島の端を全力で蹴り、かつてないほどの跳躍を見せて対岸の草叢へ飛び込んだ。
「ちょっと何今の!? あの神様頭おかしい!」
「お姉ちゃん、あれはきっと大きいだけの普通の蛇さんよっ」
いやそれ既に普通じゃない。
「わははー、とにかく逃げろー」
「何笑ってんの! なんとかしてよ、お伴でしょっ」
「えー? 水走にきて蛇をやっつけるのは気が進まないけどなー」
言いたいことは分かる。水走一宮の夜刀媛は蛇の神様だからね。けど逃げ切れるのかって話だよ。そもそも狩るか狩られるかになったら反撃したって問題ない。食べる為に狩る。生き延びる為に倒す。それが楓露の鉄の掟だ。
チラッと背後を窺えば頭だけ高くしてシュルシュルと猛スピードで追いかけてきてる。一度でも、誰か一人でも転んだらアウト。
「阿呼先頭! 進路は任せた。放谷は殿! できるだけ糸で牽制してっ」
「はいっ」
「あいよー」
私は阿呼が狙われにくくなるよう、後ろにピッタリ付いて、体を一.五倍(当社比)に膨らませた。とにかく今は走るしか手がない。全力で走れば疲労も一気に増すけど泣き言は言っていられなかった。放谷の糸が功を奏せばどうにか逃げ切れるだろう。
「放谷、糸の効き目はどう?」
「やー、梨の礫だなー。こう走ってちゃ満足に星霊も練れないし、いやー、参った参ったー」
楽しそうだね、まったくもう! 確かに連尾穴闇をやっつけた時、放谷は触手に取り囲まれるまで身動き一つしなかった。こう猛然と走っていては十分に強力な御業を放つことができないということか。
ドンッ――。
大蛇が隊列に頭を打ち込んできた。紙一重で横に躱してそのまま突っ切る。すると、冷や汗をかく間もなく、いつの間にか雨の弱まった視界の先に街並みが見えて来たではないか。
気付いたのは大きくなって頭一つ高い私だけ。しかしこのまま大蛇を引き連れて街へは乗り込めない。
「放谷、距離は!?」
「おー、さっきの攻撃で少し開いたなー」
「反撃できる!?」
「まだちょっと無理そーだー」
「なんとかしてっ、もう街が見えてる!」
「なら首刈に糸をかけるけどいーかー?」
「なんでもいーからやって! 早くっ」
叫んだ直後に尻尾に違和感。放谷が糸を絡めたのだろう。そしてそのまま速度を落して後方に下がる気配。心配ではあったけど、ここはもう任せるしかない。私は足を緩めず駆け抜けた。
再びドンッと音がして同時に尻尾の引っ掛かりが消えてフワッと軽くなる。まさか!? と首を回せば放谷の姿がどこにもない。
「放谷!? 放谷どこっ!?」
大蛇との距離こそ大きく開けたが、放谷が食べられてしまったのでは意味がないじゃないか。しかもこのまま行けば街に突入してしまう。かと言って私と阿呼だけでどうにかできるのか――。
「阿呼! 街に出る時は人の姿でねっ」
「お姉ちゃん!?」
「後から行く!」
私は爪先でターンして襲い来る大蛇目がけて逆走した。
窮すれば退くべからず。退くことに理あらず。臆して退かば立ちどころに討たれ、肉切られようと敵懐に飛び込まば必ずや本懐を遂ぐ――。
私にはたった一枚手札があった。それは師匠、白狛さんから教わった同調。相手の波長に合わせるものではない。私の波長を無理矢理に叩き込む。相手の波長を塗り替えることで星霊を奪い取るなり、拒絶反応を引き起こすなりできるというあれだ。星霊量の抜きん出た私なら多大な成果が期待できると太鼓判を押された切り札。
「吐き出せ! 私のお伴を、返せーーー!!!」
ジャンプ一番高く舞えば、そこに合わせて大口を開く大蛇。考えなしに突っかけたせいで、お誂え向きに相手の口へ飛び込む形になってしまった。南無三――!
「八方紮――!!」
え――?
混乱した。放谷の声が宙を舞う私の丁度真下辺りから響いたのだ。無論、そちらを見る暇などありはしない。けれどブワッと広がった糸束は大口開く大蛇の頭に絡み付いて、お蔭で私は呑み込まれなかったのは勿論のこと、スタッと大蛇の頭に降り立った。そうなればもうあれこれ考えている暇はない。チャンスは今しかない。
「これでも食らえーーっっ」
限度も知らず、ありったけの星霊をブチ込んだ。四肢を伝って際限なく送り込んで行く。注ぐ端から体の中心に滾々と星霊が湧き出して、私は心臓に添う星霊核の存在をありありと感じた。
大蛇の動きは急激に鈍り、ぐらぐらしたかと思ったらドドウッと草叢へ倒れ込む。そのまま蜘蛛糸の巻き付いた頭部を離れ、直ぐに放谷を探す。
「放谷、何処にいるの!?」
「おー、あたいはここだー」
見れば足下に体長五糎あるかどうかの蜘蛛がいた。いや蜘蛛にしては大きい。けれどそれが放谷と誰が思うのか。
「いやー、蛇の目を晦ますのに元々の姿に戻ったんだけどー。どーやら上手く行ったなー」
「ああ、そうゆう……。びっくりさせないでよ、もう! 食べられちゃったかと思ったでしょ!」
確かに以前、元の大きさは阿呼の手に乗るサイズだと言っていた。すっかり忘れていたけど、それで大蛇を出し抜いたのか。
放谷は「えへへー」と笑ってドロン。人の姿になって頭を掻いた。私もドロンと人になり、そこへ駆け戻ってきた阿呼もドロン。
「お姉ちゃんも放谷も大丈夫?」
「うん、なんとか無事だった。心配してくれてありがとう」
「さすが皇大神だなー。こいつ、今頃腹も頭ん中もぐるぐるいってるぞー」
草場に倒れ伏す大蛇は呼吸こそしていたけれど、他はピクリとも動かない。それを放谷が草の茎で突っついた。
「この蛇さんどうするの?」
「まあ完全にのびてるし……。放谷」
「んー?」
「糸を解いてあげて」
「いーのかー?」
「いいも何も、私たちこんな大きな蛇食べたりしないでしょ? この子だって意地悪で襲って来たんじゃないんだし。こんなに大きな体だもん。食べ物を探すのに必死だっただけだよ」
「そかー。分かったー」
それに、少なくとも大蛙に狙われていたところを助けれらはしたのだ。その恩を返しておいても罰は当たらないだろう。後は街に着いたら大蛇が出たことを報せて、当分この辺りには近付かないよう警告しておけばいい。大蛇も大蛇で好き好んで街中へは行かないだろうから、目を覚ませば湿原の奥に帰ってくれる筈。
「よし、じゃあ早速神庭の街へ行こう。早いとこお宿を見つけてのんびり休みたいでしょ?」
「うん。阿呼、街に行くの楽しみ」
「こっから見えるだけでも数えきれないくらい家があるもんなー」
私たちは犬神神社と神庭を結ぶ道に戻ると、小雨になった空の下、ぬかるみを避けながら街へと歩いて行った。




