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異世界(まほろば)に響け、オオカミの歌  作者: K33Limited
章の二 水走編
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013 夜刀媛と風の四姉妹

013 夜刀媛と風の四姉妹






 自然光を断たれた社殿の中。人魂を思わせる微かな火を灯した燭台を手に、烏羽からすば色のゴスロリ衣装に身を包んだ少女が御神座ごしんざ外陣げじんを歩いて行く。

 この広く暗い御神座は少女が歩む外陣と、そこから一段高く設えられた内陣に分かれていたが、そこに間仕切りはなく、周囲の廊下との間にも、立ち並ぶ柱があるだけの開けた空間になっていた。

 少女の青白い素足が内陣に敷かれた絨毯の複雑な模様にやんわりと沈む。内陣中央には上座下座に一脚ずつ、左右六脚ずつのチェアに囲まれた黒檀の長テーブル。その傍らをすべらかな足取りで上座まで進むと、少女は燭台を置いてテーブルに背を向けた。

 細やかに波打つ黒髪がゆらり揺れて、その艶は燭台の灯にさんと照り返す。行く先には意匠のちぐはぐな洋棚が幾つも並んでいる。


「さてはて、今宵はどれを楽しもうかしら。ふふふん♪」


 少女はその面差しに似つかぬ深い声色の下で、ころころと喉を鳴らすように独りちた。硝子張りの引き戸の棚はローズウッド製か。爪先立ちになって覗き込み、上段の棚から切子硝子ギヤマンのグラスを手に収める。それから、さも楽し気に中段下段のボトル群を眺め渡した。


「今宵はフラドキアの白をお勧めします。夜刀やと様」


 耳元に突然の声。


「のおおぉぉぉわああぁぁぁ!!?」


 素っ頓狂な叫びを上げてグラスをお手玉する少女。その隣りにいつの間にかスラリと背の高い女性が立っていた。白いノースリーブのワンピースを身に纏い、目元を覆うのは銀縁の眼鏡。


「何!? なんなの? 北風きたげ? なんでいるの!?」

「いつもお側に四陣風しじんふう。今宵は私、北風きたげがお相手を務めさせて頂きます」

「初めて聞いたわそんなフレーズ。ええ? どうやって入ったの? 危うくグラスを落としかけたわよ」

「私の手にかかればしたることではありません」

「いや、そんな筈はないでしょう。どんだけザルなのよ私の宮は……」


 状況が呑み込めず怪訝な顔をする夜刀だったが、微笑みを絶やさない北風を見てやれやれと溜息。驚愕と冷静の温度差も次第に薄まって落ち着きを取り戻した。考えてみれば北風が突然訪れるのは何も今に始まったことではない。多少の疑念を残しつつも、夜刀は棚へと向き直った。


「で、フラドキアの白だったかしら? どれどれどこだ、あ、これね」


 ほっそりとした品の良いボトルを、小指に嵌めた指甲套しこうとうでキンッと鳴らしては「悪くないチョイスね」と、テーブルへ引き返す。先回りした北風が上座のチェアを引いて着座をたすけ、スッと左手に控えた。


「勧めたということは、これに合うさかなもあるのでしょう?」


 当然よね、といった響きを受けて、耳羽じうを乗せた灰白の髪の下にキラリ、眼鏡の縁を光らせる北風。滑らかな舌が得意気に踊った。


「勿論です。本日はこちら、白守しらかみ名産の鮭・と・ば。そして野飛のとびの名産になって久しいチ・ィ・ズ。更には白によく合うドライフルーツ各種をご用意させて頂きました」


 胸前に右腕を曲げてうやうやしく一礼。白く細い髪質のショートヘアがこれまた白い頬にかかった。


「もっと普通に話せないのかしら……。まぁいいわ。頂きましょう。あ、鮭とばは結構よ」


 変わり者を見る目で言って、好みに合わない肴を即座にはじく。


「何故ですか!? 私の地元白守の名産」


 悲鳴を上げた北風の失望を、顔色一つ変えずに振り払って曰く。


「嫌いなのよ、堅いから」

「……そうですか」


 みるみる北風のテンションが淵底えんていに下る。さすがに居心地の悪くなった夜刀は席を立ち、棚へ行って舞い戻れば、北風の前に対のグラスを差し出した。


「ほら、貴女も付き合いなさい」

「夜刀様!」


 つっけんどんな言葉も意に介さず、銀縁眼鏡の奥底で藍色の瞳にありありと喜色が浮かぶ。夜刀は面倒臭そうに手を振って座り直した。

 差し向けたグラスに香り立つ白ワインが注がれる。燭台の明かりが切子を透かして落とす影が、柔らかく揺れていた。


「んー、いいわね。北風、貴女いいのを選んだわ」


 遠く海の向こうから旅をして来た美酒を一口呷り、ゆっくりと愉しんでからの一言。

 肴用にと棚へプレートを取りに行った北風から「ありがとうございます」と嬉しそうな返事が返された。


「ところで北風。貴女、今日は何の用だったのかしら?」

「はい、それなのですが――」


 北風がプレートにチーズとドライフルーツを広げながら答えようとしたところでガタン――。何やら物音がした。

 二人の視線が音源と思しき闇に注がれる。


「……何かしら?」 

「さぁ、何でしょう」

「貴女一人よね?」

「はい。今のところは」


 その受け答えに僅かに眉根を寄せる夜刀。長年の付き合いがあるからこそ、北風がその表情を絶やす意味も理解できた。


「後から来る予定が?」

「それは……個々の判断に任せてありますと言うか、なんと申しますか」


 再びドタンと響く物音。

 夜刀はグラスを置くと、濡れた金色こんじき蛇目かかめを渋くすがめた。磁器の滑らかさを湛えたおとがいが心なしか上向く。


「いるわね」

「そのようです」

「でも何故あんな方から? 向こうは使っていない奥の間しかないのよ。変よね?」

「……そうですね」


 夜刀の眼と言わず声音と言わず、その冷ややかさが増していくのを感じて、北風の額に滲む気まずさの証が燭台の灯に照り返る。


「ひょっとして貴女も向こうから入って来たの?」

「そうなるのかも、しれません……」


 歯切れの悪さよ。

 しばらく無言で見つめ合うと、夜刀はおもむろに席を立ち、音の正体へと足早に向かい始めた。一拍置いて、止めるでもなく北風が付き従う。


「こらぁ!!」


 闇を断ち割るように雷を落としつつ、力任せに木戸を開け放てば、殺風景な一室に三つの影。そして部屋の中央にある茅の輪が目に飛び込んできた。


「あ、夜刀様。西風まぜが御挨拶申し上げます」

「夜刀様。南風はえが来たよ~ん」

「夜刀様。東風こちが飛んで来ましたぁ!」


 順々に挨拶の名乗りを上げたのは北風とお揃いの飾り気のない白いドレスの少女たち。夜刀はそれらを無視すると、ズカズカと踏み込んだ先で、親の仇でも取るかのように全力で茅の輪を蹴り倒した。長く放置されていた部屋にもかかわらず塵の一つも舞わないのは神域であるが故か。


「誰が置いたの!?」

「ハイ! 前回の帰り際に西風西風まぜまぜが設置してましたぁ!」


 朗らかに告げ口をする東風こち。その隣で負けじと西風が胸を張った。


「わたくしがやりしましたね。いい仕事をしました」


 夜刀は西風の胸ぐらを掴んで手繰り寄せる。三〇糎はある身長差で西風の上体がガクンと傾いだ。


「何処の世界に他所の社に黙って茅の輪を置いて行くお馬鹿がいるの!? 貴女、将来の夢は焼き鳥か何かかしら? 叶えてあげましょうか? 今ここで!」

「御心配には及びません。後片付けまでちゃぁんと責任を持つのが西風のいいところなんです」

「片付けなさい今すぐ!」

「喜んで!」


 鬼の形相で捲し立てても暖簾に腕を押すが如し。そんな西風に呆れ、夜刀は戸口に立つ北風を手招いた。目配せに応じて隣に身を屈める北風。


「北風」

「はい、夜刀様」

「いちいち姉妹で勢揃いするなと言ってるでしょ」

「済みません。今日は私一人で行くと言っておいたんですが」

「さっさと追い返しなさい」

「そんな。可愛い妹たちです。みんな夜刀様が大好きなんです」


 まるでその瞳の藍も流れ落ちよとばかりに潤んだ眼差しで訴えかける。それを突き放すような能面の無感動で返した夜刀は、これ見よがしの大きな溜息を吐き出した。


「いつまでもそんな調子でいるなら、全員ここに缶詰にして一から叩き直してもいいのよ?」

「それは……。いい考えかも知れません」


 何故か復活する北風。


「もういいわ、黙りなさい」


 期待した反応を得られず肩を落とせば、そこへ西風から「片付きましたぁ!」と元気印の報告が上がる。


「はぁ……貴女たち、もう長いんだから、少しは大人になれないのかしら?」


 呟くように漏らした言葉を南風はえが拾って明るく答える。


「身体は大人なんですけどね~」

「何処まで行っても中身が子供じゃ埒が明かないのよっ! 何年八大神(やひろのかみ)をやっているの」

「かれこれ千と三百年になりましたぁ!」


 お道化た口調で言う東風を無視すると、夜刀は手を打ち鳴らし、四姉妹に沈黙と注目を要求した。


「片付いたのなら御神座へ移動するわよ。付いてらっしゃい」




 ***




 舶来のテーブルに五柱の神々が座していた。上座に夜刀、その左手に北風、南風。右手には西風、東風。それぞれにグラスが行き渡り、西方大陸はフラドキア産の白ワインが注がれている。


「それでは北風。用向きを話して頂戴」


 夜刀は波打つ黒髪を手慰みに弄りながら、くちなわの双眸を北風に向けた。すっかり涼しい顔に戻った北風は目礼して切り出す。


「はい夜刀様。真神の代替わりは周知のこととして、いよいよ大嶋廻りが始まります。今回も我ら四陣風がその動向を把握しておこうと既に様子を窺っていました。ご挨拶を兼ね、そのご報告をと」

「ああ、その話ね。私はてっきり……。まぁいいわ。貴女たち、先代、真代ましろの時は海の向こうまで大変だったみたいだけれど、今回は大丈夫なの?」


 真神の先代、真代命ましろのみことは、大嶋廻りの枠組みを超えて海向こうの陸土まで旅をした稀有な例として知られている。

 千年前、海を越え大嶋へとやって来た渡人わたりに対し、神も人も一定の関心を示しはしたが、その関心が彼らの故地にまでは及ぶことはついぞなかった。今その手に揺らす異国の酒も、運ばれてきたから在るのであって、出向いて見出す類のものではない。

 真代命は海を渡った唯一の皇大神であり、付かず離れず後を追った四陣風の姉妹神もまた、数少ない例に当て嵌まった。


「あれはあれで、色々見て回れて楽しかったんだよー。向こうのトーテム信仰も思ったより活発だったし。どこだかの夜刀様の分社わけしゃなんてここより全然大きかったもんねー」


 さも楽しげに返事をしたのは三女の南風。薄紅梅うすこうばいの髪を額の真上で括って鶏冠とさかのように揺らしながら、手の中でグラスを遊ばせている。淡く青い露草色の瞳が真っすぐ見つめてくるので、夜刀はスッとその視線を外した。外した先で今度は東風と目が合う。

 東風は末っ子らしい空気読みではあったが、同時に我儘奔放の性格。腰まで流れる髪は水色から白藍しらあいのグラデーション。つぶらな瞳は個性も際立つ濃桃こいもも色。平均より高い位置に置かれた眉の動きから、夜刀にはその大体の考えが読めた。


「それで、どうなの北風。当代は?」


 お喋り好きの東風が皆を雑談に引き込もうとする前にと、夜刀は主題を追いかけた。


「いい子ですよ。妹たちほどではありませんが。よく歌を歌っています。耳慣れない歌ばかりで中々興味深く感じられました」


 しれっと妹たちを持ち上げる北風。夜刀の視線に薄ら寒いものが宿った。香る酒精を一口呷って夜刀は質問を改める。


「そういうことを聞いているんじゃないの。八大の上に立つ神としてどうなのかを聞いているの」

「それは、まだ何とも。大嶋廻りを終えるまでは皇大神も肩書に過ぎませんから」


 八大神は皇大神を上に頂く存在だが、大嶋廻りの期間中に於いては、その未熟を補い、時には代行ともなる立場の神々である。八大神を統べる者としてどうかと問われても、大嶋廻りは始まって間もなく、その可否に達する判断材料はまだない。結果、返す言葉も訥々(とつとつ)と曖昧模糊になった。


「まあそうよね。いいわ、なら現時点での感想を聞かせて頂戴」


 優しく促せば、北風はテーブルに両手を重ね置いて、皇大神に関して率直に思う処を述べて行った。曰く――


 成人して間もなく、その風体は未だ幼年。旅立ちは時期尚早かと思われること。

 付き従う妹神も輪をかけていとけなく、不安材料の一つであること。

 蜘蛛ささがにの主祭が随伴となるも、妙想備わらず頼りないこと。

 御業の扱いも未熟であり、重ねて時期尚早を思わせること。

 言動は卑近にして、その立ち居振る舞いに垣根なく、自覚と用心が欠如していること。

 野暮らしの孤児みなしごを保護するなど、慈悲の心を持ち合わせていること。

 云々。


「随分と手厳しいわね。まぁ大体の印象は掴めたわ。それにしても族神の連れがいるだなんて珍しいことね。その妹神というのは月神かしら。神名は?」

真神下照阿呼比売命まかみのしたてらすあこやひめのみことと聞き及んでいます」


 淡々とした北風の答えを受け、一つ、指甲套でグラスを鳴らす。


「下照とはまた結構なこと。いい支えになりそうね」


 下は裏に通じ、裏はうらに帰す。なればこそ、その妹神は皇大神の、また人々の心を照らす存在となるのだろう。


「夜刀様、宜しいでしょうか?」


 挙手したのは柿色の癖っ毛と、そばかすが印象的な西風。四姉妹の次女にあたる。


「黙ってなさい」


 にべもない。茅の輪の無断設置犯に、夜刀は殊の外冷たかった。


「東風」

「ハイッ、夜刀様」

「他の宮はどうなの? 今回も貴女たちだけで?」

「どーなんですかね。うちは四人いるから手が回る感じですけど。あ、夜刀様も参加しましょうよ、是非!」

「やめて頂戴。結構よ」


 夜刀は両手の親指と人差し指を立てて二丁拳銃を向ける東風をバッサリとシャットアウトした。

 とは言え夜刀も四姉妹を嫌っている訳ではない。むしろ愛情は多分に向けている。

 かつて親交の深かった白守の宮の先代は白守四方鎖目張媛命しらかみのよもくさるまなばりひめのみこと。折々その元を訪ねていた夜刀は、彼女から「そろそろ孵りそうなの」と自慢げに四つの卵を見せられた。それが目の前で割れたのが事の始まりだ。

 最初に目にした相手を親と認識する刷り込み(インプリンティング)によって、母神の他にもう一人いるのは誰? という興味が四姉妹に植え付けられた。その感情がこじれにこじれた上に、母神との死別が拍車を掛けて今日に至っているのだった。


 白守天霧北風媛命しらかみのあまぎらうきたげひめのみこと

 白守行暮西風媛命しらかみのゆきくらすまぜひめのみこと

 白守朱引南風媛命しらかみのあからひくはえひめのみこと

 白守花捲東風媛命しらかみのはなしまくこちひめのみこと


 娘のように可愛くも思えるが、翻って七面倒臭い相手でもあった。


「北風。現在地は?」

「まだ真神を出たばかりですね。しばらく三宮――犬神神社に逗留していましたので」

「あら、何故?」

「全くと言っていいほど御業が使えない様子で、修行をしていたようです」

「ああ、御業ね。その点はちょっと期待外れだわねぇ。真神もすっかり時代遅れの陸の孤島になってしまって、天才肌が出てこないのは寂しい限りだわ」


 かつて大親友だった酒好きの初代、大口真神おおくちのまかみ。大嶋を実り豊かな大地に育てた穂刈ほかり。御業比べで散々手合わせをした荒くれの者の火群ほむら。代々の皇大神たちの姿が目皮の裏に浮かんでは消えて行く。

 夜刀は空になったグラスを北風の方に差し向けながら、なんとも言えない気持ちと一緒に舶来のドライフルーツを一粒、口の中へ放り込んだ。


「ちなみにですが、最初は夜刀様の宮へいらっしゃるようですよ。犬神にそう助言を受けたようですから」


 肝心な事を後回しに言う北風に、思わず口元へ寄せたグラスを止める夜刀。


「そういうことは先に言いなさい。でも、そう。なら北風の心配を解消する為にも色々教えてあげなくてはね。先天の才及ばずと言えど、後天の才に溢れるなら、出藍しゅつらんの誉れも期待できるでしょう」


 言いながら楽し気な笑みを浮かべる夜刀は、自身十五かそこらの少女の姿をしていても、大の子供好きであった。その夜刀が何故自らの子を持たずに、今日まで過ごして来たのか、それを知る者は少ない。


「夜刀様、西風西風まぜまぜがさっきから何か言いたいみたい」


 聞いてあげて、と東風が先に発言を封じられていた西風に助け舟を出した。

 夜刀はうろんな目付きで西風を一瞥。ワインを一口含んで、身振りでもって話しなさいと促した。


「ありがとうございます。夜刀様。実はわたくし西風より、真神の皇大神についてこれだけはお伝えしておきたいという大事がございます」

「あらそう。続けて」

「はい。しばらく前の夜のことです。まだ三宮に入られる前。西風の目に捉えました皇大神の特筆すべき特徴なのですが。是非ともお聞き下さい」

間怠まだるっこしいわね、早くおっしゃい」


 西風の持って回った物言いに軽くイラ付いて、夜刀は指甲套でカツカツとテーブルを叩いた。


「あの日は月もかげる暗い夜でした。その闇の中、姉妹で進む皇大神を迷わせてはならじと、西風は道標となって鳴いていました。すると当代皇大神のかの瞳。かのつぶらな瞳がです。ああ、なんと、俄かには信じ難いことに、なんとなんと!」

「貴女ねえ! もっと、こう、スパッと言えないのかしら!?」


 放って置けば際限なく芝居がかる西風を、痺れを切らした夜刀が一喝。それをまたサラッと受け流して西風は呟くように告げた。


「星霊の輝きを宿していたのでございます」

「……なんですって?」


 夜刀の月白げっぱくの眉間に怪訝な皺が浮かんだ。


「その身から溢れ出す翡翠は未だ神余かなまりを扱えぬ皇大神のこと。溢れ出すままに星霊を放出してしまうのでしょう。ですが、その瞳の奥に宿る深い輝き。そこに西風は尋常ならざる星霊の存在をまざまざと感じたのであります。はい」


 神余とは神の身から溢れる星霊を無意識下で外部に留め置いた神気かみけとも呼ばれるオーラだ。これを制御できない内は、神格の高い者ほど輝きを発して垂れ流すようなことになる。

 夜刀は浮きかけた腰を席に戻して、しばし黙考した。

 何も世の中に緑色の瞳を持つ者がいないという訳ではない。西風のそれもかなり深いが緑の色合いだ。ただ、尋常ならざる輝きとまで言うからにはそれとは異なるのだろう。夜刀の遥かなる記憶に照らしてみても、これまでの皇大神に緑の瞳を持つ者はいなかった筈である。

 小指に嵌めた指甲套が繰り返し切子のグラスを響かせた。


「北風、貴女も見たのかしら?」

「いいえ。私は主に耳を頼りにしていましたので。瞳の輝きについては今、初めて聞きました」


 答えた北風に殊更の表情は窺えない。


「そう……。西風」

「はい、夜刀様」

「こちらへいらっしゃい」

「はい!」


 歓喜に震える西風が耳に似た羽角うかくをうきうきと動かして席を立つ。その様子に南風と東風がらは羨望のブーイングが飛んだ。夜刀はそれらを片手で制して席を立ち、座面に立ち上がって西風を迎えた。

 西風の明るい癖っ毛頭が、チェアの上に立った夜刀の胸元辺りに来る。夜刀は西風の頭に両手を添えて、その額に自らの額を寄せて行った。


「あの、あの、夜刀様」

「何?」

「わたくしは、西風は幸せですか? 幸せの絶頂ですか?」

「知らないわよ、黙ってなさい」


 極度に緊張した西風が舞い上がってギクシャクし始める。夜刀はその頭を抑え込む手に、グッと力を込めて微動だにさせなかった。


「しーっ、静かに。集中して。皇大神の姿を思い浮かべるのよ。ゆっくりでいいわ。私に見せて頂戴」


 二人の額が接すると、そこに若草色の輝きが芽生えてオーロラの様に波打ち始めた。


「こら西風、波打たせないの。もっと深く集中なさいな」

「ひゃい夜刀しゃま」


 次第にオーロラに似たうねりも失せて、澄んだ輝きへと変わって行く。そして夜刀の中に西風の脳裏のイメージが流れ込み始めた。と、同時に夜刀の表情が苦杯を呷ったかのように歪む。


(ちょっと西風! どういうつもり? てゆーか私に何て格好させてんのよ! こらっ!)

(ごめんなひゃい! 夜刀しゃまだいしゅきぃ!)

(黙りなさい! 皇大神を見せるのよ、ほら早く!)


 西風の意識の表層は酷いものだった。そこには様々に華やかな衣装を着込んだ夜刀が、どれもこれも浮ついた感じて西風に過剰なまでの愛想を振りまき、キャッキャウフフと戯れている。本人ならずも目を覆いたくなる惨状だ。

 やがて、それら猥雑なイメージの泥沼に、初めて目にする少女の姿が浮かび上がる。

 その髪色は灰白に青を差した世にも珍しい秘色ひそく

 太く力強い眉の下には確かに緑めく瞳が窺えた。

 夜刀は「これね」と集中を深めて余計なイメージを排除して行った。そうして少女の姿を極限まで鮮明に浮かび上がらせる。

 指甲套の尖端が、まだあどけない顔立ちをした少女の肩口に触れる。そして目にした。そのくっきりとした眉の下に輝く大きな瞳を。


星彩の翆玉(スターエメラルド)! なんてのままの輝き。これは……!)


 少女の姿が歪む。


(駄目よ! もっと奥まで見せて!)


 星条光スターライトのその奥を覗き見んと西風の精神を叱咤するも、視界は急速にホワイトアウトして、両者の同調は敢えなく途切れてしまった。

 白く焼けた視野にゆっくりと御神座の薄暗い景観が舞い戻ってくる。眼下には意識の飛んだ西風が東風に支えられて、満ち足りた表情で燃え尽きていた。いや、萌え尽きたのか……。


「どうでしたか?」

「なんか見えちゃった?」


 北風と南風が身を乗り出してくる一方、夜刀は「この娘たちの頭の中もあんなかしら」と疑念を深めたが、その考えを揉み消してチェアから降りた。

 東風の手で西風が席に戻される。それを横目に夜刀は北風が注ぎ足したグラスを取り、ゆっくりと手の中で回した。

 何を見たのか。一瞬のことで判断に迷う。ただ、珍しい物を目にした喜びの感情が、確かに胸の内に揺れていた。しかもその喜びの種はこちらへ向かって来るのだと言う。


「中々面白そうね。真神の当代も」

「じゃあじゃあ、夜刀様も参加しちゃいます?」


 東風がスチャッと二丁拳銃を構える。


「そうやって私を引っ張り出そうとしないの。ここへ来るというのだから私はただ待つだけよ」


 なーんだ、と東風が背もたれに身を預ければ、夜刀は四姉妹を見渡してグラスを置き、そこに掌を被せて、注ぎ足そうとする北風を制した。


「皇大神の動向を把握すると言いながら全員がここにいるのは謎だけれど、次は誰が付くのかしら?」

「はい、あたしー」


 問いかけに応じたのは三女の南風。折角の美人が個性的過ぎる鶏冠髪に損なわれている気がしないでもなかったが、本人は気に入っているようなので、夜刀はおくびにも出さず話を続けた。


「あら南風なのね。貴女なら丁度いいわ。仕事熱心だし安心ね」


 急な持ち上げに照れ笑いを浮かべる南風を、北風と東風の猛烈な視線が襲う。西風はまだ夢の中だ。


「よしなさい貴女たち。南風」

「はい夜刀様」

「貴女、この際だから皇大神に同行なさい」

「えっ!? 同行? あたしが?」


 予想外の提言に鶏冠髪が跳ね上がった。


「常々言っていることだけど、貴女たちは四人揃って行動するのをいい加減やめにしなさい。こうしている今もお膝元の白守が空でしょう? 北風、西風、東風は白守へ戻ること。南風との連絡は御業でも峰峰衆ほうほうしゅうでも使えばいいわ。眷属でも十分なくらいよ」

「ですが夜刀様」

「そんなのつまんなーい!」


 突然のお言い付けに食い下がろうとする北風と東風。それを夜刀は一睨みでピシャリと黙らせた。


「皇大神の自覚と用心がどうのと言って、貴女たちの八大としての自覚はどうなの? 皇大神が貴女たちの宮を訪れた時に、それをきちんと示せる神でありなさい。いいわね?」


 自覚が足りないと責められ、恐縮する北風と不貞腐れる東風。そんな二柱に西風を連れて退出するよう促した夜刀は、その姿が闇に消え去るのを見送って、改めて南風に向き直った。一人残された南風は緊張した面持ちで言葉を待つ。


「とりあえず貴女は皇大神がこの宮へ到るまで同行なさい。案内はしなくていいわよ。好きに寄り道させればいいの。それが大嶋廻りなんだから」


 事もなげに言う夜刀。その蛇目を覗き込むようにして南風は問い返した。


「でも夜刀様、どう言って合流すんの? 大嶋廻りに八大神が同行するなんて、あたし聞いたことないんだけど?」

「そんなことは自分で考えなさい。別に前例がなくったって、それが禁じられてる訳でもないでしょう」


 それはそうだけど、と口籠る南風に夜刀は優しい笑みを向けた。


「他の三人は私が呼べは、すべき事があってもそれを放っぽり出して飛んでくるわ。でも貴女は違うでしょ? きちんと自分の務めを果たせる娘だから任せるの」


 時折見せる母神のような柔和な笑みに、南風は黙って頷いた。


「それと南風」


 手招きに応じて夜刀の元へ移動した南風は膝を折ってその口元に耳を寄せる。


霊塊たまぐさりのことは早々に皇大神にも知れるようになさい。私が適当なのを探しておいてあげるから、なんなら多少派手にやっても構わないわ」


 軽く目を見開いた南風は夜刀の含みのない表情を確認して、膝を折ったまま首肯した。


「はい夜刀様。でも駆け出し相手に派手にやるのはどうかと思うなぁ。他は言われた通りにしまーす」


 南風の明るい返事に夜刀は薄紅梅の髪をひと撫でし、「行きなさい」と促した。ささやかなスキンシップに足取りも軽く、南風は外陣の闇へと去って行く。

 それを見送った夜刀は自ら注ぎ足した切子のグラスを手に、その縁を紅差し指でそっとなぞり、柔らかな共鳴を薄闇に響かせた。

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