012 家族の歌
雨ふらば 紅葉のかげに やどりつつ
龍田の山に 今日は暮らさむ
三宮に過ごしてひと月。秋微雨を迎えて降り続く雨に、古今和歌集の名歌がふと思い浮かぶ。
私たちは本殿に上がり、広々とした御神座で茜狛、白狛の夫婦神と相対していた。
初めて上がる本殿は御神座の内陣外陣を問わず至る所にわんこがいて、寄ってきては傍に寝そべったり、手をペロペロしてくれたり、ついつい構ってあげたくなる。
冒頭、私は日頃の感謝を口にして、主題である大嶋廻りの再開を切り出した。
「茜狛さん、白狛さん。お二人にはこの一ヶ月、本当によくして頂きました。お蔭で私たち、真神を出る心構えができました。移姿と道結もすっかり覚えて。そこから先はまた、旅の中で学んで行きたいと思います。本当に有難うございました」
追従する阿呼とそうでもない放谷。師匠の白狛さんは畏まり、茜狛さんは膝に抱いた仔犬を撫でながらしきりに頷いた。
「ご丁寧に痛み入りまする。では、参られまするか。いや、吉日。目出度き哉、目出度き哉。して、その道行はお決まりなのですかな?」
「そこなんです。私はお母さん、先の皇大神である真代命から、学ぶべきは旅の中でと言われてきました。なので大宮では余り多くを学んでいません。大嶋廻りの第一歩として、何処を目指すべきかもはっきりとは分かってなくて。一応、海で有名な青海に行こうと思ってはいるんですけど、その辺も含めて、何か助言があれば聞かせて貰えませんか?」
「むふ、青海に御座いまするか」
「青海は阿呼が行きたかったの。海がとっても奇麗で、一宮が海の中にあるって聞いたから」
「そうなの!? それは私も見たいっ! うわー、見たい見たい!」
妹の言葉に竜宮城のような神殿が思い描かれて、神社大好きっ子の私は一気に舞い上がった。思わず尻尾をパタパタさせる私を見て、阿呼は「お母さんに教わったでしょ」とクスクスと笑う。
あれー? 教わったっけ? 記憶を探れど思い当たる節はなく、居眠りしていたのかもしれないなと恥じ入っては耳が垂れ下がる。
「左様。青海八大は波宮と申しまして、お言葉の通り海面下に神座が御座いまする。当代は八大神の中でも最も年若く、それが故にお二人と気がお合いになることも御座いましょう」
なるほど。悪く無いチョイスだったかな、と思ったところで返る掌。
「然りながら、問われましたので申し上げまする。身共の、いえ、私どもの考えと致しましては、先ずは水走の転宮。これに如くはないかと」
やはり聞いてみるものだ。のっけからこうして違う意見が出てくるのだから。
「水走ですか? それにはどんな理由があるんですか?」
「は。一口に八大神と申しましても様々なお方が居られまする。中でも水走一宮におわしますのは八大神の要とも申すべき年降る神。彼の神の知はその及ばぬという処が御座いませぬ。大嶋廻りの主旨から致しましても、先ずは水走。左様に思う次第に御座いまする」
確かに年長者の薫陶を仰ぐことは大事だね。かてて加えて、お世話になりっぱなしの白狛さんに言われれば気持ちも揺らぐと言うものだ。私は阿呼を、次いで放谷を見た。
「阿呼はお姉ちゃんが決めた方でいい」
「水走は蛇トーテムかぁ。真神を出るのは初めてだし、あたいもどっちでもいーぞー」
こんな風に託されるというのもそれはそれで困りもの。とりあえずもう少し判断材料が欲しいので、私はお母さんから教わった内容を頭に質問を重ねた。
「えと。水走の八大神は夜刀媛さんでしたよね? 確か一度も代替わりしてない唯一の神様だとか。師匠から見た夜刀媛様ってどんな神様ですか?」
「は。かの御方を我らの如き小さ神が評すなどと大それたことでは御座いまするが、そうですなぁ――」
師匠の話してくれた内容と、私たちが大宮で基礎知識として学んだことを合わせると、夜刀媛に関する情報は概ね次の通り。
夜刀媛は蛇を祀る水走一宮、大巳輪芽喰神社に坐す八大神の一柱。神名を狭蠅生古縄夜刀媛命と言う。
蛇トーテムが象徴するものは、水と知性、川と情念、雪解けと春告げ、夜と蓄財、鏡と報い。
言い伝えによれば、原初の九柱の神々が誕生した折から一度も代替わりをしていない、楓露最古の神であり、万古の神として崇敬を集めている。
様々な御業を降ろし、大なり小なり物事には正しく報いる神であり、慈しみもすれば祟るとも言われていて、信仰する者の数は非常に多いのだそう。
また、大のお酒好きで蟒蛇。目新しい物事に次々と興味を示し、舶来文化にも造詣が深い。
自身は子を持たず族神も絶えてしまった為か、他の八大神や水走の小さ神に次代が誕生すると必ず祝福に出向くそうで、神々の間でも随分と慕われている様子が窺われた。
「なるほど。年降るといえども気は若い神様みたいですね。それに凄くいい人そう」
「身共にも左様に察せられまする」
さて、どうしようか。興味は出てきた。取り分け渡人の文化に造詣が深いという点は大きい。放谷の母神の話や、この三宮で目にした様々な舶来の品々が脳裏を過った。
例えば私たちが借り受けた部屋にあった硝子。雪見障子に嵌め込まれていたのは波打つ手延べの板硝子だ。それからここ本殿にある大時計。壁掛けのボンボン時計で、ハトこそ飛び出さないけど、これを見た時には相当驚いた。聞けば懐中時計とか眼鏡とか本当に色々あるらしい。
真神で暮らしてた頃はよくて奈良か平安時代くらいに感じていたけれど、三宮へ来て一気に十七世紀くらいまでぶっ飛んだ気がする。げに舶来文化の恐るべきことよ。
ともあれ三宮に滞在中、夫婦神や犬神衆から聞き齧った話によれば、真神は本当に「ド」の付く田舎であるらしい。水走や青海に行けば里山は別しても、街道沿いの街並みや暮らし向きは真神とは相当異なると、口を揃えて皆が言う。
そもそもが水走や青海は海の向こうと繋がる護解と隣接している為、特に渡人による影響が色濃い。これが護解へ行ったとなると天を衝く石造りの街並みはもう別世界だと言うのだから、一体私はどれだけ田舎者なんだろうと不安になってしまう。
いずれにしろ、この先の道中、渡人との関わりは切っても切れないものになるだろう。その点からも、手始めに夜刀媛を訪ねみるのはありだなと感じた。
「お姉ちゃん」
「ん? なぁに阿呼」
「先に水走に行ってみない?」
阿呼の言葉が私の背中を押す。愛妹がその気となれば私も行く気ありありだ。
「私は構わないけど、青海はいいの?」
「うん。水走も川を下って行けば海に出るから。それに」
「それに?」
「水走は私たちの生まれ月だもん」
おお、そうだっけ? と、私は頭の中に大宮で教わった暦を広げてみた。
楓露の暦は地球同様に一月から十二月まで。そして日本での睦月から師走に当てはまる月々の呼び方が次のようになっている。
一月は真神月。一年の始まりの月。
冬の終わる二月と春を告げる三月は一括りの架け月で水走月。三月は特に水追月の呼称を持つ。この水追月が私たち五兄妹の生まれ月だ。
四月は護解月。「もりとけ」と呼ばずに「もりとく」と音が変化する。桜咲く春化粧の季節。
五月の青海月で春が終わって、
六月は渉り月。渉りとは大嶋の南北を結ぶ月ヶ瀬海道を指した言葉で、時節は梅雨から夏の入り。
七月と八月は再び架け月で赤土月。八月の別称は土追月だ。
九月。夏が終わって秋の初めは野飛月。今現在がここで下旬に差し掛かったところ。
十月は風渡月。ここも「ふっと」から「ふと」に発音が変わる。色付く紅葉の盛り。
十一月の黒鉄月で秋はお終い。
十二月は白守月。誰もが冬構えをして年の瀬を迎える。
そうか。私は水走月の生まれだったか。雪解けのせせらぎを耳に生まれて来たのだろうか。久方の光のどけき長床で――。
「それじゃー水走で決まりかー?」
足を崩した放谷が、足裏をぴったり合わせたところを両手で掴んで体を揺らしていた。いつ見ても歯抜けの笑顔はこちらの笑みを引っ張り出してくれる。けれど阿呼に「お行儀」と膝小僧を叩かれ、いそいそと正座に戻る姿に、オチまでつけてこその放谷だよね、と思わず苦笑い。
「うん、そうしよっか? 大嶋で海に面してないのって真神だけだもんね。私はそれこそ歌ならどこでも歌えるし、季節は今正に秋だし、神社ならどこだって大歓迎だもん。強いて言うなら色んな御業を見たり覚えたりしたいなって思うけど、それだって八大神を訪ねて行くなら、水走でも青海でも機会はありそうでしょ?」
「分かった。あたいは構わないぞー。何しろ何処へ行ったって初めての土地だー。行けば行ったで楽しいことがあるさー」
それ、ベストアンサーだね。私は大いに頷いて夫婦神に向き直った。
「という訳で茜狛さん、白狛さん。私たち、お薦めの通り、最初の目的地は水走一宮に決めました」
白狛さん一つ頷くと「それでは」と手を二度打ち鳴らした。
「出立に際しまして、地図など入用の物をご用意させて頂きました。是非ともお持ちになって下さいませ」
「ありがとうございます。とっても助かります」
外陣を通って犬神衆が雲脚台に乗せて運んで来た品々はどれも目を瞠る物ばかり。
先ずは地図。護解にある渡人の都、江都で作られた品だそうで、一辺一米の薄茶けた鞣し革に、縮尺に似合わぬ精細な地図が記されていた。これを二つ折りにして丸めて入れる地図入れは桐油紙というもので巻かれていて、地図を雨に濡らす心配がない。
阿呼も放谷も広げた地図に身を乗り出して、あれはどこだ、それはここだと、見知った場所を探している。
次に出て来たのは霧の小箱に収められていた時計。なんと懐中時計だ。まさか貰えるとは思わなかったので、私は飛び上がって喜んだ。直径約一〇糎でやや大き目だが、持ち歩きに不便はない。金色の細やかな鎖が付いていて文字盤は漢数字。アンティークなものは大好きなのでとっても気に入った。
そして道中財布。人数分用意されたそれは三つ折りの紐留めで、どれも色美しい手縫いの布製。
「わぁすてき! 阿呼、桃色のがいい」
「私は当然こっちの紅葉柄!」
「じゃああたいはこれかー。なんだろー? 扇?」
阿呼が手に取ったのは白地に薄桃の桜花をあしらった春のデザイン。私のは黒地にふんだんな紅葉や銀杏を舞わせた秋の柄。そして放谷の手に渡ったのは扇型を並べて夏の海を描いた青海波だ。と、ここで私は気が付いた。
「あれ? このお財布の形って……。ひょっとして大嶋にはお札があるんですか?」
私の言葉に頷いた師匠は、隣りの雲脚台を覆う掛け布を取り除いた。
「こちらは当座の路銀としてお使い下さいますよう」
「ほわーっ、お金だ! お札の束と小銭! てゆーかお金自体初めて見た」
「おかねってなぁに?」
「買い物をする道具だなー。あたいも見るのは初めてだー」
「左様。古くは金銀銅銭が街道筋を行き来致しましたが、渡人の到来以降、夜刀媛様の肝煎りで転宮衆と渡人の商家が紙幣の流通を推しまして、今ではこのように」
用意されたお金は大嶋の共通通貨で単位は縁。なんて素敵な単位だろう。
お札は四種類あって一万縁札が一〇枚、千縁札と五百縁札がそれぞれ二〇枚、百縁札は五〇枚。三種類の銅銭は四角い穴の十縁玉、丸い穴の五縁玉、一文字をくり抜いた一縁玉がそれぞれ五〇枚。しめて一三五,八〇〇縁! ちょっとした大金だ。
阿呼と放谷が勧められるままに財布に詰め込んでいるけど、あっという間にパンパン。私はその様子を横目で見ながら白狛さんに尋ねた。
「あのー、例えばですけど。いつも頂いてる朝昼晩のご飯。ああいったものをお店とかで頼んだら、一人大体お幾らになりますか?」
「左様ですなぁ……。凡そで百縁といったところでしょうかな」
絶句――。
おい、おい! あれだけのご飯なら日本でも千円じゃ安い方だよ? え? つまり実質で一三五万ってことになるの? そんな大金、おこちゃまに持たせちゃっていいの? やだ、怖い。
「ストーーップ! 阿呼も放谷も一旦戻して、はよ!」
「どうしたの?」
「詰め込み過ぎたかー?」
「いやいや、そーぢゃない。と、に、か、く。ほら、全部出しなさいってば」
さすがに多すぎるだろうと、生来の庶民感覚が警報を鳴らした。それまでの二人と来たら暢気に「一杯になっちゃったね」とか「破裂しそーだなー」とか言ってるんだもん、冷や汗出るよ。
私は師匠に「十分の一でも多いです」と返金を願い出た。すると、ずっと黙って仔犬を撫でていた茜狛さんが口を開いた。
「そう仰らずに、へえ、どうかお納め下さい、へえ。大嶋廻りは旅の終いにもなると、そりゃあ大嶋中を挙げて祝います、へえ。けんども旅立ちは見送る者もないつましやかなもの。ですから、へえ」
「左様。連れ合いの申します通り、せめてこの位のことはさせて頂きとう存じまする」
そんな風に言われてしまうとこっちだって弱い。折角の気持ちを無下にはしたくない。
確かに、大宮を出る時に見送りはお母さんだけだった。私たちが人の姿を得た夜にはあれだけ集まった狼たちが一頭も姿を見せなかった。石舞台では追風が一人。風合谷では姿なき遠吠え。きっと、ここでも犬神衆を集めるなどはせず、夫婦神と野足、夜来の兄妹だけが見送りに立つのだろう。旅立ちはつましく。錦を飾る帰還こそ盛大に、か――。
「分かりました。差し出されたものを突き返すのも失礼に当たりますし、遠慮なく頂いておきますね。大切に使います」
「そのように願えれば嬉しい限りに御座いまする。なんとなればこの三宮を出ますと直ぐに神庭の辻で道は水走と青海とに分かれます。二つの街道に跨って街が御座いますので、そちらにて入用の品々を揃えられるのが宜しいかと」
それでこの大金か。それにしても多い気はするけれど、私はともかくも納得した。真神の外は装いも異なるだろうから、いざとなればこのお金で身なりも整えればいい。
そこまで考えて、私はそれまで少し浮き立っていた気持ちを厳粛なものに正した。そして自分が如何に恵まれているかを思う。お伴に名乗りを上げた放谷も、何くれとなくお世話をしてくれる夫婦神も、みんなが私の旅路を精一杯支えようとしてくれているのだ。健気な阿呼にしたってそう。だから私はその気持ちに報いることのできる自分でありたい。そう願うのだ。
「そっちの台はなんだー?」
人の感慨を蹴っ散らかしてくれてどうもありがとう放谷。と不満顔でもう一基の雲脚台に目を落とす。すると今度は茜狛さんが掛け布を取り除いて一冊の真新しい帳面を取った。
「それは?」
「へえ、炊部の調理手順書で御座います、へえ。これは炊部の者らが、首刈様方がいたく料理を喜んで下さったからと、へえ。炊部に代々伝わる料理を幾つか抜き出して取りまとめたもので、へえ。まあどれもちぃとばかり手の込んだ田舎料理というだけで、三宮の土産とでも思って頂ければ、へえ。どうぞ」
茜狛さんはそこらの品でも取って寄越すかのように、むんずと掴んだ貴重なレシピを私の手に押し付けるようにして持たせた。
「ありがとうございます。大切にします。後で炊部の皆さんにもお礼を言っておきますね」
「阿呼も三宮のお料理をとっても気に入ってたから嬉しいです。ありがとうございます」
「一度味を覚えちゃうと忘れるって訳にも行かないからなー。でもあたい料理とかできないよー?」
「私と阿呼はお母さんから教わってるから安心して。大体放谷に任せたら何作ったって闇鍋になりそう」
「やみなべってなぁに?」
「あははー、なんだか妖が飛び出して来そうな鍋だなー」
なんのことやら、放谷は糠に釘を地で行くね。まあ皮肉も笑顔でスルーできるのは素敵な才能だ。
ともあれ大嶋廻りの再開は決した。部屋には既にまとめられた荷物。目の前には餞別に頂戴した品々。御業の基礎もしっかり身に付け、気も心も準備は万端。
「阿呼、放谷。出発は明日! 今夜はよく眠って、忘れ物がないように荷物の点検はしっかりね」
「はいっ」
「おー!」
***
翌朝、私たちは三宮滞在中にお世話になった全ての人に挨拶をして回った。
道結の修行に付き合ってあっちこっち茅の輪を運んでくれた社部や苑部の皆さん。
旅立ちに際して餞別の品の準備をしてくれた財部の皆さん。
それから、日々美味しい食事を作ってくれた上に、レシピ帳までくれた炊部の人たち。
一通り挨拶回りをして夫婦神と仔狐兄妹に声をかけ、温泉の入り納めもした。師匠は「いやいやいや、いやいやいやいや」と言いながらどっかへ行ってしまったので、女性陣に野足を加えて六人。名残惜しくも賑やかなりし最後の湯浴み。
午後。
お昼を済ませた私たちは、参道の南に一の鳥居を目指して歩いた。いよいよお別れの時が近い。降り続いていた雨も気を利かせてくれたのか小止みとなり、薄雲を透かす陽の光が肌を温めた。
一つ困ったことは、野足と夜来に、この旅立ちをどう伝えるかということ。隣りを行く野足の表情は硬い。察しのいい子だ。夜来の方はみんなとする散歩を楽しんでいる。その夜来がテテテと先に立って走り出した。近付いてきた一の鳥居まで競争しようというのだ。阿呼が走り、私も野足と手を繋いで追いかけた。それを後から放谷が追い越して行く。
「夜来がいちばーんっ」
「あたいが二ばーん!」
最後尾から追い上げた放谷が、夜来を追い越さないようにしていたのがありありと見て取れて、その微笑ましさに思わず頬が緩んだ。鳥居の下に五人が並ぶと、随分後になってから大トリの夫婦神。
場所、時、人が揃って、私は阿呼と顔を見合わせた。ついにこの時が来ちゃったね、と。
「きらきらー!」
突然夜来が飛び跳ねて、見れば指差すその先に、空を跨ぐ七色の架け橋。
「うわーっ、これは絶景っ!」
思わず私も見とれてしまった。薄雲の切れ間から射す光の加減か、これから進む道を跨いで、見たこともないような大きな虹。奥のまだ厚い雲間からは天使の梯子が幾つも下りている。
「あこねーちゃ、あのきらきらはなぁに?」
「あれは虹。雨上がりに見ることがあるけど、こんなに奇麗なのは阿呼も初めて」
そう言って阿呼は初めて虹を目にする仔狐兄妹に丁寧に七色の説明をした。赤、橙、黄色、緑、水色、青、紫。太陽と小糠雨と、何がそうさせたのか、記憶に残る素晴らしい虹。
今だな。そう思い立って、私は二人の肩に手をかけた。
「野足、夜来」
「はい」
「なぁにすーちゃん?」
虹を見上げていた顔を俯かせる野足。どこまでも愛らしい笑顔の夜来。どう言ったものかと僅かに逡巡して、私は先を続けた。
「一緒にこの虹を見られてよかった。二人ともありがとう。私たちは今日、ここを離れるから、いい思い出になるよ。勿論、今までのことも全部ね」
「おでかけなの? いつ戻ってくりゅの?」
小首を傾げて問われれば思わず言葉に詰まってしまう。すると夜来の視線は阿呼に流れた。
「あこねーちゃもおでかけ?」
「うん。いつ戻るかまだ分からないけど、必ず戻って来るから、それまで待っててくれる?」
「夜来は? 夜来もいっしょでいい?」
話の筋を読み取れない夜来は期待の籠った目で阿呼を見た。私だって連れて行けるものなら連れて行きたい。でも、何があるか分かりもしない旅に、年端も行かない二人を連れ回したりはできない。阿呼もそれは承知だ。
「夜来はここで野足と一緒じゃないとダメよ。お爺ちゃんやお婆ちゃんから教わることが、まだまだたくさんあるでしょ?」
一番懐いていた阿呼にそう言われて、夜来は黙ってしまった。阿呼も私も困ってしまう。しかし、ただ一人何一つ困ってない者がここにいなすった。
「心配すんなー。あたいら道結覚えたからさー。次に行く八大宮で用事が済んだら、茅の輪を借りて戻ってくるさー」
目から鱗が落ちるようだった。ですよねー。私も阿呼もお別れの仕方ばっかり考えて、散々修業した道結のことをド忘れしていた。
「やっちゃんほんと?」
「おー、約束だー」
「あこねーちゃ、ほんと?」
「うん、ご用が済んだら必ず戻って来る」
「すーちゃんも?」
「ほんとほんと。それに、その時にはちゃーんとお土産も用意しておくからね」
夜来は隣に兄を見上げ、野足は妹の頭を優しく撫でつけた。
「なら夜来はにーちゃとまってる。でも、あんまりおそくちゃだめよ? わかった?」
夜来の言葉に頷きながら、敵わないなと思わず笑えば、場も和んだところで、鳥居を挟んで北に四人、南に三人と向かい合って並ぶ。
「それじゃあ茜狛さん。白狛さん。一ヶ月間、何から何までお世話になりました。私たち、毎日が楽しくて、忙しくて、とっても充実してました。言葉にするのは気恥ずかしいですけど、本当に家族が増えた気がして、私たち七人で家族だったなぁって。野足と夜来もありがとうね。――二人のこと、お願いします。これでしばらくお別れになりますけど、私たちまた必ずここに帰ってきますから。ただいまーって帰ってきますから。ね、阿呼」
「うん。本当に長いことお世話になりました。ありがとうございました。同じ真神でも三宮は全然違うんだなーって、阿呼びっくりしちゃった。うちはお爺ちゃんもお婆ちゃんもいなかったし、阿呼は末っ子だから、野足と夜来が弟と妹になってくれて嬉しかったです――。二人ともありがとう。阿呼もお姉ちゃんと一緒にただいまって言うから、その時はまたよろしくね。はい、次は放谷よ」
「おー、あたいは前々からここには世話になってるけど、あたいも家族でいーのかなー? うへへっ。まー蜘蛛も犬神も揃って真神の門神だー。大嶋廻りの方はあたいが付いてくから、何かの時は後ろで以って手ぇ貸してくれよなー」
「放谷お礼」
「お礼が抜けてる。ちゃんと言って」
「え? あー、世話んなったー。ありがとなー」
「散々お世話になっといてそんなぞんざいなお礼ってありなの?」
「放谷はもー、メッ」
「えー……」
だが、それが放谷だ。その辺りは私たちなんかよりよっぽど付き合いの長い夫婦神の方が分かっていることだろう。茜狛さんも白狛さんも「まあまあ」といった風で本心から気にも留めていない様子。それならそれでおけまる。
私たちがやるべきことは、胸を張ってただいまと言える旅をすること。大宮へ帰っても三宮に帰っても、そうできるように日一日、実入りのある旅を心がけよう。
「あこねーちゃ、はやく帰ってきてね。すーちゃん、やっちゃん、夜来まってるから」
寄ってきた夜来を阿呼が膝を折って迎え、重ねた手にもう片方の手を添えて摩った。
「元気にして待っててね」
微笑みかける阿呼の隣りから、放谷が手を伸ばして夜来の頭を撫でる。その様子を見ながら、私は野足を手招きした。
「夜来と仲良く、お爺ちゃんとお婆ちゃんの言うことをよく聞いてね」
「はい、首刈様。本当に、本当にありがとうございました」
少し腰を落として野足の肩に両手を乗せる。そうして目の高さが合うと、野足の目にうっすら惜別の涙が滲んでいるのが見えた。
「野足も夜来も次に会う時にはきっともっと大きくなってるんだろうね。私も今よりずっといいお姉さんになって帰ってくるから、お互いに頑張ろう」
励ますように言って、私は初めて人の姿になった日にお母さんがしてくれたように、野足の二の腕を二度三度と摩ってあげた。「はい!」と元気のいい返事が返ってきて、私は懐から取り出した紙を野足に手渡した。
「これは?」
「これはね、今日の為に私が作ったお歌の歌詞。私たち七人全員の、家族のための歌だよ」
「おうた?」
横合いから夜来が寄ってきて紙を覗き込む。
「そう。すーちゃん、頑張って作ったから聴いてくれるかな?」
「うん! 夜来、すーちゃんのおうた好きっ」
嬉しいこと言ってくれちゃって。
思えば仔狐兄妹とも色んな歌を歌った。温泉で、囲炉裏端で、布団の中で。ここまでの参道でもあめふりの歌を輪唱した。
私は夜来の頭をなでなでして、それから数歩後ろに下がった。一人一人、順々に目を合わせ、今日の為にあれこれ頭を悩ませて考えた歌を胸に抱く。どうか心に響きますようにと――。
この場所で 過ごした日
いつまでも忘れない
手をつなぎ 歌うたい
あそんだねみんなして
楽しい夢 切ない夜 ぜんぶ抱きしめて
目と目あわせ 微笑んだら 胸はずむでしょう
こんにちは さようなら
ようこそを くり返して
指切りを したらほら
またここで あいましょう
目皮の裏に、出会いから今日までの時間が流れて行く。七本の色糸が織り成したほんのひと月が、しっかりとした組紐に仕上がって行けば、そこに結ばれる確かな絆。
瞼を開けば目を閉じて聴き入る夫婦神。嬉しそうな夜来の隣で野足が何か特別な物を見るような眼をしていた。緑めく世界を見れば、また私が光を放っているのだろう。
ありがとう うれしいよ
みんなに出会えたこと
これからも 肩をよせ
ささえ合って行きましょう
けんかしても あいこだから 仲直りしてね
泣いて笑う そんな日々が 幸せだから
また来るよ また来てね
おかえりを くり返し
心なら 遠くても
いつだって 傍にいる
忘れずにいてね
ささやかな拍手。
なんだか終盤で涙声になってしまった。
私は野足を、それから夜来を抱き寄せて、二人の頭をかいぐりかいぐりしてあげた。
おぼえていてね。このひと月の楽しかったことぜーんぶ! そんな気持ちを込めて。
それから再び向かい合って最後のお辞儀。名残惜しさを深め過ぎないギリギリのところで顔を上げ、
「行ってきます!」
私はくるりと背を向け、グッと深く息を吸い込んだ。そして夫婦神が道中の安全無事を祈って切る切り火を合図に歩き出す。一歩踏み出せばもう二度と、背なにかかる声を振り返らない。
隣りで阿呼は振り返り、振り返り、手を振った。
放谷に至っては「じゃあなー、またなー」と後ろ向きに歩いていた。
「転ぶよ放谷」
「えー? あたいそんなにヘボじゃないさー。それよりさっきの歌、思い出がいっぱい見えて凄かったなー」
「それはどうも。てゆーか、人が後ろ髪引かれる思いを断ち切ろうって頑張ってるのに。ちょっとは配慮して」
「おー、夜来が追っかけて来たー」
「だからっ!」
「あ、こけたー」
「えっ!?」
驚いて振り返れば、もう随分と小さくなってはいたものの、ちゃんと四人並んで立っている。
「だまされたなー」
したり顔の放谷。
「こらぁ!」
私が杖を振り上げると、放谷はスイッと避けて阿呼の向こうに逃げ込んだ。
右に左にと顔を見せてはひょうきんに笑う蜘蛛神。阿呼がたまらず噴き出せば、口をとんがらがしていた私も悔しいかな、釣られて笑いを漏らしてしまう。
「ほら、お姉ちゃん。まだ野足と夜来が手を振ってくれてるよ」
振り返してあげてと、可愛い妹の催促に、私は両手を大きく掲げた。そしてそれを頭上で交差させながらブンブンと振り返す。野足も夜来も、まったく同じようにして大きく大きく振り返してくれた。
じゃあまたね。元気でね。
「よーし、走るよー!」
それを最後の光景と心に決めて、振り返りざま一人駆け出す。
私は駆けた。肩にかかった旅行李をぶらんぶらん揺らしながら、力一杯地面を蹴って――。




