099 幕間1
春告鳥の鳴き止まぬ参道を舟に揺られて進んで行くと、二の鳥居から先の鎮守の杜に、沿道を付いて来ていた野足と夜来の行列は林道へと遠ざかって、私たちの乗る舟だけだがひたすら真っ直ぐな流れに任せて、三の鳥居と、その後背に聳える拝殿に行き当たった。
注連柱の向こうの拝殿は開け放たれた門扉の向こうに堂間を持たず、直ぐに玉砂利と岩ばかりの枯山水にも似た空間が覗けている。奥まった位置にはドンと岩小山があって、穿たれた洞穴の入り口に紙垂の飾りが張り巡らされていた。その洞窟を行けば下る参道の先には地底湖があって、暗がりに佇む本殿があるのだ。
けれども私たちは拝殿を前に柏手を打つ暇もなく、三の鳥居の真下に口を開く隧道へ吸い込まれるように流れ込んだ。そこからはあっという間。上げ舟は即座に斜度を得て闇の水路を下り始めた。
瀬の早みに闇を奔って冷たい飛沫が袖を濡らせば、まるでウォータースライダーのような湾曲と高低差を滑り抜けて行く。随分と流された先で舳先がぐんと沈み込み、それをまた持ち直すように平らかな水面へ。辿り着いたのは広々とした地底湖だ。
暗い水面の先にぽつねんと小島があって、にょっきり聳える白蝋の木が一本。その木は百日紅のような樹肌ながら、自ら発光するという異観を備えて、清らかかつ柔らかに昏い水面を浮かび上がらせていた。
「ほわー、幹も花も光ってる。これって桜だよね?」
「奇麗ね。でも、阿呼たちがいっつも渡ってる太鼓橋はないみたい」
「あっちに社が見えるぞー。ここって転宮の裏手じゃないかなー?」
花も葉も幹も白く光る地底の桜に照らされて、岩の天蓋が深く落ち窪んだ辺りに社殿が見えた。葺屋根と岩肌とが摩れ合うほどに近い摩蓋殿。それは御神座のある本殿とは趣を異にした寝殿造の建物だ。
放谷は湖に突き出す廻廊の先端に艀を見付けて漕ぎ進めた。ギィコギィコと静波立てて舟を寄せれば、廻廊の吊り灯篭に仄かな迎え灯が点って、私たちは粛々と御神座を目指した。
初めての裏口訪問も中坪の渡り廊下を越えた辺りから間取りが掴めて、後は勝手知ったるなんとやら。外陣の横合いから御神座に歩を進め、
「只今到着しましたぁ!」
元気よく挨拶をして、一斉に向けられた神々の視線を受け止める。通い慣れた広間は所狭しと神々で賑わい、御神酒徳利を載せたお盆を手に転宮衆が忙しなく立ち回っていた。あたかも立食パーティを彷彿とさせる絵面だ。
「静まれ。皇大神のお越しだ」
よく通る風渡の女神の声を受けて、真っ先に静まったのは寧ろ私。過去にひと睨みで震え上がらせられた経験から、条件反射で強張っちゃう。
「まあまあ。今日の主役は夜刀ちゃんですから、私への気兼ねはナシにして下さい」
舌を出して輪に加わり、見知った神から見知らぬ神まで順繰りに挨拶を交わして行く。挨拶の順序などは気にしない。ただ、のっけの声で位置の知れてしまった風声媛が、半ば自動的に最初の挨拶の相手になった。
「息災か」
「あ、はい。どこへ行っても皆さん手助けしてくれるので。どうにかやれてます」
風声媛は「そうか」と頷いて、ひと塊りに集っていた忍火媛と末媛に場所を譲った。
古株の八大を前に何か聞かれるかな、と思ったけど特にはなく、逆に五つ帆の丸の件を忍火媛に言おうかなと思案して思い留まる。場所柄もあるし、きっと小鉤ちゃん経由で耳に入っているだろうと先読みしたからだ。
忍火媛には小鉤ちゃんを付けてくれたお礼だけをして、一通り挨拶回りを終えたところで目当ての女神を探した。
「夜刀様ならこちらですよ」
声の主を見返れば黒鉄の末媛。妹の心媛とは打って変わって美々しい風貌で、物腰も柔らかく、正に神の神たる麗しさを纏っていらっしゃる。
「今日は末さんの日なんですね。妹の心さんはお休み?」
「はい。月の初めは既朔ですから、小筆を引く繊月から満ち満ちて夜を照らす望月までは私が神座を預かります」
曰く一心同体の姉妹神。込み入った事情は知らないけれど、お姉さんの末媛は黒鉄二代を継いで間もなく去り神となったらしい。それを妹の心媛が何らかの手立てで自らの肉体に繋ぎ止めて、月の歴りに合わせて、入れ替わりに御神座を守って来たのだと言う。
不思議な話だな、と思う。神様はなんでもありだな、とも。けれど、姉妹の情と言う点では私にも阿呼がいることだし、何にもまして大切で、共に生きていたいと願う気持ちがよく分かった。
「夜刀様は本殿前の凌雲橋にお出ましになって、久方振りの信徒の参内を言祝いでいるのです」
外陣の端へ赴き、柱間の御簾を巻いて地底湖の様子を覗くと、
「うわー、明るい。どうなってるの、これ?」
「石露の御業で光らせてるのです」
「いわら? 阿呼も放谷も見てごらんよ。洞窟の天蓋が星空みたいだよ」
「おー、こいつは明るくて奇麗だなー」
「凄いね、お姉ちゃん。どこもかしこもキラキラ光って、宝石のお星さまだね」
いつもは暗いばかりの大空洞がラメを散らしたかのように煌めいて、さながら満天の星空だ。それらの星々は岩に含まれる鉱物や貴石の類を光らせたもので、石露は金堀りには欠かせない御業なのだと言う。
視線を戻せば地底湖の中央に渡す凌雲橋。橋に沿わせた樋には明々と蛇の如く火が走り、降り注ぐ青白さと立ち昇る橙とが溶け合って、波一つない水面を幻想的に染めていた。
「あのお神輿に夜刀ちゃんが乗ってるんですか?」
凌雲橋の半ばを過ぎて尚進むお神輿。それは前世で見知ったお神輿とは違って、御神体の鏡やら何やらを収める御堂がない。当然、派手な飾り付けで目を引く屋根もなく、担ぎ棒の上に平べったい台輪が乗っているだけ。板敷の台輪に据えた神座に神様が座るだけの実にシンプルな造りだ。
「ええ。古くは毎年あのようにして信徒を出迎えたものなのです。今日の夜刀様はそれは随分とめかし込んでいましたよ」
「そーなんだ。あとで会うのが楽しみ!」
夜刀ちゃんが乗るお神輿は台輪の後ろに野点で使うような大きな傘が張ってあって、お蔭でめかし込んでいるという姿がこれっぼっちも見えない。
「おおー、両側の廻廊が伸びてくぞー。面白いなー」
わくわくとした放谷の声色に釣られて左右を見ると、火樋の大外にある蛇形の廻廊が、まるで背筋を伸ばすかのように真っ直ぐに伸びて行くのが見えた。どんな仕掛けかは分からないけど、信徒は向こう岸に接岸された廻廊を渡って本殿前まで来るのだろう。
曰く、真ん中は神様の道――。故に参拝の列が凌雲橋を渡ることはない。その一方で今、御神座にいる神々は、普段の私とお同じように凌雲橋を渡って来たのだ。或いは私と同じで裏手の地底湖から回って来たか。
「そろそろ信徒が雪崩れ込んで来ますから、夜刀様の為に御神座を空けておきましょう」
「え、じゃあ私たちはどこへ?」
「奥殿のどの部屋へでも。春告神事は参詣者を前に初春の言祝が済めばお終いですから、それまでのんびりなさって下さい」
「そうなんですね。じゃあ末さんも一緒に」
「私は神輿に上がられる前の夜刀様に挨拶をしましたから、このままお暇します」
「それは残念。今度また、ゆっくりできる時に会いましょう」
「はい、それは是非とも」
もう終わりか。そう思う反面、色々と慌ただしかったことを思えばやっと終わったとも感じられて、俄かに疲労を覚えた。この後は参詣した人々に御神酒の振る舞いがあって、参道表では夜っぴてお祭りが続くと言う。
三々五々、御神座を離れる神々に紛れて、夜刀ちゃんへの挨拶を残す私たちは、元来た道を戻って寝殿造の奥殿に渡った。
「皇大神」
「あ、西風さん」
「お疲れ様でした。とても素敵な素走詣でしたね」
「観ててくれたんですか?」
「勿論ですとも」
「ありがとうございます。北風さんたちは?」
「北風姉さんは御神座に残って夜刀様の戻り支度をしています。転宮衆に任せておくのが筋なのですが、夜刀様のお世話をするのが姉さんの生き甲斐ですから」
「それは西風さんも同じですよね?」
「言うまでもないことですね!」
すこぶるいい笑顔で言うのだから呆れも顔も追いつかない。私と夜刀ちゃんとどっちが好きかなど愚問の極みに違いない。こればっかりは百年の恋も冷めるね。
「首刈ちゃん久し振りー」
「南風さん!」
中坪の渡り廊下を過ぎた辺りでひょっこり現れた馴染みの女神。私は無条件でふくよかな胸に飛び込んだ。相変わらず、にへらと笑う美貌の上で薄紅梅の鶏冠髪が自己主張をしてらっしゃる。
「元気してた?」
「元気元気! 南風さんは?」
「まーぼちぼち?」
「何それー」
「南風はここへ来るなり夜刀様に叱られていましたからね」
「こらぁ西風西風! 余計なこと言わないでよぉ!」
しれっと告げ口する西風さんに噛みつく南風さん。どうやら赤土の一件で夜刀ちゃんの機嫌を損ねたらしい。なんでも夜刀ちゃんをどやし付けるようにして赤土に追い立てた張本人が南風さんだという話。
「その辺は首刈ちゃんの方で上手く取り持ってくれるもんね?」
「えー、なんで私?」
「夜刀様がそっちへ行ったお蔭で上手く行ったんでしょ? ならあたしのお蔭じゃん」
「それはまあそうだけど……」
何やら面倒臭い立ち回りを望まれて腰が引けていると、今度は夕星が登場。どうせまた面倒臭い話になるんだよ。
「ちょっと貴女。青海に行くって言ってたくせに何よ。護解を回ってるんですって? 随分話が違うじゃない」
相も変わらぬ甲張り調子にケンケンと物を言う夕星。なんだか赤土の日々に戻ったみたい。
「いや、それには訳があってね」
「どんな訳で野飛が後回しになるってのよ?」
「降ろされたんだよ」
「は?」
「だーかーら! 青海に行こうと思って乗った船から降ろされちゃったの!」
「なんでまた?」
「それは、つまり、船賃が足りなくて……」
「……馬鹿なの?」
「うるさいなぁ!」
襟首掴まれてポイッと摘まみ出された情けない経緯に気分は急降下。砂滑衆のにべもない態度を思い出して腹立ちついでに愚痴を吐いたら、今度はそれを嗤われた。
「ツケなんか効く訳ないでしょ。ほんとお間抜けよね。首刈はなんにも分かってない」
「何がよぉ?」
「砂滑衆は貴女の為を思って下船させたんでしょ」
「私の為? どこがどう私の為?」
「これだから首刈は。貴女ね、皇大神が無賃乗船やらツケやらで船旅をしたとして、そんな話に尾鰭が付いて広まってご覧なさい。どうなると思うの?」
「むがっ……」
確かにそんな話が広まったら大宮の名に瑕が付くこと請け合いだ。真神の御祖にも申し訳が立たない。
「でも、だったら、船を放り出されたって話だって広まったら恥ずかしいじゃん」
悔し紛れに言い返したら、「そのことでしたら心配はありません」と、夕星の後ろに控えていた青海の磯良媛から合いの手が入った。
「港に入った砂滑衆からは、首刈様は行き先を暗宮に変えられたと聞かされました。彼らもその点は卒のない対応をしていましたよ」
「そうなんだ」
ううむ。そのように慮ってくれていたとは、これではぐうの音も出ない。ぞんざいに扱われたと思っていたものが、実は筋目の通った心配りだったと知って恥じ入るばかり。それは如何にもひけらかしのない大嶋の温情で、そういった点に中々気付けないでいる己の至らなさを痛感させられるものだった。
「ま、旅なんて何が起こるか分からないから楽しいのよね。私は待ってるけど、慌てず騒がず、やるべき事をしっかりやってから来なさいよ。私はずーーっと待ってるけどね」
「そんなに念を押さなくてもいいでしょ。ちゃんと行くってば」
「護解の次は青海にお立ち寄りですよね?」
「え、あ、うん。勿論磯良ちゃんの所にも寄ってくよ」
「私は待ってるんだよー?」
「しつっこいなぁ!」
「はいはい。じゃあ先に帰るから、またねっ」
夕星を見送りに中坪の茅の輪まで行くと、漏れなく「さっさと野飛に来なさいよね」と催促を置いて去って行った。そんなこと言われてもこっちはこっちでやることが山積してるんだよ。と心ぼやいていたら南風さんまで「夜刀様との取り持ち件、よろしくね」とそそくさ退散。みんな勝手だな。
「あ、そうだ西風さん。私の行列。野足と夜来はどこに?」
「ああ、それなら――」
案内された奥殿隅の一室に襖を開くと、座卓の並んだ大広間では様々な宮社の宮守衆が祝いのお酒と料理を楽しんでいた。その一角に甘酒を嗜む仔狐兄妹を発見。
「あれ、二人だけ? 宮衆のみんなは?」
「一足先に茅の輪をお借りして引き上げて行きました。大所帯で長居するのも迷惑だろうからって」
野足の答えは尤もで、神々だけでもごった返す殿中に行列の衆まで居座らせたのでは、何より転宮衆が息つく暇もない。
「夜来たち、先にお宿に戻ってるね」
「え、もう?」
「私たちは首刈様の到着を待っていたので、これでお暇します」
「でも、このあと夜刀ちゃんに挨拶しに行くけど、二人は会わなくていいの?」
急がなくてもいいじゃないと誘いかければ、野足も夜来も首を横に振る。
「いい。マウロとエレンが二人ぼっちだし、夜来たちが一緒にいた方がいいでしょ?」
「ああ、そっか。ならそうして貰えると助かる。私たちは挨拶が済むまで残らないといけないから、二人のことは野足と夜来にお願いするね」
納得ずくで大広間を出て行く仔狐兄妹を見送り、さて戻ろうかと踵を返したら、またまた中坪の廻廊で今度は八大神の古参組と鉢合わせた。
「皆さんもお帰りですか?」
「ええ、わたくし共は夜刀様への挨拶も済ませていますので、これにて失礼させて頂きます」
おしとやかな会釈を残して忍火媛が茅の輪を潜る。後に続く末媛は楚々と裾をたくして滑らかな足取り。思わず見惚れていたら風声媛の声が降って来た。
「おい、首刈」
「はい、なんでしょう?」
「赤土に続いて護解でも厄介事にかまけている様子だが、大嶋廻りを疎かにはせぬがよいぞ」
「疎かになんかしてません。これまでもちゃんとやりましたし、これからもちゃんとやります」
「ならばよし。くれぐれも気を抜かぬことだ」
風声媛はクシャッと雑に頭を撫でて、風のように去って行った。私はボサッとなった髪を手櫛で直しつつ、何故かしら大きな手の感触が嬉しく感じられた。
部屋へ戻る道すがら、やはり引き上げるという千軽ちゃんと擦れ違いに別れの挨拶。随分飲んだらしく、赤ら顔をしていた。続いて西風さんも北風さんを手伝うからと御神座へ引き返してしまい、阿呼と放谷だけを連れて奥の間へ。
襖を引くと渡人贔屓の夜刀ちゃんらしい西方調度に溢れた一間。椅子にぽつねんと掛けているのは青海の磯良媛ただ一人。
「あれ? 磯良ちゃんは夜刀ちゃんへの挨拶まだだったの?」
「いいえ、そちらは済ませました。青海へ戻る前に首刈様にお伝えしておくことがありまして」
「ん? 私に? なになに?」
余人に非ずこの私になんの話があるのだろう。向かいの椅子を引くと両隣りに阿呼と放谷も並んで座った。
「昨晩のことですが」
「昨晩?」
「はい。その、神旨が破られた件です」
「ああ! そうだった。え、何? 磯良ちゃん何か知ってるの?」
慌ただしさにコロッと忘れていた重大事。それと知って俄然、身を乗り出す私。磯良ちゃんは少し困ったような面差しで一拍の間を置くと、切り口定めて言葉を接いだ。
「まだ確かめたという訳ではないのですが。神旨を破ったとなると心当たりとして先ず上がるのが青海の神々なのです」
「そうなの? なんで?」
「はい。一口に大嶋と言っても天地と八潮路の三界に隔てられていて、中でも八潮路は、とかく別個の領域とされています。止まり木に羽を休め、水面に憩う空神は陸土の神々とも海神とも相通ずる間柄ですが、陸の神と海神とは至って疎遠です。海神からすれば真央の中柱に真神を頂くことも形ばかりになっていて、恥ずかしい話ですが私の母、須永も、過去に一度神旨を破ったことがありました」
「わお、まじか」
陸海空と界を分けて見た時、翼の神は空を頂くと言っても羽を休める時には枝に留まり、波に浮くといったことをする。そこへ行くと陸と海とでは陸だけ、海だけで一生涯を過ごす生き物がほとんどで、その分隔たりも深かいと言う。
「でも、今度も須永様ってことではないんでしょ?」
「ええ、それは違います」
「じゃあ誰なの?」
「実は青海二宮の古神にちょっと難しい方がいて、それがどうも、しばらく前から陸に上がっているようなのです。ですから、万が一にはその方が渡人との間に一悶着起こしたのではないかと」
「青海二宮ってどこだっけ? 阿呼知ってる?」
「逆戟大岩神社よ。沖海にある鯱神様のお社」
シャチか――。
その名を聞けば水族館の人気者というイメージが先行するも、海のギャングと名高いだけに手強い相手に違いない。しかし、こっちが腐心して抵触すまいと立ち回る神旨を、いとも簡単に横紙破りにされてはそれこそ腹に据えかねる。何しろ私は真神だ。先々代の発した神旨だろうと、本心では神旨を邪魔っけに思っていようと、現状、九代皇大神として守り守らせる立場にあった。
「うーん、困ったな。私たちは明日から西風さんと五つ帆の丸絡みの調査を始める予定だし。その件、磯良ちゃんの方で確認とか取れないの?」
「やはりそうなりますか」
「そりゃ青海のことだもん。仮に本当なら私の名前でもなんでも出して、大人しくさせておいて欲しいけど」
「どうでしょう。相手はまつろわぬ神ですから」
まつろわぬ神とは穏やかではない。真神を頂点に八大神、小さ神と裾野を広げる謂わば神格のピラミッドと言うべき関係性を歯牙にもかけない神なのか。想像に頼ればヤクザ破落戸の類に思えるけれど、これまで出会った神々を鑑みれば俄かにそうとも信じ難い。何しろこれまで、心無い神様に出会った例がないのだから。
「磯良ちゃん」
「はい」
「相手は古神だって言うけど、私も磯良ちゃんも若いからってナメられてちゃいられない立場だよ。追っ付け私も青海に行くから、それまではこの件。磯良ちゃんに全部任せたい。お願いできるよね?」
相手が誰で、どういう目算だろうと、私は皇大神だし磯良ちゃんは青海八大の当代だ。好む好まざるは別として、お互い立場に相応しい責務があるのだし、磯良ちゃんに至っては私のように仮免中な訳でもない。
やるべし。
そう気を込めて翡翠の眼差しを真っ直ぐに向けると、磯良ちゃんも瑠璃紺の瞳に力を宿して固く頷いてくれた。
***
夜刀ちゃんが戻って来た時にはすっかり普段のゴスロリ衣装で、神事の為にめかし込んだという晴れ姿を拝むことはできなかった。それどころか何やら難しい顔をして、五百年振りに昔に立ち戻った春告神事の後とも思えない面持ちと来てらっしゃる。
違和感を感じながらも祝着の挨拶を述べると、夜刀ちゃんはひらひらと片手を振って、御神座に置かれた長テーブルの上座に腰を落ち着けた。
「さて、何から話そうかしらね」
「と言うと?」
考えあぐねる様子の言葉尻を受けて、私は反問を返した。すると万古の女神は脇に控る北風さんと西風さんを席に着かせて、カッカッと指甲套でテーブルを叩いてみせる。とてもじゃないけど南風さんのリクエストにお応えできる雰囲気ではない。
「夜刀ちゃん、何か怒ってる?」
「あら、貴女また叱られるようなことでもしたの?」
「してない……つもりだけど」
「心許ないわねえ。まあいいわ」
言いながら素焼きの盃を取って白馬を呷り、赤い舌をチロリと走らせる。蟒蛇は至って健在だ。
「色々と話を聞かされたのだけど、どうも護解ではここまで億劫な行きがかりだったようね」
「はあ」
「気のない返事をおしでないわよ。貴女が広げた風呂敷に厄介事が紛れ込んで、それをそのまま畳むという訳にも行かないのでしょうから。先々をどう考えているのか、一つここで聞かせて頂戴」
そう言われても北風さんや西風さんが何をどう伝えたのかが不明だ。これでは言葉の返しようがない。仕方ないので言葉探り手探りに話を進めることに。
「えと、渡人の、五つ帆の丸の話ってことで合ってる?」
「要ではあるわね」
「だったらもう予定は立ってて、明日から西風さんと一緒に取り組むことになってるよ。優曇華宮の調査から手を付ける段取りになってて――」
「おバカさん」
「はい?」
「おバカさーん!」
テーブルに両手を着いて大きな声で言い直す夜刀ちゃん。確かに賢くはない私だけど、今の話をバカと言うなら、既に同意済みの西風さんも一緒くたにバカのレッテルを貼られるのでは?
「皇大神が自ら出張って渡人と直接の対話機会を窺いたい。その辺が貴女の考えなのでしょう」
「うん」
「遍く神々に知れ渡った通り、神旨が破られたというこの状況下で、尚もそれを望むなら貴女はバカよ」
「む。そんなにバカバカ言わなくてもいいじゃん。何がどうバカだって言うの? 神旨の件だって神々に通知されただけで、世間一般に知れた訳じゃないでしょ? 前に招集をかけた時にも言ったけど、神々と渡人との間には断然対話が足りないんだよ。どんな問題だって先ずは話し合いから始める。私にとってはそれが基本なの」
「結構なことだわ。大いにね。何もその根幹に否を突き付けている訳ではないのよ」
「だったら――」
「但し、情を立てる前に状況をよく見なさい。問題なのは神旨の件よ。どこぞの神と渡人とで事を構えているのが現状。そのことがどこかで五つ帆の丸とやらの一件と絡んでいたなら、貴女のしようとしていることは火中の栗を拾いに行くようなものなのではなくて?」
謂わんとしていることは分かる。偶然が重なって、仮に夜刀ちゃんが言った通りの状況にあるのだとしたら、万が一には五つ帆の丸側が既にして敵対心を煽られ、私が望む友好的な接触など遠い夢の話。ケースとしては確かにあり得る。
「え、でも、そうなの? そんな予兆ってあります?」
戸惑って西風さんに問いかけると「可能性はあります」とのお返事。更に続けて、
「申し訳ありません。西風は皇大神の意に沿って事を運ぶつもりでいたのですが、優曇華宮の調査を進める話と、神旨破りの一件が前後した結果、そのまま調査を進めることについて夜刀様から厳しくお咎めを賜りました。その為、今は何よりも先に神旨破りの真相解明を急ぐべきかと、改めて提案させて頂きます」
大好きな夜刀ちゃんに叱られたのが響きました――。そんな口振りで西風さんが言うものだから、なんだか訳も分からず癪に触って、私は夜刀ちゃんを睨みつつ、語気を強めて言い返した。
「そのことだったらもう手は打ってあるよっ」
「あら、そうなの? 貴女にしては随分と早手回しね。それで、どう手を打ったと言うの?」
「全力で磯良ちゃんに丸投げした」
えへん、と胸を張ってやれば呆れ顔で目を瞠る夜刀ちゃん。その横で北風さんがくすりと笑う。
「磯良ちゃんが言うには、神旨の件は青海二宮の多比能姫? その線が強いみたいなの。だから青海のことなら磯良ちゃんだろうし、そこは責任を持って調べてねって頼んでおいた。押し付けた訳じゃないよ? 磯良ちゃんもちゃんと承知してくれたんだから」
「なるほどね。逆戟大岩の多比能と言えば木鐸たる親も持たない無頼の神。元より青海は海向こうばかり見て陸を顧みない神も多いことだから、その線は否定できるものでもないわ。磯良が調べると言うならそれはそれとして、だからと言ってその間に貴女が好き勝手動き回っていいということにはならないのではないかしら? そもそもが、皇大神が矢面に立つ危険を回避する為に、融和策の窓口役として北風を立て、その補佐に西風が付いた。そういう経緯だった筈だけれど?」
痛いところを突いて来た。全く以って仰る通り。私に何かあっては拙かろうと、プロジェクトの窓口は北風さん一任したのだ。
さて困ったぞ。別に私だって黒子役が嫌な訳じゃない。寧ろ目立たずに済むならそうしたいくらいだ。要は五つ帆の丸という、恐らくは融和プロジェクトの障害になり得る集団に対して、一歩前進という姿勢を取れるのであれば誰が陣頭に立とうと構いはしない。けれども、じゃあ誰がそのポジションに相応しいと言うのか。
「いないじゃん」
「なんですって?」
「だから、私以外の誰が積極的に渡人と対話して、解決の糸口を掴むかって言ったら、誰もいなくない? それどころか興味すら持ってなくない? 夜刀ちゃんは知らないかもしれないけど、忍火さんなんて五つ帆の丸のこと、西風さんから知らされてたのに何一つ調べてないって、そう私に言ったんだよ? 北風さんは北風さんで忙しいだろうし、だったら私と西風さんとで事に当たろうってなるのは極々自然な流れなんだけど?」
「そんな拗ねた物言いをするんじゃないの」
「拗ねてなんかないよ。私は夜刀ちゃんが今言ったように情を立てたいの! 対話を選んで真心を示したいんだよ」
「それはそれは大層立派な心掛けね。ところで貴女、今、忍火のことを口にしたようだけれど、なんですって? 何一つ調べていないですって? 冗談じゃないわ。あの娘がそんな底の浅い神だとでも? それこそ心外よ。あの娘は寧ろ私なんかと違って貴女に好きなようにやらせようという考えでいるの。言ってみれば貴女の一番の支援者じゃないの」
「え? そうなの? どの辺が?」
訳が分からない。おっとり屋さんの忍火媛を決し嫌いではないけれど、五つ帆の丸の件に関しては袖にされたような思いもある。その忍火媛が私の好きにさせようと言っているなら、今この状況では確かに追い風だ。けれども果たしてそこに支援者と呼べるような意図があるのかは私に分かることではない。
ただ、当て擦るような口を利いた私に腹を立てた様子を見るに、忍火媛に寄せる夜刀ちゃんの信頼には絶大なものがある。その点は強く感じ取れた。
「北風」
「はい」
夜刀ちゃんからバトンが渡って、銀縁眼鏡の奥に潜む藍色の瞳が動いた。
「皇大神がこの後、護解へ戻られ、優曇華宮をお調べになる。そうなれば護解を預かる忍火様がそれをよしとされる限り、例え夜刀様であっても否を唱えることはできません。今こうして諄々と諭すにしても、忍火様がそれを許す以上、残る決め手はただただ皇大神の胸一つと言うことになるのです」
つまり、忍火媛は私に決定権を握らせのだ。その観点から、忍火媛は私の決断を擁護し、支援する立ち場に収まると――。
有難いことだ。有難い反面、難しくもある。何となれば八大の要ともなる夜刀ちゃんの意向を曲げることになる。その決断を今この場でしなくてはならない。とはいえ、それでも私の意志は定まっていた。
「夜刀ちゃんごめん」
「ん?」
「前にも言ったけど、神様と人間とでは時間のスケールが違い過ぎるんだよ。人は目的を見据えて動き出したら本当に早い。だからこっちもそのペースに合わせて対応しないと遅きに失するって言うか、そういう不安が私にはあるのね?」
「それはまあ、分からないではないわね」
「うん。だから今度のことはやっぱり早め早めに手を打っておきたい。私と西風さんとで護解に行って優曇華宮を調べる。そうすればきっと向こうも何か手を打とうとする筈。そこで機会を狙ってどうにか話し合いに持ち込みたい。神旨破りの件は同時進行で磯良ちゃんに任せる。それじゃ駄目かな?」
「あ、そう。分かったわ。私もただ長生きをしていると言うだけで皇大神の決めたことに駄目を出すほど傲慢ではないもの。ならこれ以上言葉を重ねても徒労というものね。いいでしょう。何かあった場合の責任は、そうね。全て西風に取って貰うことにするわ」
あっさり承諾して矛先を変える夜刀ちゃん。西風さんは「何故ですかっ」と蒼白な顔で訴えるのだが、相手にする素振りすら見せない。罪な女だよ。
「皇大神、ここはやはり夜刀様のお言葉に従って――」
「ノー!」
意志が固いということもあったけど、私は何かと夜刀ちゃんを立てたがる西風さんを見たくなくて、素気無くピシャリと遮った。
言葉途切れの沈黙に夜刀ちゃんが二度手を打ち鳴らすと、何やら外陣の方で御簾が巻き上げられて、そこにひょっこりと現れたのは見知った面々。馬宮衆の石楠さんを始め、魔法使いのカルアミさん、調査員のカリューといったラインナップだ。
訳を尋ねると、話の行方次第では、と控えさせていたらしい。私は取り分け久しい石楠さんに駆け寄って、阿呼と放谷を交えて再会を喜んだ。
和気藹々と言ったムードになりかけたところへ夜刀ちゃんが加わって、先刻までの硬い表情こそ削げていたものの、今度は何やら疲れた面持ち。
「そういえば例の渡人の夫婦に会っておいたわよ」
「ん? なんの話?」
「なんの話って……。カルアミから聞いたけれど貴女、私に引き会わせると、あの夫婦に口約束したのでしょう?」
「あっ、レブと奥さんのことか! えっ、夜刀ちゃんレブと会ってくれたの? ありがとう! 喜んだでしょう?」
「あれを喜んだと言っていいのかどうか。夫婦揃ってカチンコチンになっていたわ。貴女はよかれと思って言ったのだろうけど、向こうにしてみれば有難迷惑だったのではなくて?」
「えー、そんなことある訳ないよ。会ってる最中はそうでも、今頃は飛び跳ねて喜んでるんじゃないかな? 今度会ったら聞いておくね」
「はいはい。そんなことより貴女、今からちょっと私に付き合いなさい。他の者は奥に移って今後の段取りでも相談しておくことね。手始めにきっちりと決め事をしておかないと、後々首刈に引きずり回されて痛い目を見ることになるわよ」
なんてことを言うのだ。人を祟り神みたいに。




