CASE2 異界箪笥 1/4
――夢を見た。何だか懐かしい気持ちになる夢だった。
第三者視点じゃなくて自分の目線から見た光景で、目線の高さは普段の半分くらい。夢の中で子供に戻っていたのか、それとも小さくなっていたのかはよく覚えていない。
とにかく、夢の中の私は小さな体でロータスポンドの店頭を探検していた。夢なので記憶は曖昧だけど、とてもわくわくして楽しかったのは覚えている。
夢の終わり方はどうだったかな。確か、女の人が私の名前を呼ぶ声がして――
「……ふあ……」
あくびをしながらベッドからのっそりと降りて、寝ぼけ眼のまま朝の準備をする。この新しいベッドにも慣れてきて、もうすっかり熟睡できるようになってきた。
私が古道具屋で住み込みの仕事を初めてそろそろ一週間。覚えることばっかりで何かと忙しい日々を送っている。
といっても、まだ特別なことは何も教わっていない。教わったのはレジの扱いに、商品の陳列の仕方に、簡単なクリーニングのやり方に、出張業務の受け付け方に……どれも普通のアンティークショップと変わらない作業ばかりな気がする。
もちろんアンティークショップで働くのはこれが生まれて初めてなので、本当にどこでもやっていることなのかは分からないけれど。
「今日は倉庫の整理を教えましょう。一度に全部を覚える必要はありませんから、大まかな物の配置だけを頭に入れるつもりでいてください」
朝食を頂いて勤務時間が始まったところで、蓮池さんが今日の予定を伝えに来た。
蓮池さんの教え方は丁寧で、そしていつも急がず焦らずだ。
一気にたくさんのことを押し付けてきて混乱させてくることもないし、覚えが悪いからといって怒鳴ることもない。初日みたいにとりあえずやってみろと言うことはよくあるけど、できなくても怒ったりはしない。
「倉庫と言っても、一階の片隅を改装した大きめの物置のようなものでして。手前の方には普通の商品が、奥の方にはマルトクが置いてあります。商品を補充するときにはここから出していきますが、品出しの前には念の為のクリーニングをお願いします」
「はっ、はい!」
「もちろん、ここに置く前にもクリーニングはしておきます。ですがしまっている間に溜まった埃や、ついてしまった汚れなどは落としておかないといけませんからね」
そうやって、倉庫のスペースの使い分けや重い商品の取り出し方を順番に教わっていく。
ふと、私は倉庫の奥のマルトク用スペースに置かれた和箪笥に目を留めた。
どこかで見覚えがあると思ったら、アレだ。ロータスポンドを訪れた最初の日に買い取られてきたマルトクだ。一体どこに行ったんだろうと思っていたら、こんなところに収納されていたのか。
「綾香さん。あの箪笥が気になりますか?」
「え? えっと、少しだけ……」
「前にも軽く説明しましたが、あれは乙種分類のマルトクです。乙種分類の定義は覚えていますか?」
「練習さえすれば誰でも安全に扱える……ですよね」
私がそう答えると、蓮池さんは満足そうに頷いた。
「正解です。裏を返せば、使い方を習得していない人には扱えないということでもあります」
それはきっと、あのときの私と同じように。
いま思い出しても本当に不思議な体験だった。引き出しを引っ張ってみただけで、水で薄めたミルクのような靄で満たされた江戸時代みたいな内装の建物の中に連れて行かれてしまったのだから。
あのとき出くわした着物姿の子供の顔は、どんなに頑張っても思い出せない。何を言っていたのかも記憶にない。私をどこかに案内しようとしていたような気がするけど、森久保さんが引き止めてくれなかったら、私は一体どうなってしまっていたんだろう。
そして何よりも不思議なのは、あんな奇妙な体験をしたというのに、これっぽっちも怖くないことだった。
「はい、分かってます! なるべく近付かないようにしますので!」
「僕としては、綾香さんには乙種分類の扱い方も身に着けて頂きたいと思っているんですけどね。甲種取扱資格の取得には講習会に参加する必要がありますけど、乙種までなら資格は必要ありませんから」
「講習会まであるんですか……意外とマルトクって広く知られてたりするんですね……」
「いえいえ。専門業者は全国で数百人程度ですよ」
個人的にはそれでも十分多い気がする。全国で五百人としても、都道府県ごとに平均十人以上はいる計算だ。
「うん、いい機会です。綾香さん。あの箪笥の使い方を教えましょう」
「えっ! ま、まだ早いです! 心の準備が!」
「大丈夫ですよ。習得が難しいなら乙種分類にはなっていませんから。実はこれ、一番右上の引き出しの取っ手に秘密がありまして。取っ手の金具が斜めに傾いているでしょう? これをですね……」
蓮池さんが箪笥の取っ手に手をかけようとしたところで、店の方から雪枝さんの呼ぶ声が聞こえてきた。
「正蔵さーん。お客さんがお呼びですよー」
「おや、どなたでしょうね」
小首を傾げながら、蓮池さんは倉庫を出て店舗の方に向かった。もちろん私もそれについて行く。倉庫で待っていても何もすることがない。
店舗でのレジ業務は雪枝さん一人でも問題なく済ませることができる。蓮池さんを呼ぶ理由があるとしたら、雪枝さんだけでは持ち運べない商品を運ぶ手伝いを頼むときくらいだけど、今日は森久保さんが出勤しているからその必要もない。ロータスポンドで一番の力持ちは森久保さんだ。
というか、それなら「お客さんがお呼び」なんて言い方はしないわけで。お客さんが蓮池さんを、つまり店長を指名して呼び出したことになる。
「お待たせしました。店長の蓮池です」
「忙しいところ申し訳ありません。以前、祖父の遺品をロータスポンドさんにお売りしたのですが、それについてお尋ねしたいことがあるんです」
その人は私よりも少し年上の若い女の人だった。服装も髪型も落ち着いた雰囲気で、表情からどことなく憂鬱そうな印象を受けてしまう。
「と、言いますと」
「葬儀の後になって初めて分かったのですが、祖父は誰かと文通をしていたようなんです。なので文通相手の方にも祖父の訃報をお伝えしようと思ったんですけど、送り先が分からなくて。お売りした家具の中に、その、送り先の手がかりになるものは紛れ込んでいなかったでしょうか」
「送り先、文通の宛先ですね。つまり、受け取っていた手紙には差出人が書かれていなかった……ということでしょうか。もしくは封筒が処分されていたとか」
女の人はこくりと頷いた。言われてみれば確かにそうだ。お爺さんが受け取っていた手紙に相手の住所氏名が書いてあるのなら、それ自体が何よりの手がかりになる。
遺品を売った店にわざわざ問い合わせに来たのは、差出人の個人情報が分からなかったからに決まっている。
「宛先のメモ書きが箪笥の隅にでも紛れ込んでいるんじゃないか、と……。こちらが手紙の現物の一部です。何かの参考になればと思って持ってきました」
「拝見します。ふむ……なかなかに達筆ですね。文通相手は若い方ではなさそうだ」
私も蓮池さんの肩越しにこっそり手紙を覗き見る。何とも時代がかった手紙だった。時代劇とかで見る手紙のように、横長の紙を折り畳んで別の紙で長方形に包んでいる。
書かれている文字も凄く崩されていて、現代人の私にとっては『読む』というより『解読する』必要があるレベルの代物だ。
「……ご家族の方で、手紙の内容を読めた方は?」
「いいえ、誰も。これが文通だと分かったのは、祖父が亡くなる直前に、看護師の方に『封筒を届けてくれ』と伝えたからなんです。書斎の机の一番上の引き出しに入っている封筒を、と……その引き出しの中に、宛名のない封筒が一通と、この手紙が山ほど入っていた……というのが経緯です」
「なるほど。御祖父様が届けてほしいと言っていた封筒にも、手がかりはなかったのですね」
依頼主の女の人はさっきと同じようにこくりと頷いた。
誰に届ければいいのか教えずに頼むなんて……と思ったけど、よくよく考えれば『亡くなる直前』の出来事なのだから、意識が朦朧としていたとしてもおかしくない。
ひょっとしたら、最期の力を振り絞ってどうにか伝えたのかもしれない。そう考えると、手紙を届かずじまいにさせたくないという依頼主の気持ちも分かる気がした。
「書きかけだったせいか宛名は書かれていませんでしたし、中身もその手紙と同じような書体だったので読むこともできませんでした……。そうだ、何かの参考になればと思って、祖父の書いた手紙のコピーも持ってきています」
「お預かりします。とにかく、当店が買い取った品の中に手がかりがないか探してみましょう。結果はお電話でお知らせしますので、連絡先をこちらの用紙にお願いします」
「ありがとうございます……」
そうして蓮池さんは一旦帰宅する依頼主を店の外に送ってから、私達に作業の指示を飛ばした。
「森久保くんは例の乙種の和箪笥の中を調べてみてください。雪枝は店番を、綾香さんは普通の物品の方をお願いします。先週の出張買取の品はどこか分かりますね? 丙種分類の方は僕が見てみましょう」
「了解ッス」
「はいはい、任せてくださいね」
「あ、あのっ。蓮池さんっ」
雪枝さんと森久保さんがすぐに作業へ取り掛かる中、私はどうしても質問を投げかけずにはいられなかった。
「乙種の和箪笥って、もしかして」
「ええ。先程のマルトクです。さっきの方は、綾香さんが来た日に軽トラで持ち帰った品の持ち主のお孫さんですよ」
予想外の偶然に少しだけ驚きながら、私も手がかり探しに取り掛かることにした。
先週の買い取り分がどこに置いてあるのかは既に教わっている。まずはもう商品として陳列してしまったものから確認だ。商品に蓋があれば開けてみて、隙間があれば覗いてみる。
それでもメモ用紙の一枚すら見つからない。小物入れが二重底になっていないかもチェックしてみたけれど、それらしきものは見当たらなかった。
「店頭は空振り……っと」
次はまだ商品になっていないもの、つまり倉庫にしまってある分の確認だ。ついさっきまで蓮池さんと一緒にいた倉庫に戻り、先週買い取った物を順番にチェックしていく。
アンティークっぽい品々に混ざって分厚い専門書のようなものが何冊も入っている。現役時代の仕事道具だろうか。ジャンルは多分、言語学とかそのへん。
ロータスポンドではこういう古本も売るんだろうか。ちょっと不思議に思ったけど、よく見ると『高橋古書店さん行き』と書かれた付箋が貼り付けてあった。どうやら他の専門店に転売する予定らしい。
もう少しで確認が終わりそうになったところで、私はふと妙なことに気がついた。
倉庫に私しかいない。今まで気が付かなかったけど、これはおかしい。
だって、さっき森久保さんは『例の乙種の和箪笥』を調べるように指示されていて、その和箪笥は私の目と鼻の先にあるのだから。倉庫に森久保さんがいないのはおかしいじゃないか。
そう思った矢先、例の箪笥のある方からゴトンと重い音が鳴った。
「ひゃっ!?」
一番右上の引き出しが、ガタガタと音を立てながらひとりでに開いていく。突然のホラー現象に固まる私の目の前で、引き出しがあっという間に半分ほど開いていって、そこでピタリと動きを止めた。
次の瞬間、視界全体が眩しくて白い光に包み込まれた。