CASE5 アイリスの花 3/3
そしてあっという間に時は過ぎ、次の日曜日がやって来た。
今日は出張査定や配送の予定も入っていないので、店番は私以外の三人全員。だから何の心配もなく朝から出発することができた。
お母さんのお墓は、市街地を一望できる街外れの霊園にある。自転車で普通に行ける距離だけど、まずは花屋さんで注文しておいた花束を受け取ってから。やっぱりお墓参りはこれがないと始まらない。
用意してもらったのは紫色の花びらが鮮やかなアイリスの花束。お墓参りの定番からは外れていると思うし、一種類だけというのも変に見えるかもしれないけど、私達の場合はこれでいいのだ。
「よしっ、登るぞっ!」
気合を入れて、霊園まで続く坂道を自転車で登り始める。お父さんと一緒に行っていた頃は車に乗せてもらっていたから楽々だったけど、今日は自分の体力だけが頼りだ。
引きこもってた時期の私なら、きっと数分で心が折れていただろう。
左手に街の風景を見下ろしながら坂道を走り続ける。これまでは車の窓越しに眺めているだけだった場所を、自分の力で走っているという感覚は、何だか少し不思議な気分だ。
「もう、ちょっとー……!」
最後のひと押しで両脚に力を込める。立ち漕ぎなんてしたのは何年振りかな。案外やり方を覚えているものだ。全身に溜まっていく疲労感も何だか心地良い。
思えば去年は仕事で忙殺されていて霊園まで行くことができなかった。今年はちゃんとその埋め合わせもしておかないと。
「……着いっ、たーっ!」
到着だ。この街で一番空に近い場所の空気を胸いっぱいに吸い込む。
しばらくそうやって息を整えてから、霊園の駐車場の隅に自転車を停めて、花束を抱えてお墓の方に向かおうとする。
その途中、駐車場に停まっていた二台の車に目が留まった。離れた場所に停められている二台の車――どちらにも見覚えがある。同じ車種という偶然かもしれないけれど――
「まさか……」
私はお母さんのお墓に直行するのを止めて、少し遠回りをして近付くことにした。私が想像したとおりなら、きっとあの二人が来ているはずだから。もしもそうなら邪魔なんて絶対にできない。
霊園の中をぐるりと遠回りをし、入口とは反対の方向からお墓に近付いて、木の陰に身を隠して様子をうかがう。
やっぱり、私の想像は間違っていなかった。
お父さんと蓮池さんが、お母さんのお墓の前にいた。二人は決して向かい合わず、お父さんはお墓のすぐ前に立つ蓮池さんに背を向けて佇んでいる。
ロータスポンドの店番は雪枝さんと森久保さんに任せて来たんだろうか。私が出発したときにはまだお店にいたはずだけど、花屋に寄っている間に追い抜かれたんだろうか。
色々な考えが頭に浮かんでくるけれど、今はそれどころじゃない。
「お久しぶりです、先生」
「晴海君こそ元気そうで何よりです」
辺りがしんと静まり返っているおかげで、二人の会話が私のところにまで届いてくる。
お父さんの声はいつものように無感情な響きで、蓮池さんの声はいつものように落ち着いている。差し障りのないやり取りのはずなのに、どことなく距離を感じずにはいられない。
「綾香はちゃんと働けていますか」
「ええ、それはもう。辞めたいと言われたら拝み倒してでも引き止めたくなるくらいですよ。前職が長続きしなかったというのが不思議なくらいです」
「家族と過ごしているのと変わらないからでしょうね。子供の頃に何度もお邪魔していたんでしょう」
「おや……ご存知でしたか」
昔、お母さんは幼い私をロータスポンドに連れて行ってくれていた。お父さんには内緒だよと言い含めて。もうその理由は聞けないけれど、想像はできる。けれどお父さんは気付いていたんだ。
「あれからもう十四年、早いものです。綾香さんは僕のことを覚えていなかったようですが、僕は一目で分かりましたよ。若い頃の綾芽と瓜二つだったんですから」
自分でもあれには驚いた。銭川さんの家で見せてもらったお母さんの写真は本当に私とそっくりだったのだから。
いつも見慣れていた遺影はそれより何年も後の写真。だから似ている度合いも親子らしさの範疇で、今まで意識することはなかったんだ。
「全くです。だから私は、危うく親として道を踏み外しかけるところだった」
お父さんは抑揚の少ない声色のまま、うっすらと後悔の色を滲ませている。
「綾香は年を経るごとに綾芽とよく似ていった。そうなるにつれて、綾香が家を出ていくことが恐ろしくなりました」
「娘を手放したくないのは男親の性でしょう」
「だといいのですが」
会話を交わしている間、お父さんと蓮池さんは決して顔を合わせようとしなかった。まるでそれが最後の一線だと言わんばかりに。
「綾香が職場に馴染めず退職したとき、私は可哀想に思うのではなく嬉しく思ってしまいました。これでずっと手元に置いておける……綾芽を二度も失いたくはない……本当に身勝手な、恐ろしい考えです」
「けれど君は、彼女に働く場を用意した」
「だからこそです。綾香への荒療治の体裁を取ってはいましたが、実のところは私自身への荒療治だったのでしょう。他でもない先生の店を選んだことも含めて」
心臓が破裂しそうなくらいに暴れている。見てはいけないものを見ているようで。聞いてはいけないことを聞いているようで。
知らなかった。分かった気になっていた身近な人の心の奥底を、覚悟もなく覗き見してしまうことが、こんなに激しく心を乱すなんて。
「晴海君。その話は綾香さんに聞かせてあげるべきだと思いますよ」
「今更、どの面を下げて」
「僕は十四年前に済ませました」
蓮池さんはお母さんの墓前を離れ、お父さんと背中を向き合わせた。
「綾芽が離れていくことは本当に苦痛でした。ましてや相手は、かつて意見を違え袂を分かつことになった君だった。まさか自分があんなにも子供じみていたとは思いませんでしたよ」
「十四年前……」
「はい。綾芽は綾香さんを連れて何度となく足を運んでくれました。そうしているうちに心の底から理解できたんです。綾芽は自分なりの幸せを掴むために私の元から巣立っていったのだと」
そして蓮池さんは歩き出す。お父さんと顔を合わせることもないままに。
「僕の場合は少々遅すぎました。ですが君は違う」
「…………」
「いつでもロータスポンドに来てください。綾香さんもきっと歓迎してくれますよ。預かり物も預かったままですしね」
蓮池さんが霊園からいなくなってしばらくの間、お父さんは何も言わずにお母さんのお墓を見つめ続け、やがて無言のままその場を立ち去った。
私は全てを見届けた後で、さっきまで二人がいた場所に立った。
お墓には花立いっぱいのアイリスの花。どれもついさっき入れられたばかりの新鮮さだ。
「なぁんだ。考えることはみんな同じか」
不思議と笑みがこぼれてしまう。
前に『血は争えない』なんてしたり顔で言ったことがあるけれど、その言葉が私達にも思いっきり跳ね返ってきた。お母さんもあっちで苦笑いしてるんじゃないだろうか。
私は十輪差しの花束を墓前に置いて手を合わせ、心の中でこれまでの出来事を満足するまで話し続けた。
ロータスポンドで働くようになったこと。
マルトクという物があると初めて知ったこと。
蓮池さんと一緒に箪笥の向こうの人達と文通を始めたこと。
年下の子達とも仲良くなって、顔馴染みの店員さんになんてモノになれてしまったこと。
同じ秘密と経験を共有した友達ができたこと。
話したいことが多すぎて、どれから話そうか迷ってしまうくらいだった。
霊園でやりたかったことを全部やり終えた頃には日が落ちかけていて、自転車で坂道を駆け抜けてロータスポンドに着いたときにはすっかり夕暮れを迎えていた。
今回は裏口からじゃなくて、あえてお客さんと同じように正面の扉からお店に入る。
「いらっしゃい。おや、綾香さんでしたか。お帰りなさい」
「ちょっと荷物を取りに寄っただけです。またすぐに出ますから」
カウンター越しに、待機用の椅子に座った蓮池さんの前に立つ。そしてバッグから一枚の紙片を取り出して、蓮池さんに差し出した。
その紙を目にした瞬間、蓮池さんの顔が驚きに染まる。
「注文の品を取りに来ました。期限、すっごく過ぎちゃってますけど……大丈夫ですか?」
ロータスポンドのロゴが印刷された商品引換券。取り寄せを頼んだ商品を受け取るための証明書だ。
引換予定日は十四年前の今日――名義は三船綾芽。
先週、家に戻ってお母さんの古い運転免許証を見たとき、一緒に見つけたのがこの引換券だ。お母さんはこれを財布に入れて、商品を受け取るために車でロータスポンドに向かっている途中で事故に遭った。
それから十四年。遂に使われることのなかった引換券がここにある。本当にその商品が残っているのか、確証はなかったけれど――
「……ええ、もちろん預かっておりますとも」
感極まったように漏らした言葉。それを聞いただけで、蓮池さんが全てを理解したと分かった。
蓮池さんは一度店の奥に入ってから、小さな包みを大事そうに持って戻ってきた。包み紙はずいぶん古くなっているけれど、汚れないよう大切に保管されていたのが伝わってくる。
「いつか渡さなければと思っていた預かり物……君なら、いえ、君だからこそお渡しします」
「……私は中身を知らないんです。喜んでもらえるでしょうか」
ねぇおかあさん。おとうさん、よろこんでくれるかな。
私が最後にお母さんへと向けた言葉。お母さんが最期に聞いた言葉。その返事はきっと。
「綾芽が選んだ贈り物です。喜んで頂けるに決まっています」
「凄い説得力。そんなのもう信じるしかないですね」
贈り物を受け取ってカウンターを離れようとしたところで、隅に置かれていた造花の束が目に入った。
「そうだ。これ一輪、貰ってもいいですか?」
「ええ、もちろん」
「ありがとうございます。それじゃあ……行ってきます」
行ってきます――その言葉を聞いて、蓮池さんは優しく微笑んだ。
ロータスポンドを出て自転車にまたがり、力強くペダルを踏む。進むルートは、私とお母さんが何度も行き来した裏通り。
道端に供えられた一輪の花の前を駆け抜けて、捕まったら長くなる交差点をタイミングよく青信号で通り過ぎ、思い出の中をまっすぐ前を向いて走り続ける。
振り向いたりはしない。俯くこともない。涼やかな黄昏の風がただただ心地良い。
やがて私はマンションの前に到着し、自転車を置いて迷うことなくかつての我が家へ駆け寄った。
鍵はポケットにしまったまま、インターホンを軽やかに鳴らす。
後ろに回した右手にはお母さんから預かった贈り物。左手には決して枯れることのないアイリスの造花。お父さんが扉を開けて出てきたら、十四年越しのハッピーバースディを伝えよう。
扉の向こうで、内鍵の外される音がした。