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CASE5 アイリスの花 2/3

 次の日、私はその日が一週間に一度のシフトのない日であることを利用して、自転車で少しだけ遠出をすることにした。


 といっても観光に行くわけじゃない。歩いていくにはちょっと心が折れそうになるところまで足を運ぶだけで、目的地そのものはよく見知った場所である。


 移動ルートの候補は二つ。大通りを通るルートと裏通りを通るルートだ。まず、ロータスポンドから目的地までの往路は大通りルートを通ってみることにする。


「……よしっ!」


 ペダルをこいで加速すると、初夏の風が爽やかに髪をなびかせる。引きこもり気味だった時期にはめったに感じることのなかった気持ちのよさだ。


 こんなに気持ちがいいのなら、もっと前からやっていればよかったと思わずにはいられない。


 今日は土曜日。学校やそこそこの数の会社が休みになっている日なので、交通量はそれなりに多い。だけど最近拡張工事が済んだばかりの道路だからか、自転車でもかなり走りやすかった。


 大通りを走り、商店が並んでいるエリアを駆け抜けようとする。その途中、見知った顔が視界の隅に映ったような気がして、思わずブレーキを掛けてしまう。


「ありがとうございましたー!」


 花屋の店先で元気に接客をしている、エプロン姿の女の子。何だか見覚えがあるなと思ったら、それもそのはず、以前のパワーストーンとレコード探しの件で知り合った高校生カップルの彼女の方だった。


 個人的になかなかインパクトのある一件だったし、あの後もよく店に来てくれているので、制服姿じゃなくても見分けが付くくらいに顔を覚えていた。


 その子は店先の路肩に停まった自転車に――つまり私に目を向けると、ぱあっと明るい笑顔を浮かべた。


「あっ! ロータスポンドの!」

「こんにちはー。いつも来てくれてありがとね。ここでアルバイト?」

「私の(うち)なんです。親の仕事のお手伝いって奴ですよ」

「そっかぁ、なるほどね」


 自転車を片隅に停めて花屋に入ってみる。その瞬間、色んな花の香りが混ざりあった濃厚な匂いが胸いっぱいに飛び込んできた。


「花屋さんってあんまり来たことないけど、何か凄いね……鮮やかすぎてくらくらしそう」

「何か買っていきます? サービスしちゃいますよ。親に内緒で」

「内緒はマズいんじゃないかな……。あとこれから行くとこあるから、生の花はちょっと難しいなぁ」

「予約とかもできますよ」


 そんな会話を交わしながら、陳列されている色とりどりの花を眺めてみる。


 このお店は目的地じゃないけれど、そもそも急ぐような用事でもない。少しくらい寄り道しても別にいいのだ。


 ふと紫色の綺麗な花が目に留まる。茎が細くてまっすぐで、花びらはシンプルな色合いで薄く柔らかい。


「ねぇ、これが欲しいんだけど、日曜日に取りに来るっていうのは大丈夫? あ、日曜って言っても明日じゃなくて来週の方ね」

「もちろん! アイリスですね。どんな感じで包みます?」

「んーっと、花束じゃないから十本くらいを新聞紙で。代金は今払っちゃうから」


 予約の手続きと支払いを済ませながら、前々から気になっていたことを質問してみる。


「ところで、進路の方はどうしてるの?」

彼氏(アイツ)が受ける芸大の近くで一番スポーツが強いところを狙う予定です。お互いに、好きなことも好きな人も諦めたくないですから。もしもどっちかが失敗しても、そのときは遠距離恋愛上等です!」


 そう言って笑った顔は、とてもキレイに輝いていた。


 注文を終えて花屋を後にして、再び大通りを自転車で駆け抜ける。何だか元気を貰った気分だ。これから向かう先は少し気持ちが重くなる場所なので、この後押しが本当に勇気を与えてくれた。


 ――たどり着いた先はとあるマンション。ここには私が数ヶ月前まで暮らしていて、そして今もお父さんが暮らしている自宅がある。お父さんの仕事は土曜日も出勤なので、今は誰もいないはずだ。


 駐輪場に自転車を停め、もう何ヶ月も使っていなかった鍵で玄関の扉を開ける。


 玄関の向こうは懐かしい匂いで満たされていたけれど、ホームシックのようなものは感じない。『ただいま』と言うつもりもない。知りたいことを調べるために足を運んだだけなのだから。


「えっと……多分、ここかな……」


 半分くらい空き巣気分で家の中を物色する。でも本気で泥棒と間違えられたら大変だから、調べたところはちゃんと元通りに戻しておくことを忘れない。


 お母さんの写真が入った写真立て――銭川さんの家で見せてもらった写真と比べると、やっぱり少し大人になっている。


 お父さんの部屋の奥に、大事に大事にしまい込まれた古い箱。開けられないだろうかと思って調べてみて、鍵穴もないのに開かないことに気がつく。


 ああ――私はこの道具(マルトク)を知っている。開け方もよく知っている。必要なのは合言葉(パスワード)を告げることだけ。


「……綾芽」


 かしゃん、と音がして小箱の鍵が外れる。


 正解だ。予想は大当たり。けれど嬉しさは感じなかった。代わりに何か熱いものが喉の奥から目元にまでせり上がってきて、こぼれ落ちるのを堪えるので精一杯だった。


「もう、何でほんとに……開いちゃうかなぁ……」


 慎重に丁寧に、箱の中のものを確かめていく。その間ずっと、視界が絶え間なく滲んでいて、本当に困る。


 ロータスポンドに来た初日に開けた箱とおんなじだ。中身は特別なものなんかじゃない。お母さんが当たり前に使っていたものばかりで、本人が見つけたら迷わず捨ててしまいそうなものばかり。


「……あった」


 赤黒い跡がこびりついた女物の財布。もう視界がぐしゃぐしゃでどうしようもなかったけれど、財布の中から穴の空いた免許証をどうにか見つけ出して、その名前を確認する。


 免許証に空いた穴は再発行された後の古い方の証明。この場合はきっと、結婚して名字が変わる前の免許証。


 ――蓮池綾芽。


 そこには思っていたとおりの名前があった。更に表面の住所はロータスポンドの所在地で、裏面に記載された新しい住所はこのマンションのものだった。


 決まりだ。私の想像は正しかった。だからお父さんは蓮池さんに会おうとしなかったんだ。


 財布を箱にしまおうとして、ふと一枚の紙片が挟まっていることに気がついた。大きさはレシートくらいだけどレシートじゃない。そもそも十四年も経ったら感熱紙の印刷はとっくに消えてしまっている。


 きちんとした紙にきちんとした印刷、そして流暢な筆跡の記入。私は思わずそれを財布から抜き取った。悪く言えば魔が差してしまったのだ。


「……帰ろう……」


 調べたかったことは全て分かった。長居してお父さんと出くわしたくはない。動かした物は全て整頓してから家を出て、自転車のペダルを漕ぐ足に力を込める。


 帰り道は予定通りに裏通りルートだ。風を切って走っているうちに、今まで忘れていた思い出がどんどん蘇ってきた。


 私はお母さんが運転する車に乗せられて、この道を通って何度もロータスポンドに行ったんだ。お父さんには内緒だよと言い含められて、ロータスポンドの店先の香りが無意識に焼き付くくらいに何回も。


 次の交差点の信号は待ち時間が長かった。暇を持て余した私が車のCDプレイヤーから聞こえる曲に合わせて歌うと、お母さんも声を揃えて歌ってくれた。


 そしてもうすぐロータスポンド。道端にはアイリスの花が一輪だけ差された小さなビン。私はこれ以上自転車を漕いでいられなくなって、思いっきりブレーキを掛けた。


 ここがお母さんの事故現場。中央線を越えてきた対向車とぶつかって、私だけが半分に潰れた車から助け出された。そして、これまでの思い出に都合よく鍵をかけた。


 ロータスポンドまでの後少しの距離を、自転車を押しながら歩いていく。裏通りなので通行人がいないのは助かった。こんな顔、知らない人には見せたくない。


「……ただいま」

「おう、おかえ……りぃ!?」


 正面入口ではなく裏口から蓮池さんの家に入ると、家事の手伝いをしていた森久保さんが凄い顔で驚いた。


 森久保さんは大慌てで奥に引っ込むと、何やらばたばたと騒がしく駆け回って、温かい濡れタオルを持って戻ってきた。


「とりあえず顔拭け! どうしたんだよ、何かあったのか?」

「いえ、大丈夫です……ちょっと感極まっただけですから」

「感極まったって……泣ける映画でも見てきたとか?」


 濡れタオルを顔に当てて、温かさを顔いっぱいに感じ取る。森久保さん、あんなに慌てていたはずなのに、冷水じゃなくてわざわざお湯で温めてくれたんだ。


 特に酷いことになっていたであろう目元と頬を重点的に拭って、さっぱりした顔で森久保さんに向き直る。


「ありがとう、ございます。ちょっと落ち着きました。蓮池さんと雪枝さんは?」

「店長は買い出し、雪枝さんは店番。ていうかほんとに大丈夫なんだろうな。ヤバい隠し事とかナシで頼むぞ?」

「ほんとのほんとに大丈夫ですよ。あ、でもできたら、二人には内緒にしててください」

「……何で」

「恥ずかしいからですけど。今こうやってノーメイク見られてるより」


 冗談っぽくそう言うと、森久保さんは何とも言えない表情をして顔を背けた。


「……本当に、大丈夫ですから。ずっと気になってて、いっそ本人に聞いた方がいいのかなって思ってたことが、今日やっと解決しただけなんです。そしたら涙腺が緩んじゃって」

「ああ、それか。事情は知らないけど、まぁ良かったんじゃないか?」

「はい……でもなんて言ったらいいのかな。知りたかったことが分かったのに、やっぱり何も出来ないんだなっていうか、何だか割り切れないなっていうか……」


 知りたい――そんな思いから行動を起こしたのだから、私としては大成功のはずだ。それなのに何故か胸の奥のざわつきが止まらない。


 十四年前の出来事を思い出し、お父さんと蓮池さんがずっと抱いていた思いの一端を知ることができた。けれどそれだけだ。過去の出来事は変えられないし、私には何もすることができない。


 こんなことになるなら知らずにいた方が良かったんだろうか。そんなことまで思い始めた矢先に、森久保さんがいつもの調子で意外な言葉を投げかけてきた。


「別にいいんじゃねぇか? 今はそれでもさ」

「え……?」

「今日や明日にでも解決しなきゃいけない問題ってわけじゃないんだろ。だったら、待てば海路の日和あり、だ。今は無理でも、時間が経ったら状況が変わるかもしれないんだからな」


 なんて豪快な問題の先延ばしなんだ。けれど確かに、森久保さんの言う通りかもしれない。


 急ぐ必要なんかどこにもない。焦ることに意味なんかない。ひょっとしたら、いつか解決のチャンスが転がり込んでくるかもしれないのだから、そのときに拾ってしまえばいい。


 問題の解決にはなっていないはずなのに、不思議と気持ちが軽くなっていく。両肩にのしかかっていた重しを力尽くで降ろされた気分だ。


「第一、お前って最初はこんなキャラじゃなかっただろ? 絶対に顔見て話さなかったし、露骨に俺から距離とってたしな。怒鳴ったら吹っ飛んで消えちまうんじゃないかと思って、ひやひやしながら相手してたんだぞ」

「そ、そうかもしれませんけど、これって今の話と関係あります?」

「あるある。大ありだ」


 森久保さんはひとしきり笑ってから、口元だけはにやりとさせたままで隣の私に視線を向けた。


「あんなお前がほんの何ヶ月でこんな風になるんだから、状況なんてのはもっとコロコロ変わるに決まってるだろ。タイムリミットがあるっていうなら話は別だけど、そうじゃないならゆっくりやればいいんだよ」

「……森久保さんもけっこう変わりましたよね。最初は私にも敬語とか使ってた気がしますけど」

「お前なぁ。あんな小動物相手に素で接したらショック死されるかもしれないだろ」

「森久保さんの中の私ってそんなに貧弱だったんですか」


 こうやって難しいことなんか考えずに話していると、だんだん気持ちが軽くなっていく。


 急がず焦らず。お父さんのことも、お母さんのことも、蓮池さんのことも、私なりのペースで受け入れていけばいい。


「あらまぁ、お帰りなさい」


 お店の方から雪枝さんがひょっこりと顔を出し、ふんわりと柔らかい笑顔を浮かべた。


「さっきあの人も帰ってきたから、お店を任せて休憩しようと思ってたところなの。せっかくだから一緒にお茶でもしましょうか」

「はい! あっ、手伝いますね!」


 来週の日曜日はお母さんの命日だ。お供えの花も注文してあるし、これまでのことを報告しに行こう。蓮池さん(おとうさん)とも雪枝さん(おかあさん)とも仲良くしていますって伝えに行こう。きっと笑って話せるはずだから。

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