CASE1 鍵のない小箱 1/3
「はぁ……」
今日何度目かの溜息を吐きながら、お父さんに押し付けられた地図を頼りに、土地勘のない町を歩き続ける。三月の空はとても青くて暖かいのに、私の心は暗くて寒々しい。
ついに恐れていたことが起きてしまった。
事の始まりは、私が実家の家事手伝いとして過ごし始めた頃にまでさかのぼる。
高校を卒業してすぐに就職したものの、人付き合いが苦手過ぎた私は全く職場に馴染めず、ほんの数ヶ月で逃げるように退職した。
そして今から数日前。家事手伝いライフの快適さからすっかり抜け出せなくなっていた私に、お父さんは一通の紹介状を渡してきた。なんと、お父さんの古い知り合いが経営するお店が私を雇ってくれるというのだ。
しかも住み込みの仕事だ。給料は安いけれど、その代わり家賃や食費の心配は一切しなくていいらしい。これが自分のことじゃなかったら、凄い好条件だと無邪気に笑っていたかもしれない。
もちろん迷った。人付き合いで挫折して逃げ出したくせに、住み込みの仕事なんかやっていけるわけがないと思った。
けれど、お父さんが頼み込んでくれたんだというのはすぐに分かったし、ダメな娘だという自覚はさすがに痛いほどあったから、嫌だと言うこともできなかった。
男手一つで育ててもらっておきながら、そこまで堂々と開き直れる度胸があるのなら、最初から何の苦労もしていないのだから。
「この角を左……かな」
自宅から目的地までの距離は、徒歩なら心が折れるくらいで自転車なら気合を入れれば大丈夫、車なら少し時間が掛かるかなと感じる程度。今日は途中までバスを利用してやって来た。
最低限の荷物を詰め込んだキャリーバッグを引きずりながら、最後の曲がり角を通り過ぎる。これ以外の荷物は既にお父さんの手で仕事先に送られている。つまり私にはもう逃げ場がないわけだ。
少しだけやってみて、ダメそうだったらすぐに辞めよう。私は自分にそう言い聞かせながら、目的地の建物の前で立ち止まった。
「え……ほんとに? リサイクルショップって聞いてたけど……」
そのお店は、洋風の古い民家としか表現のしようがない見た目をしていた。
洋館というほどの大きさじゃなくて、二階建てでコンパクトな普通の家だ。どう見てもリサイクルショップとは思えない。ひょっとして場所を間違えてしまったんじゃないかと不安になって、紹介状をもう一度チェックしてみる。
「古道具屋、ロータスポンド。やっぱり合ってる……もしかして、古道具屋ってリサイクルショップじゃなくてアンティークショップってこと?」
玄関先の洒落た看板にも『LOTUS POND』とハッキリ書かれている。目的地はここで間違いないらしい。
今すぐ逃げ出したい気持ちを必死に抑えながら、ロータスポンドのドアに手をかける。小さなベルがカランカランと音を立て、不思議と懐かしさを感じる香りが私をふんわり包み込んだ。
「わあっ……!」
店内は外観から感じたとおりの雰囲気で満たされていた。やっぱり普通のリサイクルショップではなく、内装も商品もレトロな印象で統一されていて、店そのものが一つの大きなアンティークのように思えてくる。
使い込まれた重厚な木製の家具。ステンドグラス風のランプシェード。細かい彫り込みで飾られた小物入れ。まるで美術館の一室に足を踏み入れたような気分になってしまう。
綺麗な商品の数々に気を取られていると、店の奥から年を取った男の人の声がした。
「いらっしゃい。おや、君はもしかして」
「あっ! は、はじめまして! 三船綾香で、です!」
声の主から顔を背けるようにお辞儀をする。突然話しかけられたせいで、あらかじめ考えてあった挨拶の内容が全部頭から吹き飛んでしまった。
「綾香君ですね。晴海君からお話は伺っていますよ。今日からよろしくお願いします」
晴海というのは私のお父さんの名前だ。顔はいかつくて怖いのに名前がこれだから、本当にアンバランスだとしか言いようがない。学校の先生達も、名前を聞いて顔を見れば二度と忘れられないインパクトだとよく言っていた。
「そうだ。こちらの自己紹介もしておかないと。蓮池正蔵、この店の店主です」
「蓮池……? あっ、蓮の池って、もしかして」
「ええ、名字をそのまま英語にしただけです。覚えやすいでしょう?」
ここで初めて、私は店主の蓮池さんの全身を視界に収めた。
歳をとった人の年齢はパッと見だと分かりづらい。多分、七十歳くらいだろうか。私の年代から見てお爺さんくらいの年齢なような気がする。
髪はすっかり白髪になっているけれど、背筋はしっかり伸びていて姿勢がいい。全体的に紳士的な雰囲気を感じる人だった。
初対面の相手を前になかなか視線を合わせられずにいる私に、蓮池さんは優しく話しかけてきた。
「まずは店内と家の中を案内しますね。ちょうどお客さんもいませんし」
「はっ、はい! お願いします!」
蓮池さんの案内でお店の中を見て回る。
このお店は外観から分かるとおり洋風の古い家を改修したもので、入口付近を含めた一階の半分がアンティーク家具や雑貨のフロアで、四分の一が和風の古道具の陳列スペース、残り四分の一と二階全体が生活の場所となっているそうだ。
一通り案内してもらったところで、奥の生活スペースから歳をとった上品そうな女の人がひょっこりと姿を現した。
「まぁ! 正蔵さん、ひょっとしてその方が?」
「ああ。晴海君の紹介の綾香さんだ」
蓮池さんはまず女の人に私を紹介してから、今度は私の方に振り返った。
「妻の雪枝です。僕以外の従業員は彼女ともう一人しかいませんから、君は三人目ということになりますね」
「よろしくね、綾香さん」
「はっ、はい……」
相変わらず、私は気の利いた会話なんて全くやれなくて、ただお辞儀を繰り返すことしかできなかった。
それでも雪枝さんは、まるで何年ぶりかに会った孫と話しているみたいに、にこにこと満面の笑みを浮かべている。
「次は倉庫の方に……おや?」
蓮池さんが案内の続きをしようとしたところで、玄関の方から車の停まる音が聞こえてきた。
私も蓮池さんについて行って店の外に出る。玄関先には軽トラが一台停車していた。荷台にあるのは、和箪笥、というのだろうか。濃い茶色で見るからに年季の入った家具が乗せられていた。
他にも骨董品じみた家具や道具が置いてあるけれど、一番大きくて目立つのはあの箪笥だ。
「蓮池さん! 全部買い取れましたよ」
運転席から若い男の人が降りてきて、私は思わず目を逸らした。背が高くて筋肉質で見るからに体育会系のオーラを漂わせている。正直かなり苦手なタイプだ。嫌いっていう意味じゃなくて、接し方が分からないという意味で。
さっき蓮池さんがロータスポンドの従業員はもう一人いると言っていた、きっとこの人がその従業員なんだと思う。
「お疲れ様です、森久保くん。マルトクはありましたか?」
「はい。ほとんど丙種分類だと思いますけど、乙種になりそうな奴も一つありました」
「甲種はどうです?」
「さすがに見当たらなかったですね。ていうか民家で甲種なんて見かけたらビビりますよ」
二人は何やら専門的な会話をしている。たぶん軽トラの荷物はロータスポンドが買い取った中古品で、その内訳について話しているんだろう。
私は会話に混ざる勇気も、勝手にこの場を離れる度胸もなかったので、手持ち無沙汰なのを誤魔化そうと荷台の古道具に改めて目を向けた。
「あれ?」
ふと、荷台の和箪笥の一部が妙なことになっているのに気が付いた。引き出しの取っ手の一つが斜め四十五度に傾いている。金具か何かが外れてズレてしまっているんだろうか。
何気なくその傾いた取っ手に触り、軽く引っ張ってみる。たったそれだけで、引き出しが滑るような軽さで動いて開いてしまった。
勝手に触るんじゃなかったと後悔したのも束の間。いきなり目の前が霧に包まれたように真っ白になり、蓮池さん達の声が急速に遠く小さくなっていった。
「――――え?」
やがて視界が元に戻る。そこにアンティーク家具を積んだ軽トラはなかった。蓮池さんも、森久保とかいう店員さんもいない。それどころか屋外ですらないように思えた。
目の前の光景を見たままに表現するなら、薄い靄に満たされた和風の民家の中だった。
それも数十年前程度の民家じゃない。時代劇の江戸の町みたいな百年以上前の雰囲気のように見える。
「え、あれ? え、え?」
何で? 何がどうなってるの?
全く状況が飲み込めない。さっきまで私はアンティークショップのロータスポンドの前にいたし、その周りは割と普通の住宅地だったはずだ。軽トラだって目の前に止まっていた。蓮池さん達もいた。
けれど、その全てがどこにも見当たらない。何度周囲を見渡しても、水で薄めたミルクのような靄と、時代錯誤な建物の内装しか目に入らないのだ。
――いや、一つ訂正。後ろを振り返ってみれば、軽トラの荷台に置いてあったはずの和箪笥がそこにあった。一ヶ所だけ斜め四十五度に傾いた取っ手の金具もそのままに。
「どうしよう……えっと、夢なら念じたら覚めるかな……」
無駄な抵抗をしてみても目の前の現実は何も変わらない。
ひたすら混乱する私の前に、小さな人影が音もなく飛び出してきた。着物を着た子供だ。背丈は私のお腹くらいの高さで、顔はよく分からない。顔の部分だけぼんやりぼかされているというか、ノイズが走っているというか、どんな顔立ちをしているのか認識できなかった。
冷静に考えれば、悲鳴を上げて錯乱してもおかしくないシチュエーションだと思う。けれど私は何故か、その顔の分からない子供のことを普通の子供のように感じてしまっていた。
「XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX」
その子が何か喋っている。だけどまるで理解できない。知らない言葉だったわけじゃなくて、録音した音声を逆再生で早回ししたみたいにキュルキュルと耳に滑る声だったので、そもそも聞き取れなかったのだ。
どうやらその子は、隣の部屋のある方を指さして、あっちに行くよう促しているらしい。一体何なんだろう。私は少しでも手がかりが欲しくなって、その子が指さす方向に向かおうとした。
その矢先、大きくてゴツゴツとした手が私の肩を叩いた。
「ひゃあああっ!?」
「うわっ! 落ち着いて、ロータスポンドの森久保です」
森久保。ひらがなで四文字のその単語の意味を思い出すのに数秒かかった。蓮池さんが大柄な店員のことをそう呼んでいた。恐る恐る振り返ると、確かにあの人が着ていた服の柄が目に飛び込んできた。
……顔はよく見れなかった。見えなかったんじゃなくて、また思わず視線を下げてしまったせいだ。
「あの、えっと、これって……」
「すみません、俺の不注意です。説明は後で蓮池さんがしますから、まずはここから脱出しましょう」
森久保さんはそう言うと、私の肩に手を置いたまま、斜め四十五度に傾いた取っ手を引っ張って引き出しを開けた。
視界がまたホワイト・アウトする。数秒後にはそれも薄れ、今度は視界がハッキリとクリアになった。
済んだ青い空。白い軽トラ。黒いアスファルト。目の前には茶色の和箪笥。振り返れば住宅地に不似合いな洋風建築。何もかも元通りの風景で、蓮池さんもちゃんと近くにいた。
「申し訳ありません、綾香さん」
「今の……夢じゃないんですか……?」
「はい。マルトクについては仕事に慣れてから説明するつもりだったのですが、先延ばしにするべきではありませんでしたね。ロータスポンドが取り扱う本当の商品について、きちんとお教えしましょう」
そして、蓮池さんは信じられないけれど信じずにはいられないことを、私に語り始めたのだった。