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           4  研修医二年・八月〜十月

       8  研修医二年・八月

              一


 八月に入り、直ぐの一日・二日。 利知未は木・金の休日だ。

 木曜の夜、仕事から帰宅した倉真と食卓を囲みながら、お盆休みの最終計画を話し合った。

「宿、取ってあったのか?」

 話を切り出した利知未に、倉真が目を丸くする。

「ごめん、相談しないで決めちゃった。 先月の頭頃に」

「ま、良いけどな。 お前の好みで決めたんなら、温泉宿だろ?」

「正解! 昭和新山の方だけど。 ご飯も、美味しそうだったから」

「何泊だ?」

「三泊四日。 十五日に行って、十八日まで。 一泊は札幌」

「で、レンタカー借りて、移動するのか」

「そう言うこと。 和尚にも、連絡入れてみようね」

「連絡先、解るのか?」

「ジュンが、ずっと前に行った事があるって言ってたから、連絡先は解ると思う。 駄目なら、和尚のお母さんにでも聞いてみよう?」

「計画性があるんだか、無いんだか、解らねー事してんな」

「本当にお盆休みが取れるか、判らなかったから。 計画し過ぎて、おじゃんになったら寂しいでしょ?」

 昔の考え無し行動が、チラリと顔を出してしまった。

「コースは、大まかには考えてあるから。 細かい事は、これから話そうよ」

「晩酌しながら、考えるか」

「うん。 倉真は休みだよね?」

「お前と違って、急に休みが変わる事もネーからな」

 利知未は先月末、夜勤明けの休日に、PHSでの呼び出しを受けてしまった。

 前日まで、落ち着いていた患者が、急変したのだ。 夜の事だった。 処置後、利知未はそのまま仮眠室で仮眠を取って、連勤になってしまった。

「この前は持ち直してくれたから、良かったけど……。 中には、そのままって事も、有るからね……」

 その点は、この仕事に就いた時から、覚悟はして来た事だ。

「兎に角、お盆休みには、何事もない事を祈るしかないな」

「そうだな。 平気だろ」

「そう言い切れる事でも、無いには無いけど」

話題が暗くなる前に、話を変えて、花屋の一葉の事を倉真に話した。

「前、商店街の花屋で可愛い店員さんを見付けたって、言ってたでしょ? びっくりしちゃったよ。 先月頭に救急で運ばれて来た人の、お孫さんだったの。 倉真、あそこで花束、買ってくれてたんだね」

流石に一ヶ月以上は経っている。 あの時の事も、ある程度は客観的に見られる様になっていた。

「話したのか?」

「お見舞いに来た時、偶々、彼女をお婆さんの病室まで案内したんだよ。 その後で。 この前の婚約記念日、花を飾ったでしょ? あの店で買ったんだけど、その時にまたまた偶然、会ってしまったんだ。 で、少しね」

「若い女の店員だったと思うけどな。 あの時は早く店を出たい一心で、余り周りの事には頓着してなかった」

「だろうね」

 小さく笑って、続けた。

「凄く恥かしそうにして居たって、一葉さん、覚えていたよ、倉真の事」

「…なんで、お前に俺の話しが出たんだ?」

 ふと、その点に気付いた。

「その前に一度、あの店に行ったでしょ? 倉真が本屋で、あたしが出て行くのを待っていた時。 彼女が見送ってくれてたでしょ?」

「そうだったか?」

その時も気恥ずかしくて、花屋の方には視線を向けなかった。

「話し涯、無いな」

「仕方ねーだろ。 ンな恥かしい事、一々、覚えていられるか」

倉真は少し剥れて、途中だった飯の続きを掻き込んだ。



 翌日、利知未が午前中の家事を終え寛いでいると、荷物が届いた。

 倉真の実家からの物だった。 中身を確かめると、見覚えのある柄の浴衣が二着、入っていた。

「浴衣、完成したんだ」

手紙も二通、入っていた。 一通は倉真宛、一通は利知未宛だ。 自分宛の手紙を開いて、読んでいる時に電話が鳴った。

「はい」

 一端、手紙をテーブルの上において、受話器を上げる。

「利知未さん? 今日は、お休みだったのね。 荷物、届きましたか?」

倉真の母親からの、電話だった。

「はい、ついさっき届きました。 有り難うございます」

「また、取りに来て貰っても良いかとは思ったのだけど。 少しでも早くに、渡したかったの。 サイズは大丈夫だと思うけど、もしも直しが必要なら、持って来てくれるかしら?」

「はい。 ただ、私は浴衣を着た事が、無いので」

「そうだったの。 じゃぁ、やっぱり取りに来て貰った方が良かったわねぇ。 ごめんなさいね。 つい、急いでしまって。 そろそろ、花火大会の時期だから」

「そう言えば、そうですね。 どうしましょうか」

「次のお休みは、何時になるの?」

「次は、六日・七日と、十日・十一日ですね。 日曜日は、十一日です」

「もし予定が無いようなら、また遊びに来るついでに、どうかしら? 着方を教えてあげるわ。倉真にも、教えてあげないとならないわね」

断る事が出来る訳は無い。

 倉真の予定を確認して、十一日に伺えそうならば伺いますと伝えて、電話を切った。


 夜、帰宅した倉真に荷物が届いた事を伝え、手紙を渡した。 それから倉真の母からの、電話連絡の内容を伝えた。

「特に、用事がある訳じゃなし。 面倒だが、行くか」

「将棋。 お父さんに再戦、申し込むんでしょ?」

「それもあったな。 あの野郎、次こそ勝ってやる」

「お父さんに向かって、あの野郎って言い方、有り?」

利知未に叱られてしまった。

「それと十日には、お盆休みの準備もしたいから……、ちょっと、忙しくなりそうだな」

「旅行の準備か? そんなモン、前日にすりゃ良いんじゃないか?」

「荷物を纏めるのは、それでも良いけど」

「他に、する事があるのか?」

倉真に突っ込まれて、考えてしまった。

「…特には、無いか? お金は、下ろしておかないとね。 けど日曜に下ろすと、手数料が掛かっちゃうし。 お盆休みは、ATMが使えなくなる所もあるよね」

「盆休みに旅行なんだから、こっちでどんなに心配したって、無駄だな」

一々もっともだ。 すっかり倉真に会話の主導権を握られてしまった。

「倉真の方が旅慣れしてるんだから、頼りにしてる」

 利知未はニコリと笑顔を見せて、そう言って収めてしまった。



 十日はのんびりと過ごし、十一日、倉真の実家へ二人で出掛けた。 浴衣の着方を教えて貰い、帯を探しに反物を購入した和服屋へ出掛けた。


 今回は一美も、手薬煉引いて待っていた。 女三人が買い物に出掛けている間、倉真は居間で父親と、将棋を指していた。

「随分、マシな布陣を引く様になったな」

息子の上達振りに、父親は少し驚いていた。

「勉強、しちまったぜ。 今日こそ親父に勝つ」

「返り討ちだ。 王手」

「またかよ?! チョイ待ち、さっきの無し!」

「潔く負けを認めろ」

 父親は、不敵な薄ら笑いを浮かべていた。


 その日は帯を揃え、男浴衣の着付けまで教えて貰って、館川家を後にした。



 お盆休みになり、予定通りに北海道旅行へ出掛けた。 和泉の働く牧場には三日目、札幌へ宿を移す前に寄って行った。

 久し振りに会った和泉は、すっかり日に焼けて、身体つきもまた逞しくなっていた。


 和泉の案内で牧場を見学して、利知未は乗馬の体験もさせて貰った。

「観光客相手のイベントですから、性質の大人しいヤツしか、居ませんよ」

そう言って、始めは少々渋っていた利知未を無理矢理、馬の背中へ押しやった。 もう一頭の馬の背中で、利知未を乗せた馬を引いて、担当者が放牧場を一周して行く。

「お前は乗らないのか?」

「面白そうだけどな。 こんなデカイのが背中に乗ったら、馬もビックリしてしまうだろ?」

「確かに、そうかもな」

倉真もまた少し、筋肉がついて来たようにも見える。

「相変わらず、力抜きの成果か?」

「ンなとこだ」

 乗馬を楽しむ利知未を眺めて、男二人は、そんな話をしていた。


 始めは、おっかなびっくり馬の背に揺られていた利知未は、元々の勘の良さで、比較的早くに慣れてしまった。

 楽しくなり始めて、馬の背中から片手を上げ、遠くから眺めている二人に大きく手を振り、合図を送った。 利知未は、楽しそうに笑っていた。

 倉真は、放牧場を一周して戻って来た利知未が馬を下りる前に、用意して来た使い捨てカメラで、その姿をフィルムへ納めた。


 その日は和泉の誕生日から、二日目の事だ。 二人は此処へ来る前に、プレゼントを探して用意して来ていた。 昼過ぎまで過ごして、別れ際に渡してから牧場を後にした。


 始めの二日間で短めの観光コースを周って、三日目に和泉が働く牧場。 最終宿泊所を札幌に決めたのは、土産を探すのが目的だ。


 折角ここまで来たのだから、定番の蟹尽くしを戴いて行く。 倉真の実家へも郵送して、別口で定番の土産菓子も購入した。 優一家にも、蟹と札幌ラーメンを送った。

「後、何処へ送ったら良い?」

「宏治の所と、アダムのマスター一家にも、送るか?」

「そうだね、後は、ジュンの所と透子、下宿には、取り敢えずラーメンだけでも良いか?」

「全部に蟹を送る程の、余裕も無いしな」

「そう言う事」

「にしちゃ、今回は、金が掛かったな」

「ボーナスの半分、遊んじゃったね。 でも、今の内だとも思うし、良いんじゃないの? 結婚したら、今まで以上に節約するからね」

「覚悟の上だ」

 土産を準備し終わって、本日の宿へ戻った。 夕食は豪華だった。


 翌朝、バイキング形式の朝食を済ませて、チェックアウトした。

 昼を札幌ラーメンの美味い店で済ませて、午後三時過ぎの飛行機へ滑り込みセーフだ。 帰宅は当然、夜遅くなってしまった。


 アパートへ到着すると早速、土産を送った各家庭から、お礼の留守番電話が数件、録音されていた。 其々の家庭から、その内また遊びに来いと伝言されていた。

 二人のアルバムには、また新しい思い出のページが追加された。




               二


 十九日から通常勤務だった利知未は、医局とナースステーションへ、定番の北海道土産を持って行った。 薬局は香にだけ、そっと土産を渡した。 そこまで土産を買って行けば、直ぐ隣の会計にも、何か渡さなければならなくなりそうだ。

 ついでに久し振りに香と昼食を共にして、保坂に紹介されたと言う、恋人候補とのその後を聞いてみた。


 何時もの店で、ランチメニューを注文して話をした。

「意外と、上手く行っていたりするのよね」

話を聞き始めて直ぐ、香の幸せそうな笑顔を見る事が出来た。

「年も同じだし、保坂君の紹介だけあって真面目な人だし。 保坂君たちの方も、上手く行っている見たいよ」

「それは良かった。 自分達の事がバタバタしていて、全然、気にする暇が無かったからな。 少し、心配してた」

「利知未さんは、やっぱり結婚、来年なの?」

「一応、あたしの希望は来年の秋頃なんだけど……。 それはいくら何でも、待たせ過ぎだろうって言われてる」

「そうね。 婚約して、もう一年経つんだから。 普通なら、とっくに結婚していても不思議は無いもの」

「あたし達より後で婚約した二人が、今年の五月に結婚したよ」

「普通でしょう。 このままじゃ、私の方が先になってしまうかもね」

「もう、そんな話しになってるの?」

「二人とも、二十八だから。 そんな雰囲気では、あるかな?」

「おめでとう。 これで、お見合いする必要も無くなった訳だ」

「そう言う事になるかしら? 結婚式は、利知未さんも呼ぶから」

「随分、早くからの予約だな」

「式が重ならないように、気を付けないとね」

 そう言って香は、幸せそうな笑顔を見せてくれた。


 更に月末へ向かい、二十五日の日曜日は花火大会がある。 今年こそ花火大会に行きたいと思いながら、これまでは利知未の仕事の都合で、見に行く事が出来なかった。 これが今年最後のチャンスだ。

 当日は昼過ぎから準備を始め、夕方には会場へ着く様に計画をした。



 二十五日。 倉真の母親から贈られた浴衣に、初めて袖を通した。 倉真はギリギリまで渋っていたが、利知未に脅されてしまった。

「倉真が着ないなら、あたしも着ないから。 初めての浴衣、楽しみなんだけどな……。 どうせなら二人で着て、お母さんとの約束、果たしたいし」

 利知未の浴衣姿は、倉真も勿論、見てみたい。 言われて渋々、頷いたのだ。


 母親との約束とは、今年、この浴衣を着た姿を写真に撮って、見せると言うものだ。 写真は苦手な利知未だが、息子の写真を心から喜んで受け取ってくれた彼の母親を見て、これも親孝行の一つになるのではないかと、考え方を改めていた。


 始めに倉真の浴衣を、教えられた通りに利知未が着せた。

「……何つーか、肩、凝りそうだな」

着替え終わって、倉真が不機嫌そうにぼやく。

「似合ってるじゃない? 流石に母親は、自分の子供が似合う色を良く知ってるもんだ」

着せるのは、やや大変だった。 緊張して冷や汗が出て来ていた。 何とか形になった倉真の姿を見て、利知未はほっとして笑顔を見せた。

「今度は、自分が着替えないと。 ちゃんと、着れるのかな?」

「手伝うか?」

 ニヤリと倉真が笑う。 利知未は少し照れ臭い。 剥れ顔になる。

「結構です。 そう言うスケベな顔した人には、手伝って貰いたくないから」

大人しく待っていてね、と言い置いて、寝室へと引っ込んだ。


 それから、漸く自分の浴衣に袖を通した。 大人になって初めての経験だ。

 着替え終わり、鏡の前に立つ。 自分の姿を見て、昔、大叔母夫婦と過ごしていた頃、一度だけ着た事があったのを思い出した。

 あの頃、男の子の様に活発だった利知未は、動き難いのが嫌で一時間も我慢出来なかった。 思い切り駄々を捏ねて、直ぐに着替えてしまった。

『そう言えば、そんな事があった……』 今の自分の姿を鏡で改めて見て、気恥ずかしくなってしまった。 けれど、嬉しいとも感じられた。

 倉真の母は、余り生地を使って巾着も作ってくれた。 一揃え身に纏い、リビングで待っていた倉真に、初めて浴衣姿を披露した。


 薄い縦縞の入った深い緑地の、大きな朝顔柄の浴衣は、母親と妹の見立て通りに、背の高い利知未に良く似合っていた。 照れて薄く頬を染める姿は、中々、そそられる物がある。

 暫らく自分の事は忘れて、利知未の姿に見惚れてしまった。

「良く、似合うじゃないか」

「倉真も、似合ってるよ? 写真、撮らないとね」

「ああ。 まだ明るいし、外で撮るか?」

「うん」

 頷いて玄関へ向かう。 新調してあった下駄を引っ掛けて、外へ出た。



 部屋を出ると、自分達と同じ様に今日の花火大会へ出掛け様としていた、お隣さん夫婦と顔を合わせてしまった。 挨拶くらいは交わす仲だ。

 お隣の奥さんは、利知未達を見て、良くお似合いだと褒めてくれた。


 階段の下で、場所を探してシャッターを押す倉真に、お隣の旦那さんは手を差し出して、カメラを受け取った。 二人で並んでいる所を撮って上げるからと言われて、照れ臭いながらも二、三枚、フィルムへ収めて貰った。

 カメラを返して貰い、礼を言って、一足先に出発した夫婦を見送った。

 その後、お互いにシャッターを押して、一人ずつの姿を納めた。 使い捨てカメラのフィルムを全て使い切ってから、写真屋へ寄って、駅へ向かった。

 半分以上の枚数、倉真が利知未の写真を撮ってしまっていた。



 電車では乗客の中に、浴衣を着たカップルも、ちらほらと見掛けられた。 始めは気恥ずかしかったが、その内、雰囲気に慣れる事が出来た。

 電車の車窓に映る自分達の姿を見て、利知未は、倉真の母親の見立てに感心していた。

『二人の浴衣、色合いとかのバランスが、良く取れているみたい……』

同じ様な浴衣カップルの中でも、一際、センス良く目立っている。

 しかも、二人とも長身だ。 他の乗客達と窓に映りこんだ姿越しに、何度も目が合ってしまった。 その度に気恥ずかしくて、視線を逸らした。



 会場について、場所を取る前にテキ屋を回って、ヤキソバ、ジャガバタ、カキ氷、フランクフルトや、焼きイカ等を買い込んだ。 缶ビールも勿論、購入した。 今日の夕食は、これで済ませてしまう予定だ。

 場所を決めて花火が始まるのを待っている間に、大量の食い物が、殆ど倉真の腹へ納まってしまった。 利知未は、焼きトウモロコシが食べたくなった。

 倉真が利知未のリクエストに答えて、トウモロコシと缶ビールの追加を、買いに行ってくれた。


 また一つ、新しい思い出が増えた。 二人は初めて空に咲く大輪の花火を、肩を並べて眺める事が出来た。


 花火大会が終わる頃には二人、ピタリと寄り添って、夏の夜空を仰いでいた。




         9  研修医二年・九月


               一


 八月末の利知未の休日には、写真が出来上がっていた。

 九月に入り始めの日曜休み、浴衣のお礼を兼ねて、写真を届ける為に倉真の実家へ二人で向かった。


「今日で、五回目だ……」

 バイクから降り、玄関を入る前に立ち止まり、利知未が呟いた。

「慣れたか?」

「うん、そうだな。 ……慣れて来た、かな?」

少し首を傾げて考えて、頷いた。 笑顔を、倉真に見せる事が出来た。

「そりゃ良かった。 行くか」

 促されて、もう一度頷いて、館川家へおとないを入れた。


 倉真の父は、今日は釣りに出掛けていた。 居間へ通され写真を見せて、嬉しそうな母親と、お茶を飲みながら話をしていた。

「利知未さんが来てくれると言ったら、お父さんが、これを出してやってくれと仰って……」

倉真父の手製・栗鹿の子が、お茶請けに供された。

「もう、秋ですね」

「ええ。 残暑は厳しいけれど、和菓子の世界ではすっかり秋ですよ。 甘い物は、余り得意では無いかしら?」

「和菓子の甘さは平気です。 戴きます」

ニコリと笑って、栗鹿の子を戴いた。

 すっかり母親と打ち解けてくれたように見える利知未を見て、倉真も安心する事が出来た。

「今日こそ、親父に勝つつもりで居たんだけどな」

倉真が茶を啜りながらぼやいた。 母親の目の前で利知未の写真を眺めるのは少々、照れ臭い。

「何時もの所に行っている筈だから、お迎えに行って来たら?」

母親に言われて、チラリと利知未を見た。 倉真が、自分を置いて行ってしまう事を気に掛けてくれたのが、利知未に伝わった。

「いいよ、行って来て。 あたしは、お母さんと写真を見ているから」

雰囲気で、利知未の言葉から堅苦しさが少しだけ消えた。

「そうしてらっしゃい」

「…んじゃ、行ってくるか」

母親からも言われて、倉真は立ち上がる。

 行ってらっしゃいと二人から送られて、居間を出て行った。


 倉真の母は利知未に、もっと打ち解けて貰いたいと常々、思っている。 漸く肩の力が抜け始めた利知未の様子を見て、嬉しげに微笑んだ。


 浴衣の写真を見終わり、母親が思い付く。 倉真の、子供の頃からのアルバムを持ち出して来た。

「あの子、中学からは殆ど写真が無いんだけど。 一番、面白かった頃の写真は随分あるのよ」

 そう言って少し笑い、昔話をしながらアルバムを開き始めた。

「倉真さんの写真、無事な姿が、何にも無いんですね」

必ず怪我をしている。 絆創膏・包帯の幼い倉真を見て、利知未は小さく笑ってしまった。

「そうなの。 保育園に通っていた頃から毎日、喧嘩ばっかりで。 運動をしていてしてしまった怪我も、有るにはあるんだけど」

「運動神経、良かったのではないですか?」

「そうだったわね。 運動会だけは、胸を張って観戦する事が出来たわ」

その代わり、授業参観で学校へ行く時には何時も、冷や冷やしていたと言う。

 小学校低学年の頃の、運動会の写真が出て来た。

「でも、この時は恥かしかったわ……」

一等の旗を持った怪我だらけの倉真が、不機嫌そうな顔で写っている。

「これは、どう見ても走っていて出来た怪我では、無さそうですね」

 利知未に聞かれて、呆れた笑顔で話してくれた。

「百メートル走で、一等を取ったんだけど。 東京の学校は、運動場が狭いでしょう? コースがカーブしているのよ。 そのコーナーを曲がる時に、倉真と一等を争っていた子が転んでしまったのよ。 それでも、足の速い子でね。 ゴール寸前で追いついたんだけど、抜けなかったの。  相手のクラスの子が、倉真がコーナーで足を引っ掛けたか、腕をぶつけたかして邪魔をしたんじゃないかって、言い出して。 そんな事はしてないって、走り終わった子達が並んで待っていた場所で、取っ組み合いの大喧嘩」

「成る程。 それで、三等の旗を持ってる子も怪我だらけだ」

「転んでしまった子が、そんな事は無かった自分で転んだんだって、言ってくれて。 それで漸く、収まったのよ」

 そんな事で、取っ組み合いの喧嘩になってしまった。 その血の気の多さに、恥かしさと同時に将来が心配になってしまった、と、母親は言った。


 その他にも、倉真の面白ネタは尽きる事が無かった。

 更に小さな頃は、その余りの腕白、ヤンチャ振りで、自転車の後ろから転げて落ちてしまった事も、有ったと言う。

 釣りは、昔から苦手だった。 初めて父親と出掛けた日、帰宅した倉真は、父の背中でぐっすりと眠ってしまっていた。

「釣り糸垂らして、十分もしない内に眠っちまった」

その頃、まだ三十代半ばだった倉真の父が帰宅して、眠り込んでいる息子を受け取った母親に、そうぼやいていたと言う。


「昔から、堪え性が無いと言うか、我慢が利かないと言うか……」

 あの頃の事を思い出し、母親は頬に手を当てて、軽い溜息をついていた。

「けど、根は優しい子だったから……。 小学校三年生の頃には、近所の年下の子供達の、良い親分だったみたいよ」

「良く、年下の子達の面倒を見て居たって、事ですね」

「だと思うわ。 一美の事も、可愛がっていたもの」

自分の自転車の後ろへ乗せて、一美の通っていた公文塾への送り迎えをしてくれていた事も、有ったと言う。

『その頃から、二輪好きだったって事だ』  利知未はその話を聞いて、そんな感想を抱いた。



 倉真は父親を迎えに行って、そのまま釣りに付き合わされてしまった。

「釣竿、二本も持って来ていたのか」

 苦手な事を強要され、倉真は既に大欠伸だ。 釣糸を垂らしながらぼやく。

「……お前は、昔から全く変わらんな」

 倉真の大欠伸を見て、父親が呆れて呟いていた。



 昼を回ってしまった。 迎えに行った切り二時間近く、倉真は戻らない。

「お父さんに、付き合わされているんでしょうけど」

「お昼、届けますか?」

「そうね。 また、お握りでも作って、届けてもらって良いかしら?」

「場所は、どの辺りなんですか?」

「商店街を西に抜けて真っ直ぐに行くと、川に出るの。 少し下流に橋があるのよ。 その辺りへ行けば、あの大きな体は直ぐに見えるわ」

 この辺りの地図を、頭に思い浮かべた。 大体、見当が着く。

「解りました。 それなら、解ると思います」

 方角的には、自分達が朝やって来た方向だ。


 利知未が弁当を届けている内に、自分達の分は母親が準備をしておくと、言ってくれた。 二人分の握り飯を持ち、利知未は河原へ向かった。



 倉真の釣竿に当りが来ていた。 半分眠っていたので、自分が構えている竿の変化に、倉真は気付かない。

「引いてるぞ」

父親に教えられて、慌てて釣竿を手に取った。

「こんな川にも、魚は居るんだな」

「いなけりゃ、俺も来ない」

「ごもっとも」

釣りの下手な倉真は、魚との格闘に遭えなく敗北してしまった。

「餌だけ、取られちまった」

釣り糸の先を見て、倉真が情けない顔をした。

「…腹、減ったな」 ぼやきながら、新しい餌を釣り針に仕掛けた。


 母親に言われた通り、二人の後姿は直ぐに見付けられた。 近付いて後少しの所まで来て、声を掛けた。

「釣れてる?」

「あ? ああ、利知未か。 どうした?」

倉真が気付いて、返事をする。

「お腹、空いている頃かと思って。 はい、お弁当。 お父様にも」

ニコリと微笑んで、手渡した。

 利知未から弁当とお絞りを手渡されて、父親は微かに頭を下げた。

「握り飯だな」

「それが一番、食べやすいでしょ?」

水筒を準備しながら、利知未が倉真の声に答える。 始めに父親の分を注いで手渡した。 小声で、礼を言ってくれた。

「お前は昼、どうするんだ?」

「お母様が、準備をして下さってるから。 戻るよ?」

「そうか」

「後は、よろしくね。 お待たせするのも悪いから」

 そう言って、利知未は戻って行った。


 利知未の姿が消えてから、父親が聞いた。

「利知未さんは、魚を捌けるのか?」

時々、利知未が魚を開いているのは見た事があった。

「上手い事、やるぞ? メス捌きはお手のモンだ」

「外科医、だったな」

「おお、料理も上手い」

「お前には、勿体無いお嬢さんだ」

「二度目だ、その言葉」

 父親を見て、倉真はニヤリと笑っていた。



 倉真と父親が戻ったのは二時過ぎだった。 弁当を腹へ収めてから一時間ほど頑張ってみたが、あれ以来の当りもなく、本日もボウズだ。

 手を洗い、一休みついでに将棋盤を挟んでから、帰宅する事にした。


 利知未は、アルバムの続きを見せて貰っていた。 倉真も同じ居間にいる。 母親は構わず、昔話をしてくれた。

 女二人の会話をバックに、男二人は集中していた。

「あの集中力が学生時代に活きていれば、もう少し成績も良かったのでしょうけど」

母親が倉真の様子を見て、呆れて呟いていた。


 倉真は将棋に集中し過ぎて、時間の感覚が無くなってしまった。

母親は、今日は夕食までご一緒できそうね、と呟いて、利知未に声を掛ける。 恐縮してしまったが男二人の様子を見て、呼ばれて行く事になった。


 母親を手伝って、五人分の食事を準備した。 利知未の包丁捌きを見て、母親は感心して褒めてくれた。

「倉真が、好き嫌いがなくなったのは、利知未さんのお陰のようね」

「私は何も。 一緒に暮らし始めた頃には、好き嫌いも無くなっていましたよ」

「そうだった?」

酢豚の事を思い出していた。

 準備の途中で、一美が帰宅した。

「今日は、ご飯まで一緒にしてくれるの?!」

キッチンへ立つ利知未を見て、嬉しそうな声を聞かせてくれた。


 五人で食卓を囲んだ。 久し振りの賑やかな食卓は、緊張もしたけれど楽しかった。 利知未の料理は綺麗に、家族の腹へ収まってくれた。 それを見て、利知未は漸くほっとした。

「利知未さん、お料理、上手でしょ?!」

一美が、両親へ自慢げに言っていた。

「お前が自慢する事か」

兄に突っ込まれて、一美は笑って誤魔化した。


 食事の後片付けまで手伝ってから、館川家を辞去した。 アパートへ帰宅出来た時間は、夜九時を回っていた。



                二


 数日後、倉真の母親から利知未に、相談の電話が入った。

 夫が、どうやら最近、体調を崩してしまったと言う。 病院へ行く事を勧めても、大した事は無いと、取り合ってはくれない。

 心配そうな母親の声を聞いて、利知未は平日の休みに一度、倉真に内緒で様子を見に行く事にした。

『医者だから、きっとで、それを頼みに相談されたんだろうから……』

ただ、本当に大した事が無いのなら、話を大きくする必要も無いだろう。 そう考えて、倉真には伝えるのを止めておいた。


 父親の店は、庭続きで母屋と繋がっている。 昼は母屋へ戻って済ませていると聞いて、その頃を見計らって伺うことにした。



 十七日・夜勤明け翌日の休日。 利知未は一人で、倉真の実家へ向かった。

 玄関先で、緊張してしまった。

『一人で来るのは、初めてだから』 それでも、倉真父の往診へ来たつもりになって、おとないを入れる。

「いらっしゃい。 ごめんなさいね、態々」

母親が奥から現れて、利知未を迎えてくれた。

「いいえ。 お父様は?」

「もう直ぐ、お昼を済ませに戻るわ。 取り敢えず、上がって下さいな」

促されて、お邪魔しますと断って靴を脱いだ。


 父親は最近、食欲がなくなって来たらしい。 晩酌のビールも、今までの半分の量でいらないと言う。

 時々、腰から背中に掛けて痛みを感じるらしく、何度か風呂上りに擦ってあげたと、母親は言っていた。

「それだけじゃ、解らないけれど……」

「ちょっと、診て貰えるかしら?」

「はい。 私で、判断がつけば良いけど」

話している内に裏庭の妻戸が開く音がして、父親が昼を済ませに帰宅した。


 裏口から入り、居間から聞こえた妻の声に、顔を出す。

「お邪魔しております」

取り敢えず、ニコリと微笑んで挨拶をした。

「倉真も、来ているのか?」

驚いて父親が問い掛ける。 その態度を見て、妻は小さく笑ってしまった。 息子の前に居る時に比べて少々、気の抜けた様子だ。

「いいえ。 利知未さんに渡したい物が有ったので、いらして頂いたんです」

用意の理由を述べ、話を変える。

「お昼、折角だからこちらで、利知未さんとご一緒にどうぞ」

「…うむ」

 低く唸って、自分の気の抜けた様子を誤魔化してみた。


 三人で昼食を済ませた。 父親の食事量は確かに減っていた。

 後片付けに立ち上がった母親に目顔で合図を受けて、利知未が父親へ食後の茶を入れて出した。

「済まない」

短く言って、父親は利知未の出した茶に口をつけた。

「少々、お顔の色が優れないご様子ですね?」

何気なく聞いてみた。 父親は片手を上げて、自分の頬を触る。

「ちょっと、診せて頂けますか?」

利知未に微笑を見せられ、少し躊躇ったが従ってくれた。


 脈拍を取り、瞼の裏を返して、舌の状態も確認した。 それから最近、痛むと言う背中を診せて貰った。

「血圧は最近、測られましたか?」

聞かれて首を横に振る。 血圧計は、持って来てはいない。 少し考えて、利知未が言った。

「私は外科医ですので、内科の病気の判断は、出来兼ねますが……」

少し顔が浮腫んで居る事は、見て取れた。 背中から肝臓の辺りを押してみた時、少し気になる所もあった。

「お酒、長年、飲まれていますね? 量は、増えていませんでしたか?」

「最近は、減ったな」

父親は、病院に居る様な妙な気分になってしまった。

「その前は?」

「……少し、飲み過ぎていたのを減らした」

「そうですか」

母親が片付けを終えて、居間へ入って来た。

「お酒の量、多くなっていたのですか?」

「そうね、この前までは今まで以上に多かった頃が、有ったかしら?」

頬に手を当てて、考えて答えた。

「一度、内科へ掛かって見て下さい」

父親に向かって、そう進言した。

 大事(だいじ)が無ければ良いが、もしも肝臓が悪くなっているのなら、黄疸が出る前に検査をするべきかも知れない。

「……恐らく、肝臓では無いかと思いますが」

利知未の呟きを聞いて、父親は素直に、病院へ行ってみる事にした。



 帰宅して、夕食の準備を整えた。 倉真が仕事を終えて、帰って来た。

 利知未は、まだ父親の事を言うのは考えている。 キチンと病院へ行き、検査結果を待ってみないと、どう伝えるべきかも解らない。

『もう暫らく、倉真には言うの、止めとこう』 そう決めて、今日、倉真の実家へ行ってきた事も内緒のままにした。


 倉真は今日、職場で、また突っ込まれて来てしまった。

「自分達よりも、周りが煩い」

そう言って、言われて来た事を話してくれた。

「そろそろ、お前に好い男でも出来た頃じゃないかとか、抜かしやがった」

不機嫌に、そう言った。

「あたしに、ねぇ。 そんなにモテるタイプじゃ、無いと思ってるけど」

「そう思うのは、自分だけ何じゃないのか?」

「どうして? あたしに言わせれば、倉真の方が心配なんだけど」

「それこそ、モテるタイプじゃ無いだろ」

「そう?」

 七月の、温泉での事を思い出した。

「偶にどうかすると、モテてるみたいだけど」

そう言い捨てて、利知未も食事を進める。 倉真はすっかり、あの時の事など、忘れ切っている。

「そんな女が居るなら、俺が知りたいくらいだ」

「で? 知って、どうするつもりなの?」

利知未に、怖い笑顔で突っ込まれてしまった。 最近どうも、利知未は浮気についてピリピリしている様子だ。 触らぬ神に祟りなしだ。

 その手の話題も、暫らくは封印しておいた方が良いかも知れない。 取り敢えずそう悟って、倉真は話を止めた。

「お代わりくれ」

ニ、と笑って、利知未に空の飯茶碗を差し出した。



 倉真の父親は、店番を妻に任せて病院へ行って来た。

 医者の見立ては利知未と同じで、肝臓病の疑いだった。 検査をして、翌週には結果が出ると言われて来た。


 利知未の次の休みは、土日だと聞いていた。 土曜日、午前の家事を終え、昼前に倉真の母親から連絡をした。

「利知未さんのお陰で、漸く病院へ行ってくれましたよ」

「そうですか。 それで、検査は?」

「二十四日に、検査の予約をして来たと言うから、今月末か来月には結果が解ると思います」

「結果が出たら、ご連絡、頂けますか?」

「勿論、連絡しますよ。 兎に角、病院へ行って貰うのが一苦労な人だから。 行ってくれただけでも、有り難いです」

「そうですね。 倉真さんには、伝えた方が宜しいですか?」

「検査結果が出るまでは、余り騒ぎ立てるのもどうかと思いますから。 それからで良いですよ。本当に利知未さんには、お手数掛けてしまいましたねぇ」

「いいえ。 私で、お役に立てる事なら、いくらでも」

「有り難う。 それじゃ、また遊びにいらして下さいね」

「倉真さんに、代わりますか?」

「今日は、いいわ。 じゃ、あの子の事も宜しくお願いします」

「はい、こちらこそ」

挨拶をして、電話を終わった。


 利知未が受話器を置いたのを見て、倉真が聞く。

「お袋か? 検査とか言ってたな」

「何でもないよ。 倉真のお父さんが、健康診断に行くって話」

「親父がか? 鬼の霍乱ってヤツだな」

「個人商店の店主だから。 定期的に行った方が良いですよって、この前、倉真がお父さんと釣りに行っていた時に話してたんだよ」

「ま、働き手が親父だけだからな。 倒れられたら、大変なのは確かだろ」

「そう言う事。 お昼、どうする?」

「何でも良いぜ」

「そ。 じゃ、適当に準備するね。 将棋の腕は、少しは上がったの?」

今日も将棋のテキストを開いていた倉真に、利知未が聞いた。

「少しは親父の事を、梃子摺らせる事が出来る様には、なったぞ」

「そっか。 一勝を奪うまでには、まだまだ時間が掛かりそうだ。 お父さんにも、長生きして貰わなきゃだね」

「そうだな。 親父を負かす前に、くたばられちゃ困る」

「努力が、水の泡になっちゃうから?」

「…それも、ある」

 少し考えて、倉真は短く、そう答えた。


 倉真が考えていた短い時間を思い、利知未は微かに微笑んだ。

『倉真とお父さん、本当に仲直り出来たんだ』

 十六歳の頃、大喧嘩をして、飛び出して来た息子だ。


 十年間近くもの、長い長い大喧嘩も。 漸く丸く収まろうとしているのを、改めて感じられたのだった。




10  研修医二年・十月


                一


 月が変わって、一週目。 倉真の父は、検査の結果を聞きに病院へ行った。

「館川さん、肝臓が少々、疲れているようです。 お酒の量は?」

始めに、そう聞かれた。

「早い内に検査をされて、良かったと思いますよ。 肝臓は物言わぬ臓器と言いますから。 調子が悪くなってから検査をして、手遅れになる人の方が多いものです」

医者はそう言って、にっこりと微笑んだ。

 酒の飲み方を注意され、食事のアドバイスを受けた。 それだけで済んだ事に、父親は安心して帰宅した。



 その土曜日。 早速、利知未に、倉真の母親から連絡が入った。

「ご心配お掛けしました。 どうやら、肝臓が疲れていただけらしかったわ」

ほっとした声で、そう報告をされた。

「大事が無くて、良かったですね。 お酒の量、気を付けて下さいね」

「お医者様からも、注意されて来ましたよ。 お嫁さんがお医者さんと言うのは、頼り涯が有って良いものね。 検査が早くて良かったと、言われたそうですよ」

「……お役に立てて、良かったです」

 お嫁さんと表現されたことに、照れ臭くなってしまった。


 今日は、外でバイクを弄っていた倉真が、昼を済ませに戻って来た。

「今、お母さんから連絡が有ったよ」

「また、遊びに来いとか言われたのか?」

「それも、あるけど。 お父さん、検査結果が悪くなかったからって、ご報告をしてくれました」

それで初めて、先月の館川家への訪問を話して聞かせた。

「健康診断じゃ、なかったのか?」

「ごめん。 本当は、そう言う事。 ただ、結果が出るまでは話さないでって、お母さんからも言われて居たんだよ」

「良かったんじゃねーか? それで済んで」

「他人事だな。 倉真の、お父さんでしょう」

「お前の親父にも、なるんだよな」

「お義父さん、将来のお舅さんに、なる訳だけど」

「そう言う事だ。 腹、減ったよ、何か食わせてくれ」

「ごめん、急いで準備するよ。 待ってて」

 話を途中で打ち切って、利知未は昼食の準備を始めた。



                二


 十日の祝日は、利知未も丁度、休みが重なった。

 倉真の母親から、是非この前のお礼をしたいから遊びに来て欲しいと言われて、二人で出掛けて行った。


「あら、倉真も来てくれたのね」

 玄関を入って、母親にそう言われてしまった。

「利知未が居ないんじゃ、昼飯が侘しくなっちまうからな」

倉真がニヤリとして、母親へ言葉を返した。

「今日は、お昼をご馳走したいと思っていたのよ。 評判の良いお寿司屋さんがあるから。 倉真も居るんじゃ、随分お金も掛かってしまいそうね」

 母親はそう言って、小さく笑っていた。

「お寿司、ですか?」

「ええ、少し遠いのだけど」

タクシーを呼んであると言う。 何処まで行くのだろうと、利知未と倉真は顔を見合わせてしまった。

「早めに行って、お父さんと一美には、お土産を買って来ようと思っていたのよ。 もうタクシーも着くから、上がってお茶でもどうぞ」

 笑顔で促され、二人は居間へ上がった。



 二十分ほどでタクシーが着いた。 三人で乗り込んで、墨田区に在る倉真の実家から、江東区の住宅街にある寿司屋まで、片道、約三十分を掛けて足を伸ばした。

 タクシーを降り店の入り口に立ち、利知未は、何かを思い出した。

「ここ……」

呟いた利知未に、倉真が声を掛ける。

「どうした?」

「ううん。 何でもない」

「さ、入りましょう?」

母親に促されて、利知未は黙って後について、店内へ踏み込んだ。


「いらっしゃいませ!」

 威勢の良い声が、利知未達を迎えてくれた。 カウンターには、三人の職人が並んでいた。

『やっぱり』 その中に、懐かしい顔を見付けてしまった。 微かに利知未の頬が緩む。

 黙って、その人の前に、三人並んで腰を下ろした。

「いらっしゃいませ」

そう言って顔を上げた職人は、一瞬、利知未の姿に注目してしまった。

「櫛田先輩」

微かな声で、利知未が呟いた。 隣の倉真が、利知未を見る。

「知り合いなのか?」

息子と利知未の様子に気付いて、母親もこちらに注目していた。

「……瀬川?」

櫛田は、じっと利知未を見つめてしまった。

 手が止まった様子に、親方からの檄が飛んで来た。

「失礼しました! 何、握りましょう?」

 仕事中だ。 疼く気持ちを押し込めて、櫛田は、そう問い掛けた。


 倉真に、無言で問い掛けられた。 小さく笑って、利知未は答えた。

「中学時代の、先輩」

母親が、ビックリした顔をした。

「そうだったの? あら、まぁ」

三人の客を見て、親方が利知未を見た。 何と無く見覚えている感じがした。

「以前にも、いらしてくれた事がありましたか?」

「はい。 中学生の時に、一度だけ」

 笑顔を見て、記憶を辿る。 珍しい客は、何年経っても忘れる物ではない。 暫らく考えて、記憶が蘇ってきた。

「先輩の働き振りを見せて頂きに。 一つ上の先輩に、くっ付いて」

言われて、完全に思い出した。

 中学生だけの五人で来た、櫛田の後輩達が居た。 その中に一人だけ、女の子が居た。

「ああ、あの時の」

 親方の表情が、笑顔になった。

「再びのご来店、有り難うございます。 どうぞ、ごゆっくり」

「有り難うございます」

利知未は笑顔で、親方にそう返した。

「今日は、良い鰹が入っています」

 櫛田にそう言われて、お任せで握って貰う事にした。


 倉真を挟んで、向こう側には母親が居る。 それでも初恋の思い出は、蘇って来てしまう。

 寿司を握る櫛田を見る利知未の目に、倉真はチラリとジェラシーを感じてしまった。


 櫛田は無口だった。 利知未と一緒に来た客の関係を聞いて、ただ一つだけ教えてくれた。

「俺も、結婚した。 …今は、ガキが二人居る」

「…幸せ、ですか?」

「おお」

そう言った櫛田の笑顔を、利知未は一生、忘れないだろうと感じた。


 土産で買った寿司は特上だった。 櫛田が、いつかの約束を果たすと言って、並分の金額で二人前、用意してくれた。



 その夜、晩酌中に倉真から聞かれた。

「いつかの約束ってのは、何だったんだ?」

「あたしが女らしく成ったら、何時か寿司を奢ってくれるって」

ニコリと笑って、利知未は答える。

「女らしさの株によって、段階は違う筈だったんだけど。 特上の女に成ったって、ことなのかな……?」

「……今のお前なら、それ位にはなってるだろ」

 ジェラシーは感じたままだ。 倉真は少しだけ不機嫌だった。

「そっか。 倉真の、お陰だよ。 ありがと」

そう言って、利知未は倉真の頬っぺたにキスをしてやった。

「あのね、倉真。 ……櫛田先輩、あたしの、初恋の相手だったんだよ」


 二人は何時もの通り、寄り添って酒を飲んでいた。 利知未の告白を聞いて、倉真の機嫌がまた少し悪くなってしまった。


「焼き餅?」

 チラリと笑顔を見せて、利知未は少しだけ意地悪な質問をした。

「マジ、焼き餅かも知れねー。 ……利知未、結婚、早めないか?」

「不安になっちゃった?」

「それも、正直言ってある」

いつか、田淵から聞いた話を、倉真は話した。

 話を聞いて、利知未が感想を述べる。

「幻、ね。 勘違いだって、言う意見もあるみたいだけど」

「……それと、親父の事だ」

「お父さん?」

「この前、肝臓が悪いかも知れなかったって、話をしたよな?」

「うん。 大した事が無くって、良かったよ」

「ああ。 ただ、あの話を聞いた後に、チョイ考えた」

 真面目な顔をして、倉真が話を続ける。

「親父もお袋も、後は歳を取るだけだ。 歳を取れば、身体ってのは悪くなる一方だろ? 親父も、お前を気に入っているからな。 早く、安心させてやりたくなったんだ」

 言われて、利知未は考える。


 倉真が、父親の事を思い遣れる様になった事。

 今日の櫛田が、利知未の質問に答えた時に見せてくれた、心から幸せそうな、あの笑顔。

『ガキが、二人居る』 ……その言葉。


 今年の四月。 利知未が妊娠したと勘違いして、態々、息子の行動に詫びを入れにやって来た、父親の言葉。


 その少し前、アダムのマスターから言われた言葉。

『それは、お前の我侭と言うヤツだ。親御さんは、早くに……、』


「……お父さんも、お母さんも、早く孫の顔、見たいのかな?」

「そうだろうとは、思う」

「そっか。 ……そうだよね」


 目を閉じて、じっと動かない。

 利知未の様子を、倉真も黙って見つめていた。


 やがて、利知未が目を開けて、小さく頷いた。

「……うん。 良いよ。 ……責めて、三月は過ぎてからにしたいけど」

顔を上げた利知未が、そう言って倉真を見つめた。

「あたしは、秋頃が良いと思っていたんだけど……。 それは、我侭過ぎるから」

「五月位で、どうだ?」

倉真は少し考えて、利知未に問い掛ける。

「責めて、七月。 って言うのは、やっぱり我が侭?」

 婚約記念日。 それが、利知未の頭の中には浮かんでいた。

「俺が、我慢出来ない」

 そう言って、倉真は利知未を更に抱き寄せる。

「……解った」

 コクリと頷いた利知未の頭を、倉真は優しく、抱きしめた。

「有り難う」

 倉真が囁くように、そう呟いた。



 利知未の頭には、夢枕の裕一の言葉が蘇って来た。

『結婚式は、早めに見たいな』  裕一は、そう言っていた。


「倉真が、親孝行するのと、同じだ。 ……あたしも裕兄孝行、しなきゃだ」

 抱きしめられた姿勢のまま、利知未は、そう呟いていた。

「裕一さん?」

「うん。 …お正月に、夢を、見たでしょう?」

「ああ。そうだったな」

「その時に、結婚式は早くに見たいって……、言われてた」

「そうか」

「うん」

利知未はもう一度、小さく頷いた。



                 三


 翌日の夜、仕事から帰った倉真が、実家へ連絡を入れた。 結婚式は五月ごろにしようと、昨夜、利知未と話し合った事を伝えた。

「そう、漸く話が進み始めたの! 良かったわ」

 母親は嬉しそうな声で、そう言った。

「あんた達、仕事が忙しいんでしょう? 式場を探すんなら、手伝うわよ」

早くも、そんな言葉が返って来た。


 その後、母親は父親に伝えて、一美は早速、明日の学校帰りに結婚情報誌を買って来てみると、言い出した。


 倉真から母親の反応を聞いて、利知未は驚いた顔をする。

「お母さんが、式場探しまで手伝ってくれるの?」

「そう、言っていたな。 …エライ、乗り気だったぜ?」

倉真はそう答えて、利知未に少し呆れた笑顔を見せた。

「そっか。 …そんなに、喜んでくれたんだ」

「お袋の声、十歳分くらい若返っていたな」

「そう……。 ご飯、出来てるよ」

「おお、食うか」

「直ぐ、準備するね」

 頷いて、利知未は食卓の準備を整えた。


 一週間もしない内に、再び倉真の実家へ呼ばれてしまった。 利知未の次の日曜休みに、二人で伺う話しになった。

 式場探しの為に、二人の意向を是非、聞いておきたいと言っていた。


 二十日の日曜日に倉真の実家へ行った。 家族揃って昼食を取りながら、相談をした。 両親の希望で、利知未は白無垢を着る事になってしまった。

「髪を、もう少し伸ばしておいて下さいね」

母親に言われて、利知未は渋々ながら頷いた。

「披露宴は、余り派手にはしないで良いのね?」

「はい。 出来れば、慎ましく」

「ね、責めて、お色直しでウェディングドレス、着てくれるよね?」

兄と利知未の結婚式だと言うのに、一美が一番、乗っていた。

「そうね。 利知未さんは、どちらかと言うとドレスの方が似合いそうね」

 母親もそう言って、頷いていた。


 父親と倉真は、利知未と共に、母親と一美の勢いに押されてしまった。




 アパートへ帰宅して、二人はすっかり疲れてしまった。

「お袋と一美のパワーには、負けた」

キッチンへ入り、直ぐにグラス一杯の水を飲み、倉真が息を付く。

「本当だね。 けど、有り難い事だよ」

利知未も、倉真の使っていたグラスを借りて、水を飲む。

「夕飯は軽くて良いから、早く風呂入って、のんびりしたいぜ」

「じゃ、インスタントラーメンでも良い?」

「おお。 風呂は、洗ってくる」

「お願い」

倉真の言葉に、素直に甘える事にした。


 簡単に夕食を済ませ、入浴を済ませて、漸く人心地ついた。 のんびりと晩酌を始めた。 何時もの姿勢で飲みながら、今年に入ってからの忙しかった日々を思い出し、話をした。


「まだ、今年は二ヶ月も残ってるのに。 二年分くらい、色々有った様な気がする」

 利知未の言葉に、倉真も頷く。

「そうだな。 ……これからの方が、大変になるのか?」

「そうなりそう、だね。 ……今度は、倉真をあたしの母親に紹介しないと」

「そうだ。 それは、どうするんだ?」

「うん、考えたんだけど。 来年、裕兄の十三回忌があるでしょ? その時には、母親も戻って来る筈だから……」

 言葉を切って、利知未が、倉真の顔を覗き込んだ。

「その時、一緒に行ってくれる……?」

「それで、顔合わせにするって事か?」

「濃い親戚だけは、出席してくれると思うから。 ついでに、そっちにも顔を見せる事が出来るでしょ? あたしの休みも中々、纏まった日数を取るのは難しいから」

 それで決まってしまった。 確かに、利知未は休みが少ない。 ニューヨークまで態々、行くのは、至難の技かも知れない。


 それから、改めて今年の事件を思い出した。 利知未は倉真に、初めて父親の勘違いを話してしまった。

 倉真は目を丸くして、それから笑い出してしまった。

「そりゃ、迷惑掛けたな。 っつーか、親父のヤツ、俺の事は全く信用して無かったって、事だ」

それにも笑い出してしまう。

 全く、あの人と心底打ち解けられるのは、何時の事になるのだろうと、我ながら途方に暮れる気分だ。 情けなくて、笑いが止まらない。

「誰だって、勘違いは有るでしょう? あれは、一美さんの説明不足が原因だった訳だし。 あたしは、今は感謝してるよ。 あれが有って、倉真の実家へ行くのも、いくらか楽になれたから」

「勘違いな。 …ま、そりゃ、あるな、確かに」

漸く、笑いが収まり始めた。

「愛情だって、勘違いって言う意見が、有るんだし」

「…そうだな」


 笑いが収まって、落ち着いて酒を、飲み始めた。

 暫らくしてから、倉真が言った。


「愛が勘違いだって言うなら、俺は一生、勘違いしたままでも、構わねーな」

「どうしたの? 急に」

「お前の事を思っている気持ちが、勘違いだって言うなら、幸せな勘違いだって、事だよ」

 言われて、利知未は照れてしまった。 けれど、小さく頷いた。

「そうだね。 それは、あたしも同じだよ。 ……こんな素敵な勘違いなら、一生、勘違いしたままでも、構わない」

ニコリとした利知未が、可愛く見えた。 倉真は利知未の顎を上げ、そっとキスをした。



 のんびりと、幸せな空気を感じながら、秋の長夜は、静かに更けて行った。






    二〇〇六年 十月二十五日 (2008,4,30 改)  利知未シリーズ 番外・4 

          研修医一年・一月から二年・十月  素敵な勘違い   了 


今回も、長いお付き合いを、ありがとうございます。

 シリーズとして終了をするまで、あと1作となりました。次回「あなたは私の世界」をアップできるのは、五月八日以降になってしまいます。

 その間、インターネットが使えなくなってしまうので……。


 取り敢えずそれまでは、本文の直しをコツコツと進めて行きたいと思います。


 ここまでのお付き合い、本当にありがとうございます。次回まで、もう少しのお付き合いをいただけましたら、幸いです。<(__)> 

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