十七回目の断罪。
「エレノア・ヴァレンティン。貴女は王太子妃としての資質を欠くものと判断した」
王宮の大広間に、冷えきった声が響いた。
居並ぶ貴族たちの視線が、一斉に私へ向けられる。
その中心に立つのは、私の婚約者である第一王太子、アレクシス殿下。そして、その隣には幼い頃から姉妹のように育った親友、オルタンシアがいた。
「貴女には、王太子妃候補という立場を利用し、国境警備兵を不当に移動させた疑いがある」
殿下の合図に応じ、近衛騎士が一通の書状を掲げた。
「この命令書には、貴女の署名がある。王国の防衛を危険に晒し、私的な目的のために兵を動かした。その責任は重大だ」
ざわり、と大広間が揺れる。
「まさか、エレノア様が……」
「あれほど優秀だったのに」
「優秀だからこそ、権力を利用しようとなさったのかしら」
どれも身に覚えのない話だった。
私は兵を動かしてなどいない。
そもそも、王太子妃候補である私に国境警備兵を動かす権限などないのだ。
「殿下、それは何かの間違いです。私はそのような命令を出しておりません」
「証拠はここにある」
「ですが、私は――」
「弁明は不要だ」
その一言に、喉が詰まった。
殿下は私の目を見ようともしなかった。
「王家の信頼を裏切り、国防を危険に晒すような者を、未来の王妃として迎えるわけにはいかない」
「お待ちください。せめて、命令書の発行元を調べていただければ――」
「これ以上、見苦しい言い訳を重ねるな」
殿下の声が鋭くなる。
「よって、エレノア・ヴァレンティンとの婚約を破棄する。貴女には王都からの永久追放を命じる」
世界から音が消えたようだった。
十歳で第一王太子の婚約者に選ばれて以来、私は王太子妃教育だけを支えに生きてきた。
泣くことも、弱音を吐くことも許されず、それでも殿下の隣に立つ未来だけを信じて努力を重ねてきた。
そのすべてが、今、奪われようとしている。
「……殿下」
縋るように名前を呼んだ。
一度だけでいい。
こちらを見てほしかった。
私の言葉を、聞いてほしかった。
けれど殿下は、ようやく私を見下ろすと、冷ややかに告げた。
「王族への不敬だ。これ以上見逃せない」
「私は、ただ……」
「連れていけ」
近衛騎士が私の腕を掴んだ。
その瞬間、オルタンシアが静かに口を開く。
「殿下。最後に少しだけ、彼女と話をさせていただけませんか」
「許可する」
彼女は私のもとへ歩み寄ると、人目には別れを惜しむように、そっと私を抱き締めた。
「エレノア……」
震える声だった。
私は思わず彼女の肩を掴んだ。
「オルタンシア、お願い。あなたなら、私がそんなことをする人間ではないと知っているでしょう?」
彼女は答えなかった。
ただ、私の耳元へ唇を寄せる。
「あなたがお人好しで助かったわ」
「……え?」
「この国も彼も、私に任せてね」
身体が凍りついた。
顔を上げた時には、彼女はもう離れていた。
そして殿下の隣へ戻り、何事もなかったかのように穏やかな微笑みを浮かべている。
「オルタンシアの方が、私の妃には相応しい。彼女は、自分が誰を立てるべきかを心得ている」
殿下は満足げにそう告げた。
私は、もう何も言えなかった。
信じていた婚約者も、親友も、私の知らないところで何かを決めていた。
私が何を訴えても、誰も耳を貸さない。
「……違う」
掠れた声が漏れる。
「私は、そんなこと……」
殿下は、ほんの僅かに口角を上げた。
「いくら優秀でも、王家に仇なす者を見逃すわけにはいかない」
その言葉を最後に、私は近衛騎士たちに連れ出された。
王都から追放された私は、ヴァレンティン公爵家からも縁を切られ、行くあてもなく国境へ向かうことになった。
その道中、私の乗った馬車は何者かに襲撃された。
護衛は一人残らず倒され、私は胸を貫かれた。
焼けつくような痛みの中、最後に見たのは、地面に倒れた護衛の傍らに立つ男の姿だった。
王宮の近衛騎士。
その制服には、見覚えがあった。
「……どうして」
男は答えなかった。
ただ、私の命が尽きるのを見届けていた。
ああ、そうか。
私は、最初から生かしておくつもりのない人間だったのだ。
最後に浮かんだのは、幼い頃からずっと隣にいた、オルタンシアの顔だった。
どうして。
その問いに答えが出ることはない。
私の意識は、ゆっくりと闇へ沈んでいった。
***
――コンコン。
「お嬢様。失礼いたします」
聞き慣れた声に、私は勢いよく目を開いた。
「……っ!」
反射的に胸を押さえる。
傷はない。
白い寝間着も、指先も、赤く染まってはいなかった。
それでも呼吸は荒く、背中には冷たい汗が流れている。
「まあ、どうなさったのですか? すごい汗……。嫌な夢でもご覧になったのですね」
銀盆を抱えた侍女が、心配そうに駆け寄ってきた。
私は思わず、その手を振り払った。
「嫌……っ」
「お嬢様?」
侍女は不思議そうに目を瞬かせた。
優しく、穏やかで、いつもと何一つ変わらない。
本当に、あれはただの悪夢だったのではないかと思いそうになる。
けれど、脳裏にこびりついて離れない殿下の声も、親友の囁きも、決して夢などではなかった。
「……今日は、何日?」
「え?」
「今日は何日、と聞いているの」
侍女は戸惑いながらも答えた。
「王都歴三百二十一年、四月十日でございます」
四月十日。
断罪の日から、三ヶ月前。
私は震える手で寝台のシーツを握り締めた。
「……時間が、戻っている?」
そんなことが起こるはずがない。
けれど、目の前にある現実は、それ以外に説明がつかなかった。
一度目の私は、アレクシス殿下を心から敬愛し、オルタンシアを誰よりも信じていた。
だからこそ、二人の裏切りを疑うこともできなかった。
ならば、今度は違う。
私はゆっくりと息を整え、床に落ちたハンカチを拾い上げた。
「心配をかけてしまって、ごめんなさい。少し嫌な夢を見ただけみたい」
そう言って微笑むと、侍女はほっとしたように胸を撫で下ろし、朝食の準備へと戻っていった。
扉が閉じるのを見届けてから、私は机の上の手帳へ目を落とした。
王太子妃教育の日程。
王宮での茶会。
公爵家の夜会。
何気なく過ぎ去っていた予定が、今ではすべて罠の地図のように見えてくる。
三ヶ月。
断罪の日まで、あと三ヶ月ある。
今度は、ただ信じて待つつもりはなかった。
食堂へ足を踏み入れると、父と母はすでに席についていた。
「おはようございます、お父様、お母様」
私が一礼すると、父は新聞から目を離さないまま頷き、母も紅茶へ口を付けながら「おはよう」とだけ返す。
昔から、こうだった。
勉学で首席を取っても、礼法を褒められても、「よくやった」の一言さえもらった記憶はない。
それでも私は、未来の王太子妃として恥じぬ娘であれば、いつか振り向いてくれる日が来るのだと信じていた。
けれど、あの日。
断罪の場で、この人たちは私を信じなかった。
国境警備兵を動かしたと告げられた時も、命令書を突きつけられた時も、父は一度も口を開かなかった。
あの沈黙こそが、この人の答えだったのだ。
「エレノア?」
母の声に我へ返る。
「申し訳ありません。少し考え事をしておりました」
「王宮で失礼のないようになさい」
「はい」
それ以上、会話は続かなかった。
何一つ変わらない。
変わったのは、私だけだ。
馬車へ乗り込むと、窓の外では春風に揺れる若葉が陽光を浴びてきらめいていた。
王宮へ着けば、アレクシス殿下がいて、暖かい表情で私を出迎えてくれるだろう。
一度目の私なら、それだけで胸が躍った。
けれど今日からは違う。
私は未来を変えるために王宮へ向かう。
誰にも気づかれないまま、一つずつ真実を拾い集めるために。
王太子妃教育を終え、長い回廊を歩いていると、後ろから聞き慣れた声がした。
「エレノア」
振り返ると、オルタンシアが軽く手を振りながらこちらへ歩いてくる。
「やっぱりいた。もう終わった?」
「ええ、今ちょうど」
「よかった。殿下もいらっしゃるし、一緒にお茶でもどう?」
その言葉に、私は一瞬だけ息を止めた。
一度目なら、何も疑わず頷いていただろう。
王宮で偶然彼女と会えるたび、私は嬉しかった。
彼女が「ちょっと所用で」と濁すたび、それ以上尋ねようと思ったことすらない。
けれど今は違う。
どうして彼女は、あんなにも頻繁に王宮へ来ていたのだろう。
「エレノア?」
「ごめんなさい。今日は少し疲れてしまって」
私は小さく微笑んだ。
「せっかく誘ってもらったのだけれど、遠慮してもいいかしら」
オルタンシアが、大きく目を見開いた。
「えっ……」
ほんの一瞬、指先が震える。
けれど、すぐにいつもの笑顔へ戻った。
「もちろん。また今度にしましょう?」
「ええ。でも殿下がお待ちなのでしょう?悪いけど、オルタンシアが殿下のお相手をしてくださらない?」
「……え、ええ。わかったわ…」
彼女はわずかに言葉を詰まらせた。
私は一礼して、その場を後にした。
その日の夕刻。
屋敷へ戻った私は、侍女から一通の封筒を受け取った。
「オルタンシア様より、お茶会のお誘いでございます」
差出人の名を見た瞬間、思わず目を細める。
(早い……)
一周目では、この時期にこんな招待状はなかった。震える手で封を切ると、見慣れた柔らかな筆跡が目に入る。
明後日、午後二時。
ーー久しぶりに、二人だけでゆっくり話したいの。
私は、その文字の裏側を探るように何度も読み返した。
(罠……?)
一周目では、何も疑わず出掛けていただろう。
だが今は違う。
私を裏切った女からの誘いなど、警戒して当然だった。
二日後。
「来てくれてありがとう」
公爵家の離れにある小さなサロンで、オルタンシアはいつものように微笑んでいた。
焼き菓子の甘い香り。
磨き込まれたティーセット。
窓から差し込む午後の日差し。
どれも穏やかで、あの日、私の死を見届けた彼女とは、到底結び付かない。
「こうして二人で会えるのは、久しぶりね」
「ええ」
紅茶が注がれる。
王宮での授業や、今年の社交界の流行。新しく仕立てたドレスなど、他愛ない世間話が続いていく。
まるで、昔に戻ったようだった。
(……探っている)
会話の節々で、オルタンシアは私の反応を見ていた。
そして私もまた、彼女を見ている。
沈黙が落ちた、その時だった。
「ごめんなさい」
オルタンシアが立ち上がる。
「焼き菓子を追加で持ってくるわ」
そう言って部屋を出て行く。
扉が閉まった瞬間、不自然なほど静まり返った室内で、オルタンシアが侍女も連れていったことに気付く。
(…静かすぎる)
違和感が胸をよぎる。
物音一つ聞こえない屋敷の静けさに、私は無意識の内に隣室へ視線を向ける。
そこには彼女の私室に繋がる扉が半開きになっており、奥には窓際へ置かれた机が見えていた。
(無用心ね。……いや、あるいは、)
私はすぐにその考えを打ち消す。
オルタンシアほど聡明な人間が、自室を開けたまま客を一人残すはずがない。
あまりにも、出来すぎている。
まるでーー私に入れと、見ろと言わんばかりに。
胸騒ぎに導かれるまま隣室へ足を踏み入れると、整然と並んだ本棚や刺繍枠の向こう、机の上に一冊の革張りのノートが開いたまま置かれていた。
迷いながらも近付いて覗き込んだ私は、その最初の一行を見た瞬間、呼吸を忘れた。
⸻
一回目。
国境警備兵の私物化による断罪。
エレノア、処刑。
二回目。
アレクシス殿下へ直接訴える。
証拠を提出するも、エレノア投獄。
自白を強要される。
失敗。
三回目。
婚約解消を先に進言。
ヴァレンティン公爵家没落。
エレノア、病死。
本当に病死だったのか?
ーーページをめくる。
四回目。
五回目。
六回目。
七回目。
どのページにも、異なる方法で私を救おうとした記録が残されていた。
けれど、その結末はどれも同じだった。
エレノア、死亡。
そして、赤いインクで書かれた二文字。
失敗。
そして、十五回目。
王妃の座を狙う。
エレノア、国境警備兵の私物化による断罪。
偽造された命令書を突きつけられる。
王都追放。
私は王妃となったが、殿下の逆鱗に触れ、処刑される。
これでやっと終われる
そう思ったのに、処刑台へ向かう途中、エレノアが戻ってきた。
私を助けようとし、刺殺。
ーーーほんとに、お人好しな人。
十六回目。
王妃の座を、狙う。
エレノア、国境警備兵の私物化による断罪。
偽造された命令書を突きつけられる。
王都追放。
殿下から遠ざけるため、エレノアに嫌われるよう振る舞った。
これで救えると思った。
けれど、エレノアはやはり刺殺された。
また駄目だった。
また救えなかった。
ごめんなさい。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――。
思考が止まった。
喉が鳴る。
ページの下には、滲んだインクの跡が幾重にも残っていた。
涙の跡だった。
「……やっぱりあなたも戻ってきたのね、エレノア」
背後から、静かな声がした。
振り返ると、焼き菓子の皿を持ったまま、オルタンシアが立ち尽くしていた。
怒ってはいない。
悲しそうでもない。
ただ、どこか諦めきったような笑みを浮かべていた。
「どうして……」
彼女は私を見つめ、小さく息を吐いた。
「あなたがお茶会の誘いを断るなんて、一度だってなかったもの」
ゆっくりと皿を机へ置く。
「それだけじゃないわ。さっき話したドレスのことも」
彼女は、少しだけ目を細めた。
「月華織はね、来月初めて隣国から王都へ届く新しい生地なの。今はまだ、誰も実物を見たことがないはずよ」
私は息を呑んだ。
先ほど私は、何気なく口にしてしまったのだ。
『月華織なら、オルタンシアの淡い藤色の瞳が映えて素敵ね』と。
一度目の人生で、完成したドレスを見ていたからこそ。
「私は、十六回あなたを失ったの」
オルタンシアの声が、わずかに震えた。
「だから分かるわ。今のあなたは、私が知っているエレノアじゃない」
私は机の上のノートを見下ろした。
書き殴られた文字は途中から乱れ、頁の端には爪で抉ったような跡まで残っている。
「……何を言っているの」
「信じられないでしょうね。でも、書いてあることは全部本当よ。私は何度も時間を巻き戻って、何度もあなたを助けようとしてきた」
「どうして、そんなことが……」
「私にも分からないわ」
オルタンシアは苦笑した。
「……殿下が?」
その名を口にすると、彼女は静かに頷いた。
「あなたは優秀すぎた。礼法も、政治も、外交も、法学も。周囲は頼もしい王太子妃になると褒め称えたけれど、殿下には違って見えていたの」
彼女は窓の外へ視線を向けた。
「自分より優れた妃。民から慕われる婚約者。王になったあと、自分の影を薄くする存在」
静かな声だった。
「だから殿下は決めたの。あなたを悪役に仕立て、自分の手で裁けば、王家を守った名君として称えられると」
全身から血の気が引いていく。
断罪の日、穏やかに笑っていたあの顔が脳裏に浮かんだ。
あれは勝者の笑みではなく、すべてが計画通りに進んだ者の笑みだったのだ。
「私は最初、それを暴けば終わると思った」
オルタンシアはノートの一頁を開いた。
「証拠を集めて殿下に突きつけたこともあった。国王陛下へ直接訴えたこともある。でも、そのたびに先回りされた」
「先回り……?」
「ええ。殿下は証拠を消し、証人を買収し、ときには殺して、あなたへ罪を被せてきた」
彼女の声が、涙で掠れる。
何かを堪えるように噛んだ唇からは、血が滲んでいた。
「……このノートは?」
「七回目の時、殿下に見つかったの」
オルタンシアは苦しげに笑った。
「未来を忘れないために書き残していた。それが一番安全だと思っていた。でも、殿下はこのノートを読んだ。未来に起こる出来事が書かれていて、その通りになっていることを理解したの」
「それで……」
「八回目からは、一文字も残さなかった。失敗も、証拠も、次に試すことも、全部この頭の中だけにしまってきたわ」
彼女は自分のこめかみへそっと触れた。
「何度も繰り返しているうちに、忘れないよう努力しなくても、全部残るようになってしまったもの」
私はノートへ視線を落とした。
「…今回はどうして」
「あなたが戻ってきたからよ」
オルタンシアは、迷いなく答えた。
「あなたがお茶会を断った日、私は久しぶりにノートに書き起こして、あなたに読んでもらおうと思った。今回はあなたも戻っているということに、賭けて。」
「……どうして、そこまで私を助けようとするの?」
絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。
オルタンシアは少しだけ目を細め、懐かしいものを見るように私を見つめた。
「親友の死を防ぐのに、理由が必要かしら?」
その一言に、胸の奥が熱く締め付けられた。
十六回。
この人は、その当たり前のためだけに、たった一人で十六度も絶望を繰り返してきたのだ。
「……お人好しはどっちよ」
いつの間にか頬を伝っていた涙を拭う。
「ありがとう。ずっと一人で戦っていてくれて」
私は真っ直ぐオルタンシアを見つめた。
「でも、今回は一人じゃないわ。私はもう、何も知らない少女ではないもの」
「エレノア……」
「今回は死なない。そしてもう二度と、あなたを一人で戦わせない」
オルタンシアの瞳が大きく揺れた。
驚いたように息を呑み、次の瞬間には、堪えきれなくなったように小さく笑った。
「ええ」
その笑顔は、これまで見たどんな笑顔よりも穏やかで、どこか泣きそうだった。
「今回は、二人で戦えるもの」
「まずは、これから起こることを教えて」
私がそう告げると、オルタンシアは少し困ったように眉を下げた。
「……それが、どこまでが今回も起こることなのか、分からないのよ」
「え?」
「私が行動を変えるたびに、殿下も変わってしまうもの。過去の失敗を避ければ、別の方法を使ってくる。だから、今回も同じことが起こるとは限らないわ」
私はノートを閉じた。
「でも、一つだけ確かなことがあるわ」
オルタンシアは私を真っ直ぐ見つめた。
「殿下はあなたを王太子妃にしたくない。だから、三ヶ月後の断罪は何としても起こそうとするはずよ」
「なら、断罪そのものを利用しましょう」
「……え?」
「殿下は私が罪を犯したと、大勢の前で告発するのでしょう? なら、逃げずに断罪されてあげるわ。そして、その場で殿下自身の罪も明らかにすればいい」
オルタンシアは目を丸くしたあと、くすりと笑った。
「ふふっ。あなた、怒っているのね」
「ええ、とても」
私はノートを開き、記録を指でなぞった。
国境警備兵の私物化による断罪。
「……ねえ。この国境警備兵の私物化。殿下は、なぜこの罪を私に被せることができたのかしら?」
「兵を動かした事実があったからよ。あなたの命令だったという文書も残されていた」
「でも、私には兵を動かす権限がない」
「ええ。だから、殿下はあなたの署名を偽造したのだと思う」
「なら、今回はその命令書を利用しましょう」
私は顔を上げた。
「殿下は、私が兵を動かしたと主張する。そのためには、実際に兵を動かさなければならない。そうでしょう?」
オルタンシアは、ゆっくりと頷いた。
「……そうね」
「ならば、その兵がどこへ向かい、誰の命令で動いたのかを調べればいい。命令書だけではなく、伝令の記録、受領記録、兵の移動記録。すべてを押さえるの」
「でも、殿下に気づかれたら……」
「私たちだけで調べましょう」
私は微笑んだ。
「殿下が私を断罪するために用意した舞台で、殿下自身の罪を暴く。そのために、あなたの十六回分の知識を貸してちょうだい」
オルタンシアは、今度こそ心から笑った。
「ええ。もちろんよ」
それからの三ヶ月、私たちは密かに調査を進めた。
オルタンシアは、過去の繰り返しで知った兵の移動時期や、殿下が接触していた側近の名前を教えてくれた。
私は王太子妃教育の記録や王宮の予定を照らし合わせ、殿下が私の署名を偽造できる時間と、命令書が作成された時期を絞り込んだ。
最初に分かったのは、国境警備兵が移動したのが、五月二十七日だったということ。
その日、私は朝から夕刻まで王宮で王太子妃教育を受けていた。
次に、兵の移動を指揮した現場の責任者が、王太子直属の側近から命令を受けていたことが分かった。
しかし、その命令は正式な軍令として登録されていなかった。
兵の移動記録には、命令の発行元を示す番号が欠けていたのだ。
「……不自然ね」
報告書を見つめながら、私は呟いた。
「ええ。正規の命令なら、必ず記録が残るはずよ」
オルタンシアが答える。
「でも、これだけでは殿下が命令を出した証拠にはならないわ」
「そうね。だから、もう一つ必要なの」
私は書類を机へ置いた。
「誰が命令を出したのか。それを直接知る人の証言が」
オルタンシアは、少しだけ考え込んだ。
「国境警備隊の指揮官なら、何か知っているはず。でも、殿下を恐れて証言してくれない可能性があるわ」
「ならば、陛下に調査を命じていただくしかないわね」
「陛下に?」
「ええ。ただし、今の段階で告発しても、殿下に証拠を消されるだけ。断罪の日まで待つのよ」
私は窓の外へ目を向けた。
「殿下が私を断罪しようとする瞬間に、こちらからも調査を求める。あの人は大勢の前で、自分の主張を撤回できないでしょうから」
「……危険だわ」
「分かっているわ」
恐怖がないわけではない。
一度目の記憶は、今も鮮明に残っている。
あの冷たい声も、誰も私を信じなかった大広間も、胸を貫いた痛みも。
それでも今度は、隣に立ってくれる人がいる。
もう、あの結末を恐れて逃げる必要はなかった。
そして三ヶ月後。
私は再び、あの大広間に立っていた。
玉座の前に立つアレクシス殿下。
その隣には、オルタンシアが寄り添い、穏やかな微笑みを浮かべている。
まるで、あの日と何も変わらないかのように。
「エレノア・ヴァレンティン。貴女は王太子妃としての資質を欠くものと判断した」
三ヶ月前と、一言一句違わぬ声だった。
「貴女には、王太子妃候補という立場を利用し、国境警備兵を不当に移動させた疑いがある」
近衛騎士が一通の書状を掲げる。
「この命令書には、貴女の署名がある。王国の防衛を危険に晒した責任は重大だ」
大広間がざわめいた。
書状には、確かに私の署名があった。
もちろん、身に覚えなどない。
けれど、私は驚かなかった。差し出された書状へ目を落とし、ゆっくりと顔を上げる。
「…その兵たちは、今どちらに?」
アレクシス殿下の眉が、ほんの僅かに動いた。
「質問などできる立場だと思っているのか」
「私の命令で動いたという兵たちです。所在を尋ねるのは当然でしょう?」
「国境警備に関することだ。貴女に答える必要はない」
「そうですか」
私は微笑んだ。
「では、国王陛下にお尋ねいたします」
私が、そう口にした時だった。
ギィ、と大広間の奥の扉が開いた。
居並ぶ貴族たちが一斉に振り返る。
そこに立っていた人物を見て、殿下の顔からすっと血の気が引いた。
「ち、父上……?!」
「アレクシス」
国王陛下は僅かに肩を揺らしながら、息子の名前を呼んだ。
「公の場では、国王陛下と呼べと、幾度も教えたはずだが?」
「も、申し訳ございません。国王陛下、なぜこちらに…?国境の視察では…?」
「国境の視察が予定より早く終わったのでな」
陛下はそう答えると、ふと私へと視線を向けた。
「ヴァレンティン公爵令嬢が、訪問先の辺境領主と事前に調整してくれていたおかげだ。おかげで滞在日程を短縮しても、必要な視察を滞りなく終えることができた」
思いがけず私の名が出たことで、広間に小さなどよめきが起こる。
「それで? 私が不在の間に、何か問題でも起きたのか?」
私は静かに一礼した。
「陛下。ちょうど、お尋ねしたいことがございました」
「ほう。申してみよ」
「此度、国境警備兵が不当に移動させられた件についてです」
その言葉に、殿下の肩がぴくりと揺れた。
私は構わず続ける。
「殿下は、その命令を私が出したと仰っています。ですが、私にはそのような命令を出した覚えがございません。国境警備兵を動かす権限も、私にはないはずです」
「エレノア!」
殿下が鋭く私を睨みつける。
けれど、私はもう怯まなかった。
「ですから、陛下にお伺いしたいのです。その兵たちを動かす命令は、いったい誰が出したのでしょうか、と」
陛下の表情が変わった。
「……アレクシス。これは、どういうことだ?」
「そ、それは……彼女が罪を認めようとせず、見苦しい言い逃れを――」
「質問に答えよ、アレクシス」
低い声に、殿下の言葉が途切れた。
陛下は近衛騎士が掲げる命令書へ目を向ける。
「その書状を、こちらへ」
騎士が一礼し、命令書を差し出した。
陛下はそれを受け取り、署名と日付を確かめる。やがて、書状から顔を上げた。
「国境警備兵の移動となれば、王国の防衛に関わる重大な案件だ。王太子の婚約者を断罪するだけで済む話ではない」
そして、殿下を真っ直ぐに見据えた。
「アレクシス。この命令の発行元を、説明できるのだろうな?」
殿下は答えなかった。
私はその沈黙を見つめながら、胸の内でそっと息を吐いた。
(――間に合った。)
「私が命令を出したというのなら、命令を受けた兵士がいるはずです。伝令がいるはずです。命令を受理した者も、記録を保管した者も」
一度目の私は、何も知らなかった。
ただ、違うと叫ぶことしかできなかった。
だからこそ、今度は違う。
「そのすべてを調べていただければ、私が命令を出していないことも明らかになるでしょう」
殿下の顔から、笑みが消えた。
「……証拠があるからこそ、貴女を問いただしているのだ」
「ええ。その証拠について、お話ししたいことがございます」
私は、近衛騎士の手元にある書状を指差した。
「その命令書に記された日付は、王都歴三百二十一年五月二十七日」
「それがどうした」
「私はその日、王宮におりました。朝から夕刻まで、王太子妃教育を受けていたのです」
「だから何だ。代理人を使えば命令は出せる」
「ええ。ですから、代理人の名前を伺いたいのです」
殿下は答えなかった。
「王太子妃候補である私に、国境警備兵を動かす権限はございません。命令を出すことも、代理人を立てることもできない。もし、この書状が正規の命令書であるならば、発行した部署と承認した責任者が必ず存在するはずです」
私は静かに言葉を重ねた。
「殿下。どうか、そのお名前をお教えくださいませ」
沈黙が落ちた。
その沈黙こそが、私の欲しかったものだった。
殿下は私を裁くために、罪状を用意した。
けれど、罪状を成立させるには、証拠が必要になる。
そして、その証拠を本物に見せるためには、実際に兵を動かさなければならなかった。
「……陛下」
私は国王陛下へ向き直った。
「この件について、国境警備隊の指揮官をお呼びいただけますか」
「よかろう」
陛下が近衛騎士へ目配せをした、その時だった。
「お待ちくださいませ」
鈴を転がすような声が、大広間に響いた。
オルタンシアだった。
彼女は殿下の隣から一歩進み出ると、深く一礼した。
「陛下。わたくしからも、申し上げたいことがございます」
殿下が彼女を見た。
「オルタンシア?」
その声に、僅かな戸惑いが混じる。
「ローゼンベルク令嬢の発言を認める」
陛下が告げると、オルタンシアは微笑んだ。
「先日、わたくしの父が、国境警備隊の指揮官から一通の報告書を受け取っております」
「ほう、ローゼベルク軍務卿か」
「はい。国境付近で不審な兵の移動があったため、独自に調査を進めていたそうです」
彼女が差し出した封筒を、近衛騎士が受け取る。
「その報告によれば、移動を命じたのは、ヴァレンティン公爵家ではございません」
オルタンシアは一度、言葉を切った。
そして、殿下を見た。
「王太子殿下の側近を通じて、命令が発せられていたそうです」
大広間が凍りついた。
「……何を言っている」
殿下の声が低くなる。
「そのような報告、私は聞いていない」
「ええ。報告書は、陛下へ直接提出するよう手配されていたそうですから」
オルタンシアは穏やかに微笑んだ。
「殿下のお耳に入っていなかったとしても、不思議ではございませんわ」
私は思わず彼女を見つめた。
十六回の繰り返しの中で、彼女が積み重ねてきた知識。
そのすべてを、今度は私と共有してくれている。
「馬鹿な……」
殿下が一歩、後ずさった。
「たかが報告書一通で、私を疑うというのか!」
「いいえ」
私は静かに首を振った。
「疑っているのではございません。確認をお願いしているのです」
三ヶ月前、私が求めたものを、彼は一度も与えてくれなかった。
弁明する機会も。
証拠を調べる時間も。
自分の言葉を信じてもらう権利さえも。
「殿下は先ほど、証拠があるから私を裁くと仰いました」
私は彼を見つめた。
「ならば、どうか同じように、殿下の証拠も調べていただきたいのです」
「貴様……!」
「陛下」
私は国王陛下へ向き直った。
「私は、王太子殿下の罪を決めつけるつもりはございません。ただ、私の罪を決める前に、真実を明らかにしていただきたい。それだけです」
長い沈黙のあと、国王陛下が口を開いた。
「……近衛騎士団長」
「はっ」
「国境警備隊への命令系統を調査せよ。命令書の発行元、承認者、伝令の記録、すべてだ。関係者の身柄を確保し、王太子の関与についても調べよ」
「お待ちください、陛下!」
殿下が声を上げる。
「これはエレノアの罪を裁く場です! なぜ私まで――」
「黙れ」
低い声が、大広間を支配した。
「罪を問うというのなら、王太子であろうと例外ではない」
殿下の口が、わずかに開いた。
けれど、もう何も言えなかった。
私はその姿を見つめながら、静かに息を吐いた。
ようやく。
ようやく、彼の言葉が誰かに遮られた。
「……エレノア」
ふいに、殿下が私の名を呼んだ。
その声には、先ほどまでの威厳はなかった。
「何か、誤解があるのだ。私と話をしよう。二人きりで――」
「お断りいたします」
私は即座に答えた。
殿下が目を見開く。
「……何?」
「先ほど、弁明は不要と仰ったのは殿下ですもの」
私は微笑んだ。
「私も、今さら二人きりでお話しする必要はないと存じます」
あの日、私は彼を信じていた。
だから、彼の言葉に傷つき、彼の判断に絶望した。
けれど今は違う。
この人の言葉に、もう私の未来を委ねることはない。
「エレノア……!」
背後から、オルタンシアがそっと私の手を握った。
その手は、少しだけ震えていた。
私は握り返す。
大丈夫。
もう、一人ではないから。
断罪の場は、その日のうちに中止された。
調査の結果、国境警備兵を移動させた命令は、王太子直属の側近を通じて発せられたものと判明した。
命令書に記された私の署名は偽造。
私の罪を裏付けるはずだった証言も、側近からの圧力によって作られたものだった。
さらに、兵の移動記録と伝令の証言から、アレクシス殿下が側近を通じて兵を動かし、その責任を私に負わせようとしていたことも明らかになっていった。
では、なぜ殿下は兵を動かしたのか。
その目的は、国境付近にある王家直轄の施設へ、正規の指揮系統を通さず兵を送り込むことだった。
施設には王家の機密文書が保管されており、殿下は自らの権限を利用してそれらを確保しようとしていたのだ。
王太子という立場を利用し、正式な手続きを経ずに兵を動かしたこと。
そして、その責任を婚約者へ押しつけ、虚偽の罪状で断罪しようとしたこと。
それらの証拠が揃ったことで、アレクシス殿下は王太子の地位を剥奪され、王家の監督下で裁きを受けることとなった。
私との婚約は、正式に解消された。
ヴァレンティン公爵家が没落することもなかった。
そして、オルタンシアは。
事件がひと段落したある日、彼女は私の部屋で紅茶を飲みながら、ぽつりと呟いた。
「……今度こそ、救えたのね」
その言葉に、私は手を止めた。
十六回。
彼女は十六回も、私の死を見届けてきた。
何度も失敗し、何度も絶望し、それでも諦めずに手を伸ばしてくれた。
「ええ」
私は彼女の手を取った。
「今度こそ、ね」
オルタンシアは笑った。
その目には、もう涙はなかった。
「……ねえ、エレノア」
「なあに?」
「今度、二人で旅行に行きましょう。王宮も、社交界も、しばらくお休みして」
彼女は一瞬きょとんとしたあと、声を上げて笑った。
「ええ、喜んで!」
その笑顔を見ながら、私は思った。
一度目の人生で、私が最後まで信じていたのは、王太子殿下だった。
けれど、私を救うために何度も時間を繰り返した人は、彼ではなかった。
本当に大切なものを、私はようやく知ったのだ。
そして今度こそ。
私は、自分の人生を生きていこう。
もう二度と、彼女が一人で戦わなくて済むように。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
書き始めた当初とは、ずいぶん内容が変わってしまいました。
書き進めるうちに、あれもこれもと盛り込みたくなり、気づけば当初の予定とは少し違うお話になっていました。
相変わらず矛盾や至らない点も多いかと思いますが、どうか広い心で、甘めに楽しんでいただけたら嬉しいです。
少しでも楽しんでいただけていたら、何よりです。




