目を星に向け、足を地につけよ。
あの頃の日々はもう存在しない。
僕は高校を卒業後、大学へは行かずに一般企業に就職し、祖父母の家を出て一人暮らしの二十二歳。
高校時代の部活の仲間達とは、三年前から連絡を取っていない。卒業してから半年くらいまでは動きのあったグループラインは、
各々仕事や大学生活が忙しくなっていったこともあり、徐々に動きの頻度が減っていったのだった。
幼稚園からの親友だった琉聖は、都会にある一流大学へ進学したこともあり、必然的に会う機会もなくなった。
元々、休みの日に自分から進んでどこかへ出かけるタイプではないこともあり、高校を卒業してから親友と会うことのなくなった僕の日々は、
家と会社を行き来する空虚な日々となっていった。
そんな日々も今日で終わりとなる。
高校を卒業してから就職した会社は、仕事の内容自体はやりがいのある内容だが人間関係が良くなかった。
仕事のことでもそうでなくても、何かあってはいちゃもんをつけられてみんなの前で罵声を浴びせられる日々。
望まぬ形で与えられた主任という肩書だけのものに、先輩のご機嫌や後輩のやる気を削がないように気を使う日々。
朝の六時から夜の八時までの十四時間労働という日々。
そんな日々を四年間耐え忍んできた僕は、次第に生きる活力を失っていった。
明日という暗闇を僕はもう生きていく元気はない。
最後に母親が生前に連れて行ってくれていた満天の星空が広がる高原で。
今日、この場所で。
思い出の詰まったこの場所で。
『楽になろう』
時刻は夜の二十二時を迎えた。この場所には僕以外、他に誰もいない。
僕は高原の中にある小さな広場のベンチで星空を眺めながら、最後に今までの思い出を思い返し終えると、
目の前の柵に寄りかかり崖から飛び降りる心積もりをした。
最後に彼女に会いたかった。
でも、それは出来ない。無能な僕にはその資格がない。
無能な僕には生きている価値はない。だからもういいんだ。
柵を乗り越え、目の前に広がっているのは暗闇。
この暗闇の中に、僕は消えていくのだ。
僕が深呼吸をして決心をしたとき。その時だ。
「お兄さん」
後ろからいきなり声をかけられた僕は、バランスを崩して崖から落ちるはずだった。
実際にバランスを崩して片足を踏み外したが、僕の体を誰かが引き寄せてくれたおかげで落ちずに済んだ。
そんな僕は頭の中が混乱しながらも、まずは僕の体を引き寄せてくれている人に感謝を伝え、柵を乗り越えて広場のベンチに座った。
心臓がバクバクと鳴っている。危うく死ぬところだった。
僕は深呼吸をして、自分を落ち着かせた。
僕が落ち着いたところを確認したのか、僕の体を引き寄せてくれた人が声を掛けてきた。
「お兄さん、危なかったですね。危うく落っこちるところでしたよ」
なんだこのあっけらかんとした声は。人が死にかけるというのに軽くないか?
少しむかついた僕は顔を上げて、目の前にいる奴の顔を確認した。
「女...?」
目の前に居たのは、学校の制服を着ている女の子だった。
「あー酷い、女なんて野蛮な言い方!女の子でしょ!命の恩人に酷くないですか?」
「いやいや、君のせいで僕死にかけたんだからね」
「じゃあ、お兄さんはあそこで何をしていたんですか?」
「そ、それは...」
僕は心臓に釘でも刺されたかのように、何も言えなかった。
いやそれよりも、さっきまで死のうとしていたのに、今を生きていることに喜んでいる自分に驚いた。
「まぁ、どうせ自殺でもしようとしていたとこ、って感じですよね。残念でしたね、この私が阻止させていただきました!」
「...」
「何か言ったらどうですか?セクハラ変態飛び降りおじさん」
この子は一体何を言っているのだ!僕がいつ触ったというんだ。それに僕はまだ二十二歳だぞ、おじさんと言われるには早すぎる。
「な、飛び降りは合っているけどセクハラとおじさんは違うよ!」
「いや、おじさん。私がおじさんの体を引き寄せたとき胸を触りましたよね?」
「いやいや、触っていないから。冤罪だよ冤罪!」
「へぇー、そういう態度を取るんですね。私が警察の人に触られたって言ったら、おじさんただじゃ済まないと思うんですけど」
「うっ、それは卑怯だろ!」
「やっと自分の立場を理解してくれましたか。おじさんの将来は私の手のひらの上ですよ」
なんて子だ。こんな状況で警察に何と言おうと僕が不利じゃないか。
それに、飛び降りようとしていたなんて言えるはずがない。
女の子は、いたずらっ子みたいな笑みをこぼしながら僕に提案をしてきた。
「おじさん、もし私のお願いを叶えてくれたら誰にも言わずに許してあげますよ」
「お願い...?」
僕はまだ知る由もなかった。
このお願いが僕の人生を大きく変えることを。
この女の子との出会いが、偶然ではなく必然であったことを。




