無能と婚約破棄されて恐ろしい辺境伯に嫁ぎましたが、私の旦那様はどうやら噂とは真逆の不器用な人らしい
「エルサ。魔力を持たぬ無能な君は、僕の妻にはふさわしくない。君との婚約は、たった今破棄させてもらう」
王都にある伯爵家の応接室。
豪奢なソファに深々と腰掛けた侯爵令息ユリウスは、冷ややかな声でそう言い放った。
その言葉を聞いた瞬間、私の手の中でティーカップがカチャリと嫌な音を立てた。
胸の奥が、冷たい刃でえぐられたように痛む。
魔力至上主義のこの国において、魔力を持たずに生まれた私は、実家である伯爵家では常に「出来損ない」と虐げられてきた。
だからこそ、侯爵家との婚約が決まった時は必死に努力したのだ。魔力がない分、次期侯爵夫人として恥じぬよう、誰よりも領地経営を学び、完璧な礼儀作法を身につけ、ユリウスを裏から支え続けてきた。
彼なら、魔力がない私でも受け入れてくれる。そう信じていたのに。
「お姉様……ごめんなさい。でも、ユリウス様と私は、真実の愛で結ばれてしまったの」
ユリウスの腕にすがりつき、潤んだ瞳で私を見つめてきたのは、異母妹のマリアだった。
愛らしい金髪に、豊かな魔力を持つ彼女は、両親から蝶よ花よと甘やかされて育った「伯爵家の自慢の娘」だ。
「マリアは泣かなくていい。君のように強大な魔力を持ち、愛らしい乙女こそが、僕の隣にふさわしいんだ」
「ユリウス様……!」
見つめ合い、甘い空気を漂わせる二人。
それを見た瞬間、私の胸を満たしていた悲しみは、すーっと潮が引くように冷め、行き場のない「呆れ」へと変わっていった。
(……ああ、なるほど。この人は私自身を見ていたのではなく、ただ自分を飾る『高い魔力を持って可愛いらしく、すべて肯定してくれる女性』が欲しかっただけなのね)
私が徹夜で仕上げた領地の決算書も、彼のために用意した人脈も、ユリウスにとっては何も意味がなかったのだ。
そう理解すると、目の前の男がひどくちっぽけで、愚かな生き物に見えてきた。
「……承知いたしました。この婚約破棄、お受けします」
私が静かに頭を下げると、ユリウスは鼻で笑った。
「聞き分けが良くて助かるよ。魔力なしの君の行き遅れを心配して、国王陛下に頼んで僕から新しい嫁ぎ先を用意してあげた。北の辺境を治める、ヴォルフガング辺境伯だ。君は明日、彼の元へ嫁ぐがいい!」
その名を聞いた瞬間、さすがの私も息を呑んだ。
ヴォルフガング辺境伯。彼の素顔を見た者は呪われ、謎の死を遂げる――そんな恐ろしい噂が絶えない、顔を不気味な鉄の仮面で覆った「北の化け物」だ。そんな噂が経つからか、ずっと婚約者がいないらしい。
つまり彼らは、目障りな私を「呪われた辺境伯への生贄」として厄介払いするつもりなのだ。国王陛下も次期侯爵に恩を売ることができ、扱いに困る辺境伯の婚約者もあてがうことができる、まさに一石二鳥というわけだ。
クスクスと意地の悪い笑みを浮かべる妹と、勝ち誇った顔の元婚約者。
私は静かに目を伏せ、彼らへの未練を完全に断ち切った。
そして数日後。
私、エルサは王都から遠く離れた北の辺境、ヴォルフガング辺境伯の薄暗い屋敷にある部屋の扉の前で立っていた。昼頃、この屋敷に着いたがあいにく辺境伯様はおらず、屋敷の内部の説明を受けていたらあっという間に夜になっていた。
(まあ、あんな愚かな男の妻になって一生見下されるよりは、呪われて死ぬ方がマシかしら)
そんな図太いことを考えながら初夜の寝室で待っていると、重々しい足音とともに扉が開いた。
「……よく来たな、生贄の花嫁よ」
地を這うような低い声。
長身を黒い軍服に包み、顔の下半分までを覆う禍々しい鉄の仮面をつけた男がそこに立っていた。仮面の奥から覗く鋭い黄金の瞳が、私を射抜く。
「俺は君を愛することはない。そして、絶対に俺の顔を見ようとするな。……さもなくば、君は呪いによって死ぬことになるだろう。この屋敷の隅で、俺に近づかずにひっそりと生きるがいい」
ひどく冷酷な突き放し。
普通のご令嬢なら、辺境伯様の鋭い視線と圧に耐えられず、ここで恐怖に泣き崩れるところだろう。私もまた、背筋を冷たい汗が伝うのを感じていた。魔力がない私には、彼から発せられる尋常ではない圧迫感だけで息が詰まりそうだった。
(これが、呪われた辺境伯……)
私が身を硬くした、その時だった。
パチンッ!!
「ひっ……!?」
部屋の隅にあった立派な花瓶が、突然弾け飛んだのだ。
(呪い!? やはり、私はいきなり殺されるの!?)
怯えて目を瞑ったが、痛みは一向に訪れない。恐る恐る目を開けると、辺境伯は微かに肩をびくつかせ、なぜか気まずそうに顔を背けていた。
「……ひっそりと生きるがいい。用があれば使用人を呼べ」
そう言って踵を返した彼の後ろ姿を見て、私はふと強い違和感を覚えた。
冷酷に言い放ったはずの彼の手は、なぜかマントの裾をぎゅっと固く握りしめている。
さらに、仮面からわずかに見えている耳の裏の肌が――なぜか、赤く染まっているように見えたのだ。
(怒り? それとも、強大な魔力を抑え込んでいる副作用だろうか)
呪いで殺されるかもしれないという恐怖はあったが、彼が私に直接危害を加える様子はない。私は持ち前の「観察眼」と好奇心で、つい声をかけてしまった。
「あの、旦那様」
「な、なんだ!俺に話しかけるなと言ったはずだ!」
振り返った彼の声は怒鳴っているようだったが、どこか上ずっているように聞こえる。
「夜は冷えますから、お風邪など召されませぬよう。……その、お耳が少し赤くなっていらっしゃるようですので」
私が気遣うようにそう微笑みかけると、辺境伯は仮面の奥で目を丸くしたように固まり――。
ボンッ!!
今度は、彼が立っていた足元の絨毯が焦げ、小さな煙を上げた。
「っ……!!ふ、不要だ!!」
彼はマントを翻し、逃げるように――いや、ほとんど早歩きのようなものすごいスピードで寝室から去っていった。
残された私は、焦げた絨毯を見つめて小さく息を吐く。
(呪いって……物が突然壊れることなのかしら? でも、どうして私が声をかけた瞬間に絨毯が焦げたの?)
実家で虐げられ、元婚約者に化け物扱いされた私の旦那様。
恐ろしい「北の化け物」であるはずなのに、あの逃げ去る背中は、どこかひどく狼狽えていたように見えた。
「……わからないわ。でも、すぐに殺されるわけではなさそうね」
私は焦げた絨毯をそっと撫でながら、この不思議な旦那様の「呪い」の正体を、もう少し観察してみようと決意したのだった。
絨毯を焦がし、逃げるように旦那様が去ってしまった初夜の晩。
広い主寝室にポツンと残された私は、少しばかり考えた後、ふかふかの巨大なベッドを独り占めしてぐっすりと眠りについた。
「いきなり殺されるわけではなさそうだし、実家の硬いベッドよりずっと快適だわ」
翌朝、恐る恐る部屋に入ってきたメイドは、私が逃げ出さずにベッドで優雅に目覚めたのを見て、なぜか心底ほっとしたように胸を撫で下ろしていた。
「あ、奥様……!ご無事で……!昨夜は大きな音がしましたので、てっきり奥様が怯えて夜逃げなさったかと……」
「昨夜は旦那様が少し絨毯を焦がしてしまって。私は無事よ」
「申し訳ございません!うちの旦那様、その、少し感情の制御が苦手といいますか……決して奥様に危害を加えるおつもりはないんです……!」
私が事実を伝えると、メイドは青ざめるどころか、必死に旦那様を庇うように頭を下げた。
普通、呪われた恐ろしい主人なら、使用人はもっと怯えているはずだ。しかし彼女の態度は、まるで『不器用な身内』を心配し、過保護に見守っているかのようだった。
(おかしいわ。恐ろしい化け物のはずなのに、どうして使用人たちは旦那様を怖がっていないの……?)
その違和感は、私の中でますます大きな疑問となっていった。
その後、私は屋敷の離れをあてがわれ、辺境伯であるヴォルフガング様とは顔を合わせない日々が続いた。
暇を持て余した私は、侯爵家に嫁ぐ前に勉強し培った持ち前の実務能力を活かして屋敷の仕事を手伝うことにした。
最初は、不遇な身の上の私にひどく気を遣っていた使用人たちだったが、私が屋敷の帳簿整理を自発的に手伝い始めると、少しずつ態度を変えた。
「執事長。外部から高額で買い付けているこの薬草や茶葉ですが、屋敷の裏手にある放置された温室を使えば、自前で栽培して大幅に経費を削減できますわ」
私が帳簿から無駄を見つけ出し、自らドレスの裾を捲って土に塗れ、使用人たちと共にハーブ園を蘇らせる陣頭指揮を執ると、彼らは「なんて頼もしい奥様が来てくださったんだ!」とあっという間に私に心を開いてくれた。
元婚約者のユリウスが治めていた領地より、よほど豊かで、屋敷の雰囲気も温かい。
旦那様の本当の姿とは一体なんなのか。私はますます、彼の「呪い」に興味を惹かれていた。
そんなある日の午後。
私は温室で摘んだ自家製ハーブでお茶を淹れ、帳簿の削減報告も兼ねて、旦那様の執務室へ足を運んだ。
「……入れ」
ノックをすると、重苦しい声が響く。
扉を開けると、黒い軍服に鉄の仮面をつけた旦那様が、山積みの書類に向かっていた。仮面の奥の黄金の瞳が、私を見た瞬間に大きく見開かれる。
「なっ……!なぜ君がここにいる!俺に近づくなと言ったはずだ!」
「申し訳ありません、旦那様。屋敷の帳簿を確認いたしましたところ、いくつか無駄な経費を見つけましたので整理しておきました。それと、休憩のお供に温室のハーブティーをと思いまして」
私が微塵も怯えずに執務机へ近づくと、旦那様はガタッと音を立てて椅子から立ち上がった。
「くっ……!下がれ!君は俺の呪いが恐ろしくないのか!」
「呪い、ですか?」
「そうだ!俺の素顔を見れば死ぬ!いや、顔を見なくとも、こうして近づくだけで君に何が起こるか……っ!」
必死に私を遠ざけようと怒鳴る旦那様。
しかし、私はその言葉よりも、彼の手元をじっと観察していた。
ピキッ……!
彼が強く握りしめた机の端から、細かな亀裂が走り始めたのだ。
さらに、部屋の窓ガラスがガタガタと震え出し、彼が身にまとう魔力が目に見えるほどに揺らいでいる。
(ああ、やっぱり。初夜の時と同じだわ)
私の目は誤魔化せない。彼の仮面から覗く耳の裏から首筋にかけて、血が滲むように真っ赤に染まっていたのだから。
使用人たちが彼を恐れない理由。メイドが必死に庇った言葉の真意。点と点が繋がりかけていた。
「旦那様。恐れながら申し上げます」
「な、なんだ……早く部屋から出ろ……!」
「旦那様が領地の税率を下げ、孤児院への寄付を増やした決裁書類、拝見いたしました。領民の生活を第一に考える、素晴らしいご采配ですね。私、とても尊敬いたします」
私がにっこりと微笑んでそう告げた瞬間。
ピタッ、と。
部屋を揺るがしていた魔力の圧が、一瞬にして止まった。
「え……?」
「とても丁寧で、お優しいお仕事ぶりです。旦那様は、ちっとも冷酷な方なんかじゃありませんわね」
私が畳み掛けるように追撃(称賛)すると、旦那様は仮面の奥で目を白黒させ、口をぱくぱくと動かした。
「そ、そそそ、そんなことはない!俺は恐ろしい呪われた辺境伯で……っ!」
「それに、初夜の日に私が毛布をお勧めした時も、本当は嬉しかったのではありませんか?」
「なっ……!?」
完全に、図星だったらしい。
彼の体がビクンと大きく跳ねた、次の瞬間。
ボンッ!!!
パンッ!パリーン!!
旦那様の足元の絨毯が派手に焦げ、机の上のインク瓶が破裂し、窓ガラスが一斉にヒビ割れた。
「ああああああっ!!」
旦那様は頭を抱え、文字通り脱兎のごとく執務室から飛び出していってしまった。仮面の下から漏れた声は、怒鳴り声というより、限界を迎えた悲鳴のようだった。
後に残されたのは、インクまみれの机と、焦げた絨毯、そして静寂だけ。
私は、割れずに残ったティーカップをそっと机に置き、確信を持って呟いた。
「……呪いの正体、完全に理解しましたわ」
間違いない。
素顔を見れば呪われる?近づけば死ぬ?
とんでもない。
ただ、極度の恥ずかしがり屋で、照れたり嬉しかったりして感情が限界突破すると、強大すぎる魔力が漏れ出して周囲の物を物理的に爆破してしまうだけなのだ。
(だから、感情を抑え込むために鉄の仮面で素顔を隠し、人が近づかないように『呪い』という噂を放置して、わざと冷酷に振る舞っていたのね……。そして使用人たちは、そんな不器用な旦那様を理解して、過保護に見守っていたんだわ)
すべての謎が解け、私は誰もいない執務室でたまらず吹き出した。
なんて不器用で、なんて可愛らしい旦那様だろう。
「あら。ああ、また旦那様が感情を乱されましたか……」
大きな音を聞きつけてそっと執務室に入ってきた執事長が、インクまみれの机を見て、全く怯えることなく苦笑いしている。それを見て、私はすべてを悟って笑みを深めた。
「ええ。とても可愛らしい呪いですね、執事長」
実家で「無能」と蔑まれ、元婚約者に化け物への生贄として突き出された私。
けれど、この屋敷にいるのは、私のちょっとした言葉で耳を真っ赤にしてインク瓶を爆発させる、純情すぎる仮面の辺境伯だ。
私は焦げた絨毯を眺めながら、どうやってあの不器用な旦那様を「これ以上屋敷を壊さずに」仲を深めていくのか妻としての腕の見せ所に胸を躍らせていた。
呪いの正体――もとい、不器用な旦那様の「照れ隠しの爆発」に気づいてから数ヶ月。
私はすっかりこの辺境伯邸での生活に馴染んでいた。
私が実務家としての本領を発揮し、旦那様の体調(主に精神的な照れ度合い)を徹底的に管理するようになってから、屋敷の備品が爆発する回数は劇的に減っていた。
私が行った『対・旦那様対策』は、主に三つだ。
一つ目は、執務室の環境改善。割れやすいガラスのインク瓶を木製に変え、高価な花瓶は彼の視界に入らない廊下へ撤去した。
二つ目は、温室で育てたハーブの活用。鎮静作用の強いカモミールやラベンダーをブレンドした特製茶をこまめに淹れ、彼の昂りやすい魔力と精神を常に落ち着かせるようにした。
そして三つ目が、最も効果的な『事前予告制度』である。
「旦那様。今から少しだけ旦那様をお褒めしますので、心の準備と、魔力の制御をお願いいたしますね」
「わ、わかった……っ!こ、来い……!」
執務室の机の端をガシッと掴み、仮面の奥でぐっと身構える旦那様。私は彼が息を吸い込んだのを見計らって、にっこりと微笑んだ。
「今日のネクタイの結び方、とても綺麗ですね。旦那様の広いお肩にとてもよく似合っていらっしゃいます」
「っっ……!!」
ピキッ、と旦那様が握る木製のペンにヒビが入ったものの、被害はそれだけだった。爆発も、絨毯の焦げもない。ただ、仮面から覗く耳の裏が、真っ赤に染まっているだけだ。
「……た、耐えたぞ、エルサ」
「素晴らしい耐えっぷりですわ、旦那様。ふふっ、その調子です」
息を荒らげる彼にハーブティーを差し出すと、旦那様はホッとしたように肩の力を抜いた。
――このように、不意打ちを避けて事前に心の準備をさせることで、彼の魔力暴走は驚くほど抑えられるようになったのだ。たまに私が予告なしに微笑みかけると、庭の噴水が派手な水柱を上げたりするが、それもご愛嬌である。
領地は豊かで、使用人たちも温かい。何より、仮面の奥で私の言葉に一喜一憂し、一生懸命に照れを我慢してくれる旦那様が愛おしかった。
そんな穏やかな日常が、不作法な来訪者によって破られたのは、冬の足音が近づくある日のことだった。
「やあ、エルサ。まだ呪い殺されずに生きていたのかい?」
応接室の扉を乱暴に開けて現れたのは、見覚えのある傲慢な顔。私の元婚約者であるユリウスと、その腕にすがりつく異母妹のマリアだった。
「ユリウス様……それにマリアも。わざわざ王都からこのような辺境まで、一体何用ですか?」
「ふん。北の化け物にくれてやった無能な女が、どれほど悲惨な生活を送っているか見に来てやったのさ」
ユリウスはニヤニヤと下劣な笑みを浮かべた。
しかし、目の前に立つ私は、呪いに怯えやつれているどころか、上質な絹のドレスを身に纏い、肌つやも良く健康そのものだ。ユリウスは少し拍子抜けしたようだったが、すぐに咳払いをして本題を切り出した。
「まあいい。実は今日ここへ来たのは、辺境伯に『投資』の機会を与えてやろうと思ってね。僕の侯爵領の新規事業に、資金と魔石を提供させてやろう。呪いの辺境伯様の領地には金と石だけは無駄にあるのだろう?」
私は思わず、心の底から呆れ果てたため息をついた。
彼らは「投資」と偉そうに言っているが、要するに「お金を恵んでほしい」のだ。
私が抜けた後、領地の決算書や人脈の管理を放置したユリウスと、浪費癖のあるマリアが治める侯爵領は、わずか数ヶ月で財政破綻の危機に陥っている。その噂は、辺境の帳簿をつけている私の耳にもとうに入っていた。
「……お断りいたします。ヴォルフガング辺境伯家の資産は、領民の生活を豊かにするためのものです。あなた方のような無計画な浪費家の穴埋めに使うお金は、一文たりともありません」
私が冷たく切り捨てると、ユリウスの顔が怒りで朱に染まった。
「なっ……!辺境に追放された魔力を持たないただの無能が、優秀な魔力を持つこの僕に逆らうというのか!そもそも、君が僕の領地の引き継ぎ書類をわざと難解に書いたせいで……!」
「引き継ぎ書類は、初等教育を終えた者なら誰でも読めるレベルに要約しておきました。それを読解できなかったご自身の無能さを、私のせいになさらないでくださいませ」
「き、貴様ぁっ!!」
正論で痛いところを突かれ、逆上したユリウスが右手を振り上げる。その手には、強大な魔力が集束し、炎の球が生まれようとしていた。魔力のない私に、直接危害を加えるつもりだ。
しかし、その炎が私に届くことはなかった。
「――俺の妻に、気安く近づくな」
地獄の底から響くような、絶対的な零度の声。
いつの間にか応接室に入ってきていた旦那様が、私の前に立ちはだかっていた。
黒い軍服と鉄の仮面。その場にいるだけで空気が凍りつくような、圧倒的な魔力の圧。
旦那様が仮面の奥の黄金の瞳でユリウスを睨みつけた瞬間、ユリウスの手の中にあった炎の球は、まるでマッチの火を吹き消すように「プツン」と消滅してしまった。
「ひっ……!ば、化け物……!」
「俺の妻を愚弄し、あろうことか危害を加えようとしたな。王都の侯爵令息であろうと、我が領地で妻を害する者は生かして帰さん」
旦那様から放たれる魔力は、いつもの「照れ隠しの爆発」の時のような温かいものではなかった。明確な怒りと、私を守ろうとする強烈な殺気。応接室の窓ガラスが、不吉な音を立てて軋み始める。
(あ、これはまずいわ。旦那様が本気で怒っていらっしゃる。このままでは、ユリウスごと応接室が吹き飛んでしまう)
私は慌てて旦那様の前に進み出ると、彼の大きな背中にそっと手を添えた。
「旦那様、お待ちください」
「エルサ、下がるんだ。こいつらは俺が……」
「いけません。このような輩のために、旦那様の尊い魔力を使うなど勿体ないですわ。それに、応接室の修繕費は安くありませんのよ?」
私が宥めるように背中を撫でると、旦那様の肩の力が少しだけ抜け、周囲で荒れ狂っていた魔力の嵐がすっと収まった。
私は震えて腰を抜かしているユリウスとマリアを見下ろし、極めて事務的な、氷のような笑顔を向けた。
「ユリウス様。あなたはご自身の魔力を誇示し、私を無能と見下しました。しかし、領地一つまともに治められず、私のような『無能』に縋らなければ立ち行かないのは、一体どちらでしょうか?」
「うっ……、あ……」
「魔力しか誇るものがないあなたと違い、私の旦那様は莫大な魔力を持ちながらもそれに驕らず、自らの手で領地を豊かにし、領民を愛し、そして……私のような魔力のない妻をも大切にしてくださる、世界で一番立派で優しい殿方です。あなたのような底の浅い男が、化け物呼ばわりしていい方ではありません」
一切の隙もない正論の連打。
自分の無力さと愚かさを完璧に突きつけられたユリウスとマリアは、もはや反論する気力すらなく、顔を真っ青にしてガタガタと震えている。
「これ以上、不快な顔を私と旦那様に見せないでいただけますか?二度とこの辺境の地に足を踏み入れないでください」
私の静かな、しかし決定的な宣告に、二人は悲鳴を上げながら応接室を逃げ出していった。
静まり返った応接室で、私はふうっと息を吐き、旦那様に向き直る。
「……お見苦しいところをお見せしました、旦那様。でも、私を守ろうとしてくださって、とても嬉しかっ――あっ」
しまった。『事前予告』なしにお礼を言ってしまった。
ボボボボンッ!!!
パシャァァァン!!
窓の外から、凄まじい爆発音が響いた。
驚いて振り返ると、庭にある巨大な噴水が、旦那様の魔力暴走によって木っ端微塵に吹き飛び、天高く水柱を上げているではないか。
「だ、旦那様!?」
「あ、あああ、あんな堂々と『世界で一番立派で優しい殿方』だなんて……っ!!は、恥ずかしすぎるっ!!」
旦那様は両手で鉄の仮面を覆い、耳の裏はおろか、首筋まで真っ赤に茹で上がらせてその場にうずくまってしまった。
先ほどまでの恐ろしい殺気はどこへやら、今の彼はただの限界を迎えた純情な青年だ。
「あらあら。噴水の修繕費、また帳簿につけておかないといけませんわね」
私は粉々になった噴水を眺めながら、愛おしくてたまらない私の不器用な旦那様の背中を、落ち着くまで優しく撫で続けるのだった。
元婚約者ユリウスの襲来と、豪快な「噴水爆発事件」から数時間が経った夜。
離れにある私の私室の扉が、控えめにノックされた。
「エルサ。……起きているか?」
「はい、旦那様。どうぞお入りください」
扉を開けて入ってきた旦那様は、まだあの重々しい鉄の仮面をつけていた。しかし、その足取りはいつものように逃げ腰ではなく、どこか決意に満ちた力強さがあった。
「今日の昼間は……すまなかった。君を守るはずが、結局君の言葉に救われ、あまつさえ噴水を吹き飛ばすなど……夫として情けない限りだ」
「ふふっ。私は、旦那様が私のために怒ってくださっただけで十分嬉しかったですわ。それに、ユリウス様たちもあの一件で完全に懲りたでしょうし」
私が微笑んでソファを勧めると、彼は首を横に振った。そして、私の目の前で立ち止まり、じっと黄金の瞳で私を見つめ下ろした。
「君は、俺を『世界で一番立派で優しい殿方』だと言ってくれた。……あれほど嬉しかったことはない。俺の魔力は昂り、心は爆発しそうだった。いや、実際に噴水を爆発させたが」
「ええ。とても見事な水柱でしたわ」
「……あれは忘れてくれ……んんっ、だから、俺も決めたんだ」
旦那様はそう言うと、震える手を顔元へと運んだ。
カチャリ、と重い金属の留め具を外す音が、静かな部屋に響く。
「君が俺の不器用さも、制御しきれない魔力も、すべて受け入れてくれるというのなら。俺ももう、君から逃げない。この仮面で、自分の心に蓋をするのはやめる」
ガランッ――。
重厚な鉄の仮面が、床に転がり落ちた。
そして現れた彼の素顔を見て、私は思わず息を呑み、目を見開いた。
仮面の下に隠されていたのは、呪われた化け物などでは断じてなかった。
夜の闇を思わせる艶やかな黒髪に、黄金の瞳。彫りの深い端正な顔立ちは、まるで神話に登場する戦神のように息を呑むほど美しい。ただ、その完璧な造形の頬が、今は恥じらいによってほんのりと赤く染まっていた。
「……呪いの正体はただの照れ屋だと思っていましたが、これほど美しいお顔を隠していたなんて、そちらの方が驚きですわ」
「……俺の魔力は、感情と直結している。喜びも、愛しさも、すべてが魔力の暴走に繋がってしまう。だから、心を殺すために仮面を被り、人を遠ざけて生きてきたんだ。……だが、君が現れてすべてが変わった」
彼はそっと膝をつき、私の両手を取った。
大きく、タコのできた武骨な手が、私の小さな手を大切そうに包み込む。
「君が淹れてくれるお茶を飲むと、心が凪ぐように落ち着く。君が俺を褒めてくれると、魔力が爆発しても構わないと思うほどに満たされる。エルサ……俺は、君を愛している。仮面越しの生贄としてではなく、俺の生涯ただ一人の、愛愛しい妻として」
真っ直ぐに向けられた、嘘偽りのない黄金の瞳。
いつもならここで耳まで真っ赤にして爆発しているはずの彼だが、今は私の手を強く握りしめているせいか、魔力は不思議なほど穏やかで、ただ温かい熱となって私を包み込んでいた。
「……私も、旦那様を愛しております。魔力のない私を、決して無能だと蔑むことなく、ありのまま受け入れてくださる、この世で一番可愛らしくて、頼もしい旦那様を」
私が微笑んで彼の頬にそっと手を伸ばすと、彼は愛おしげに目を細めながら、私の手のひらにそっと頬をすり寄せた。
「エルサ。これからは、形式だけの夫婦ではなく……俺の本当の妻になってくれないか。生涯、君だけを愛し抜きたい」
「ええ、喜んで。……でも旦那様、私と本当の夫婦になったら、また照れてお部屋のものを壊してしまわないか心配ですわ」
私が少し意地悪に笑うと、旦那様はふっと口角を上げ、男らしい艶やかな笑みを浮かべた。
「君が俺の心を優しく包み込んでくれたおかげで、魔力の制御には少し自信がついた。……それに、君を腕の中に抱きしめていれば、魔力は暴走するどころか、すべて君への愛に変わる気がするんだ」
そう囁くやいなや、彼は私をふわりと抱き上げ、そのまま長い腕の中に強く閉じ込めた。
至近距離で見つめ合う素顔。彼がそっと顔を近づけ、私たちの唇が重なり合った、その瞬間――。
パチンッ!パリンッ!!
部屋の隅にあった小さなランプが弾け、飾ってあった花瓶の薔薇が一気に満開に咲き誇った。
「っ……す、すまないエルサ!やはりまだ、少し漏れた……!」
「ふふっ、あははっ!構いませんわ、旦那様。明日の朝、割れない鉄製のランプを沢山注文しておきましょう」
私は、顔を真っ赤にして慌てる愛おしい旦那様の首に腕を回し、もう一度、今度は私の方から背伸びをしてキスを贈った。
魔力のない令嬢と呼ばれた私が、辺境の地で見つけた本当の幸せ。
それは、世界で一番甘くて、温かくて、時々少しだけ爆発する、愛に溢れた日々だった。
ここまでお読みいただきありがとうございました!
この物語は劇中で数ヶ月以上経っているため、その間のストーリーや辺境伯側サイドのお話などを書こうと思ったのですが、短編小説のため上手く組み込まずに諦めてしまいました(^^;;
よろしければ評価してくださると励みになります!
よろしくお願いいたします。




