逢
リルは井戸の陰に身を寄せ、息を整えた。
指先が、まだ少女ミラの肌の冷たさを覚えている。
一瞬の接触だった。
しかし、それで十分だった。
呪いは動き始め、少女の輪郭がわずかにぼやけている。
髪の白さが、夕光に透けて、より薄く見える。
ミラは井戸の縁に座り込んだまま、ゆっくりと顔を上げた。
灰色の瞳が、リルの隠れた方向を探る。
視線は弱く、焦点が定まっていない。
それでも、少女は静かに言った。
「…名前を…教えて…」
リルは答えない。
喉が乾き、言葉を飲み込んだ。
答えてはいけない。
名前を知られれば、繋がりが深まる。
繋がりが深まれば、呪いが加速する。
それが、ルールだ。
ミラは、力なく微笑んだ。
それは、痛みを堪えるような、儚い表情だった。
「…あなたが…エンダーだって…わかってる…」
声は途切れ途切れ。
「予言の書に…書いてあった…」
「エンダーを…終わらせる鍵は…病弱な少女…」
リルは目を細めた。
予言。
放浪の途中で見た、古い石碑や、村の噂。
「最後のエンダーを終わらせる鍵」
それは、救済の幻想だ。
殺せば呪いが終わる、という嘘。
実際には、新たな断片を生み、輪廻を強めるだけ。
リルは、それを信じていない。
信じたくない。
ミラの身体が、わずかに震えた。
井戸の縁に寄りかかり、息を切らす。
「…助けてくれて…ありがとう…」
「でも…もう…遅いかも…」
少女の言葉が、リルの胸を刺す。
遅い。
すでに、呪いが始まっている。
ミラの肌から、色が薄く失われ始めている。
記憶が、ぼんやりと溶けていく。
リルは、左手を胸に当てた。
脈動は速いが、熱は引いている。
奇妙な静けさが、そこにある。
神の心臓が、少女の存在に寄り添うように、鼓動を刻んでいる。
リルは、ゆっくりと井戸の陰から姿を現した。
フードを深く被ったまま、距離を保つ。
ミラの視界に入る位置に立ち、静かに言った。
「…水を…飲め」
ミラは、かすかに頷いた。
細い手で井戸の縁を掴み、身体を起こそうとする。
しかし、力が入らない。
リルは、ためらった末に、井戸の水を自分の手で掬った。
冷たい水が、掌に溜まる。
彼女は、それをミラの唇に近づけた。
触れず、ただ、滴らせる。
ミラは、ゆっくりと口を開き、水を飲んだ。
一滴、また一滴。
喉が動く音が、静かな井戸の周りに響く。
飲み終えたミラは、弱く息をついた。
「…冷たい…」
「…生きてる…みたい」
リルは、手を引いた。
掌に残った水滴が、地面に落ちる。
ミラの瞳が、少しだけ澄んだ。
「…あなたは…怖がってる…?」
「私を…終わらせたくない…?」
リルは、視線を逸らした。
答えられない。
答えれば、繋がりが深まる。
しかし、ミラは、静かに続けた。
「…私も…怖い…」
「でも…あなたに…会えて…よかった…」
胸の脈動が、再び速くなる。
今度は、痛みではなく、別の何か。
リルは、唇を噛んだ。
この出会いは、間違いだ。
助けてはいけなかった。
しかし、少女の言葉が、封印していた感情を、わずかに揺らす。
集落の灯りが、遠くで揺れている。
人々の声は聞こえない。
ただ、焚き火の煙が、夜空に昇る。
リルは、ミラを見下ろした。
少女は、井戸の縁に寄りかかり、目を閉じかけている。
息遣いが、弱い。
リルは、決断を迫られた。
このまま去るか。
それとも、少女を連れて行くか。
連れて行けば、呪いが加速する。
去れば、少女はここで終わる。
胸の鼓動が、静かに問いかける。
終わらせろ、と。
神の意志が、そこにある。
リルは、ゆっくりと手を伸ばした。
今度は、触れずに、少女の肩を支えるように。
ミラの身体が、わずかに寄りかかる。
冷たい。
しかし、まだ、温かさが残っている。
リルは、静かに呟いた。
「……リル」
これが初めて自分の名前を明かすという出来事だった。
世界は、静かに、二人の終わりを始めていた。




